八巻 九万(八卷 九萬、やまき くまん、1852年12月14日(嘉永5年11月4日[1])- 1929年昭和4年)4月1日[1][2])は、明治から昭和初期の大地主[3]政治家衆議院議員、山梨県会議長。号・水竹漁史[1]。幼名は熊太郎[4]

経歴

編集

甲斐国巨摩郡箕輪村[1]山梨県[2]北巨摩郡安都那村[5]箕輪[6]、高根村、高根町[1]を経て現北杜市高根町箕輪)で、大地主の家に生まれる。父は勘弥、母はちゑ子[4]徽典館で学び[1][7]、その後も学業を続けたいとの希望がかなえられず出奔し[7]、上京して慶應義塾で学んだ[1][2][3][5][7][8]。父の病の知らせにより帰郷して看病に手を尽くしたが死去し、家督を相続して東京に戻り、学業を終えて帰郷した[7][8]

戸長、区長総代理、学区総取締などを歴任[2][3][6]。1879年(明治12年)山梨県会議員に選出され、同議長も務めた[1][2][3][5][6][7][8]。漸進主義の立場で自由民権運動に参加した[1]。また、甲信鉄道の敷設に尽力した[2][3][5][7][8]

1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に山梨県第1区から大成会所属で出馬して当選し[1][9]、衆議院議員に1期在任した[2][5]。1894年(明治27年)9月の第4回総選挙(山梨県第1区、無所属)に立候補したが落選した[10]

晩年に東京で山梨共修社を設立して郷土子弟の育英に尽くした[1][2]

親族

編集
  • 三男 八巻連三(明治火災保険取締役社長)[11]

伝記

編集
  • 『八巻九万翁 乾』山梨共修社、1934年。

脚注

編集
  1. ^ a b c d e f g h i j k 『山梨百科事典 創刊120周年記念版』956頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』663-664頁。
  3. ^ a b c d e 『日本現今人名辞典 第3版』や40頁。
  4. ^ a b 『八巻九万翁 乾』年譜1頁。
  5. ^ a b c d e 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』464頁。
  6. ^ a b c 『峡中自由諸名士略伝』62-66頁。
  7. ^ a b c d e f 『日本帝国国会議員正伝』446-447頁。
  8. ^ a b c d 『明治新立志編』283-284頁。
  9. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』29頁。
  10. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』89頁。
  11. ^ 『大衆人事録 第14版 東京篇』帝国秘密探偵社、1942年、1015頁。

参考文献

編集
  • 長坂啓三『峡中自由諸名士略伝』石川一、1884年。
  • 木戸照陽編『日本帝国国会議員正伝』田中宋栄堂、1890年。
  • 篠田正作編『明治新立志編』鍾美堂、1891年。
  • 『日本現今人名辞典 第3版』日本現今人名辞典発行所、1903年。
  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 『八巻九万翁 乾』山梨共修社、1934年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 山梨日日新聞社編『山梨百科事典 創刊120周年記念版』山梨日日新聞社、1992年。