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安藤太郎 (外交官)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

安藤 太郎(あんどう たろう、弘化3年4月8日1846年5月3日) - 大正13年(1924年10月29日)は、戦前日本外交官禁酒運動家である。元幕臣箱館戦争に参加。岩倉使節団員、元香港領事、ハワイ総領事。

来歴

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種痘の先駆者である鳥羽藩医・安藤文沢の子として江戸四谷に生まれる。横浜英学所に留学中、アメリカ人宣教師デイヴィッド・タムソンサミュエル・ロビンス・ブラウン英語を習う。その後、安井息軒漢学を、坪井為春大村益次郎蘭学を、箕作秋坪に英学を学ぶ[1]

海軍操練所、陸軍伝習所で学んだ後、戊辰戦争では旧幕府軍の騎兵指南役、海軍二等見習士官として戦う。箱館戦争では榎本武明のもと回天丸に乗船し、宮古湾海戦で負傷する。五稜郭の戦いで投降し、1年間の禁固刑に処せられる。

語学力を買われ、明治政府の外務省翻訳官に任官される。

  • 1871年(明治4年)、大蔵省に出仕。のち外務省の通訳官(四等書記官)として岩倉使節団に参加する。
  • 1973年(明治6年)、帰朝。
  • 1874年(明治7年)、香港副領事になる。
  • 1878年(明治11年)、香港領事となる。
  • 1885年(明治18年)、ハワイ総領事になる。
  • 1886年(明治19年)、ハワイ群島への契約移民が始まる。
  • 1887年(明治20年)、宣教師美山貫一がハリス博士から派遣される(日本人排斥運動)。キリスト教に入信する。
  • 1889年(明治22年)、横浜禁酒会に参加(太田町 日盛楼)。津田仙平岩恒保島田三郎も参席。
  • 1890年(明治23年)、美山貫一がサンフランシスコからホノルルに戻り、「ハワイ日本人禁酒会」を設立(会長:安藤太郎、副会長:伴新三郎、書記:鵜飼猛、役員:藤田敏郎新内千代橘)。同年、東京禁酒会を創立、初代会長に就任し、クリスチャンとして日本の禁酒運動に尽力する。
  • 1891年(明治24年)、外務省通商局長に任命される。
  • 1895年(明治28年)、農商務省商工局長になる。
  • 1897年(明治30年)、役人を引退する。
  • 1898年(明治31年)、全国組織の日本禁酒同盟会(初代会長:安藤太郎)に改編。
  • 1915年(大正4年)、妻が他界。自宅を教会に寄進。「安藤記念教会」を設立
  • 1920年(大正9年)、関西の禁酒会と合同して日本国民禁酒同盟。特定の宗教を超えた運動に拡大していった。
  • 1924年(大正13年)、動脈硬化症腎臓萎縮症にて他界。墓所は青山霊園
  • 1949年(昭和24年)、日本禁酒同盟と改称、現在に至る。

家族

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安藤太郎が感謝や禁酒を請願した書簡

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エピソード

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  • 樽割り美談の真相(妻・文子談)
    安藤は14歳か15歳の頃から飲酒を始め、20歳前後にはひとかどの鯨飲家となっていた。そのため妻の苦労も相当なものであったという。明治20年(1887年)12月11日、2樽の日本酒がハワイ総領事の安藤のもとへ届けられた。1つは逓信大臣榎本武揚が移民取り締まりのため遠いハワイにいる安藤を慰労するための贈物、もう1つは日本郵船会社社長森岡昌純[3]からの進物であった。その酒樽を妻が割って捨ててしまう事件があり、これを機に安藤は禁酒したといわれている[4]

栄典・授章・授賞

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位階
勲章等

脚注

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  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 70頁。
  2. ^ 明治16年の医師番付明治時代の歯科医学史、日本歯科医師会
  3. ^ 森岡正純
  4. ^ 一般財団法人 日本禁酒同盟)
  5. ^ 『官報』第703号「叙任」1885年11月2日。
  6. ^ 『官報』第2591号「叙任及辞令」1892年2月23日。
  7. ^ 『官報』第1476号「叙任及辞令」1888年6月2日。
  8. ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。

参考文献

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  • 脇哲『誰も書かなかった函館戦争』人物往来社、1988年
  • 『日本キリスト教歴史大辞典』教文館、1988年
  • 「増補版 安藤太郎文集」日本禁酒・断酒・排酒運動叢書(ソウショ)慧文社(ケイブンシャ)2017年
  • 「国の光」禁酒同盟機関紙
  • 「禁酒の日本」禁酒同盟機関紙
  • 「禁酒報告の歌」会報
  • 「禁酒新聞」機関紙

外部リンク

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先代
河上謹一
外務省通商局長
1891年 - 1892年
次代
原敬