「杜瓊」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 繡蔣を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (蔣斌) - log |
||
28行目: | 28行目: | ||
[[劉禅]]の皇帝即位後は諫議大夫に任命された。その後も、左[[中郎将]]・[[大鴻臚]]・[[太常]]と昇進を続けた。 |
[[劉禅]]の皇帝即位後は諫議大夫に任命された。その後も、左[[中郎将]]・[[大鴻臚]]・[[太常]]と昇進を続けた。 |
||
杜瓊は控え目な性格で言葉少なく、門を閉ざして世俗に関わろうとしなかった。[[ |
杜瓊は控え目な性格で言葉少なく、門を閉ざして世俗に関わろうとしなかった。[[蔣琬]]や[[費禕]]らはみな杜瓊の才能を高く評価していた。 |
||
250年に八十余歳で亡くなった。『韓詩章句』を著したが子供たちに教えなかったので、図讖の術を継承する者はいなかった。 |
250年に八十余歳で亡くなった。『韓詩章句』を著したが子供たちに教えなかったので、図讖の術を継承する者はいなかった。 |
2020年9月15日 (火) 15:19時点における版
杜瓊 | |
---|---|
蜀漢 太常 | |
出生 |
生年不詳 益州蜀郡成都県 |
死去 | 延熙13年(250年) |
拼音 | Dù Qióng |
字 | 伯瑜 |
主君 | 劉璋→劉備→劉禅 |
杜 瓊(と けい、? [1]- 250年)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。字は伯瑜。益州蜀郡成都県の出身。
事績
若い頃、任安から図讖を学び、その術を究めた。劉璋の時代に召し出されて従事となった
劉備が益州を平定すると、議曹従事に任じられた。
劉禅の皇帝即位後は諫議大夫に任命された。その後も、左中郎将・大鴻臚・太常と昇進を続けた。
杜瓊は控え目な性格で言葉少なく、門を閉ざして世俗に関わろうとしなかった。蔣琬や費禕らはみな杜瓊の才能を高く評価していた。
250年に八十余歳で亡くなった。『韓詩章句』を著したが子供たちに教えなかったので、図讖の術を継承する者はいなかった。
脚注
- ^ 160年代
参考文献
- 「正史 三国志 5 蜀書」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳) ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7