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[[1914年]][[第一次世界大戦]]にロシアが参戦すると、ロシア国内は一時的に愛国心が昂揚する。ミリュコーフも右傾化し(元来ミリュコーフは[[立憲君主制]]、自由主義右派の立場であったので、この評価は当たらないとも言われる)、国防における愛国主義の推進、戦局の不利によって生じた自由主義左派とは一線を画した。また、ミリュコーフは、対外的にはロシアの膨張主義的侵略政策を支持し、特に大戦期にはロシア軍の[[イスタンブール]]侵攻を主張したため、政敵から「'''[[ダーダネルス海峡|ダーダネルス]]のミリュコーフ'''」の異名を奉られた。 |
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また、ミリュコーフは息子が戦闘によって死亡したため、息子の名誉のために彼が自発的に軍に志願したと主張している。 |
また、ミリュコーフは息子が戦闘によって死亡したため、息子の名誉のために彼が自発的に軍に志願したと主張している。 |
2016年10月18日 (火) 11:14時点における版
パーヴェル・ミリュコーフ Павел Николаевич Милюков | |
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パーヴェル・ミリュコーフ | |
生年月日 | 1859年1月27日〈ユリウス暦1月15日〉 |
出生地 | ロシア帝国 モスクワ |
没年月日 | 1943年3月31日(84歳没) |
死没地 | フランス エクス=レ=バン |
前職 | 歴史家、シカゴ大学教授 |
所属政党 | 立憲民主党 |
内閣 | ゲオルギー・リヴォフ内閣 |
在任期間 | 1917年3月2日 - 1917年4月 |
パーヴェル・ニコラエヴィッチ・ミリュコーフ(ミリュコフ;ロシア語:Павел Николаевич Милюков;ラテン文字表記の例: Pavel Nikolayevich Milyukov、1859年1月15日 - 1943年3月31日)は、帝政ロシアの歴史学者、政治家。
帝政末期の自由主義政党・立憲民主党(カデット)の領袖の一人。リヴォフ公を首班とする臨時政府で外務大臣を務めた。
歴史学者として
建築家の家に生まれ、モスクワ大学を卒業する。大学在学中は、コンスタンチン・カヴェーリン(w:Konstantin Kavelin)とボリス・チチェーリン(w:Boris Chicherin)の自由主義思想に強く影響を受けた。1886年モスクワ大学で教鞭をとり、ロシア史を教えた。歴史学者としては、チチェーリンらによる「国家学派」(19世紀ロシア歴史学の中心となった学派)を継承しつつも、これにオーギュスト・コント、ハーバート・スペンサーの社会学理論を取り入れ、独自の文化的歴史考証を行った。1896年から1903年にかけて、『ロシア文化史概論』Outlines of Russian Culture (全3巻)を出版している。この間、ツァーリズムに対する批判を強め、当局から圧迫を受け、1895年モスクワ大学における教職を解雇された。『ロシア文化史概論』第3巻は投獄中に脱稿している。ミリュコーフの留置は1901年の半年であったが、その間、自由時間を政治的草稿の記述に費やしている。モスクワ大学を追われた後、ミリュコーフは10年間をロシア国外で過ごした。ミリュコーフはアメリカに渡りシカゴ大学教授を務めた。1902年ピョートル・ストルーヴェの自由主義的政治誌『解放』Osvobozhdenieに匿名で寄稿した。
カデット結成
1905年第一次ロシア革命が勃発すると、立憲民主党(カデット)を結成する。1907年には第二国会(ドゥーマ)に立候補し当選する。立憲民主党中央委員会議長に選出されたミリュコーフは、ヴィボルグ宣言を起草し、政治的自由、改革および政府に対する消極的抵抗権を要求した。
ダーダネルスのミリュコーフ
1914年第一次世界大戦にロシアが参戦すると、ロシア国内は一時的に愛国心が昂揚する。ミリュコーフも右傾化し(元来ミリュコーフは立憲君主制、自由主義右派の立場であったので、この評価は当たらないとも言われる)、国防における愛国主義の推進、戦局の不利によって生じた自由主義左派とは一線を画した。また、ミリュコーフは、対外的にはロシアの膨張主義的侵略政策を支持し、特に大戦期にはロシア軍のイスタンブール侵攻を主張したため、政敵から「ダーダネルスのミリュコーフ」の異名を奉られた。
また、ミリュコーフは息子が戦闘によって死亡したため、息子の名誉のために彼が自発的に軍に志願したと主張している。
「愚考か?裏切りか?」
第四国会では、政府の無能無策ぶりに批判が集中し、1915年立憲民主党は、オクチャブリスト(十月党)、進歩党などと「進歩ブロック」を結成し全議員の約4分の3を押さえた。1916年進歩ブロックは、政府に対して対決姿勢を鮮明にし、ミリュコーフの立憲民主党はブロック内で権力移譲を強く要求するようになった。1916年立憲民主党は正式に政府に対決する方針を採択し、11月国会が再開された。ミリュコーフは、アレクサンドラ皇后、ボリス・スチュルメル首相、そしてラスプーチンを激しく非難する爆弾演説を行った。ミリュコーフは政府を攻撃する中で「これは愚考なのか?裏切りなのか?」と繰り返すと、議員たちは「愚考だ!」「裏切りだ!」「両方だ!!」と叫んだと伝えられている。ミリュコーフ演説は内閣総辞職を要求し終わった。
ミリュコーフの政府弾劾演説の効果は絶大であった。政府は演説の新聞掲載を禁止したが、この処置はかえって国民の関心を高め、数百万ものコピーが国内はもとより前線の兵士たち流布する結果に終わった。こうしてミリュコーフの演説は、革命的熱狂をロシア国内の諸勢力に巻き起こし、革命の実現に大きな役割を果たしたとされる。
臨時政府樹立
1917年二月革命により皇帝ニコライ2世は退位し、臨時政府とソビエトの二重権力体制が生じた。ミリュコーフはあくまで立憲君主制を維持することを望んでいた。しかし事態は彼の予想を超えて余りにも早く動いた。3月2日ゲオルギー・リヴォフ公爵を首班とする臨時政府が成立すると、ミリュコーフは外務大臣に任命された。このほか、陸海軍大臣にはグチコフ、司法大臣にはケレンスキーが任命された。
外相としてミリュコーフは、いかなる犠牲を払ってでも平和を求める世論に対しては、断固として反対した。ミリュコーフは、実際政治家としては、余りにも硬直に過ぎたと言えよう。1917年4月20日に、臨時政府は英仏両国に書簡(いわゆるミリュコーフ覚書)を送った。この中でロシアは連合国側で戦争を継続することを約束した。勝利に終わるまで戦争を遂行するというミリュコーフの決定は、厭戦気分に満ちたロシア国民の怒りを買う結果となった。ペトログラードの労働者、兵士たちはデモを行い、ミリュコーフとグチコフ陸海軍大臣は辞任を余儀なくされた(四月危機)。
十月革命後
1917年10月、十月革命によってボリシェヴィキが権力を掌握し、ソビエト政権が樹立されると、ミリュコーフはペトログラードから脱出した。以後、南ロシアに拠点を移し、1918年から国内戦が始まると、白軍(白衛軍、反革命運動)側の指導者となった。1920年ロンドンに亡命し、その後、パリに移った。亡命後も旺盛な政治、執筆活動を展開し、1920年から1940年にかけて、ロシア語新聞Latest News の編集に携わった。亡命後の著作としては、『第二次ロシア革命史』、『転機に立つロシア』がある。
ミリュコーフを狙ってしばしば暗殺未遂事件が起きたが、ミリュコーフ自身は辛くもそれを逃れた。ミリュコーフ暗殺未遂事件の中には、『ロリータ』の作者である小説家ナボコフの父、ウラジーミル・ドミトリエヴィッチ・ナボコフがミリュコーフを庇おうとして殺害された一件もあった。
公職 | ||
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先代 ニコライ・ポクロフスキー (ロシア帝国外務大臣) |
ロシア臨時政府外務大臣 初代:1917年 |
次代 ミハイル・テレシチェンコ |