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大島公一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大島 公一
法政大学野球部 監督
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都板橋区
生年月日 (1967-06-17) 1967年6月17日(57歳)
身長
体重
165 cm
67 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 二塁手三塁手遊撃手
プロ入り 1992年 ドラフト5位
初出場 1993年4月18日
最終出場 2005年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 1992年
オリンピック
男子 野球
1992 野球

大島 公一(おおしま こういち、1967年6月17日 - )は、東京都板橋区出身の元プロ野球選手内野手、右投両打)・コーチ野球解説者

2004年のNPB再編問題に関与した3球団(近鉄バファローズオリックス・ブルーウェーブ東北楽天ゴールデンイーグルス)だけで現役生活を送った唯一の選手である。バルセロナオリンピック野球の銅メダリスト。

2021年1月1日付で、母校である法政大学野球部の助監督に就任[1]

経歴

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プロ入り前

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東京都板橋区西高島平駅近辺で、電気配線工事を営む家庭に生まれる[2]。兄弟構成は姉が一人。小学校2年生でリトルリーグの板橋リトルに入り、野球を始めた。4年生の時には右ヒジにヒビが入り、一時は野球を続けることも危ぶまれたが自然に回復[2]外野手などを務めていたが5年生からは遊撃手となり、6年生の時は選抜チームで関東大会に参加して大久保博元のいる水戸選抜を破って優勝し、全国大会に進んだ[3]。中学時代はボーイズリーグの志村球友会(現:志村ボーイズ)に所属し、撫養高校などで監督を務めた天野利明監督からマンツーマンで指導を受ける。シニアでは全国大会ベスト4を3回経験した[2]

大学附属であることなどからシニアのチームメート数名と共に法政二高に進み、2年春の1984年には選抜大会に出場。小川博文を擁する拓大紅陵に2回戦で敗れている。卒業後は法政大学に進学したが、高校野球部の同級生67名の中で大学野球部に進んだのはわずか2名だけだった[4]。このため、他の仲間の分まで頑張ろうと責任感が芽生えたという[4]。なお、大学の同級生には葛西稔田中善則がいた。

大学では当初は守備要員となっていたが、2年の冬に竹内昭文監督に勧められて俊足を活かすため右打ちからスイッチヒッターに転向[5]。当初からミートはできたが、スイングスピードを上げるためにトスバッティングなどを繰り返した[6]。転向直後の3年春から六大学リーグ戦で3期連続で二塁手のベストナインに選出され、4年春までの法政のリーグ4連覇に貢献した。また4年次には主将を務め、リーグ通算71試合出場、228打数68安打打率.298、3本塁打、27打点の成績を残している。

1990年に大学を卒業すると社会人野球日本生命に進み、1年目から一番・二塁手としてレギュラーに定着した。同期で二番・中堅手内匠政博とともにチームを引っ張り[7]、同年の日本選手権でチームは優勝。1991年アジア選手権で代表入りし、同大会で盗塁王に輝くなどバルセロナ五輪への出場権獲得に貢献した[8]。翌1992年にはバルセロナ五輪代表にチームメートの杉浦正則十河章浩らとともに選出されている。予選リーグの第3戦まで無安打と苦しんだが、3位決定戦の対アメリカ戦で3安打4打点を記録するなど、第4戦以外は全て一番・二塁手として先発出場して日本の銅メダル獲得に貢献した[9]。同大会の成績は打率.310、出塁率.459で、トップバッターの役割を果たしている[10]

同年の都市対抗では打撃賞に輝き、チームの7年ぶりの優勝に貢献した。この年のドラフト会議では3位以上の上位指名でなければプロ入りしない考えだった[5]が、3巡目までに指名はなかった。このため4巡目の指名の前に近鉄から受けた指名の挨拶の電話に断りを入れたが、それでも近鉄は5巡目に大島を指名した[5]。気持ちは揺れたものの球団側の熱意を感じ[5]、結局は同じ日本生命の内匠とともに入団を決めた。

プロ入り後

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入団当初は大石大二郎が二塁手の不動のレギュラーだったが、ユーティリティープレイヤーとして1年目から三塁手や二塁手として90試合以上に出場している。また、遊撃のポジションにも何度もついた。

1994年には大石と併用され、78試合で二塁を守った[11]

1995年は、試合こそ102試合に出たが(二塁手では大石の96試合に次ぐ56試合)打率が2割を超えられず最終的に.192で終わってしまう。来期からそれまで主に遊撃手だった水口栄二が二塁手にコンバートされることが決まっていたこともあり、同年11月24日、久保充広とともに高嶋徹堀江賢治との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブに移籍[12]。1番のイチローに続く2番を打つことを期待されたため、背番号もイチローの51に続いて52となった[13]。近鉄ではバイプレーヤーとしての地位を固めつつあったため移籍にはショックを受け[5]、同僚への挨拶の電話は涙声になったという[14]

しかし同じ関東の高校出身で甲子園での対戦経験もある小川博文がキャンプで練習パートナーとなるなど、オリックスではすぐにチームになじんでいった[14]オープン戦福良淳一と争った2番・セカンドの座を勝ち取り、自身初の開幕スタメンに選ばれている[5]。同年はそのままレギュラーに定着して前半戦はイチローの後のつなぎ役、後半戦は3番・イチローの前のチャンスメーカーとして活躍[15]し、規定打席にも初めて到達した。この年のチームのリーグ制覇に貢献し、自身初のタイトルであるベストナインゴールデングラブ賞も獲得した。さらに同年の日本シリーズでは優秀選手賞に選ばれ、日本一にも貢献した。同年オフには2,800万円増の年俸6,100万円(推定)で契約を更改している[16]

1997年仰木彬監督から「猫の目打線の中でも田口壮、大島、イチロー、ニールの1-4番は不動」とシーズン前に言われるほどの信頼を受けた[15]が、打率が2割を切るほどの打撃不振で5月からはスタメンを外れる事もあった。同年は打率.239など前年を下回る打撃成績だったが、2年連続となるゴールデングラブ賞を受賞している。その後も2003年まで8シーズン連続で規定打席に到達し、二塁手または三塁手としてレギュラーの座を守り続けた。

1999年は5月1日の対日本ハム戦で右足ヒラメ筋肉離れを起こして[17]月末まで戦列を離れた。

2000年には3年ぶりにゴールデングラブ賞を受賞している。

2001年は11月4日に東京ドームで行なわれたプロ野球出身地別東西対抗戦で8回裏2死2、3塁の場面で入来智から試合を決める逆転3ランを放ち、MVPを獲得している[18]

2004年には体力の衰えもあり出場機会が減少。オフには球団から非公式にコーチ就任を要請されたが、現役続行を希望した[19]。その後選手分配ドラフトで創設直後の楽天に移籍している。

2005年はシーズン前半は不調だったものの、7月2日の対日本ハム戦では9回裏に満塁で横山道哉から走者一掃の適時三塁打を放ち、球団史上初の逆転サヨナラ勝利を決めている[20]。また7月30日の対西武戦では11回表に大沼幸二から決勝2ランを放つなど、後半は代打として勝負強さを見せた[21]。気力に限界を感じ、同年限りで現役を引退している。

現役引退後

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2006年に一軍打撃コーチとしてオリックス・バファローズへ入団する。

2007年以降は二軍守備走塁コーチや打撃コーチを歴任。

2012年には、開幕から一軍の打線が振るわなかったことから、水口栄二と入れ替わる格好でシーズン途中から再び一軍打撃コーチを務めた。

2013年にも一軍打撃コーチを担当したが、打線が打率.256、513得点(いずれも同年のパシフィック・リーグチームワースト記録)と低迷。

2014年から再び、二軍打撃コーチに転じた。

2015年のシーズン終了後に球団からフロント入りを要請されたが、自身の申し出によって退団した[22]

2016年からは野球解説者に転身。J SPORTSのオリックス主催試合中継に、同球団OBの立場で随時出演している。その一方で、当時日本ハムの投手コーチだった吉井理人の勧めで、吉井がコーチへ就任するまで在籍していた筑波大学大学院人間総合科学研究科へ進学。本人曰く「コーチとしての指導に限界を感じていた」とのことで、硬式野球部の監督でもある川村卓准教授の指導を受けながら、打撃の動作[23]や高卒プロ野球選手の育成環境に関する研究に携わっている[24]

2018年9月からは、イートファクトリー(大阪市を拠点に居酒屋などの飲食店を運営する会社)が翌2019年4月1日にイートファクトリーベースボールクラブ(チーム名は「満マルビリケンズ」)を創部することを前提に、学業と並行しながら同チームのアドバイザーへ就任[25]。チームが社会人野球で本格的に始動する2019年シーズンから、2020年シーズンまで、野球解説者としての活動と並行しながら初代の監督を務めた[26]

2021年1月1日付で、出身の法政大学野球部の助監督に就任。監督の交代に伴う人事の一環で、前任の助監督・銚子利夫も、同部OBの元NPB(横浜大洋ホエールズ広島東洋カープ)内野手であった[1]。なお、助監督は常勤扱いであるため、就任を機に野球解説者としての活動を休止する。

2024年1月1日付で法政大学野球部監督に就任。

プレースタイル・人物

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167cm65kgという小柄な選手であったが、長らく内野のレギュラーとして活躍した。闘志あふれるプレーが魅力で、同じような体格の正田耕三や、細身だった篠塚和典のプレーに注目し、参考になる面も多かったという[27]リトルリーグ時代から身長は低い方だった[3]が、体格差はスピードでカバーしストライクゾーンの狭さを活かすなど[27]、自分の持つ能力を最大限に発揮することを心がけていた[27]

打撃

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スイッチヒッターとしてプロで活躍したが、左打ちはバッティングフォームが崩れやすく「作っている」感じが消えなかったという[6]。しかしプロ入り5年目の1997年まではフリーバッティングの時間の約8割を左打ちに費やした事もあり、左打席の方が打率が良かった[6]。左右それぞれの打席での練習量がどうしても少なくなるため、いかに効率を上げるかを課題として考え続け、社会人時代には同じ両打ちの正田耕三に立ち話で助言を受けたこともある[28]

スイッチ転向前の右打席に比べて左打席では一塁までの歩数が2、3歩短くなり、内野安打が増えるなど俊足をより活かせるようになった[6]。基本的に外から入ってくる投球が多くなるため、踏み込んで打ちに行ったり球筋を見ることがしやすくなったという[6]。なお本人はスイッチ転向に成功した理由として、上手くいかなかったら右打ちに戻せば良いという考え方が功を奏したと語っている[6]

オリックスでは主に2番打者を務め、サインが出る事が多い打順のためネクストバッターズサークルにいる時から様々なケースを想定し、サインが変わった場合などでも動揺しないように準備していた[29]2000年にはパ・リーグ最多犠打を記録するなど巧みなバントを見せ、通算265犠打は歴代11位の記録である(2011年シーズン終了時点)。出塁率の高さ、併殺打の少なさも持ち味だった。

守備

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内野はどこでも守れるユーティリティープレーヤーだったが、捕手のサインや投球の軌道、他の内野手の動きなどが全て良く見えるため二塁手が最も守りやすかったという[30]。守備範囲内の打球を確実にアウトにすることを心がけ、前方の弱いゴロには特に全力で向かっていった[30]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1993 近鉄 91 307 279 34 78 9 3 1 96 11 10 6 2 1 17 0 8 38 0 .280 .338 .344 .682
1994 97 363 309 60 88 19 4 5 130 29 6 4 6 7 35 0 6 32 3 .285 .361 .421 .782
1995 105 322 271 29 52 6 2 0 62 20 1 1 6 2 40 4 3 41 4 .192 .301 .229 .529
1996 オリックス 125 485 397 62 101 11 3 4 130 37 8 2 29 4 50 0 5 59 3 .254 .342 .327 .670
1997 127 463 372 50 89 23 2 1 119 27 2 2 33 2 51 0 5 58 3 .239 .337 .320 .657
1998 129 506 409 58 113 14 2 8 155 50 10 1 30 3 57 0 7 53 5 .276 .372 .379 .751
1999 110 462 361 46 101 15 1 1 121 33 5 1 28 3 64 0 6 54 2 .280 .394 .335 .729
2000 119 509 382 64 108 17 1 1 130 33 1 1 35 2 90 0 0 46 4 .283 .418 .340 .758
2001 122 524 414 67 109 19 0 1 131 31 4 0 30 3 75 0 2 52 3 .263 .377 .316 .693
2002 116 454 374 32 86 12 0 1 101 25 13 3 32 1 44 0 3 70 1 .230 .315 .270 .585
2003 109 439 369 53 105 20 1 0 127 20 9 4 16 1 46 0 7 50 4 .285 .374 .344 .718
2004 67 193 152 22 40 13 1 0 55 10 2 2 16 1 20 0 4 21 2 .263 .362 .362 .723
2005 楽天 58 97 81 11 18 5 1 1 28 8 0 0 2 0 13 0 1 14 1 .222 .337 .346 .683
通算:13年 1375 5124 4170 588 1088 183 21 24 1385 334 71 27 265 30 602 4 57 588 35 .261 .360 .332 .692
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

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二塁 三塁 遊撃 外野
















































1993 21 21 35 1 8 .982 58 38 90 7 7 .948 5 6 4 2 1 .833 -
1994 74 133 217 6 42 .983 19 9 22 2 2 .939 1 3 2 0 0 1.000 -
1995 57 106 136 2 29 .992 21 7 32 2 2 .951 3 1 5 1 1 .857 -
1996 107 210 277 6 62 .988 3 0 0 1 0 .000 34 37 65 4 9 .962 4 3 0 0 0 1.000
1997 124 262 338 7 75 .988 - 1 1 0 0 0 1.000 -
1998 92 138 214 6 46 .983 38 17 78 1 8 .990 37 27 88 4 17 .966 1 1 0 0 0 1.000
1999 74 150 225 5 54 .987 53 31 85 6 2 .951 - -
2000 117 258 316 10 64 .983 - - -
2001 122 226 384 9 86 .985 - - -
2002 107 200 249 7 42 .985 - - -
2003 5 4 10 1 2 .933 99 64 153 6 11 .973 - -
2004 41 68 88 3 19 .981 4 0 7 1 1 .875 - -
2005 22 20 34 0 4 1.000 17 9 10 0 0 1.000 - -
通算 963 1796 2523 63 533 .983 312 175 477 26 33 .961 81 75 164 11 28 .956 5 4 0 0 0 1.000

表彰

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記録

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初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

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  • 00 (1993年 - 1995年)
  • 52 (1996年 - 2004年)
  • 13 (2005年)
  • 76 (2006年 - 2015年)

関連情報

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出演

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映画

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脚注

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  1. ^ a b 法大新監督に加藤重雄氏 助監督は元楽天大島公一氏(『スポーツニッポン』2020年11月10日付記事)
  2. ^ a b c 週刊ベースボール、2002年9月2日号、P.56
  3. ^ a b リトルリーグ インタビュー
  4. ^ a b 週刊ベースボール、2002年9月2日号、P.57
  5. ^ a b c d e f 週刊ベースボール、2002年9月2日号、P.58
  6. ^ a b c d e f 週刊ベースボール、1999年7月19日号、P.12
  7. ^ 毎日新聞、1990年10月19日付朝刊、P.28
  8. ^ 毎日新聞、1992年7月20日付朝刊、P.20
  9. ^ 別冊宝島、1545号、P.82
  10. ^ 別冊宝島、1545号、P.87
  11. ^ 週刊ベースボール、1996年12月9日号、P.60
  12. ^ 「オリックスと近鉄で2対2のトレード」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1995年(平成7年)11月25日付朝刊、16面(スポーツ面)。
  13. ^ 週刊ベースボール、1996年4月1日号、P.51
  14. ^ a b 週刊ベースボール、1996年4月1日号、P.52
  15. ^ a b 週刊ベースボール、1997年9月7日号、P.59
  16. ^ 週刊ベースボール、1997年1月20日号、P.59
  17. ^ 毎日新聞、1999年5月2日付朝刊、P.19
  18. ^ 週刊ベースボール、2001年11月19日号、P.132
  19. ^ 週刊ベースボール、2005年1月3日号、P.13
  20. ^ サヨナラ勝ち自体は、2005年6月8日の対中日戦で吉岡雄二のサヨナラ打が初記録
  21. ^ 毎日新聞、2005年10月3日付朝刊、宮城地方面
  22. ^ 【オリックス】大島2軍打撃コーチ、今季限りで退団(『スポーツ報知』2015年10月5日付記事)[リンク切れ]
  23. ^ 元プロ選手も学ぶ「野球学」広がり見せるワケ 筑波大学大学院の川村教授が第一人者(『東洋経済ONLINE』2019年1月22日付記事)
  24. ^ 指導への戸惑い、個別の会話への飢え…調査で浮き彫り、高卒プロ選手の不安(『FullCount』2017年12月25日付記事)
  25. ^ イートファクトリー 元ハムヘッド阿井氏迎え大阪に硬式野球クラブ創設へ(『スポーツニッポン』2018年9月22日付記事)
  26. ^ 元オリックス大島氏が「イートファクトリー」初代監督に就任 「都市対抗で優勝を」(『FullCount』2018年11月14日付記事)
  27. ^ a b c 週刊ベースボール、2000年6月26日号、P.19
  28. ^ 週刊ベースボール、1999年7月19日号、P.13
  29. ^ 週刊ベースボール、2000年6月26日号、P.18
  30. ^ a b 週刊ベースボール、2001年5月28日号、P.29

関連項目

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外部リンク

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