上原まり
上原 まり(うえはら まり、本名:
兵庫県神戸市、神戸市立湊川高等学校出身。公称身長157センチ、血液型A型。愛称ヨーコちゃん。
来歴・人物
編集筑前琵琶旭会総師範柴田旭堂の一人娘として生まれる。高校一年時に東京新聞主催邦楽コンクール琵琶部門で3位入賞。「柴田旭艶」の名を持つ。
1966年、宝塚音楽学校入学。第54期生。同期に順みつき、尚すみれらがいる。
1968年に宝塚歌劇団に入団。芸名は「姓は女優・上原美佐、名は幼少より親しかった友人にちなんで」命名した。花組公演『マイ・アイドル[1]』で初舞台を踏む。入団時の成績は59人中27位[1]。
1969年7月7日[1]に花組配属。甲にしき、榛名由梨、安奈淳、松あきらの相手役を務める。
1979年3月25日に専科へ移籍。各組公演に特別出演するようになる。
代表作には『ベルサイユのばら』のマリー・アントワネット、『新源氏物語』の藤壺など。
1981年4月30日付[1]で、月組公演『新源氏物語』の藤壺役を最後に退団。その後は筑前琵琶の語り手として活躍。
琵琶語りの代表作としては、『平家物語』、小泉八雲の『雪女』『耳なし芳一』、また瀬戸内寂聴現代語訳・水原央構成による『源氏物語』シリーズがある。
宝塚歌劇団との関わりも現役時代ほどではないが続けていた。OGイベントには幾度となく出演したほか、1992年月組バウホール公演『高照らす日の皇子』(作・演出:谷正純、主演:天海祐希)の琵琶演奏も担当。
さらに2007年、松竹からの要請でOSK日本歌劇団の52年ぶりになる京都南座公演『レビュー in KYOTO 〜 源氏千年夢絵巻』に紫式部役で特別出演。引き続き翌2008年の『レビュー in KYOTO Ⅱ〜
2018年8月29日、死去[2]。71歳没。
宝塚時代の舞台出演
編集※『歌劇』1981年4月号(宝塚歌劇団)のpp.90-91を参考資料にした。
初舞台・組廻り
編集- 『マイ・アイドル』(花組)(1968年4月)*初舞台
- 『シルクロード』新人公演:メルバ(星組)(1969年4月)
花組時代
編集- 『扇源氏』新人公演:きらら(本役:八汐みちる)(1970年11月)
- 『花は散る散る』新人公演:若紫(本役:竹生沙由里)(1971年4月)
- 『人魚姫』人魚ルル(1971年8月)
- 『小さな花がひらいた』おりつ(1971年11月)
- 『哀愁のナイル』新人公演:ネフェルト(本役:薫邦子)(東京、1972年7月)
- 『炎の天草灘』菊(1972年9月)
- 『新・花かげろう』若狭(1973年5月)
- 『この恋は雲の涯まで』チャレンカ(1973年8月)
- 『この恋は雲の涯まで』新人公演:静御前(本役:大原ますみ)(東京、1973年11月)
- 『花のお嬢吉三』おとせ(1974年1月)
- 『虞美人』呂妃(1974年5月)
- 『海と太陽とファド』西之表花子(1974年10月)
- 『夢みる恋人たち』フロレアナ(1975年3月)
- 『ベルサイユのばら』マリー・アントワネット(1975年7月 - 8月)
- 『あかねさす紫の花』額田女王(1976年2月 - 3月)
- 『うつしよ紅葉』濃姫/『ノバ・ボサ・ノバ』マダム・ガート(1976年8月 - 9月)
- 『ル・ピエロ』クネコンダ(1977年1月 - 2月)
- 『宝舞抄』深雪(1977年8月 - 9月)
- 『風と共に去りぬ』メラニー(1978年2月 - 3月)
- 『ホフマン物語』アントニア(宝塚バウホール、1978年4月)
- 『ヴェロニック』アガート(宝塚バウホール、1978年9月)
- 『遙かなるドナウ』エリザベート(1978年10月 - 11月)
専科時代
編集宝塚時代の受賞歴
編集※『歌劇』1981年4月号(宝塚歌劇団)のpp.90-91を参考資料にした。
努力賞
- 1971年11月『小さな花がひらいた』
- 1973年8月『この恋は雲の涯まで』
- 1974年1月『花のお嬢吉三』
- 1975年3月『夢みる恋人たち』
演技賞
- 1976年2月 - 3月『あかねさす紫の花』
著書
編集脚注
編集- ^ a b c d 監修:小林公一『宝塚歌劇100年史 虹の橋 渡り続けて(人物編)』pp.76-77(阪急コミュニケーションズ、2014年4月1日)。ISBN 9784484146010
- ^ 上原まりさん死去 元宝塚トップ娘役、筑前琵琶奏者 - 朝日新聞 2018年8月31日閲覧
関連項目
編集外部リンク
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