山田忠三郎
山田 忠三郎(やまだ たださぶろう、1857年9月23日(安政4年8月6日) - 1916年(大正5年)8月3日[1])は、明治、大正時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将正三位勲二等功三級。
生涯
[編集]岩清水八幡宮に仕える士族で、歌人の山田直躬の三男として、山城国綴喜郡八幡(現在の京都府八幡市橋本)にて生まれる[2]。弟に建築家の山田七五郎がいる。
1878年(明治11年)12月、陸軍士官学校(旧2期)を卒業。翌年2月、歩兵少尉任官。
1902年(明治35年)5月、歩兵第11連隊長に就任し、同年11月、歩兵大佐に昇進。1903年(明治36年)7月、近衛歩兵第1連隊に転じ日露戦争に出征。遼陽会戦直前の1904年(明治37年)8月17日、第3師団参謀長に転じ、遼陽、沙河会戦、奉天会戦などに参戦。1905年(明治38年)7月、陸軍少将に進級し鴨緑江軍隷下の歩兵第10旅団長となる。
日露戦争からの凱旋後、1906年(明治36年)4月1日には、功三級金鵄勲章を授けられた。1907年(明治40年)1月28日、陸軍戸山学校長[3](軍楽戦略を担当[4])に着任し、1909年(明治42年)11月30日、陸軍省人事局長に異動。1912年(明治45年)4月12日退任[5]。この頃勲二等に叙せられた。同年4月、陸軍中将に進み第14師団(宇都宮)長に親補された。師団長に在任時、大正天皇が那須御用邸に行幸されると、乗馬の御相手となった[6]。1916年(大正5年)1月に待命となった。
病により、同年8月3日薨去。この訃報が宮中にまで届くと、勅使が山田中将の渋谷の私邸に遣わされ、特旨をもって正三位となった。この時、渋谷駅から沿道まで多数の弔問を受けた[6]。墓所は渋谷区東に所在する臨済宗妙心寺派の吸江寺。戒名は本彰院殿徳美法忠日功大居士。
家族
[編集]栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1903年(明治36年)2月20日 - 従五位[7]
- 1905年(明治38年)9月6日 - 正五位[8]
- 1910年(明治43年)9月30日 - 従四位[9]
- 1915年(大正4年)12月10日 - 従三位[10]
- 1916年(大正5年)8月3日 - 正三位[11]
- 勲章等
- 1896年(明治29年)11月25日 - 勲五等瑞宝章[12]
- 1903年(明治36年)5月16日 - 勲四等瑞宝章[13]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章、勲三等旭日中綬章、明治三十七八年従軍記章[14]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[15]
脚注
[編集]- ^ 『官報』第1206号、大正5年8月7日。
- ^ 現代陸軍名将列伝 50コマ
- ^ 陸軍戸山学校 - Wikipedia
- ^ 吸江寺の墓誌より
- ^ サクラタロウ
- ^ a b 吸江寺の墓誌より
- ^ 『官報』第5888号「叙任及辞令」1903年2月21日。
- ^ 『官報』第6660号「叙任及辞令」1905年9月9日。
- ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
- ^ 『官報』第1009号、「叙任及辞令」1915年12月11日。
- ^ 『官報』第1205号「叙任及辞令」1916年8月5日。
- ^ 『官報』第4027号、「叙任及辞令」1896年11月30日。
- ^ 『官報』第5960号「叙任及辞令」1903年5月18日。
- ^ 『官報』号外、「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。
参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。