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馬淵はそののち、1948年10月8日に[[代表取締役]][[副社長]]に就任したが、[[1949年]]4月12日に常務取締役に降格するや、渡辺銕蔵と再建策をめぐって対立、[[1949年]]9月26日に辞任した。だが東宝の債務は解消されず、[[1950年]]3月25日に取締役に返り咲き、再び人員整理を行なった(第四次[[東宝争議]])。
馬淵はそののち、1948年10月8日に[[代表取締役]][[副社長]]に就任したが、[[1949年]]4月12日に常務取締役に降格するや、渡辺銕蔵と再建策をめぐって対立、[[1949年]]9月26日に辞任した。だが東宝の債務は解消されず、[[1950年]]3月25日に取締役に返り咲き、再び人員整理を行なった(第四次[[東宝争議]])。


[[1957年]]10月5日に専務取締役、[[1962年]]には取締役副社長となる。1968年4月1日に東宝芸能アカデミーが発足し、校長となる。[[1970年]]には[[藤本真澄]]、[[田中友幸]]、[[西野一夫]]にそれぞれ[[東宝映画 (企業)|東宝映画]]、[[東宝映像]]、[[東宝美術]]を創設させ、所属スタッフ、俳優の契約解除に取り組ませる。[[1974年]]、馬淵は代表取締役[[会長]]に就任。[[1981年]]に取締役相談役に退く(のち取締役は退任して相談役となる)。1988年9月20日に[[心不全]]のため82歳で死去。
[[1957年]]10月5日に専務取締役、[[1962年]]には取締役副社長となる。1968年4月1日に東宝芸能アカデミーが発足し、校長となる。[[1970年]]には[[藤本真澄]]、[[田中友幸]]、[[西野一夫]]にそれぞれ[[TOHOスタジオ|東宝映画]]、[[東宝映像]]、[[東宝美術]]を創設させ、所属スタッフ、俳優の契約解除に取り組ませる。[[1974年]]、馬淵は代表取締役[[会長]]に就任。[[1981年]]に取締役相談役に退く(のち取締役は退任して相談役となる)。1988年9月20日に[[心不全]]のため82歳で死去。


== 出典・参考文献 ==
== 出典・参考文献 ==

2022年3月27日 (日) 22:27時点における版

馬淵 威雄まぶち たけお1905年10月1日 - 1988年9月20日)は昭和期の実業家。死去時の役職は東宝相談役フジテレビ取締役京都府出身。

来歴・人物

水戸高等学校を経て1930年京都大学法学部を卒業。戦時中は軍需省管理官、戦後は中央労働委員会で第一部長兼第二部長を務める。労働争議に悩んでいた東宝社長田辺加多丸小林一三の実弟)の懇請により、1947年12月26日に東宝取締役(労務担当)に就任、新社長の渡辺銕蔵と共に人員整理に取り組み、翌1948年の第三次東宝争議を乗り切って、経営権や人事権を会社側の専権事項とした。

馬淵はそののち、1948年10月8日に代表取締役副社長に就任したが、1949年4月12日に常務取締役に降格するや、渡辺銕蔵と再建策をめぐって対立、1949年9月26日に辞任した。だが東宝の債務は解消されず、1950年3月25日に取締役に返り咲き、再び人員整理を行なった(第四次東宝争議)。

1957年10月5日に専務取締役、1962年には取締役副社長となる。1968年4月1日に東宝芸能アカデミーが発足し、校長となる。1970年には藤本真澄田中友幸西野一夫にそれぞれ東宝映画東宝映像東宝美術を創設させ、所属スタッフ、俳優の契約解除に取り組ませる。1974年、馬淵は代表取締役会長に就任。1981年に取締役相談役に退く(のち取締役は退任して相談役となる)。1988年9月20日に心不全のため82歳で死去。

出典・参考文献

  • 田中文雄 『神を放った男 映画製作者田中友幸とその時代』 キネマ旬報社、1993年。ISBN 4-87376-070-4
  • キネマ旬報1983年1月上旬号
    • 馬淵威雄インタビュー掲載