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永野芳辰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
永野芳辰の胸像

永野 芳辰(ながの よしたつ、1898年明治31年)2月20日[1][2] - 1984年昭和59年)[3])は、日本内務官僚実業家高知県知事1953年(昭和28年)12月25日の奄美群島本土復帰立役者のひとり。

来歴

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鹿児島県大島郡笠利村[3]の佐仁(奄美大島、現奄美市)で、永野孫七の長男[1]として誕生。1918年(大正七年)旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校卒業、1922年(大正11年)旧制第七高等学校造士館卒業、1925年(大正14年)京都帝国大学法学部政治学科卒業。

愛知県属を振り出しに沖縄県福島県北海道東京府各課長、北海道拓殖部長を経て1941年(昭和15年)大政翼賛会地方部長に就任。その後秋田県総務部長兼学務部長、広島県部長・経済部長、同内政部長を経て、1945年(昭和20年)10月、高知県知事に就任[1]1946年(昭和21年)1月、九州地方商工局長に転任[4]。しかし大政翼賛会時代翼賛選挙の担当部長として活躍したことが仇となりGHQ公職追放令に該当のため政界進出の野望を断念する。

以降、実業界に転出。飯野炭鉱を初め各種業界の役員を兼務。その間日本経営者団体連盟理事、通商産業合理化審議会委員、選挙制度審議会委員、地方制度調査会委員等に就任。1962年(昭和37年)奄美群島振興審議官委員、1975年(昭和50年)一月奄美群島振興開発審議会委員として郷土発展に尽くす。

特に終戦後の米軍との処理問題では目ざましい働きをし、これらの功績に対し1970年(昭和45年)4月25日正五位勲二等瑞宝章を授与。奄美大島あやまる岬には、1976年(昭和51年)2月11日、全国笠利町出身者によって寄贈された胸像がある。

親族

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  • 実弟 永野林弘 - 初代鹿児島県教育長

脚注

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  1. ^ a b c 『新編日本の歴代知事』955頁。
  2. ^ 『鹿児島県姓氏家系大辞典』418頁では、生年は1897年。
  3. ^ a b 『鹿児島県姓氏家系大辞典』418頁。
  4. ^ 『官報』第5711号、昭和21年1月29日。

参考文献

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  • 奄美大島あやまる岬「永野芳辰先生顕彰胸像建立趣意書」
  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 鹿児島県姓氏家系大辞典編纂委員会編著『鹿児島県姓氏家系大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典46、角川書店、1994年。