中村弥六
中村 弥六(なかむら やろく、安政元年12月8日〔1855年1月25日〕 - 昭和4年〔1929年〕7月7日)は日本の林学者・農商務官僚・政治家(代議士)。号は「背水」または「背山」で、通称「背水将軍」。
日本初の林学博士[1]の一人で、原敬首相暗殺犯中岡艮一の大叔父(中岡の父・精の叔父)にあたる[2]。歴史学者の中山久四郎元東京文理科大学教授は養子で、その長女二三子は、南洋拓殖社長を務めた下田文一の妻[3][4]。
経歴
[編集]信濃国伊那郡高遠城下(現在の長野県伊那市)に儒学者・中村元起(黒水と号す)の二男として生まれる。中村家は代々高遠藩の藩儒の家柄。明治2年(1869年)上京し安井息軒に学んだのち、翌年貢進生として開成学校に入学する。卒業後、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)の教師になる。
外国語学校から大阪師範学校の教師に転じたが、明治11年(1878年)に廃校になったため内務省地理局に入り、ここで林業の重要さに開眼する。明治12年(1879年)ドイツに留学。明治13年(1880年)現地で大蔵省御用掛に任命され、官費留学生としてミュンヘン大学で勉強できるようになった。中村はミュンヘン大学に入学した初めての東洋人である[5]。
帰国後は一時大蔵省に出仕したが、のち農商務省に入り、さらに新設の東京山林学校教授に就任。明治22年(1889年)山林学校が東京農林学校に、さらに帝国大学農科大学に昇格したのを機に退職、農商務省に戻る。
明治23年(1890年)7月1日施行された第1回衆議院議員総選挙に郷里の長野県第6区から立候補し当選する。第1次大隈内閣では進歩党系となり司法次官となる。
明治32年(1899年)には、本多静六・志賀泰山他とともに林学博士の学位を取得した[6]。
1898年のフィリピン独立革命でマリアノ・ポンセが支援を求めて訪日した際、日本軍から革命軍への武器払い下げ交渉に尽力した。しかし武器は輸送船「布引丸」の沈没によってフィリピンに届けることができず、残った武器を(フィリピン独立派の承認を得た上で)宮崎滔天が興中会による武装蜂起(恵州事件)に転用しようとした時、中村が勝手に売り払い、かつ代金を着服したことが発覚し、多くの非難を浴びた。ただし中村自身は冤罪であることを訴えている[7]。
「何ぞ独り参政の権利を10円以上の納税者のみに制限するの理あらんや…」との理由を付した、日本初の普通選挙案を憲政本党の降旗元太郎・河野広中、無所属の花井卓蔵らとともに衆議院に提出したものの、否決される。
大正10年(1921年)11月4日、親戚の中岡艮一が当時の首相原敬を暗殺した際、犯行2日後の東京日日新聞(現毎日新聞)に「艮一の大叔父中村彌六氏談」という見出しでコメントが載った[2]。
磐梯山噴火後の裏磐梯の緑化に尽力した遠藤現夢に植林を指導し、中村の名は五色沼に「弥六沼」として残る[8]。
進徳の森
[編集]明治44年(1911年)、高遠町東高遠の峰山寺周辺が大雨で崩壊した際、中村は自家周辺の土地を購入し、当時珍しかった外国産の樹木を目黒の林業試験場から移植した[9]。町では、この山林を藩校進徳館にちなんで「進徳の森」と名付けた[9]。2016年5月現在ユリノキ、ドイツトウヒ、ストローブマツなどが育っており、このなかで35mを越える2本のユリノキが特に目立っている[10]。入り口は、峰山寺[11]墓所を抜け奥にある中村家の墓所周辺を言う。
脚注
[編集]- ^ 『信州の人脈(下)』 28、29頁
- ^ a b 『ペルソナ 三島由紀夫伝』 83頁
- ^ 中村久四郞 (男性)人事興信録データベース第8版 [昭和3(1928)年7月](名古屋大学大学院法学研究科)
- ^ 「中山禎次郞 (男性)」人事興信録第8版 [昭和3(1928)年7月](名古屋大学大学院法学研究科)
- ^ 『信州の人脈(下)』 31頁
- ^ 『官報』1899年3月28日・学事欄「学位授与」。
- ^ 宮崎滔天『三十三年の夢』「孫○○に与うる書」。
- ^ “磐梯朝日国立公園 セブンイレブン記念財団”. 2012年9月16日閲覧。
- ^ a b 『中村弥六物語』89頁
- ^ 中村弥六ー近代林業の先駆者にして反骨の政治家ー 38頁
- ^ 『高遠ガイド』1984年 87頁
参考文献
[編集]- 『信州の人脈(下)』信濃毎日新聞社、1967年 28-36頁
- 森下正夫著、高遠町図書館編『中村弥六物語』〈高遠ふるさと叢書 : 歴史に学ぶ ; 3〉高遠町、1997年。
- 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』小学館、2001年 83-85頁
- 小林富士雄「中村弥六 - 近代林学の先駆者にして反骨の政治家(上)」『山林』1496号、大日本山林会、2009年1月、31-39頁。
- 小林富士雄「中村弥六 - 近代林学の先駆者にして反骨の政治家(下)」『山林』1497号、大日本山林会、2009年2月、29-38頁。
関連項目
[編集]外部リンク
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