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[[1913年]]([[民国紀元|民国]]2年)、[[第二革命]](二次革命)が勃発すると劉文島も革命派に加わったが、敗北したために日本へ亡命し、[[早稲田大学]]政治経済学部に入学した。[[1915年]](民国4年)、[[袁世凱]]が日本の[[対華21ヶ条要求]]に調印しようとすると、劉は帰国して反対運動を展開したが、そのために逮捕・収監されている。翌年、袁が死去すると釈放され、日本に戻って学業を継続した。
[[1913年]]([[民国紀元|民国]]2年)、[[第二革命]](二次革命)が勃発すると劉文島も革命派に加わったが、敗北したために日本へ亡命し、[[早稲田大学]]政治経済学部に入学した。[[1915年]](民国4年)、[[袁世凱]]が日本の[[対華21ヶ条要求]]に調印しようとすると、劉は帰国して反対運動を展開したが、そのために逮捕・収監されている。翌年、袁が死去すると釈放され、日本に戻って学業を継続した。


[[1918年]]、[[梁啓超]]が組織した欧州視察団に劉文島も参加し、後に[[パリ大学]]法学部に入学した。[[1925年]]、法学博士号を取得して帰国し、[[長沙市|長沙]]で[[湖南省 (中華民国)|湖南省長]]公署顧問に任ぜられる。まもなく武昌の私立中華大学で教授となり、さらに[[広東省 (中華民国)|広東省]]へ移り、[[介石]]の紹介で[[中国国民党]]に加入した。[[1926年]](民国15年)、[[国民革命軍]]第8軍党代表兼前敵総指揮部政治部主任に任ぜられ、[[北伐 (中国国民党)|北伐]]に参加する。[[漢口]]攻略後、国民党漢口特別市党部執行委員、[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]臨時政治委員会委員、漢口市政委員会委員長を歴任し、同年末に漢口市市長となった。翌年3月、[[中国共産党]]との対立の末に市長の地位を追われる。以後、国民革命軍総司令部政治部副主任に転じ、後に総司令行轅総政治部主任に昇進した。
[[1918年]]、[[梁啓超]]が組織した欧州視察団に劉文島も参加し、後に[[パリ大学]]法学部に入学した。[[1925年]]、法学博士号を取得して帰国し、[[長沙市|長沙]]で[[湖南省 (中華民国)|湖南省長]]公署顧問に任ぜられる。まもなく武昌の私立中華大学で教授となり、さらに[[広東省 (中華民国)|広東省]]へ移り、[[介石]]の紹介で[[中国国民党]]に加入した。[[1926年]](民国15年)、[[国民革命軍]]第8軍党代表兼前敵総指揮部政治部主任に任ぜられ、[[北伐 (中国国民党)|北伐]]に参加する。[[漢口]]攻略後、国民党漢口特別市党部執行委員、[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]臨時政治委員会委員、漢口市政委員会委員長を歴任し、同年末に漢口市市長となった。翌年3月、[[中国共産党]]との対立の末に市長の地位を追われる。以後、国民革命軍総司令部政治部副主任に転じ、後に総司令行轅総政治部主任に昇進した。


[[1929年]](民国18年)3月、劉文島は国民党第3期中央執行委員候補に選出され、4月、漢口市市長に再任された。[[1931年]](民国20年)5月、湖北省政府民政庁庁長に転じている。同年10月、駐ドイツ全権公使に起用され、欧州に向かった。翌月には駐オーストリア全権公使も兼任している。[[1933年]]9月、駐イタリア全権公使に異動し、翌年10月、特命全権大使に昇格した。[[1935年]]11月、国民党第4期中央執行委員候補に再選されている。[[1937年]](民国26年)12月、帰国した。
[[1929年]](民国18年)3月、劉文島は国民党第3期中央執行委員候補に選出され、4月、漢口市市長に再任された。[[1931年]](民国20年)5月、湖北省政府民政庁庁長に転じている。同年10月、駐ドイツ全権公使に起用され、欧州に向かった。翌月には駐オーストリア全権公使も兼任している。[[1933年]]9月、駐イタリア全権公使に異動し、翌年10月、特命全権大使に昇格した。[[1935年]]11月、国民党第4期中央執行委員候補に再選されている。[[1937年]](民国26年)12月、帰国した。

2020年9月15日 (火) 14:30時点における版

劉文島
Who's Who in China 4th ed.(1931)
プロフィール
出生: 1893年4月3日
光緒19年2月17日)
死去: 1967年民国56年)6月11日
中華民国の旗 台湾台北市
出身地: 清の旗 湖北省黄州府広済県
職業: 外交官・政治家
各種表記
繁体字 劉文島
簡体字 刘文岛
拼音 Liú Wéndǎo
ラテン字 Liu Wen-tao
和名表記: りゅう ぶんとう
発音転記: リウ ウェンダオ
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劉 文島(りゅう ぶんとう)は中華民国台湾)の政治家・外交官。塵蘇。別号は率真

事跡

初めは旧学を学んだが、13歳の時に湖北陸軍小学に入学する。このときに革命派の秘密組織に加入し、後に武昌陸軍第三中学に進学した。1909年宣統元年)、保定陸軍軍官学校に入学し、第1期歩兵科に配属される。辛亥革命が勃発すると、上海に赴き革命派の軍に加わった。

1913年民国2年)、第二革命(二次革命)が勃発すると劉文島も革命派に加わったが、敗北したために日本へ亡命し、早稲田大学政治経済学部に入学した。1915年(民国4年)、袁世凱が日本の対華21ヶ条要求に調印しようとすると、劉は帰国して反対運動を展開したが、そのために逮捕・収監されている。翌年、袁が死去すると釈放され、日本に戻って学業を継続した。

1918年梁啓超が組織した欧州視察団に劉文島も参加し、後にパリ大学法学部に入学した。1925年、法学博士号を取得して帰国し、長沙湖南省長公署顧問に任ぜられる。まもなく武昌の私立中華大学で教授となり、さらに広東省へ移り、蔣介石の紹介で中国国民党に加入した。1926年(民国15年)、国民革命軍第8軍党代表兼前敵総指揮部政治部主任に任ぜられ、北伐に参加する。漢口攻略後、国民党漢口特別市党部執行委員、湖北省臨時政治委員会委員、漢口市政委員会委員長を歴任し、同年末に漢口市市長となった。翌年3月、中国共産党との対立の末に市長の地位を追われる。以後、国民革命軍総司令部政治部副主任に転じ、後に総司令行轅総政治部主任に昇進した。

1929年(民国18年)3月、劉文島は国民党第3期中央執行委員候補に選出され、4月、漢口市市長に再任された。1931年(民国20年)5月、湖北省政府民政庁庁長に転じている。同年10月、駐ドイツ全権公使に起用され、欧州に向かった。翌月には駐オーストリア全権公使も兼任している。1933年9月、駐イタリア全権公使に異動し、翌年10月、特命全権大使に昇格した。1935年11月、国民党第4期中央執行委員候補に再選されている。1937年(民国26年)12月、帰国した。

戦時中の劉文島は国防最高委員会委員を務め、戦後は湖北・湖南・江西の三省で宣慰使を務めた。1946年(民国35年)5月、国民党第6期中央監察委員に選出され、翌1947年(民国36年)3月、中央監察委員会常務委員に任ぜられている。同年に閩台清査団団長を務めた。1948年(民国37年)5月、立法院立法委員に任ぜられ、立法院外交委員会委員となった。国共内戦末期に台湾へ逃れ、以後は月刊誌『健康長寿』を創刊し、仏学を研究している。

1967年(民国56年)6月11日、台北市にて死去。享年75(満74歳)。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。