松岡忠男
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松岡 忠男(まつおか ただお、明治34年(1901年)4月24日 - 昭和61年(1986年)6月6日)は日本の教育者。元鳥取県中学校長会長、元米子市教育長。
教育長在任中は福市遺跡の史跡指定、校区再編成問題、カギっ子学級の開設、陸上競技場の新設、中国オリンピック大会開催など、大きな業績を残した[1]。
経歴
[編集]鳥取県西伯郡大篠津村(現在の米子市大篠津町)の農家に生まれた。父は3歳頃渡米したので、母が中心で下男[2]を雇って農業経営(養蚕業)をし、祖父は町の名誉職で毎日を費やしていた。[3]
愛労小、米子中学校(現米子東高校)を経て大正10年(1921年)鳥取県師範学校卒業。愛労小、中浜小訓導。
米子市立青年学校校長、米子市立第二中学校校長等を歴任し、昭和31年(1956年)退職。米子市教育長を昭和38年(1963年)から昭和43年(1968年)まで務めた。
人物像
[編集]趣味は盆栽、民芸[4]。宗教は曹洞宗[4]。住所は米子市尾高町[4]。
陸軍大佐八原博通と米子中学(現米子東高校)で同期だった。松岡は自著『限秒』に「(八原は)米中第十七期生。愚生と同級生で、共に机をならべた友人で終戦後米子に帰り、子供を米子第二中学校に入学させたので、保護者の一人であった。現在は鎌倉市腰越に移り、余生を送っている」と書いている。
家族・親族
[編集]松岡家
[編集]参考文献
[編集]- 『新日本人物大観』(鳥取県版) 人事調査通信社 1958年 マ…245-246頁
- 『鳥取県人名録』 昭和62年
- 『新修大篠津郷土誌』2001年 318頁
著書
[編集]- 『限秒』昭和54年