テクニカラー
テクニカラー(英語: Technicolor)はカラー映画の彩色技術を開発した企業またはその彩色技術の通称である。フィルムの現像、プリント、テレシネなど、ポストプロダクションを行っている。1916年にアメリカ合衆国で起業し、その後数十年にわたり進化を続けた。現在は現テクニカラー社の一部門となっている。同社で処理された映画作品は、クレジットでCOLOR BY TECHNICOLORと表示され、テクニカラー作品などと呼ばれることが多い。 同業のデラックス社とは長年のライバル関係にある。
概要
[編集]テクニカラーはイギリスで開発されたキネマカラーに次ぐカラー映画彩色技術として、アメリカ合衆国で1916年に開発された[1]。当初はキネマカラー同様に二色法だったが、その後に世界で初めて三色法での彩色技術として確立した。
1922年から1952年の間にハリウッドでカラー映画の制作に広く使用された。テクニカラーの色純度の高さは定評があり、『オズの魔法使』『雨に唄えば』などのミュージカル映画、『ロビンフッドの冒険』『ジャンヌ・ダーク』などの衣装に凝った時代もの映画、『白雪姫』『ファンタジア』などのアニメーションで使用された。『哀愁の湖』『ナイアガラ』などのフィルム・ノワールでも使用された。
「テクニカラー」はテクニカラー映画社(Technicolor Motion Picture Corporation、現テクニカラー社の一部門)の登録商標である。
歴史
[編集]二色法
[編集]テクニカラーの原点は赤・緑の二色法プロセスであった。これは、被写体をプリズムで分解し、赤緑それぞれのフィルターを通した映像を1本のモノクロフィルムに交互に記録する方式であった。少し進化させ2本のフィルムに減色法で記録する方式で、『十誡』(1923年)、『オペラの怪人』(1925年)、『ベン・ハー』(1925年)などの作品のカラー部分が制作された。2本のフィルムを映写用に貼り合わせていたため焦点が合わないという技術的問題や、映写用フィルムの耐久性の問題があった。
そのため、2本のフォルム画像を1本の新しい(映写用)フィルムに転写する「ダイ・トランスファー方式」が採用された。これで上映技術も向上し、多くの映画が制作されたが、1930年以降、世界恐慌(大恐慌)の影響や、カラー作品が興行成績の向上につながらず、テクニカラー社は財政面で苦戦した。
三色法
[編集]ハリウッドはカラー映画時代の本格化に向かっていたが、大恐慌の影響で映画業界の不振のため、製作費が高額なカラー作品の制作が減少した。しかしフルカラー映画技術の開発も進み、テクニカラー社は三色法による技術を開発した。特別なカメラを使用し被写体をプリズムで分解し、赤青緑それぞれのフィルターを通した画像を別々に3本のモノクロフィルムへ同時に記録し、その後「ダイ・トランスファー方式」で1本の映写用フィルムを作成すると言う方式であった。1932年のウォルト・ディズニー・プロダクション(現:ウォルト・ディズニー・カンパニー)制作のアニメーション短編映画作品『花と木』がこの方式初の作品となり、第1回アカデミー短編アニメ賞を受賞した。ディズニーは興行的成功を収め、その後1935年まで三色法によるカラー作品制作の独占契約を結んだ。
1935年のRKO制作『虚栄の市』がこの方式を使用した世界初の長編作品となり、1936年のパラマウント映画制作『丘の一本松』は初めて屋外撮影を実施した作品となった。1937年12月に公開されたディズニー制作の世界初のカラー長編アニメーション映画『白雪姫』は興行収入6,100万ドル、2017年現在の物価に換算すると約10億6000万ドルと桁外れの成功を収めた。日本では「総天然色」と訳されて宣伝された。
1935年にアメリカ合衆国のイーストマン・コダックと、ドイツのアグフアが三原色を3層に記録するカラーフィルムを完成させた。テクニカラー三色法で撮影に必要な大きなカメラが使用出来ない時には、カラーフィルムによる撮影が行われた。ほぼ同時期に日本の小西六も同様のシステムを開発した(コニカラー)。以降日本映画業界は国威発揚の目的もあって比較的大きな撮影現場であってもコニカラーの導入を推進し、富士フイルムが開発するリバーサルシネフィルムの登場まで続けられた。
ダイ・トランスファー方式
[編集]試行錯誤の末1930年代に確立されたプリント作成の工程は、専用カメラを用いて色彩分解撮影を行い、白黒ネガ3本から光学硬化処理でゼラチン膜にレリーフ状の映像を生成した「マトリックス」と呼ばれる原版を起こし、サウンドトラックと画面の外枠、続いて補色の染料(dye)を乗せた各マトリックスでカラー画像を印刷する「染料転写(転染)」と呼ばれるもの。当時感度が一桁だったカラーフィルム撮影に比べ、工程が複雑で時間もかかるが、確実な手法であった。
カラーフィルムの感度が実用になるほど上がってくると、テクニカラーはコダックやアグファのカラーネガからダイ・トランスファー方式でプリントを起こす方法を発案した。1954年には大型のビスタビジョン、Todd-AO、ウルトラ・パナビジョン70、テクニラマなどからも高精細で美しいプリントを作成出来るようにした。
報道などでカラーフィルムの迅速なプリントが必要とされ、感度も上昇して来た1960年代半ば頃から、ダイ・トランスファー方式はアメリカでは採用されなくなり、1974年の『ゴッドファーザー PART II』を最後の作品とし、テクニカラー社はダイ・トランスファー方式のプリント施設を閉鎖した。機材は中国に売却されたが、品質保持が難しく、プリント制作は1993年に打ち切られている。
1997年にテクニカラー社は、ダイ・トランスファー方式によるフィルム制作を再開させた。これは1960年代 - 1970年代に行なっていたプロセスの改良版で、『オズの魔法使』『ファニー・ガール』『裏窓』『地獄の黙示録・特別完全版』などのフィルム再生で限定的に使用され始めた。その後、『トイ・ストーリー』などの大予算のハリウッド映画でも採用された。
2000年以降にデジタルリマスターが普及すると三色法の評価が一変した。特に実用初期の発色フィルムは、技術の未成熟などが影響して約半世紀の時間経過により、整備された環境で保存されているマスターフィルムも著しく褪色しており、デジタルリマスター処理を施しても元の発色が再現できるとは限らなかった。テクニカラーは原理的に「3本のモノクロフィルム」であるため、大きく褪色しておらずにデジタルリマスターも容易に行えた。『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』特別編のデジタルリマスターは、ジョージ・ルーカスが個人的に保有していたテクニカラー版[2]を参照して色調整が行われた。画面上のノイズの補正も、発色フィルムの場合は「元の映像の一部か、ノイズか」の区別が付きにくいことが多いが、テクニカラーは3本のフィルムを相互比較すれば、埃や傷などのノイズか否か比較的容易に判別が可能であった。
2002年には再びダイ・トランスファー方式によるフィルム制作は中止された。しかし4K解像度のソフト化が珍しくなくなりカラーグレーディング技術の向上で表現の幅が広がった時代にも、テクニカラー・プリント用に作られ保管されて来た「三本の白黒ネガ」が色再現では有利で、製作50周年を記念した2022年の『ゴッドファーザー』修復で画面のリフレッシュに寄与している。また数十年経過した色彩分解ネガが異なる度合いで収縮し、そのままでは色ずれなど画質低下を起こす問題が知られるようになったが、これもデジタルで補正する事が可能である。
3D映画
[編集]1953年に3D映画撮影カメラを発表した。3本フィルム方式のカメラを2台使用し、6本のフィルムを一度に使用するものであった。この方式で撮影された映画は2本のみであった。
脚注
[編集]- ^ US patent 1208490, issued December 12, 1916
- ^ アメリカの施設閉鎖後もイギリスでは78年、イタリアでは80年までプリント製作が行われていた。