東ベルリン事件
東ベルリン事件(ひがしベルリンじけん)は、1967年7月に韓国中央情報部がヨーロッパ在住の韓国人教授・留学生を、東ベルリンの在東独北朝鮮大使館と接触し韓国に対する北朝鮮のスパイ活動や北朝鮮訪問を行っていた嫌疑で大量に逮捕した事件。西ドイツ拉致事件[1](西独拉致事件)、韓国留学生の大量蒸発事件[2]とも呼ぶ。
東ベルリン事件 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 동백림 사건 |
漢字: | 東伯林 事件 |
発音: | トンベンニムサコン |
国家情報院が2005年2月から再調査を行い、2006年1月に「事件は捏造でなかったものの、被疑者に対し強引なスパイ罪の適用があった」との結果報告を発表した。
事件の経緯
編集1967年7月8日、韓国中央情報部(KCIA)は東ドイツ駐留の北朝鮮大使館と接触した194人の韓国人を逮捕したと発表し、容疑者達が行った「事件」の概要を説明した。KCIAの調査によれば、1958年9月5日から1967年5月20日までの間に、ヨーロッパ、特に西ドイツへと留学していた大学教授・留学生を中心とする194人の韓国人が、東ベルリンを拠点とする駐東ドイツ北朝鮮大使館と居留地を往来しながら、北朝鮮の工作員と接触していた。そして、このうち7人はモスクワ経由で平壌を訪問し、李孝淳・徐哲など朝鮮労働党の対南工作事業の幹部たちと面会して工作指令を受けていた、とされる。
この事件は、画家の李應魯や作曲家の尹伊桑などの著名な芸術家を含め、多くの学者や学生達が係わったとされたことから、韓国内外で大きな物議をかもした。また、当時の韓国は西ドイツと犯人引導協定を結んでいなかったことから、KCIAの捜査官達が直接西独へと赴き、「任意同行形式」を装った不法連行で尹伊桑ら17人を帰国させた。そのため、韓国は一時期西ドイツとの間で17人の身柄を巡る外交問題を抱え、両国関係で窮地に立たされることとなった。
KCIAの「事件」公表後、事件に関してさまざまな疑惑が提起されたにもかかわらず、容疑者194人のうち107人は韓国当局によって「スパイ罪」で立件され、死刑や無期懲役といった有罪重刑判決をことごとく宣告された。韓国当局による一連の行動は、韓国国内外の世論から強く非難され、同時に西独は韓国に帰国させられた韓国人の「原状回復」を強く求めた。これを受けた韓国当局は、事件の捜査を早急に終結させるとともに、尹伊桑ら強制的に帰国させられた韓国人を元に戻すことで事件の幕引きを図り、当局への影響を沈静化させた[3]。
脚注
編集- ^ “第81回国会 参議院 法務委員会 閉会後第1号 昭和52年9月22日”. 国立国会図書館 国会会議録検索システム (1977年9月22日). 2024年8月15日閲覧。
- ^ “第71回国会 衆議院 内閣委員会 第49号 昭和48年8月31日”. 国立国会図書館 国会会議録検索システム (1973年8月31日). 2024年8月15日閲覧。
- ^ “第71回国会 衆議院 商工委員会 第47号 昭和48年8月28日”. 国立国会図書館 国会会議録検索システム (1973年8月28日). 2024年8月15日閲覧。
関連項目
編集国家情報院の「過去の事件の真実究明による発展委員会」による再調査を受けた事件
外部リンク
編集- 東ベルリン事件、「スパイ罪、強引に適用」「ねつ造はなかった」(2006年1月27日、東亜日報の記事)
- 【東ベルリン事件概要と争点】留学生34人にスパイ容疑(2005年2月4日、朝鮮日報の記事)