コンテンツにスキップ

サド侯爵夫人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サド侯爵夫人
訳題 Madame de Sade
作者 三島由紀夫
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 戯曲
幕数 3幕
初出情報
初出文藝1965年11月号
刊本情報
出版元 河出書房新社
出版年月日 1965年11月15日
装幀 秋山正
総ページ数 160
初演情報
公演名 劇団NLT紀伊國屋ホール第2回提携公演
場所 紀伊國屋ホール
初演公開日 1965年11月14日
劇団 劇団NLT
演出 松浦竹夫
主演 丹阿弥谷津子
受賞
昭和40年芸術祭賞演劇部門賞
ポータル 文学 ポータル 舞台芸術
テンプレートを表示

サド侯爵夫人』(サドこうしゃくふじん)は、三島由紀夫戯曲。全3幕から成る。無垢と怪物性、残酷と優しさの多面の顔を持つ夫・サド侯爵の出獄を20年間待ち続けた貞淑な妻・ルネ夫人の愛の思念を描き[1]悪徳の刻印を押されたサド侯爵の人物像を、6人の女の対立的な会話劇により浮かび上がらせながら、ルネ夫人の最後の不可解な決意の謎を探った作品[2]。日本国内のみならず海外でも上演され続け、特にフランスで人気が高い戯曲でもある[3]昭和40年芸術祭賞演劇部門賞受賞作品。三島の最も成功した戯曲というだけでなく、「戦後演劇史上最高傑作の戯曲」と評価された[4][5][注釈 1]。登場人物が女性6人だけなので、男性4人のみの『わが友ヒットラー』と対をなす作品となっている[6]

発表経過

[編集]

1965年(昭和40年)、文芸雑誌『文藝』11月号に掲載され(舞台図の挿絵:秋山正)、同年11月15日に河出書房新社より単行本刊行された[7][8][9]。初演は前日11月14日から11月29日に劇団NLT紀伊國屋ホール提携公演として、丹阿弥谷津子ら出演で紀伊國屋ホールで上演され、昭和40年芸術祭賞演劇部門賞を受賞した[7][10]

翻訳版はドナルド・キーン訳(英題:Madame de Sade)を始め、マンディアルグ訳によりフランス(仏題:Madame de Sade)、アラビア(剌題:al-Sayyida Di Sad)スウェーデン(典題:Markisinnan de Sade)、イタリア(伊題:Madame de Sade)、ドイツ(独題:Madame de Sade)などで行われている[3][11]

執筆背景

[編集]

三島由紀夫が『サド侯爵夫人』創作するきっかけとなったのは、友人でもある作家・澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』[12] を読んだことであった[2][5]。三島は、老年になった侯爵と夫人との離別に最も触発されたとして、以下のように述べている[2]

私がもつとも作家的興味をそそられたのは、サド侯爵夫人があれほど貞節を貫き、獄中の良人に終始一貫尽してゐながら、なぜサドが、老年に及んではじめて自由の身になると、とたんに別れてしまふのか、といふであつた。この芝居はこの謎から出発し、その謎の論理的解明を試みたものである。そこには人間性のもつとも不可解、かつ、もつとも真実なものが宿つてゐる筈であり、私はすべてをその視点に置いて、そこからサドを眺めてみたかつた。 — 三島由紀夫「」(『サド侯爵夫人』)[2]

設定・構成

[編集]

舞台は、パリのモントルイユ夫人邸のサロン。サド侯爵夫人・ルネの母の家である。登場人物は、モントルイユ夫人、ルネ、シミアーヌ男爵夫人、サン・フォン伯爵夫人、ルネの妹・アンヌ、家政婦・シャルロットの女性6人のみで、話題の中心人物であるサド侯爵(アルフォンス)は登場しない[注釈 2]

第1幕は1772年の秋。第2幕は6年後の1778年9月。第3幕はさらに12年後の1790年4月。なお、モントルイユ夫人、ルネ、アンヌ、サド以外の人物は作者創作の架空の人物である[2]

サド侯爵夫人・ルネは「貞淑」。厳格な母親モントルイユ夫人は「社会道徳」。敬虔なクリスチャンのシミアーヌ男爵夫人は「」。性的に奔放なサン・フォン伯爵夫人は「肉欲」。ルネの妹・アンヌは「無邪気、無節操」。家政婦・シャルロットは「民衆」を代表するものとして描かれ、これらが惑星の運行のように交錯しつつ廻転し、すべてはサド侯爵夫人をめぐる一つの精密な数学的体系となる[2]

あらすじ

[編集]

第1幕 - 1772年秋。パリのモントルイユ夫人邸のサロン

サド侯爵夫人・ルネの母親であるモントルイユ夫人は、娘婿であるアルフォンス(サド)の無罪を勝ち取るための裏工作を依頼しようと、自邸に敬虔なクリスチャンのシミアーヌ男爵夫人と、性的に奔放で有名なサン・フォン伯爵夫人の2人を招いていた。アルフォンス(サド)は、娼婦虐待事件(マルセイユ事件)により当局から追われる身であった。
ルネ(サド侯爵夫人)がやって来る。母・モントルイユ夫人は娘に離婚を勧めるが、ルネは忠告をはねつけ寝室へ去る。ルネの妹・アンヌもイタリアからの旅行から帰って来て、イタリアでアルフォンス(サド)と一緒だったこと、性的関係を持ったこと、そして、そのことは姉・ルネも知っていることだと母に話す。これに激怒し逆上した母・モントルイユ夫人は一転、さきほど2人の夫人に依頼した件を取り消す手紙を家政婦・シャルロットに託し、国王にはアルフォンスの居所を教え、逮捕・投獄を嘆願する手紙を自身で届ける。

第2幕 - 6年後の1778年9月。パリのモントルイユ夫人邸のサロン。

ルネは妹・アンヌから、アルフォンス(サド)の犯罪を罰金刑で済ますとする高等法院再審の結果を聞き喜ぶ。これまでルネは、5年前にアルフォンスの脱獄を図り成功させ、有罪判決を破棄させようと懸命に努めたが、母・モントルイユ夫人の計らいで夫は再逮捕されていたのである。ところが喜んだのもつかの間、再審で釈放を勝ち取った直後、夫はその場で今度は王家の警官に捕らえられ、さらに厳重な牢獄へ入れられたという。その経緯を、ルネはサン・フォン伯爵夫人から聞く。そして、それは全てモントルイユ夫人の申請による策略だと聞かされた。
ルネは母・モントルイユ夫人に詰め寄り、激しい言葉の応酬が交わされる。母はルネに、夫(サド)を牢屋に入れておけば嫉妬もせずにすむのに、どうして彼の自由を願うのかと聞き返す。それはお母様から教わった「貞淑」のためだとルネは言うが、母は納得しない。母・モントルイユ夫人は密偵からの報告で、アルフォンス(サド)が脱獄していた時、ルネが彼の生贄になり、汚らわしい行為に耽っていたのを知っていたのである。それをルネに向かって話してしまうが、ルネは、あなた方夫婦(父と母)は偽善しきたりの愛で道徳正常さと一緒に寝て、一寸でも則に外れたものを憎しみ、蔑んでいると母に言い返し、「アルフォンスは、私だったのです」と告白する。

第3幕 - さらに12年後の1790年4月。フランス革命勃発後9ヶ月。パリのモントルイユ夫人邸のサロン。

革命が勃発して王族貴族には身の危険が迫っていた。アンヌが一緒にヴェニスへ逃げようと誘うが、モントルイユ夫人には、牢屋に繋がれていたアルフォンス(サド)が身内にいれば、免罪符となって自分たちは安全だという計算があった。王はまだ存命だが、裁判によるこれまでの決定は無効となり、アルフォンス(サド)は自由の身になって、帰ってこようとしていた。一方、ルネは夫が釈放されるというのにシミアーヌ男爵夫人のいる修道院へ入ると決める。
どうしてと問う母に向かいルネは、夫・サドが獄中で書いた小説『ジュスティーヌ』(悪を押し進める姉に幸運が訪れ、美徳を守る妹のジュスティーヌには次から次へと不幸が訪れ、みじめな最期を遂げるという話)を読み、かつて自分が、「アルフォンスは私です」と言った言葉が思い違いだったと告白し、「ジュスティーヌは私です」と言う。もはや「悪の結晶」を創り出し、悪行よりも悪の掟・悪徳の大伽藍を築き上げようとする夫は、あらゆる悪をかき集め「永遠」に指を届かせようと天国への裏階段をつけ、もう自分の手の届かない領域に彼はいるとルネは言う。そして、自分たちが住んでいる世界は、そのアルフォンス(サド)の創った世界だということをルネは悟った。
がそんな裏階段を崩してしまうと言う母に対しルネは、「いいえ、神がその仕事をアルフォンスに委せたのかもしれない」と言い、自分の残りの生涯を、修道院の中でとっくりと神に伺ってみることにすると決意を固める。そして、物乞いの老人のように風変りしたという夫・アルフォンスが訪ねて来たと聞いた時、ルネは会おうとせずに家政婦・シャルロットに、「侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありますまい」という伝言を告げる。

作品評価・研究

[編集]

『サド侯爵夫人』は発表当時、概ね肯定的な評価で迎えられた[7]。当時の文壇の評価としては、江藤淳が、小説よりも「はるかに説得力があり、暢達」な文体を評価している[13]山本健吉は、「三島氏の戯曲として、きわめて結晶度の高いもの」と賛辞し[14]、「欠点を言えば、サドの著書(『ジュスティーヌ』)を夫人の回心のきっかけとしていることだと思う。事実としてでなく、解釈としてでなく、戯曲のプロットとして言うのである。劇のクライマックスに〈書巻の気〉は避けたい」と述べつつ、「三島氏の目をくらますような修辞が、巧みにいぶされてあって、しかも対話の妙を尽くしているのがよい」と評している[14]

その後『サド侯爵夫人』は、1994年(平成6年)末に発表された演劇評論家が選ぶ戦後戯曲ベスト20のアンケートで第1位作品となり[4]、「戦後史上最高傑作の戯曲」という評価がなされた[1][4][5]。主人公・サド侯爵夫人・ルネを演じた丹阿弥谷津子(俳優・金子信雄夫人)は、演劇人生で「もっとも想い出深い作品」と回想している[要出典]。同アンケートの「劇作家」部門では、井上ひさし三島由紀夫が1位に選ばれたが、井上ひさしも三島戯曲を高評価し、中でも『サド侯爵夫人』は傑作だと述べ、「観客が7人目の登場人物としての『サド侯爵観』をつくっていく。非常に明晰な台詞、明晰な構造、明晰な心理分析で組み合わせたがっちりした芝居です」と評している[4][10][15]

また、『サド侯爵夫人』は日本国外でも上演されており、「007シリーズ」の主人公ボンドの上司「M」役で知られるイギリスの女優・ジュディ・デンチも主役を演じた。特にフランスでも人気があり、各地でしばしば上演されている[3]。1977年(昭和52年)にパリのオルセー小劇場で行なわれた公開討議会で、聴衆から「日本人の作品とは思えない」という声があがった。芳賀徹は、パリでウェイトレスが「ミシマ見た? 『サド侯爵夫人』すてきだったわよ」と言うのを耳にし、あのウェイトレスは「ミシマが日本の作家だということさえ知らなかったのかもしれない」と記している[10][16]

伊藤勝彦は、もっとも感動した『サド侯爵夫人』の舞台として、スウェーデンイングマール・ベルイマンによって監督・演出された東京グローブ座の舞台だと評している[17]フランスで、マドレーヌ・ルノー劇団の舞台その他いろいろの『サド侯爵夫人』を観たという中村雄二郎も、イングマール・ベルイマンの舞台の方がはるかにすばらしかったと言っていたという[17]

なぜ夫人が最後に夫・サドとの面会を拒んだのかという「謎」について柴田勝二は、「ルネが〈貞節〉を尽くす相手としての夫サドは、あくまでも手の届かない距離の中に置かれた存在であり、たやすく手に触れうる身近な相手になった時、サドはすでに彼女の〈貞節〉の対象ではなくなっている」とし、サドの風貌が〈醜く肥えて〉、凡庸な老人になってしまい、「超越性を失った」ためだと考察している[18]。そしてその終幕の帰結には、『午後の曳航』の「龍二の処刑」や、『絹と明察』の後半における「駒沢への叛乱」と同様の意味合いが見られ、そこは、「日本という〈家〉の〈家長〉でありえなくなった戦後の天皇への否認」という主題が込められているとし、サドの醜く肥満した帰還の姿には、龍二よりも「色濃い形」で、「戦後憲法下における天皇と、それが象徴する戦後日本の照応」が映し出されていると柴田は解説している[18]

また柴田は、ルネが哀れなヒロイン『ジュスティーヌ』に自分をなぞって、その世界を〈私たちが住んでゐる世界は、サド侯爵の創つた世界〉と断定するところは、三島がその後に述べるようになる〈富裕な、抜目ない、或る経済大国〉[19] と照応し、〈悪の結晶〉は、物質的繁栄のみに励んできた「戦後日本」を指していると考察し[18]太宰治の『斜陽』のかず子が恋する上原の変貌した姿と同様、そこには「〈〉としての光輝を失った戦後の天皇」が「みすぼらしい肉体のイメージ」によって表現されている共通性があるとし、太宰が〈天皇は倫理の儀表として之を支持せよ。恋ひしたふ対象なければ、倫理は宙に迷ふおそれあり〉[20] と述べていたことに触れながら、かず子は上原の子供を孕むのに比して、三島の『サド侯爵夫人』のルネの結末の方は「サド侯爵」=「戦後天皇」に対して「はるかに厳しい」と解説している[18]

おもな舞台公演

[編集]

おもな刊行本

[編集]

単行本

[編集]
  • 『サド侯爵夫人』(河出書房新社、1965年11月15日) NCID BA32681546
    • 装幀:秋山正。クロス装。白色帯。貼函。160頁
    • 収録内容:「序・サド侯爵の真の顔」(澁澤龍彦)、「サド侯爵夫人」「跋」
    • ※ 私家限定本3部ありと、島崎博三島瑤子『定本 三島由紀夫書誌』(薔薇十字社、1972年)に書かれてあるが、未見。
  • 限定版『サド侯爵夫人』(中央公論社、1967年8月18日) 限定380部(記番・署名入)
    • 表紙・本文カット:神野八左衛門内藤紀子。菊倍判。背革紙継ぎ装。天金。紫色天鵞絨貼夫婦函。段ボール外函。
    • 収録内容:「序・サド侯爵の真の顔」(澁澤龍彦)、「サド侯爵夫人」「跋」「豪華版のための補跋」
    • 奥付および段ボール外函に限定番号記載。
  • 『サド侯爵夫人』(新潮社、1969年5月10日)、旧字旧かな表記。
    • 装幀:前川直。布装。赤色帯。貼函。見返しに画(WATTEAU “LES AMUSEMENTS DE CYTHERE”)
    • 収録内容:「序・サド侯爵の真の顔」(澁澤龍彦)、「サド侯爵夫人」「跋」、巻末に初演・再演データ
    • 初刷で帯に「44年5月劇団浪曼劇場再演」の表記ありと、ないのがある。
  • 文庫版『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』(新潮文庫、1979年4月25日。改版2003年6月30日。新版2020年11月1日)
    • カバー装幀:辰己四郎。カバー写真提供:メゾン・デ・ザール。付録・自作解題:三島由紀夫
    • 帯(表)に「ルノー/バロー劇団来日公演決定!」の表記。
    • 収録内容:「サド侯爵夫人」「わが友ヒットラー」「自作解題」(跋(『サド侯爵夫人』)、『サド侯爵夫人』について、『サド侯爵夫人』の再演、豪華版のための補跋(『サド侯爵夫人』)、作品の背景――『わが友ヒットラー』、『わが友ヒットラー』覚書、一対の作品――『サド侯爵夫人』と『わが友ヒットラー』)
    • ※ 改版2003年より、カバー改装:新潮社装幀室。新版2020年より改めてカバー改装(解説:平野啓一郎
  • 新装版『サド侯爵夫人』(新潮社、1990年9月10日)
  • 文庫版『サド侯爵夫人/朱雀家の滅亡』(河出文庫、2005年12月10日)
    • カバー装幀:榛地和佐々木暁。カバー装画:秋山正+F・ブーシェポンパドゥール夫人”-1756年。
    • 解説:藤田三男「『幕切れ』のせりふ」
    • 収録内容:「序・サド侯爵の真の顔」(澁澤龍彦)、「サド侯爵夫人」「跋(『サド侯爵夫人』)」「朱雀家の滅亡」「後記(『朱雀家の滅亡』)」
  • 英文版『Madame de Sade』(訳:ドナルド・キーン)(Peter Owen Ltd、1968年5月。他)

全集

[編集]
  • 『三島由紀夫全集23(戯曲IV)』(新潮社、1974年11月25日)
    • 装幀:杉山寧。四六判。背革紙継ぎ装。貼函。
    • 月報:松浦竹夫「雪翁はもういない」。《評伝・三島由紀夫 19》佐伯彰一「伝記と評伝(その10)」。《同時代評から 19》虫明亜呂無「『サド侯爵夫人』をめぐって」
    • 収録作品:「源氏供養」「喜びの琴」「美濃子」「恋の帆影」「サド侯爵夫人」「憂国」「アラビアン・ナイト」「朱雀家の滅亡」「ミランダ」「わが友ヒットラー
    • ※ 同一内容で豪華限定版(装幀:杉山寧。総革装。天金。緑革貼函。段ボール夫婦外函。A5変型版。本文2色刷)が1,000部あり。
  • 『三島由紀夫戯曲全集 下巻』(新潮社、1990年9月10日)
  • 『決定版 三島由紀夫全集24巻 戯曲4』(新潮社、2002年11月8日)
    • 装幀:新潮社装幀室。装画:柄澤齊。四六判。貼函。布クロス装。丸背。箔押し2色。
    • 月報:立松和平「厳粛なる快楽」、斎藤康一「ファインダーの中の三島さん」、〔天球儀としての劇場4〕田中美代子「政治劇のあとに」
    • 収録作品:「喜びの琴」「美濃子」「恋の帆影」「サド侯爵夫人」「撮影台本 憂国」「アラビアン・ナイト」「朱雀家の滅亡」「ミランダ」「わが友ヒットラー」「『喜びの琴』創作ノート」「『美濃子』創作ノート」「『恋の帆影』創作ノート」「『アラビアン・ナイト』創作ノート」「『朱雀家の滅亡』創作ノート」「『ミランダ』創作ノート」

音声資料

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 「劇作家」部門でも三島由紀夫が1位となっている。同じく1位は井上ひさし [4]
  2. ^ 三島はのちに、登場人物が男性4人のみの『わが友ヒットラー』を発表する際に、『サド侯爵夫人』と「対をなす作品」だと説明している[6]

出典

[編集]
  1. ^ a b 藤田三男「〈解説〉『幕切れ』のせりふ」(河出文庫 2005, pp. 265–272)
  2. ^ a b c d e f 「跋」(『サド侯爵夫人』河出書房新社、1965年11月)。新潮文庫 2003, pp. 220–221、33巻 2003, pp. 585–586に所収
  3. ^ a b c 松永尚三「ヨーロッパ・フランス語圏における三島劇」(論集III 2001, pp. 215–228)
  4. ^ a b c d e 『戦後戯曲の五十年』(演劇批評誌・シアターアーツ 1994年12月号)。事典 2000, p. 149、太陽 2010, p. 104
  5. ^ a b c 佐藤秀明「『サド侯爵夫人』戦後演劇史上最高の戯曲」(太陽 2010, pp. 104–105)
  6. ^ a b 「『わが友ヒットラー』覚書」(劇団浪曼劇場プログラム 1969年1月)。新潮文庫 2003, pp. 234–237、35巻 2003, pp. 386–388に所収
  7. ^ a b c 柴田勝二「サド侯爵夫人」(事典 2000, pp. 147–151)
  8. ^ 井上隆史「作品目録――昭和40年」(42巻 2005, pp. 438–440)
  9. ^ 山中剛史「著書目録――目次」(42巻 2005, pp. 540–561)
  10. ^ a b c 「第五章 文と武の人」(佐藤 2006, pp. 144–205)
  11. ^ 久保田裕子「三島由紀夫翻訳書目」(事典 2000, pp. 695–729)
  12. ^ 澁澤龍彦『サド侯爵の生涯』(『マルキ・ド・サド選集別巻』桃源社、1964年9月。のち中公文庫、1983年5月。『澁澤龍彦全集6』(河出書房新社、1993年10月)
  13. ^ 江藤淳「文芸時評」(朝日新聞 1965年10月29日号)。江藤 1989, pp. 304–305に所収。事典 2000, p. 148
  14. ^ a b 山本健吉「文芸時評」(読売新聞夕刊 1965年10月30日号)。山本時評 1969, pp. 378–379に所収
  15. ^ 井上ひさし小森陽一編著『座談会昭和文学史 第二巻』(集英社、2003年10月)。佐藤 2006, p. 158
  16. ^ 芳賀徹「世界にひろがるミシマ」(文学館 1999まえがき)。佐藤 2006, p. 159
  17. ^ a b 「第四章 最後のロマンティーク――三島由紀夫 4『サド侯爵夫人』」(伊藤 2006, pp. 153–163)
  18. ^ a b c d 「第五章 現実への断念と彼岸への超出――『サド侯爵夫人』と戦後日本批判」(柴田 2012, pp. 134–165)
  19. ^ 果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」(サンケイ新聞夕刊 1970年7月7日号)。防衛論 2006, pp. 369–373、36巻 2003, pp. 212–215に所収
  20. ^ 太宰治堤重久宛ての書簡」(昭和21年1月25日付)。柴田 2012, pp. 160–161
  21. ^ Les Archives du Spectacle”. Les Archives du Spectacle. 2019年12月23日閲覧。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]