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徳川宗武

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徳川 宗武
田安宗武像
時代 江戸時代中期
生誕 正徳5年12月27日1716年1月21日
死没 明和8年6月4日1771年7月15日[1]
改名 小次郎(幼名)→宗武
戒名 悠然院殿寛山圓休大居士
官位 従三位権中納言、贈権大納言
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重徳川家治
氏族 徳川氏紀伊家将軍家田安家
父母 父:徳川吉宗、母:於古牟
兄弟 家重、男子、宗武宗尹源三芳姫
正室:近衛通子
側室:香詮院殿(山村氏)、毛利氏、林氏
小次郎英菊友菊乙菊治察定国定信種姫誠姫脩姫定姫淑姫仲姫節姫
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徳川 宗武(とくがわ むねたけ)は、江戸時代中期の武士歌人国学者江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の三男。松平定信の実父に当たる。御三卿の一つである田安家初代当主であり、田安 宗武(たやす むねたけ)とも呼ばれる。官位従三位権中納言

生涯

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徳川吉宗和歌山藩主在任時に生まれ、母は竹本正長の娘・於古牟(本徳院)。幼少より聡明で、荷田在満賀茂真淵国学歌学万葉を学ぶ[2]

異母兄・家重に代わり宗武を将軍後継者に推す者もあり[3]、父・吉宗も一時は後継者にと考えたが、第3代将軍家光・駿河大納言忠長の騒動以来の長幼の序を重視し、家重を後継者とした。また、家重の嫡男家治が聡明であったので、家治の将来に期待して家重を後継者にしたとも言われている。

将軍後継者問題はその後も尾を曳き、家重が将軍となった後、3年間登城停止処分を受ける。弟の宗尹も同罪とみなされ不興を被った。次期将軍に宗武を推した老中・松平乗邑も突如罷免された。その後、第7代将軍家継の生母・月光院の斡旋により登城を赦され、表向きは和解したものの、以後、宗武は生涯にわたり家重と対面することはなかった。

また、宗武自身も将軍就任を望んでいたため、家重の欠点を列挙して諌奏した。そのためかえって大御所となっていた父の吉宗に咎められ、延享4年(1747年)から3年間も謹慎の沙汰を受けた[2]。また吉宗は、自分に反抗した徳川宗春に代えて宗武に尾張藩を継がせる所存であったが、尾張藩の抵抗により断念したと伝えられる。

明和8年(1771年)6月4日に死去。享年57 (満55歳没)。田安徳川家は五男の治察が継いだ[4]

文化活動

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  • 飛鳥山故事に見られるように、将軍である父の徳川吉宗冷泉家歌壇との結び付きを重視していた。初期は宗武も後世風だったが古風に誠実さを認め、万葉調歌人の一人として名前を残した。寛保2年(1742年)、宗武よりの求めに応じて荷田在満より『国歌八論』が献進されると『国歌八論余言(余言)』を著し論争となり、更に賀茂真淵に意見を求め、真淵は『臆説』を著して論争に参加した。土岐善麿の宗武研究が名高い。
  • 故実にも関心が厚かった。吉宗は弓術を好み、故実に沿った諸式の復興を主導していたが、その際に参考にした小笠原持広家伝の書について、宗武が一覧したいと吉宗に重ねて願ったところ、持広の弟子となるよう指示があり、入門後にようやく吉宗からそれらの書籍を伝えられた[注釈 1]。吉宗が再興した弓術儀式である弓場始について、享保19年(1734年)2月28日には、田安家でも伝え興行することを言いつけられた[注釈 2]

年表

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※日付=旧暦

家系

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三女:淑姫(円諦院)高伝寺所蔵

宗武は15人の子女に恵まれたが、長男から四男までの男子は全て夭折したため、五男の徳川治察が嫡男となる[2]

著作

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  • 『天降言』歌集
  • 『歌体約言』歌論
  • 『伊勢物語註』古典注釈書
  • 『古事記詳説』古典注釈書
  • 『小倉百書童蒙訓』古典注釈書

登場作品

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テレビドラマ

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漫画

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脚注

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注釈

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  1. ^ 「右衛門督宗武卿、好古の志厚く、持広が家伝の書、一覧し給はん事をねぎ給ひしかど、 ゆるし給はず。其後またさらに懇望ありしかば、さらば持広が弟子にならるべしと仰下さる。宗武卿、則持広が門にいらる。その後はじめて御所より其書ども伝へさせ給ひしとなん。かく古道を重むじ給ふ御こころざし、いとあり難き御事にこそ。」[5]
  2. ^ 「先に設られし弓場初の式、田安の邸にても、永く伝え、興行せらるべきむね、右衛門督田安宗武卿に仰せつかはさる」[6]

出典

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参考文献

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