盛岡工業専門学校 (旧制)
盛岡工業専門学校 (盛岡工専) | |
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創立 | 1939年 |
所在地 | 岩手県盛岡市 |
初代校長 | 石原富松 |
廃止 | 1951年 |
後身校 | 岩手大学工学部 |
同窓会 | 一祐会 |
盛岡工業専門学校 (もりおかこうぎょうせんもんがっこう) は、1939年 (昭和14年) に創立された官立の旧制専門学校。創立時の名称は 「盛岡高等工業学校」 (略称: 盛岡高工)。
概要
編集沿革
編集盛岡高等工業学校時代
編集- 1939年2月: 盛岡高等工業学校誘致期成同盟会 (会長: 盛岡市長)、文部省に設置陳情書を提出。
- 1939年3月31日: 文部省、高等工業学校増設 7校を発表。盛岡市への設置決定。
- 1939年4月26日: 松尾鉱業社長 中村房次郎、32万円の寄附申し出。
- 1939年5月22日: 文部省直轄諸学校官制改正で盛岡高等工業学校設置 (勅令第336号)。
- 1939年7月: 10日、仮校舎で第1回入学式。11日、授業開始。
- 本科 (修業年限3年) に機械科・工作機械科・電気科・採鉱科・冶金科を設置。
- 1939年7月24日: 上田校地の整地起工式を挙行。
- 1939年8月: 10日から上田校地の整地作業に従事。
- 盛岡市民、市内中等学校生徒らも整地作業に従事。
- 1939年10月30日: 校舎着工。
- 1940年6月10日: 上田新校舎にて授業開始 (新入生のみ)。
- 1940年9月14日: 第1回体力訓練徹夜行軍 (区界峠方面)。
- 以後、1944年まで毎年実施。
- 1940年10月22日: 松戸中央航空機乗員養成所の練習機、物理化学実験棟屋上に墜落。
- 1940年12月7日: 寄宿舎 「同袍寮」 入寮式 (第1学年のみ全寮制)。
- 1941年6月6日: 上田新校舎に正式移転 (文部省告示第691号)。
- 1941年12月26日: 第1回卒業式。
- 1942年9月16日: 同窓会創立 (1953年6月、「一祐会」 と改称)。
盛岡工業専門学校時代
編集- 1944年4月: 盛岡工業専門学校と改称 (3月28日勅令第165号)。
- 1945年8月10日: 空襲により工作機械科教官室・実験室を焼失。
- 1945年9月14日: アメリカ軍により校舎接収。下厨川字長畑の仮校舎に移転。
- 1946年1月4日: 接収中の冶金科実験室・教官室・合併教室を焼失。
- 1946年5月: この年度から工作機械科募集停止。
- 1947年2月27日: アメリカ軍、移駐。
- 3月22日-28日で仮校舎から上田校地へ移転。
- 1947年7月6日: 食糧事情悪化で同袍寮を一時閉鎖。
- 1948年2月16日: 学生大会、新制岩手総合大学への移行案を可決。決議文を県知事らに交付。
- 1948年6月14日: 盛岡工専生、メチルアルコール中毒で 1名死亡、5名入院。
- 1948年8月26日: 盛岡農専も岩手総合大学案を受け入れ。
- 1949年5月31日: 新制岩手大学発足。
- 盛岡工専は工学部 (機械工学科・電気工学科・鉱山工学科・金属工学科) の母体として包括された。
- 1951年2月27日: 工専生ら、卒業予餞会で寮内ストーム事件。
- 翌28日、学芸学部生らの返礼ストームで 1名重傷。3月、学生9名自宅謹慎処分。
- 1951年3月31日: 旧制盛岡工業専門学校、廃止。
歴代校長
編集校地の変遷と継承
編集盛岡高工創立当初は、市内仁王第一地割内丸 (現・内丸) にあった盛岡夜間中学校 (現・岩手県立杜陵高等学校) 校舎を仮校舎として使用した。翌1940年に市内上田三六地割字上堰向 (現・上田4丁目) の校舎が竣工し、順次移転した。第二次世界大戦末期の空襲による被害は比較的軽微だったが、敗戦後まもなくアメリカ軍に校地を接収されたため、市内下厨川字長畑 (現・青山) の旧盛岡陸軍偕行社・通信部隊跡 (現・森永乳業盛岡工場の一角) に移転を余儀なくされた。1947年、上田校地の接収が解かれ、下厨川仮校舎から移転した。上田校地は後身の岩手大学工学部に引き継がれ、現在に至っている。
著名な出身者
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脚注
編集関連書籍
編集- トリョーコム(編) 『写真帳岩手大学工学部一祐会の40年 : ポプラは風にささやいた』 岩手大学工学部一祐会40年史写真帳監修委員会(監修)、トリョーコム、1979年5月。
関連項目
編集外部リンク
編集- 岩手大学工学部 - 後身校
- 岩手大学工学部一祐会 - 同窓会