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だれもが知ってるあの名作は、温泉で執筆された!?
日本各地にある老舗旅館の謳(うた)い文句で、よく目にするのが「文人墨客(ぶんじんぼっかく)に愛された」という一文です。詩文や書画といった、優雅で趣のある芸術を生み出す人が文人墨客で、小説家や詩人、画家をさします。
明治から昭和にかけて、文豪と呼ばれた作家は執筆のため、湯宿に長逗留することがよくありました。そして、宿泊した温泉地を題材にした小説がヒットすると、現在の〝聖地巡り〟と同じように、泊まった湯宿まで話題になっていました。
湯宿で生まれた小説として最も有名なのが、川端康成(かわばたやすなり)が静岡県・湯ヶ野の温泉の湯宿「福田家」に投宿したときの出来事をもとにした『伊豆の踊子』です。秘湯に泊まらなければ書き得ない、学生と踊子のリアルなロマンスは評判を呼び、美空ひばりや吉永小百合、山口百恵らが主人公を演じた映画も製作されるたびに大ヒット。「福田家」も、実際に執筆した湯ヶ島温泉の「湯本館」も、今も変わらぬ人気を誇っています。
川端康成といえば、新潟県・越後湯沢(えちごゆざわ)の「高半旅館(現・雪国の宿 高半)」で書いた名著『雪国』もあり、川端にとって湯宿は創作に欠かせないポイントだったようです。
川端康成も太宰治も尾崎紅葉も湯宿で執筆
太宰治(だざいおさむ)もまた、湯宿とのかかわりが深く、前述の「福田家」で『東京八景』を、西伊豆三津浜(みとはま)の「安田屋旅館」で『斜陽(しゃよう)』を、群馬県・谷川温泉の「旅館たにがわ」で『創生記』を執筆。これらの湯宿は、今なお人気の高い太宰のファンの聖地です。
熱海温泉を舞台にした『金色夜叉(こんじきやしゃ)』は、尾崎紅葉(こうよう)の大ヒット作ですが、執筆した場所はなんと群馬県・塩原温泉の「清琴楼(せいきんろう)」。徳富蘆花(とくとみろか)は名作『不如帰(ほととぎす)』を伊香保温泉の「千明仁泉亭(ちぎらじんせんてい)」で書き、岡本綺堂(きどう)は歌舞伎にもなった『修禅寺(しゅぜんじ)物語』を伊豆・修善寺温泉「新井旅館」で書いたように、東京周辺の温泉地には、名作の宿がいくつも。それだけ執筆に適した環境があったのかもしれません。
志賀直哉と城崎温泉、夏目漱石と道後温泉
温泉と名作を語るうえで欠かすことができないもうひとりの文豪が、〝小説の神様〟と称された志賀直哉(しがなおや)です。志賀と温泉を結びつけたのは、不運な電車事故でした。瀕死(ひんし)の重傷を負いながら一命をとりとめた志賀は、病院を退院後、療養のために兵庫県・城崎(きのさき)温泉の「三木屋」に逗留しています。そして、生死の境をさまよった経験から、近代文学の名作『城の崎にて』が生まれたのです。以後も志賀は「三木屋」をたびたび訪れて執筆にいそしむかたわら、優れた泉質で知られる鳥取県・三朝(みささ)温泉の「斉木別館」に逗留した際に『暗夜行路(あんやこうろ)』を執筆。志賀が残した名作のいくつかは、温泉や湯宿によって紡がれていたのです。
最後にもうひとり挙げておかなければならない文豪が、道後温泉を舞台にした人気小説『坊っちゃん』の作者・夏目漱石(なつめそうせき)です。ただ、温泉とかかわりの深い小説家の筆頭でありながら、漱石が松山中学に赴任したときに宿泊し、山城屋の名で『坊っちゃん』に登場させた湯宿のモデルとなった「きどや旅館」は閉館。今は跡地が残るのみで、名作を執筆した宿を訪ねることができなくなっているのです。それでも、漱石が描いた『坊っちゃん』の世界は今もなお、道後温泉のそこかしこで感じることができます。
旅館に逗留して小説を書くということも、近ごろは耳にすることがなくなりました。それは、小説が原稿用紙に手書きするものから、パソコンのキーボードで打つものに変わってきたことに関係があるのでしょうか。それとも、予算という世知辛(せちがら)い理由からでしょうか。もしかしたら、温泉における人と人との交流が減って、小説になり得なくなってしまったからでしょうか…。
いずれにしても、湯宿の魅力が再び注目されている今だからこそ、温泉を舞台にした名著が生まれることを期待せずにはいられません。
【湯宿DATA】
福田家(ふくだや)
住所:静岡県賀茂郡河津町湯ヶ野236
電話:0558-35-7201
宿泊料金:2名1室利用時1名17,600円(税込)〜(1泊2食付)
アクセス:伊豆急行線「河津駅」より東海バス「湯ヶ野」下車、徒歩約3分。
公式サイト:http://fukudaya-izu.jp/
道後温泉本館(どうごおんせんほんかん)
住所:愛媛県松山市道後湯之町5-6
電話:089-921-5141
(写真/愛媛県観光物産協会)
アイキャッチ画像/「由布院 玉の湯」。写真/伊藤信
構成/山本毅 参考文献/『温泉と日本人 増補版』八岩まどか(青弓社)、『温泉の日本史』石川理夫(中公新書)
※本記事は雑誌『和樂(2023年2・3月号)』の転載です。
※表示の宿泊料金は税金・サービス料込みの金額です。別途入湯税や、入浴料などがかかる場合があります。また、連休や年末年始など、特別料金が設定されている場合もあります。
※お出かけの際には宿のホームページなどで最新情報をご確認ください。