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[[越後長岡藩]]士・[[小山善元|小山良運]]の二男に生まれる<ref name="jinji4">[https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-9965 小山吉郎] - 『[[人事興信録]]』第4版(1915年、リンク先は[[名古屋大学大学院法学研究科・法学部|名古屋大学大学院法学研究科]]の「人事興信録データベース」)</ref>。[[新潟県立長岡高等学校|長岡洋学校]]を経て<ref>{{Cite book|和書 |title=新潟県立長岡高等学校同窓会 |date=2010 |publisher=株式会社旭出版 |page=63}}</ref>、[[工部大学校]]造船学科を1883年(明治16年)に卒業した<ref name="jinmei"/><ref name="jinji4"/>。{{要出典範囲|1884年、小野浜造船所に入り、|date=2024-04}}1888年に海軍大技士となる<ref name="jinji1"/>。1890年、呉鎮守府造船部製造科主幹となる{{要出典|date=2024-04}}。1891年に従七位に叙せられる<ref name="jinji1">[https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who1-642 小山吉郎] - 『[[人事興信録]]』初版(1903年、リンク先は名古屋大学大学院法学研究科の「人事興信録データベース」)</ref>。 |
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1896年に造船監督官<ref>{{Cite web |url=http://hush.gooside.com/name/Biography/1571koya.html#anchor331749 |title=海軍軍人データベース|author=奥本剛 |access-date=2024-4-16}}</ref>となり、[[ドイツ帝国]]に留学して造船学を学ぶ<ref name="jinmei"/>。 |
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1898年に正六位に叙せられた<ref name="jinji1"/>。1901年に勲五等を叙されている<ref name="jinji1"/>。 |
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1902年に海軍造船大監、1903年に佐世保造船部長、1908年に舞鶴造船部長を務めた<ref name="jinji4"/>。1908年12月に海軍造船総監、1911年に横須賀海軍工廠造船部長にそれぞれ就任した<ref name="jinji4"/>。1913年12月に予備役となる<ref name="jinji4"/>。 |
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1915年に[[博士(工学)|工学博士]]号を取得した。1919年に海軍造船少将となる |
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== 脚注 == |
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2024年4月16日 (火) 15:50時点における版
小山 吉郎(こやま きちろう、1860年3月22日(安政7年3月1日) - 1929年(昭和4年)2月26日)は、明治期から昭和期にかけての大日本帝国海軍の造船技師[1]。海軍造船総監を務め、最終階級は海軍造船少将。
経歴
越後長岡藩士・小山良運の二男に生まれる[2]。長岡洋学校を経て[3]、工部大学校造船学科を1883年(明治16年)に卒業した[1][2]。1884年、小野浜造船所に入り、[要出典]1888年に海軍大技士となる[4]。1890年、呉鎮守府造船部製造科主幹となる[要出典]。1891年に従七位に叙せられる[4]。
1896年に造船監督官[5]となり、ドイツ帝国に留学して造船学を学ぶ[1]。
1898年に正六位に叙せられた[4]。1901年に勲五等を叙されている[4]。
1902年に海軍造船大監、1903年に佐世保造船部長、1908年に舞鶴造船部長を務めた[2]。1908年12月に海軍造船総監、1911年に横須賀海軍工廠造船部長にそれぞれ就任した[2]。1913年12月に予備役となる[2]。
1915年に工学博士号を取得した。1919年に海軍造船少将となる。[要出典]