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'''マーケット・ガーデン作戦'''(マーケット・ガーデンさくせん、Operation Market Garden)は、[[第二次世界大戦]]中の1944年9月に行われた[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の作戦。連合軍が、[[マース川|ミューズ川]]、[[ライン川]]、[[ネーデルライン川]]及びそれらの川の[[運河]]に架かる橋に[[空挺部隊]]を降下させて確保させ、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]本土進攻の進撃路にするといった、冒険的な作戦であった<ref>{{Harvnb|ビーヴァー|2015|p=218}}</ref>。作戦を企画したイギリス陸軍[[バーナード・モントゴメリー]][[元帥]]によればこの作戦は、部隊と戦車が疾風のようにオランダを席巻してドイツ本土になだれ込み、ナチス・ドイツを打倒して1944年中に戦争を終わらせるものであった<ref>{{Harvnb|ライアンa|1975|p=26}}</ref>。 |
'''マーケット・ガーデン作戦'''(マーケット・ガーデンさくせん、Operation Market Garden)は、[[第二次世界大戦]]中の1944年9月に行われた[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の作戦。連合軍が、[[マース川|ミューズ川]]、[[ライン川]]、[[ネーデルライン川]]及びそれらの川の[[運河]]に架かる橋に[[空挺部隊]]を降下させて確保させ、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]本土進攻の進撃路にするといった、冒険的な作戦であった<ref>{{Harvnb|ビーヴァー|2015|p=218}}</ref>。作戦を企画したイギリス陸軍[[バーナード・モントゴメリー]][[元帥]]によればこの作戦は、部隊と戦車が疾風のようにオランダを席巻してドイツ本土になだれ込み、ナチス・ドイツを打倒して1944年中に戦争を終わらせるものであった<ref>{{Harvnb|ライアンa|1975|p=26}}</ref>。 |
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連合軍の空挺部隊は様々なトラブルに見舞われながらも、途中までは目標の橋を確保したが、その空挺部隊が敷いた“[[絨毯]]”を進撃したイギリス軍機甲部隊が<ref>{{Harvnb|モントゴメリー|1971|p=296}}</ref>、要所要所でドイツ軍の激しい抵抗にあって進撃が停滞した<ref>{{Harvnb|ビーヴァー|2015|p=219}}</ref>。敵中最も深い攻略目標であった[[アーネム]](アルンヘム)に降下した{{仮リンク|ロイ・アーカート|en|Roy Urquhart}}少将率いる{{仮リンク|第1空挺師団 (イギリス軍)|en|1st Airborne Division (United Kingdom)|label=イギリス第1空挺師団}}は、ドイツ軍精鋭部隊[[第9SS装甲師団]]や[[第10SS装甲師団]]などの目と鼻の先に降下することとなったため、激しい反撃を受けて<ref>{{Harvnb|マクセイ・ドイツ機甲師団|1971|p=203}}</ref>、イギリス機甲部隊の |
連合軍の空挺部隊は様々なトラブルに見舞われながらも、途中までは目標の橋を確保したが、その空挺部隊が敷いた“[[絨毯]]”を進撃したイギリス軍機甲部隊が<ref>{{Harvnb|モントゴメリー|1971|p=296}}</ref>、要所要所でドイツ軍の激しい抵抗にあって進撃が停滞した<ref>{{Harvnb|ビーヴァー|2015|p=219}}</ref>。敵中最も深い攻略目標であった[[アーネム]](アルンヘム)に降下した{{仮リンク|ロイ・アーカート|en|Roy Urquhart}}少将率いる{{仮リンク|第1空挺師団 (イギリス軍)|en|1st Airborne Division (United Kingdom)|label=イギリス第1空挺師団}}は、ドイツ軍精鋭部隊[[第9SS装甲師団]]や[[第10SS装甲師団]]などの目と鼻の先に降下することとなったため、激しい反撃を受けて大損害を被り<ref>{{Harvnb|マクセイ・ドイツ機甲師団|1971|p=203}}</ref>、イギリス機甲部隊の到達まで持ちこたえることができずに、9月27日にわずかに生き残った兵士が撤退して作戦は失敗に終わった<ref>{{Harvnb|ビーヴァー|2015|p=219}}</ref>。 |
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作戦の失敗により、モントゴメリーの目論見通りのドイツ本土への疾風のような進攻は見送られ、結局、ドイツ本土への進攻はこの6か月後となってしまった。作戦目的を達することができなかったうえ、多大な損害を被った連合軍であったが、オランダの国土の大部分を解放し、ナチス・ドイツの圧政と搾取で飢餓で苦しんでいたオランダ国民を救うこととなった<ref>{{Cite web|url=https://www.nam.ac.uk/explore/market-garden|title=Operation Market Garden|accessdate=2024-04-16|publisher=National Army Museum}}</ref>。 |
作戦の失敗により、モントゴメリーの目論見通りのドイツ本土への疾風のような進攻は見送られ、結局、ドイツ本土への進攻はこの6か月後となってしまった。作戦目的を達することができなかったうえ、多大な損害を被った連合軍であったが、オランダの国土の大部分を解放し、ナチス・ドイツの圧政と搾取で飢餓で苦しんでいたオランダ国民を救うこととなった<ref>{{Cite web|url=https://www.nam.ac.uk/explore/market-garden|title=Operation Market Garden|accessdate=2024-04-16|publisher=National Army Museum}}</ref>。 |
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作戦開始7日目の朝を迎えたが、作戦開始以降初めての晴天であった。そこで連合軍空軍は全力で出撃し、アメリカ第101空挺師団と第82空挺師団にこれまで空輸できていなかった残存部隊を送り込むことができたが、肝心のポーランド第1独立パラシュート旅団の残存部隊については、不幸なことにアーネム周辺だけ天候回復が遅れたことや、先行のソサボフスキーらがドイツ軍包囲下にあることから、無事に降下させることが困難と判断されて、第82空挺師団と同じ降下点への降下となり、苦闘を続けるアーカートへ増援を送り込むことはできなかった。これでようやく連合軍は空挺部隊全兵力の35,000人をオランダに降下させることができたが、当初計画は3日で完了する予定であったので、倍以上の日数がかかってしまった<ref>{{Harvnb|ライアンb|1975|p=228}}</ref>。 |
作戦開始7日目の朝を迎えたが、作戦開始以降初めての晴天であった。そこで連合軍空軍は全力で出撃し、アメリカ第101空挺師団と第82空挺師団にこれまで空輸できていなかった残存部隊を送り込むことができたが、肝心のポーランド第1独立パラシュート旅団の残存部隊については、不幸なことにアーネム周辺だけ天候回復が遅れたことや、先行のソサボフスキーらがドイツ軍包囲下にあることから、無事に降下させることが困難と判断されて、第82空挺師団と同じ降下点への降下となり、苦闘を続けるアーカートへ増援を送り込むことはできなかった。これでようやく連合軍は空挺部隊全兵力の35,000人をオランダに降下させることができたが、当初計画は3日で完了する予定であったので、倍以上の日数がかかってしまった<ref>{{Harvnb|ライアンb|1975|p=228}}</ref>。 |
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イギリス第1空挺師団への物資の空輸も大規模に行われたが、ドイツ軍の高射砲が作戦開始時よりも遥かに強化されており、その激烈な対空弾幕によって輸送機はハルテンシュタインホテルの投下位置をなかなか発見できず、いつものように補給品の殆どをドイツ軍支配地に投下してしまった。連合軍空軍はイギリス第1空挺師団への補給のため123機もの輸送機を出動させたものの、6機が撃墜され、63機が撃破されるという大損害を被った<ref>{{Harvnb|ライアンb|1975|p=228}}</ref>。さらに午後からはこれまで天候不良によって殆どできていなかった、戦闘爆撃機による航空支援を行った<ref>{{Harvnb|児島襄7|1992|p=403}}</ref>。しかし上述の通り、アーネム周辺の天候回復が遅れたことから、航空支援は午後のみで飛来した機数も少なく不十分なものであったが、作戦開始日以来久々に見る友軍機の銀翼に、苦闘を続けるイギリス兵は「救援は近いぞ」と士気が向上した<ref>{{Harvnb|ライアンb|1975|p=229}}</ref>。夜になって、ポーランド第1独立パラシュート旅団は、昨晩に引き続きソサボフスキー率いる主力のネーデルライン川渡河 |
イギリス第1空挺師団への物資の空輸も大規模に行われたが、ドイツ軍の高射砲が作戦開始時よりも遥かに強化されており、その激烈な対空弾幕によって輸送機はハルテンシュタインホテルの投下位置をなかなか発見できず、いつものように補給品の殆どをドイツ軍支配地に投下してしまった。連合軍空軍はイギリス第1空挺師団への補給のため123機もの輸送機を出動させたものの、6機が撃墜され、63機が撃破されるという大損害を被った<ref>{{Harvnb|ライアンb|1975|p=228}}</ref>。さらに午後からはこれまで天候不良によって殆どできていなかった、戦闘爆撃機による航空支援を行った<ref>{{Harvnb|児島襄7|1992|p=403}}</ref>。しかし上述の通り、アーネム周辺の天候回復が遅れたことから、航空支援は午後のみで飛来した機数も少なく不十分なものであったが、作戦開始日以来久々に見る友軍機の銀翼に、苦闘を続けるイギリス兵は「救援は近いぞ」と士気が向上した<ref>{{Harvnb|ライアンb|1975|p=229}}</ref>。夜になって、ポーランド第1独立パラシュート旅団は、昨晩に引き続きソサボフスキー率いる主力のネーデルライン川渡河を決行したが、その際には本日降下してきた残存部隊が運んできた第82空挺師団・504連隊の敵前渡河作戦で使用した手漕ぎボートを使用した。しかし、昨晩に続きドイツ軍の砲撃によって損害が続出し、ネーデルライン川を渡河できたのは200人に過ぎなかった<ref>{{Harvnb|児島襄7|1992|p=404}}</ref>。 |
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==== イギリス軍地上部隊 ==== |
==== イギリス軍地上部隊 ==== |
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=== 八日目、1944年9月24日(日) === |
=== 八日目、1944年9月24日(日) === |
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[[画像:101st Airborne Division - WW2 02.jpg|200px|thumb|right|米第101空挺師団の降下(1944年9月24日)]] |
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==== ドイツ軍 ==== |
==== ドイツ軍 ==== |
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[[File:Tiger2 at Oosterbeek.jpg|260px|thumb|left|オーステルベークでイギリス第1空挺師団に撃破されたドイツ軍ティーガーII]] |
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ドイツ本国から到着した45輌の[[ティーガーII]]が戦線に投入され、大量の砲撃支援を受けたドイツ軍部隊がフェフヘルの南でふたたび地獄の街道の分断に成功した。幾つかの部隊がその地域にいたが、攻撃を食い止めることは出来なかった。ドイツ軍は夜に向けて素早く防御拠点を整えた。 |
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B軍集団司令官のモーデルは南部にアメリカ軍のグライダーが続々と降下してきているとの情報を掴んでおり、イギリス第1空挺師団の殲滅に手間取っていることを問題視して、ビットリヒに対して「オーステルベークのイギリス軍を早急に処分せよ」と命令した<ref>{{Harvnb|ロイド|1985|p=216}}</ref>。ビットリヒは第30軍団の進撃の足止めをしていることや、イギリス軍とポーランド軍の合流を阻止できていると反論したところ、普段は妥協することのないモーデルがビットリヒに24時間もの猶予を与えた。その後ビットリヒはイギリス軍の第43(ウェセックス)歩兵師団の進撃を阻止していたハンス・ペータ・クナウスト少佐の下に車をとばして、これからさらにイギリス第1空挺師団殲滅までの24時間もの間、第43(ウェセックス)歩兵師団足止めをはかるよう命じると、オーステルベークの包囲攻撃を指揮していた第9SS装甲師団長代理{{仮リンク|ウォルター・ハルツァー|en|Walter Harzer}}中佐にも「明日は敵の空挺作戦に対する攻撃を強化せよ。今度の作戦を全て収束させる」と命じた<ref>{{Harvnb|ライアンb|1975|p=231}}</ref>。 |
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ハルツァーがなかなかイギリス第1空挺師団に止めを刺せないのは、オーステルベークの街路が狭すぎて戦車の使用が制限されているのも大きかった。特に虎の子の戦力として投入された新鋭重戦車[[ティーガーII]]が、そのあまりに重い車体のため、埋め立て地の軟弱な地盤にはまり込んで殆ど役にたっていなかった。どうにか軟弱な地盤を避けても、ティーガーIIが通過した土地の地盤は引きはがされて耕地のようになり、方向転換すれば道路の舗装を引っぺがしてしまった<ref>{{Harvnb|ライアンb|1975|p=232}}</ref>。また、近接戦闘では折角の強力な88㎜砲や重装甲を活かすことができず、まともな対戦車能力のない空挺部隊に対し、わずかな対戦車砲とPIATの集中砲火でティーガーIIが次々と撃破された<ref>{{Cite web|url=https://www.paradata.org.uk/media/6218|title=REAR VIEW OF TIGER AUSF B KNOCKED OUT ON WEVER STRAAT, ARNHEM, 1944|accessdate=2024-04-28|publisher=PARADATA}}</ref>。ハルツァーは、激烈なイギリス軍の抵抗を見て「空挺部隊を孤立させ、締め付ければ締め付けるほどまします強硬に抵抗する」と考えていたが<ref>{{Harvnb|ライアンb|1975|p=232}}</ref>、イギリス軍の無線は筒抜けで、イギリス第1空挺師団の様子も、救援に駆け付けているイギリス第30軍団の状況をよく把握しており、あまり無理攻めはせず「救援は来ない。我々は勝者の慈悲を示しながら、イギリス空挺部隊の自滅を待てばよい」と焦る上官を尻目にして余裕を見せていた<ref>{{Harvnb|児島襄7|1992|p=404}}</ref>。 |
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==== イギリス軍空挺部隊 ==== |
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[[File:British paratroopers in Oosterbeek.jpg|240px|thumb|right|オーステルベーク市街地で戦闘するイギリス第1空挺師団兵士]] |
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9月24日を迎えてついに戦闘は予想外の第2週目に突入していた。作戦開始前にブラウニングがモントゴメリーに約束した「4日間の持久」期間はとうの昔に経過しており、イギリス第1空挺師団は限界を迎えていた。過酷な戦場で誕生日を迎えるイギリス兵もおり、ささやかな誕生日祝いとして雨水を沸かしていれた紅茶が振舞われたが、その後にドイツ軍の猛砲撃が始まり、誕生日を迎えたイギリス兵は「自分の誕生日プレゼントは3時間にも渡って撃ち込まれた迫撃砲弾だった」と振り返っている<ref>{{Harvnb|ロイド|1985|p=215}}</ref>。イギリス第4落下傘旅団長のハケットも迫撃砲弾の破片を腹部に受けて負傷していたが、同様に部下兵士多数も負傷しており、旅団司令部はさながら野戦病院の状況を呈していた。朝早くにそのイギリス第4落下傘旅団司令部にドイツ軍攻撃指揮官ハルツァーから軍使が遣わされた。負傷をおしてハケット自ら応対したが、軍使は「我が軍はこれから当地区を砲撃します。前線を600ヤード後退されたら安全だと思います」と通告してきた。ハケットに対抗する手立てはなかったが、イギリス第4落下傘旅団が600ヤードも後退したら、ハルテンシュタインホテルの師団司令部が危機にさらされてしまうことから、即座にハルツァーの通告を拒否した。やがてドイツ軍の猛砲撃が開始されたが、負傷者でいっぱいで[[赤十字社|赤十字]]を掲げていた旅団司令部は目標とされなかった<ref>{{Harvnb|児島襄7|1992|p=404}}</ref>。 |
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ドイツ軍の砲撃で倒壊したハルテンシュタインホテルの地下室では、まだブラウニングに見捨てられたことを知らなかったアーカートとわずか2,500人までに減った戦闘可能なイギリス兵が救援の到着に望みをつないでいた。しかし、大量の負傷兵があちこちに溢れかえっており、このままではじきに多くが死んでしまうことは確実であった。イギリス兵の治療にあたっていた師団の主任軍医のグレイム・ウォラク博士は、アーカートに負傷兵をドイツ軍に投降させてアーネムの病院で治療を受けさせるように提案し、負傷兵を輸送する間の休戦の申し出も提案した。アーカートはウォラクの提案を了承したが、ドイツ軍に師団が崩壊していると思われないためにも、あくまでもこの申し出はウォラクが軍医として人道上の理由で行うものであり、師団を代表したものではないことをドイツ軍側に認識させるよう徹底したが、この状況に至ってまでかような意地を張るのは殆ど意味がないことであった<ref>{{Harvnb|ライアンb|1975|p=239}}</ref>。 |
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ウォラクは同行者2人と一緒に、まずは第9SS装甲師団の軍医に接触し、ドイツ軍軍医同行で、アーネムまでドイツ軍に鹵獲されていたイギリス軍のジープで向かった。アーネムのドイツ軍司令部では事前に連絡を受けていた師団長代理のハルツァーが待っていた。ハルツァーによればその場で自分がウォラクの提案を了承したとしているが、ウォラクの同行者であったオランダ海軍の連絡将校アルノルダス・ウォルタース少佐によれば、ハルツァーは即座に拒否したが、幕僚の一人がビットリヒの判断を仰ぐ必要があると主張し、ビットリヒを呼びに行っている間しばらく待たされたという。その間ドイツ軍は3人に[[ニンニク]]の[[サンドイッチ|サンドウィッチ]]と[[ブランデー]]を出されたが、医者のウォラクからはすきっ腹にアルコール摂取は危険だと注意されている。やがてビットリヒが現れ、ウォラクらに対して「私は両国間のこの戦争を甚だ遺憾に思う」とドイツ語で言った後、ウォラクからの負傷兵の移送計画を黙って聞き、それに承諾した。承諾した理由についてもウォラクらに以下の様に伝えた<ref>{{Harvnb|ライアンb|1975|p=241}}</ref>。 |
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{{Quotation|人間はすべての人間性を失うわけにいかんからだ、最も苛烈な戦闘中と言えどもな。もちろん、人間がまず第一にそういう感情を持っているという前提の上での話だが。|ヴィルヘルム・ビットリヒ}} |
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そして、ブランデーを1本差しだして「これを貴官の将軍に差し上げてくれ」とアーカートへの手土産を渡した<ref>{{Harvnb|ライアンb|1975|p=241}}</ref>。 |
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休戦は午後15:00から始まり、イギリス軍負傷兵はドイツ軍が総動員した軍用車両で次々と病院に向けて運び出されていた。しかし、両軍兵士とも血気に逸っており、完全な休戦は困難で小規模な小競り合いは絶えなかった<ref>{{Harvnb|児島襄7|1992|p=405}}</ref>。特に祖国をドイツ軍に蹂躙され、その奪還と多くの死傷者の復讐を誓っていたポーランド第1独立パラシュート旅団兵士は、決死の想いでネーデル・ライン川を渡河して合流してきたのに、いきなり休戦を命じられて憤懣遣る方無いという表情であった。歩行不能な250人の負傷兵がドイツ軍軍用車で運び出され、歩行可能な負傷兵200人は歩いて戦場を後にし、ドイツ軍の捕虜となった<ref>{{Harvnb|ライアンb|1975|p=244}}</ref>。休戦は午後17:00に終わり、その後は激しい戦闘が再開された。ティーガーIIが現れたが、イギリス軍は数少ない[[オードナンス QF 6ポンド砲]]で砲撃して[[無限軌道|キャタピラー]]を破壊して擱座させた。しかし、すぐに次のティーガーIIが現れ、またイギリス軍は6ポンド砲で砲撃するも、今度は車体に命中し重装甲で跳ね返された。戦車は搭載砲と搭載機銃で反撃を開始し、せっかく負傷者を運び出したのに、また大量の死傷者が発生した<ref>{{Harvnb|ライアンb|1975|p=246}}</ref>。 |
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==== イギリス軍地上部隊 ==== |
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イギリス第30軍団司令官のホロックスは、モントゴメリーを始めとする軍上層部や、デンプシーら第2軍司令部がアーカットの救援を断念しようとしているなかで、唯一、物資の送り込みと、部隊を渡河させての救援を決してあきらめようとしなかった。合流したソサボフスキーのポーランド第1独立パラシュート旅団と第43(ウェセックス)歩兵師団に対して、夜陰に紛れてボートと水陸両用車で強行渡河するように命じた。ホロックスはこのときの計画を「もし順調にゆけば、第43師団を横滑りさせてネーデル・ライン川をずっと西方で渡らせ、空挺師団を攻撃しているドイツ軍に左フックを食らわせたかった」と述べているが<ref>{{Harvnb|ライアンb|1975|p=252}}</ref>、しかしまたしても、強行渡河作戦は失敗し、渡河を試みた400人の第43(ウェセックス)歩兵師団の兵士のうち、75人が渡河できずに引き返し、渡河に成功したイギリス兵も優勢なドイツ軍に追い回されて殆どが捕虜となってしまった<ref>{{Harvnb|児島襄7|1992|p=406}}</ref>。 |
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ブラウニングは第30軍団が先に進めないと確定したので、すぐにでもアーカートと兵士を脱出させなければいけないと確信し、それはデンプシーも同じであった。デンプシーはブラウニングとホロックスを呼びつけると作戦協議を行った。ここでもホロックスは諦めずに大規模な渡河作戦を主張したが、デンプシーはとても成功の見込みはないとしてホロックスの作戦計画を却下し、「(アーカートを)脱出させろ」と命じた。デンプシーはブラウニングの方を向いて「君の方もそれでいいかね?」と尋ねたが、ブラウニングに異存はなく、なるべく感情を抑えながら同意した。このデンプシーの決定はモントゴメリーに上申されたが、なぜかモントゴメリーはその決裁を渋り、決裁されたのは日も改まった翌日25日の午前9:30となった。ここで正式に「マーケット・ガーデン作戦」の途中での中止が決定された<ref>{{Harvnb|ライアンb|1975|p=253}}</ref>。 |
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この時点では連合軍にとってこれらの行動がどれほど危険なものであるかは明らかではなかった。しかし、マーケット・ガーデン作戦は中止され防御に切り替えられることが決定され、オースターベークの英第1空挺師団は撤退、また予定されていた降下はその夜取り消された。ナイメーヘンの前線が新しい戦線として固定された。 |
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=== 九日目、1944年9月25日(月) === |
=== 九日目、1944年9月25日(月) === |
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==== イギリス軍空挺部隊 ==== |
==== イギリス軍空挺部隊 ==== |
2024年4月27日 (土) 08:05時点における版
マーケット・ガーデン作戦 | |
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オランダに降下する連合軍の空挺隊員(1944年9月) | |
戦争:第二次世界大戦(西部戦線) | |
年月日:1944年9月17日 - 25日 | |
場所: オランダ周辺 | |
結果:ドイツの戦術的勝利。連合軍の作戦失敗 | |
交戦勢力 | |
イギリス アメリカ合衆国 カナダ ポーランド オランダ人レジスタンス |
ドイツ国 |
指導者・指揮官 | |
バーナード・モントゴメリー ルイス・H・ブレアトン マイルズ・デンプシー フレデリック・ブラウニング ブライアン・ホロックス スタニスラウ・ソサボフスキー |
ゲルト・フォン・ルントシュテット ヴァルター・モーデル クルト・シュトゥデント ヴィルヘルム・ビットリヒ グスタフ=アドルフ・フォン・ツァンゲン |
戦力 | |
空挺兵 41,628人[1] | 100,000以上[2] |
損害 | |
死傷者8,716人~10,786人[3] うち戦死者1,984人[4] 捕虜 6,414人[5] |
死傷者10,000人[6]~13,000人[7][8] うち戦死者1,800人[9]~3,800人[10] 捕虜 多数 |
マーケット・ガーデン作戦(マーケット・ガーデンさくせん、Operation Market Garden)は、第二次世界大戦中の1944年9月に行われた連合国軍の作戦。連合軍が、ミューズ川、ライン川、ネーデルライン川及びそれらの川の運河に架かる橋に空挺部隊を降下させて確保させ、ドイツ本土進攻の進撃路にするといった、冒険的な作戦であった[11]。作戦を企画したイギリス陸軍バーナード・モントゴメリー元帥によればこの作戦は、部隊と戦車が疾風のようにオランダを席巻してドイツ本土になだれ込み、ナチス・ドイツを打倒して1944年中に戦争を終わらせるものであった[12]。
連合軍の空挺部隊は様々なトラブルに見舞われながらも、途中までは目標の橋を確保したが、その空挺部隊が敷いた“絨毯”を進撃したイギリス軍機甲部隊が[13]、要所要所でドイツ軍の激しい抵抗にあって進撃が停滞した[14]。敵中最も深い攻略目標であったアーネム(アルンヘム)に降下したロイ・アーカート少将率いるイギリス第1空挺師団は、ドイツ軍精鋭部隊第9SS装甲師団や第10SS装甲師団などの目と鼻の先に降下することとなったため、激しい反撃を受けて大損害を被り[15]、イギリス機甲部隊の到達まで持ちこたえることができずに、9月27日にわずかに生き残った兵士が撤退して作戦は失敗に終わった[16]。
作戦の失敗により、モントゴメリーの目論見通りのドイツ本土への疾風のような進攻は見送られ、結局、ドイツ本土への進攻はこの6か月後となってしまった。作戦目的を達することができなかったうえ、多大な損害を被った連合軍であったが、オランダの国土の大部分を解放し、ナチス・ドイツの圧政と搾取で飢餓で苦しんでいたオランダ国民を救うこととなった[17]。
背景
ノルマンディー上陸作戦後の1944年8月、ファレーズ・ポケットなどでドイツ軍に大打撃を与えた連合軍は、それまでの停滞した戦線と異なり急速な進撃を開始した。8月25日にはパリを奪還、9月4日にはイギリス第21軍集団揮下のカナダ第1軍がベルギーのアントウェルペン(アントワープ)を奪還していた。
しかし、この進撃速度は計画を大幅に上回るものであった。当時の連合軍の補給物資はコタンタン半島の先端の港湾シェルブールかノルマンディーの上陸地点を経由しており、イギリス海峡に面した他の重要な港湾は、たとえば1945年5月の降伏までドイツ軍が保持していたダンケルクのように、撤退が間に合わず取り残されたドイツ軍が占拠しているか、あるいは撤退するドイツ軍によりクレーンやデリックなどの港湾施設が破壊され荷揚作業ができない状態にあった。連合軍の各部隊はその補給路の長さから来る燃料・物資の不足に悩まされることとなり、9月初旬には進撃が停滞した。
このためイギリス海峡に面した港湾を確保し、新しい補給路を構築することが早期進撃再開のために必要と考えられた。アントウェルペンは世界有数の良港であり、クレーンなどの港湾設備が残存していたため、連合軍にとってイギリス海峡に面した新たな補給拠点になる重要な候補であった。しかし港湾設備の大半はスヘルデ川を遡上した内陸にあり、また内水への航路上にはまだ機雷が敷設されていたため掃海の必要があった。唯一利用可能な河口域(オランダ領)の施設はドイツ軍が排除されておらず、港湾としての機能が果たせない状態にあった。河口域南岸のドイツ軍残存部隊に対してはカナダ第1軍が掃討作戦を展開中であったが、北岸のドイツ軍は手付かずの状況にあり、この地域のドイツ軍を残存させることはアントウェルペン港完全解放、ひいては連合軍全体の補給の障害となっていた。
しかし、アントウェルペンが属する連合軍戦線北部を担当する第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリー元帥は、連合軍にとって重要なアントウェルペンの安全確保よりは、戦争を早期に終わらせるために、連合軍の戦力を北部方面に集中させ、海岸線を掃討してベルギーに強力な航空兵力を配備して、一気にラインの下流域でドイツ国境を突破し、ルール工業地帯に進攻するという壮大な構想を描いていた[18]。しかし、SHAEF司令官ドワイト・アイゼンハワー元帥の方針は、圧倒的な連合軍の戦力でもって戦線全域でひたひたとライン川一帯まで進出させ[19]、そのままドイツ領内に入るという“広域進撃戦略”であった[20]。
モントゴメリーは自分の作戦方針を認めさせることと、その作戦の責任者を第12軍集団司令官オマール・ブラッドレー中将ではなく自分へ任じること求めるために、参謀長のフレディ・ド・ギャンガン准将を使いとしてアイゼンハワーと面談させたが、アイゼンハワーは否定的であった[21]。アイゼンハワーは連合軍の既定路線を変更す る気は全くなかったが、モントゴメリーは実戦の指揮経験に乏しいアイゼンハワーを見下しており[22]、この後も執拗に自分の作戦方針を採用するようにアイゼンハワーに迫り、自らもブラッドレーと面会して自分の作戦方針を熱く説き続けた[23]。
その後の1944年8月23日に、ついにアイゼンハワーに直談判する機会に恵まれたモントゴメリーは、お互いの幕僚を外させると2人きりで約1時間話し合った。冒頭でモントゴメリーはアイゼンハワーの方針である広域進撃戦略の問題点を下記のように指摘した[24]。
もし、現にお考えになっている広正面戦略を採用され、各方面に進出させてたえざる戦闘を行わすことになれば、前進はできなくなり、ドイツ軍は戦力を回復するときをかせぎ、戦争は冬中続いて、1945年に持ち越されることになるでしょう。 — バーナード・モントゴメリー
さらに慇懃無礼なことばで、「あなたは最高司令官なのだから、地上軍総司令官の地位に降りてはいけません」「最高司令官は常に高い位置から、全ての込み入った問題について公平な判断をすることが必要ですので、地上戦闘専門に担当するものを決められてはいかがですか?」などと、自分に地上戦を仕切らせるような要求も行った[25]。アイゼンハワーはこれらのモントゴメリーの要求ははねのけたが、第21軍集団への兵力や物資の手厚い手当を行うことを約束させられた[26]。
しかし、モントゴメリーがこれで諦めることはなかった。2個の軍集団を束ね、自分が指揮して戦線北部を突破するという作戦方針こそ諦めたものの、目前のドイツ軍に崩壊の兆しが見え始めると「ドイツ軍敗れたり、ルールどころか一気にベルリンまで進撃できる」「真に強力かつ果敢な攻撃を実施するときが到来した」と考え、9月4日には、自らの第21軍集団で、ルールを経由した北部戦線での集中攻撃を行うべきとする上申をアイゼンハワーに行った。モントゴメリーの自分の作戦方針に対する自信は、前回アイゼンハワーにかみついた時を遥かに上回っていた[27]。モントゴメリーはこのアイゼンハワーとのやり取りの前から、ルールに進撃路上にあるミューズ川、ライン川等の河川の渡河点を確保するため、空挺部隊の活用を考えており、9月3日にはイギリス第1空挺軍団司令官フレデリック・ブラウニング中将を呼んで、空挺師団が降下する最適地について検討させていた[28]。また、9月6日にオランダ軍の最高司令官であったオランダ王配ベルンハルトの表敬訪問を受けた際、「私は、あなたと同じようにオランダをなんとかして解放したいだけです」「私は部隊を進めるために、空挺作戦をいま計画しているところです」と語ってベルンハルトを驚かせている[29]。
アイゼンハワーの返答は9月7日に到着したが、モントゴメリーが求めていた攻勢のための補給物資の集中配分は却下された。モントゴメリーはすぐに抗議の電文を送り返すとともに、再びアイゼンハワーへの直談判を決意した。モントゴメリーがこれほどまでに自分の作戦方針実現へ熱意を見せていたのは、自分が誰よりも早くライン川を渡って、ドイツ本土攻略の一番手になりたいという強い拘りがあったのに加えて[30]、9月8日にV2ロケットによる初のロンドン攻撃が開始されたという報告を受けていたこともあった。V2は超音速で飛来するため、当時の技術では迎撃不可能であり、その発射地点と目されていたアムステルダムやロッテルダム一帯を早急に掃討するようにというイギリス本国からの切実な要請があっていたことも理由の一つとなっていた[31]。
9月10日に再びアイゼンハワーとモントゴメリーは、ブリュッセル飛行場に着陸したアイゼンハワー専用機内でお互いの意見を戦わせた。既にアイゼンハワーはモントゴメリーが大規模な空挺作戦を検討しているという情報を掴んでいたが、アイゼンハワーは8月に連合軍各国の空挺部隊で編成した連合軍第1空挺軍の活用の機会を模索しており、モントゴメリーの構想はこのアイゼンハワーの要望にかなうものであったが[32]、モントゴメリーが要求する補給物資の集中配分については明確に拒否した。モントゴメリーは自分の想い通りにならないことにいら立ちを感じており、膝を痛めて行動もままならないアイゼンハワーに対して、大声で持論をまくし立てるなど、礼を失する振る舞いをしてしまった。そこでアイゼンハワーはモントゴメリーの膝に片手を乗せると穏やかな口調で「控えたまえ、モンティ。そんな口をきいてはいけない。ボスは私だ」と叱責し、モントゴメリーはようやく自分の非礼を認めて「すまないアイク」と謝罪した[33]。
その後もモントゴメリーは自分の作戦を説明し続けたが、アイゼンハワーはこれまで望んでいた空挺部隊の活用ができることに興味を示して、ついには「先ずはライン川から片づけていこう」と、ルールへの進撃路構築のための戦線北部への進出作戦の延長という“限定的な作戦”という条件付きで、ついにモントゴメリーの作戦計画を承認し[34]、9月12には正式な命令が下った。慎重に慎重を重ねた作戦でエル・アラメインの戦いでエルヴィン・ロンメル元帥に勝利したことを知っていたアメリカの指揮官たちは、そのモントゴメリーが発案した冒険的な作戦計画に度肝を抜かれて、ブラッドレーは「絶対禁酒主義のモンティが酩酊して千鳥足で司令部を訪れる姿を見たとしても、この作戦計画を聞いた時ほどの衝撃は受けなかっただろう」と振り返っている[35]。
計画
計画は二つの作戦、第1空挺軍の降下によってルート上の主要な橋を確保する「マーケット作戦」および英第2軍の第30軍団が先頭に立って、国道69号線に沿い3ないし4日でドイツ・オランダ国境付近まで北上する「ガーデン作戦」から成った。ニーダーライン川を越え北岸の町アーネム(アルンヘム)まで押さえればジークフリート線を完全に迂回してドイツ本国への進撃路を確保することができる。
マーケット作戦
「マーケット作戦」は大規模空挺作戦の提唱者であったブラウニング(連合軍第1空挺軍副司令官に就任)の計画が骨子となった。連合軍第1空挺軍のうち、イギリス軍の第1空挺師団とアメリカ軍の第101空挺師団と第82空挺師団の合計3個師団とポーランド第1独立パラシュート旅団を投入し、最後にライン川(支流ネーデルライン川)まで至る、アイントホーフェン、グラーヴェ、ナイメーヘン、アーネムに至る線を進撃するイギリス第30軍団のための進撃路を空挺3個師団が予め確保し[36]、空挺部隊によって敷かれた“絨毯”の上をイギリス第30軍が進撃しようという作戦計画であった[37]。
空挺部隊の対処が必要とされた、進撃路最大の障害は、ミューズ川とライン川とその支流と運河に架かる、ソンのソンセ橋、ヴェーゼル近郊のボクステル - ヴェーゼル鉄道線の鉄道橋ゲネプ橋、グラーヴェのミューズ橋、ナイメーヘンのワール橋、アーネムの道路橋(橋名なし)の5つの橋であった[38]。これらの橋は、機甲部隊が急進撃するために無傷で確保する必要があり、極めて危険性が高い作戦であったが、こういった奇襲攻撃を実行するために厳しい訓練で鍛えられてきた空挺部隊にはうってつけの作戦とも言えた[39]。
橋の確保には3個空挺師団と1個旅団が投入される計画で、第101空挺師団がアイントホーフェンに降下してソンセ橋とゲネプ橋を確保、第82空挺師団がナイメーヘンに降下してミューズ橋とワール橋を確保、そして敵中最も深い位置となるアーネムにはイギリス第1空挺師団とポーランド第1独立パラシュート旅団が降下して橋を確保することとなっていた[40]。自分が計画にかかわった作戦とはいえ、ブラウニングは敵中深くに孤立することになるイギリス第1空挺師団を心配して、作戦協議中にモントゴメリーに「機甲部隊の到着まではどれくらいかかりますか?」と尋ねたところ「2日だ」と即答された。なおもブラウニングは作戦地図をじっと見つめながら、自分に言い聞かせるように「我々としては4日間は持ちこたえられます」と言ったのち、さらに以下のように付け加えた[41]。
それにしても、閣下、あの橋まで行くのは遠すぎますな。 — フレデリック・ブラウニング
モントゴメリーはブラウニングに早急に準備を終える様に命令した。モントゴメリーによれば、2~3日中に攻撃を開始しなければ、作戦の開始時期を逸してしまうということであった。そのうえでモントゴメリーはブラウニングに「いつ準備ができるか?」と聞いてきたが、ここまでモントゴメリーに詰められたブラウニングは「9月15日か16日になるでしょう」と当てずっぽうに2~3日後の日付を言いざるを得なかった。ブラウニングはこんな大作戦の準備を2~3日間で終えなければいけないという重要性に鑑み、すぐにイギリスに帰ると連合軍第1空挺軍司令官のルイス・ブレアトン中将と参謀長のフロイド・ラビニアス・パークス少将に報告したが、この大規模空挺作戦はイギリス軍のモントゴメリーとブラウニングの間で検討されていたものであり、アメリカ軍のブレアトンとパークスはここで初めて作戦を知ったという慌ただしさであった[42]。
ガーデン作戦
「マーケット作戦」で敷かれた空挺部隊の絨毯の上を進撃する「ガーデン作戦」の主力戦力はイギリス第2軍(司令官:マイルズ・デンプシー中将)隷下イギリス第30軍団(司令官:ブライアン・ホロックス中将)であった。モントゴメリーは「マーケット作戦」の成功を疑っておらず、むしろ「ガーデン作戦」を心配していた。その心配は、再三に渡ってアイゼンハワーに要求し続けている、「補給の絶対的優先権」の確実な保証と、ドイツ進攻を競い合っていた第3軍司令官ジョージ・パットン中将の存在であった。モントゴメリーは「マーケット・ガーデン作戦」が決まった後も、アイゼンハワーに「補給の絶対的優先権」の保証とパットンの進撃停止を要求し続け、アイゼンハワーは「モンティは全部よこせと要求してくる」とうんざりしながらも、「マーケット・ガーデン作戦」の安全を人質にするようなモントゴメリーに屈して、ついに、1日1,000トンの補給の保証と、ザール地方に進撃する計画であったパットンの停止を約束してしまった[43]。ほぼ自分の要求を通したモントゴメリーは、自分の作戦がアイゼンハワーらSHAEFの作戦に勝っていたと勝ち誇った[44]。
このようにモントゴメリーが連合軍内の政治的な争いばかりに力を注いでいたのは、オランダのドイツ軍は殆ど戦力らしい戦力を持たないと思い込んでいたからであった。モントゴメリーは自分の方針通りに作戦を開始できれば、たちまちライン川の渡河に成功してドイツ本土のルール地方に攻め込むことができ、そうすればアイゼンハワーもモントゴメリーを止めることができなくなって、ベルリンまでの進撃を許可せざるを得ず、自分の手で戦争を終結させられると壮大な構想を描いていた。オランダ国内のドイツ軍を過小評価していたのはアイゼンハワーも同様で、連合軍スパイからの情報や偵察を検討した結果、「ドイツ軍は長期間、大急ぎで退却をしたあと混乱が続いており、オランダにはドイツ軍の小部隊はたくさんいるが、大規模な組織だった抵抗をする能力はない」と評価していた[45]。
しかし、連合軍の指揮官全員がアイゼンハワーやモントゴメリーの様に楽観的であったわけではなく、イギリス第2軍司令官デンプシーは、主にオランダ国内で活動するレジスタンス組織からの情報で、アイントホーフェンとアーネムでドイツ軍が戦力増強を図っていること、また、大損害を被った戦車師団が、「マーケット・ガーデン作戦」の作戦地区内で、戦力補充と休養を行っているなどの情報を掴んでいた。デンプシーは作戦の大きな懸念材料となるこれらのニュースを、アイゼンハワーとモントゴメリーどちらにも報告したが、軍内に漂う楽観的ムードの中で、このデンプシーの正確性が高い報告を誰も気にすることはなかった[46]。
難問山積での作戦開始
短い作戦計画期間中に詰めなければならない問題点がいくつもあった。もっとも困難な問題の一つが、イギリス第1空挺師団とポーランド第1独立パラシュート旅団が降下する予定のアーヘンへの降下地点であった。ライン川南岸の土地は、海を干拓して造成した土地であり、無数の水路と堤防が蜘蛛の巣のように張り巡らされており、道路は貧弱なうえ、身を隠すような遮蔽物も少なく、ドイツ軍に狙い撃たれる危険性が高かった。また、埋め立て地であるため地盤は軟弱でグライダーの着地に耐えられないと考えられ、降下可能地点はかなり限定されることとなった[47]。イギリス第1空挺師団を率いるのは新任のロイ・アーカート少将であった。アーカートは第二次世界大戦開戦以来、あらゆる戦場で戦ってきた実戦型の猛将であったが、空挺部隊の従軍経験はこれまでなかった。それにも関わらず、短期間のうちに重大な決断を次々と迫られることとなった[48]。
アーカートが迫られた最も重要な決断の一つが師団の降下点であった。上述の通り、アーヘン周辺の地形的特性から降下点は限られていた。アーカートはイギリス空軍にアメリカの師団と同じように目標の橋の近隣への降下を望んだが、目標の橋の北側にはすぐに人口密集地となっており、とても無事に降下できそうにもなかった。また、南側には一見は降下に適するような平地が広がっていたが、この平地はオランダの典型的な海岸埋め立て地で、湿地帯となっており、グライダーの着陸は困難であった。さらに、オランダを爆撃した爆撃機パイロットから、アーネムの北方11kmにあるデーレン飛行場のドイツ軍高射砲が30%増強されているという報告が入った。その報告を聞いたイギリス空軍輸送機隊は、アーネムまで接近して空挺部隊を降下させると、帰路でデーレン飛行場からの猛烈な高射砲弾幕の中に飛び込んでしまうこととなるため、アーネムに最接近することに反対した[49]。アーカートはやむなくアーネムの橋から最大で9マイルも西の地点(オースターベーク)への降下を認めざるを得なかったが、のちに「本物の空挺指揮官なら決してそんなことには同意しなかっただろう」と批判されることになった[50]。
難問はこれだけで終わらなかった。イギリス軍はイギリス第1空挺師団とポーランド第1独立パラシュート旅団を運ぶために680機ものグライダーを準備したが、牽引する輸送機の数が全く足りていなかった[51]。そのため、3日に分けて降下せざるを得なくなり、アーカートは後にこの時の自分に課せられた任務の困難さを「私の抱えている問題は、第一次空輸で十分な兵力を地上で握ることであった。主要橋梁を確保するばかりでなく、また後続の空輸部隊のために降下地区と着陸地点を監視、防衛するためにである」「第一日目に主要橋梁奪取のため、私の兵力をたったパラシュート1個旅団に減らされた」と振り返っている[52]。アーカートがこのような拙速な作戦計画でもブラウニングに反論することなく従ったのは、イギリス第1空挺師団はノルマンディー上陸作戦に参戦しなかったばかりか、その後16回も参加予定の作戦が見送りとなって焦りを感じており、なるべく早く実戦参加を望んでいたという事情もあった[53]。
連合軍の殆どが「マーケット・ガーデン作戦」に前のめりになるなかで警鐘を鳴らし続ける関係者も少なからず存在した。上述のデンプシーに加えて、作戦推進派の中心でもあったブラウニングの参謀のブライアン・アークハート少佐もデンプシーの報告を見て作戦に懐疑的になった関係者の一人となった。アークハートはデンプシーの報告書を見て「再装備のためオランダに敗走したドイツ軍の機甲部隊がいる」と確信し「本当にとても気が気ではなかった」という状態となり、自分の意見に耳を傾けてくれそうな関係者をつかまえては作戦に反対であることを説いた。アークハートはブラウニングらがドイツ軍を完全に舐めていることに危機感を抱き、以下の様に考えた[54]。
諸橋梁をいったん占領しさえすれば、第30軍団の戦車がこのひどく狭い回廊を疾走してきて、花嫁が教会に入るようにドイツへ突入する。といった、信じられないような考え方をあてにしていた。ドイツ軍が蹂躙され、降伏するなどと、そう簡単に私には信じられなかった。 — ブライアン・アークハート
しかし、ドイツ軍戦車の存在はレジスタンス組織の情報のみで決定的な証拠がなかった。それをいいことにブラウニングらは計画準備を押し進めていたが、ついに作戦開始直前になってアークハートは決定的な証拠を掴んだ。アーネム周辺を低空で偵察した、偵察機型のスーパーマリン スピットファイアの撮影した数百枚の写真の中の5枚にドイツ軍戦車が写っていた。アークハートは「これで万事休す」と考えてブラウニングに事務所に飛んで行ったが、ブラウニングは写真を丹念に見た後「私が君だったら、少しも心配なんかしないね」「こんなもの(戦車)は恐らく役に立たんだろう」などと想像もできなかった返事が返ってきた。驚いたアークハートは「役に立つ、立たないはともかく、戦車には変わりはないし、砲も持っているんですよ」と食い下がったが、ブラウニングが考え直すことはなかった。このときアークハートが知る由もなかったが、作戦に前のめりなブラウニングの幕僚の一部が「この若僧の情報将校が熱心なのにも程がある」と苦々しく思っており、讒言を繰り返していただけでなく、ブラウニングも上からの圧力で今更作戦を見直すことができるはずもなかった。この後、アークハートは「疲労困憊」と軍医から言われて、無理やり休暇をとらされてイギリスに帰国するよう命じられた[55]。
連合軍の編成
ドイツ軍
独第15軍の敗走は、9月前半にゲルト・フォン・ルントシュテット元帥が西方総軍司令官に着任することでようやく食い止められた。ヴァルター・モーデル元帥から代わったルントシュテットは、2ヶ月前にその職を解任されたばかりであった。ルントシュテットはヒトラーには疎まれていたが、彼の復職は前線の多くの将兵を歓喜させた。部隊はその週内に戦闘可能状態に補充された。具体的には、モントゴメリーの英第21軍集団の快進撃により分断されスヘルデ川南岸や大西洋岸に孤立していた独第15軍の敗走兵のほとんどを、連合国に奪還されず放置されていたスヘルデ川河口北岸堤防から続々と船上げし、カナダ第1軍とスヘルデ川の間のポケットから脱出させた。これによって、たまたま連合国の進撃予定ルート北西部へ兵員85,000人(車両6,000両、火砲600門以上)を加えることに成功した。コブレンツに赴任したルントシュテットは、直ちに国防軍情報部が報告した連合軍の60個師団に対する防衛計画を作成し始めた(このうち11は虚偽であり、実際には49個師団しか存在しなかった)。
ルントシュテットの着任により、兼任を解かれB軍集団司令官の専任となったモーデル元帥は、司令部をアーネムのすぐ西に位置するオースターベークに移した。B軍集団はベルギー・オランダ方面を侵攻・防衛するための歩兵が主力の部隊であったが、A軍集団(フランス侵攻部隊)の事実上の壊滅により撤退中のSS装甲師団も臨時に統括することになる。またフランス北部から撤退した第15軍(グスタフ=アドルフ・フォン・ツァンゲン大将)の残存兵力も合流させた。
クルト・シュトゥデント上級大将は、新設の第1降下猟兵軍を得たものの、海岸線の防衛を任されていた第719歩兵師団(オランダ占領部隊。シェルト川北岸などに駐屯)と第176歩兵師団(病傷兵が大半)など寄せ集めの兵をもってベルギー・オランダ国境のアルベルト運河沿いに防衛線を構築することとなった。彼はドイツ空軍降下猟兵の創設者であり、オランダ侵攻作戦やクレタ島の戦いを前線指揮するなど、降下作戦に関して一級の豊富な知見をもっており、またシュトゥデントが得た3,000名の降下猟兵は、おそらく当時のドイツ軍ではほぼ唯一の戦闘即応部隊であった。敗残兵のみと予想していた連合軍将兵は、後にこの精鋭部隊の出現に驚かされる事になる。フランス北部で戦い壊滅した、独第85師団を指揮していたクルト・チル中将は、オランダの橋の交差地点で敗残兵を集め混成部隊を形成した。シュトゥデントはチルの編成した混成部隊を指揮下におきオランダ・ベルギー国境付近に一斉配備し、防衛線としての体裁を取り敢えずは整えた。
ヴィルヘルム・ビットリヒ親衛隊中将の第2SS装甲軍団(第9SS装甲師団、第10SS装甲師団)はアーネム近郊で休養・再編成を行っていた。この部隊は、ノルマンディの戦いとそれに伴う艦砲射撃、空爆により大きな損害を受けており、兵員はノルマンディ投入前の20%(各師団の定数18,000名に対し、両師団あわせて7,000名)また装甲車両の大半は何らかの被害か故障を抱えていた。ファレーズ包囲戦からの脱出に成功したあと、9月の上旬までには一部の軽微な被害車両の修理が開始された。また残りの車両の過半は、ドイツ本国での修理のために貨車積載を開始していた。SS師団の装甲車両はオランダ各地の防衛のために、戦闘団へ引き抜かれ再編された。そのため師団はさらに弱体化していた。第2SS装甲軍団は、西部ヨーロッパにおける空挺部隊からの侵攻を撃破するために1943年に編成された部隊であり、過去に第9SS機甲師団は空挺部隊の着陸を阻止する実弾演習を行っていた。
アルベルト運河沿いに配置された兵士の多くから、対岸の連合国車両が夜間まで頻繁に行き来している状況が報告されており、近く大規模な侵攻作戦が展開されることが予想されたが、それが具体的にどのような作戦であるかは不明であった。
戦闘
一日目、1944年9月17日(日)
イギリス軍空挺部隊
午前9:00に天気予報通りに霧が晴れると、空挺部隊を運ぶ輸送機の安全を確保するため連合軍の戦爆連合1,419機が出撃しドイツ軍の高射砲陣地を叩いた。またイギリス軍の爆撃機84機がナイメーヘンとアーネムのドイツ軍兵舎を爆撃した。そして午前10:25に1,131機の戦闘機に護衛された輸送機1,545機、グライダー478機がオランダに向けて飛び立った[56]。この空を覆いつくさんばかりの大編隊であったが、前述の通り、イギリス第1空挺師団とポーランド第1独立パラシュート旅団を輸送する輸送機の数は足りておらず、攻撃初日の17日にアーネムに降下できるのは12,000人の将兵のうちでわずか5,300人であった。この5,300人は主にイギリス第1落下傘旅団とイギリス第1空挺旅団及び師団長のアーカート以下の師団司令部の将兵で構成されており、ドイツ軍が作戦目標であるアーネムの道路橋を爆破する前にその確保を求められていた[57]。
事前の戦爆連合による露払いもあって、輸送機隊は順調にアーネムに向かって飛行していた。この日にアーネムに向かったグライダーのうち24機が不時着し、9機が高射砲で撃墜されたが、想定を下回る損害であった[58]。師団兵士は次々とグライダーやパラシュートで降下したが、ドイツ軍の抵抗は殆どなかった。降下に成功したアーカートはあまりの静けさにかえって不気味さを感じながらも、師団兵士5,191人が無事に降下できたと報告を受けて「こんな嬉しいことはなかった。全てが順調にいくように思われた」と胸をなでおろしている[59]。作戦計画ではイギリス第1落下傘旅団がアーネムの橋の確保を担当し、イギリス第1グライダー旅団は翌日の残余部隊のための降下予定地を確保することとなっており[60]、まずはアーネムに偵察のため、フレデリック・ガフ中佐率いる第1空挺師団偵察隊が、グライダーで降下させたジープで出動しようとしたが、不時着と撃墜されたグライダーのなかに多数のジープが搭載されており、22台のシープを失っていた。偵察には残余のジープで足りたが、作戦早々に他の部隊は機動力を失ってしまうことになった[61]。
ガフの偵察隊から攻略目標のアーネムの鉄道橋まで12kmでありジープであれば30分以内に到達できると思われていたが、1㎞も進まないうちにドイツ軍の第16装甲擲弾訓練予備大隊(セップ・クラフト親衛隊少佐麾下)と交戦となり、激しい銃撃戦の末に7人の兵士が戦死し、4人が捕虜となってしまった。指揮官のガフのジープは遅れていたので無事であったが、偵察隊は大損害を被ってアーネムへの1番乗りはできずに撤退を余儀なくされた[62]。次にイギリス第1落下傘旅団の3個大隊が、それぞれの方向からアーネムの道路橋確保を目指して前進を開始した。このうち北から進撃した第1大隊と、中間を進撃した第3大隊ともに第9SS装甲師団「ホーエンシュタウフェン」の防衛線に掴まって進撃を止められた。特に第3大隊を足止めしたのはゼップ・クラフトであり、ガフの師団偵察隊に加えて、第3大隊も巧みな防衛戦によって深刻な損害を被らせている[63]。
ジープの他にもイギリス軍に大きな問題が判明した。各部隊が保有していた無線機の通信距離がなぜか異常に短くなっており、さらに受信する信号も弱弱しく、音声がかすかに聞き取れる程度であった。そのため、師団司令部は各部隊が前進して行くにつれて次第に連絡が取りづらくなっていた。イギリス第1空挺師団司令部の通信兵は必死に通信機を点検したが、どこに欠陥があるのか全くわからなかった。仕方なく、前進する部隊と司令部の間を中継するため、通信機を載せたジープを派遣したが、中継車からの信号も弱くやがて前進する各部隊との連絡は途絶えてしまった。師団司令部には航空支援を要請するため、専用の高周波無線機を持参していたた特別通信連絡班のアメリカ兵が同行していたが、このアメリカの通信兵も、空軍に支援を要請する専用の周波数に調整することができず、作戦開始早々にイギリス第1空挺師団は通信的に孤立してしまった[64]。
イギリス第1空挺旅団のうち、残りのジョン・フロスト中佐に指揮された第2大隊は幸いにも無防備な進撃路を発見した。フロストはその後も前進を続け、午後20:00に目標のアーネムの鉄道橋の南端に到達した。フロストはドイツ軍に気が付かれないよう、夕暮れに紛れて橋の周辺の民家に陣取った。フロストは橋を確保するために、大隊に橋梁上に構築されていたトーチカを攻撃させたが、攻撃は失敗に終わって撃退された。フロストは夜陰に紛れて再攻撃をかけることとし、午後22:00に火炎放射器も投入して攻撃を開始したが、工兵がトーチカを狙って火炎放射したところ、近くにあった燃料と弾薬が炎上して誘爆し、トーチカを無力化するとともに、ドイツ軍が橋爆破用に設置していた爆薬の配線が熱で断線し爆破ができなくなった[65]。しかし、第2大隊はこの夜襲でも橋の北側に達することはできずに撃退された[66]。
フロストの指揮下の各中隊との連絡がついていない状況であったが、手持ちの戦力で目標のアーネム橋の南端の民家に戦闘指揮所を構えて、橋の北端を監視しながら友軍との通信を試みていた。しかし無線機は調子が悪く、全く通信することができなかった。フロストは孤立はしていたが、降下7時間で目標の鉄橋の南端を抑えることができたため、初日の戦果としては十分であったと判断しており、今は500人の兵士しか掌握していないが、やがてイギリス第1空挺師団の他の部隊が到着すれば橋の確保は容易だろうし、橋を確保さえすれば48時間耐えてイギリス第30軍団を待てばいいだけなので、作戦の先行きは明るいと楽観的に考えていた[67]。
アーカートは少数の幕僚や通信兵を連れ、イギリス第1空挺師団司令部から先行してフロストの第3大隊を追って前進していた。前進当初はこれまでと同様に平穏でありアーカートは「緊迫した空気が感じられない、みんなゆっくり進撃しているようだ」と感じていた。やがてアーカートは第2大隊の大隊本部に追いついたが、フロストは先遣部隊に同行しており本部にはいなかった。結局この後も、作戦が終わるまでアーカートとフロストが会うことはできなかった。その後、第3大隊の進撃停滞を知って、イギリス第1落下傘旅団長のジェラルド・ラスベリーと協議するため、アーカートは来た道を引き返した。ラスベリーに戦況の報告を受けたアーカートは順調に進撃しているのはフロストの第2大隊だけで、第3大隊は強力なドイツ軍と交戦中で第1大隊とは連絡が取れていないことを把握した。アーカートは一旦降下地点にある師団司令部に戻って全体の戦況を把握しようと考えたが、そのとき、アーカートの周辺にもドイツ軍の砲弾が落下し始め、通信機を載せたジープにドイツ軍の迫撃砲弾が命中し通信兵が負傷した。ラスベリーからの助言もあって、アーカートは司令部まで後退することは諦めたが、このため、この後しばらく師団司令部は師団長不在となって作戦に少なからず影響を及ぼした。アーカートは前進も後退もできなくなったことを認識すると、以下のような想いを抱いて作戦の先行きに不安を感じた[68]。
戦況の掌握を失いつつあると私が感じたのはこの時だった。 — ロイ・アーカート
しかし、降下地域にはイギリス第1グライダー旅団が健在であり、この時点でアーネムの救援に回せば、戦況は幾分か好転する可能性もあったが、アーカートにはその決断がつかず、ラズベリーらと近くの民家に入るとそのまま休息をとった[69]。
アメリカ軍空挺部隊
連合軍空挺部隊のなかで最初に降下したのは、ジェームズ・ギャビンの率いる第82空挺師団であった。白昼の空挺降下作戦であり、輸送機隊がナイメーヘンに近づくとドイツ軍の高射砲が一斉に砲門を開き、あまりの砲撃の激しさにギャビンは想定していた損失率を上回るのではとの危惧を抱いた。降下当日のギャビンには2つの大きな任務が課さられていたが、その一つはドイツの高射砲陣地を早急に発見して破壊し、輸送機の安全を確保することと、もう一つが第82空挺師団に同行している連合軍第1空挺軍のブラウニングの司令部用地とその安全を確保することであった。第82空挺師団の殆どの兵士がノルマンディ上陸作戦に空挺作戦に参戦したベテラン兵であり、激しいドイツ軍の高射砲の弾幕下でも、地面を見下ろして高射砲の発射位置を特定しようとしていた[70]。
やがて、ナイメーヘンの近くに輸送機が到達すると、第82空挺師団の兵士は次々と降下を開始した。第82空挺師団はノルマンディ上陸での空挺作戦で、一部の部隊がサント=メール=エグリーズの街の中に降下してしまい、教会や樹木にパラシュートが引っ掛かった兵士が多数がドイツ軍に射殺され、遺体がぶらさがったままという悲劇に見舞われたこともあって、その敵討ちをしようと士気も高かった[71]。兵士は発見した高射砲陣地を破壊するため、巧みにパラシュートを操作して見つけた陣地の傍に着地すると、パラシュートをつけたままサブマシンガンを乱射しながら陣地に向かって突撃し、ドイツ軍高射砲兵を全員射殺すると、高射砲に高性能爆薬を設置して爆破してしまった。中には、航空支援していたP-51が、ドイツ軍の高射機関砲で撃墜されると、脱出に成功した戦闘機パイロットが第82空挺師団兵士に駆け寄ってきて「銃をくれ早く!あのクラウツ(ドイツ兵への蔑称)のいるところを知っているんだ、やっつけてやる」と言うや、兵士から銃を奪い取って高射砲陣地に突入するといった武勇伝もあった。ナイメーヘン市街の南東のフルースペーク地区に降下した第505および508連隊は、連隊の集結を待たずに、部隊ごとに纏まると、森のなかから激しく砲撃していた高射砲陣地を個別に攻撃して、すばやく制圧していった[72]。
第82空挺師団の最大の火力の一つが、分解されて降下してきた第376空挺野戦砲兵大隊のM116 75mm榴弾砲12門であった。これらの砲は降下してわずか1時間後にはドイツ軍に向けて砲撃を開始していた。目標である橋梁の確保にも着手しており、攻略目標であるグラーヴェのミューズ橋とナイメーヘンのワール橋以外にも、周辺の運河や支流に架橋されている鉄道橋や道路橋の確保も目指して前進を開始した。第82空挺師団主力の降下に遅れて連合軍第1空挺軍司令部も降下した。このときを待ちわびていた副司令官のブラウニングは、グライダーで着地すると近くの森に飛び込んで行った。数分後に帰ってきたブラウニングはさっぱりした顔で以下のように幕僚に語った[73]。
私はドイツ領に小便をひっかけた一番乗りのイギリス軍将校になりたかったんだ。 — フレデリック・ブラウニング
その後、イギリス本国から持ってきたイギリス空挺部隊のシンボルでもあったペガサスの隊標が刺繍されたフラッグを自分のジープに取り付けてナイメーヘンに向けて前進した[74]。
南部のアイントホーフェンに降下したマクスウェル・D・テイラー率いる第101空挺師団は、この日降下した空挺師団のなかでもっとも順調であった。降下した6,769人の兵士のうち、死傷者は2%未満、物資の損失も5%未満であった。しかし降下した後で連隊ごとに明暗が分かれた[75]。第501空挺歩兵連隊はアー川とウィレムス運河の道路橋と鉄道橋の確保が任務であったが、第1大隊長のハリー・キナード中佐は降下に成功すると、ドイツ軍のトラックや自転車を奪って部隊をアー川まで進撃させてたちまち確保してしまった。他の大隊も迅速な進撃でウィレムス運河の目標の橋を全て確保し、抵抗してきたわずかなドイツ軍部隊を撃破して50人の捕虜も獲得した[76]。
第502空挺歩兵連隊の第1大隊は素早く前進すると、ドメル川を確保し、20人のドイツ兵を殺害し58人を捕虜としたが、第3大隊はウィルヘルミナ運河運河橋を目指している途中で ドイツ第59歩兵師団の部隊と接触、そのまま激戦に突入しH中隊は死傷者が続出して戦闘可能なのは将校3人、兵士15人と壊滅的損害を被ってしまった。この後も激戦は続き、この日はこれ以上の前進はできなかった[77]。
師団長のテイラーは第506空挺歩兵連隊に同行し、主要目標の一つであったソンのソンセ橋を目指して前進していたが、途中の森の中から8.8 cm FlaK 18/36/37高射砲数門の砲撃を浴びた[78]。8.8 cm FlaK砲を撃破しないととても前進することはできなかったので、損害を顧みずに第506空挺歩兵連隊の兵士は森の中に向けて突撃を敢行した。8.8 cm FlaK砲は水平射撃でアメリカ軍兵士に砲撃を浴びせ続けたが、装備していたバズーカ砲で8.8 cm FlaK砲を破壊し、ドイツ軍高射砲兵は捕虜にしてどうにか森のなかの高射砲陣地を制圧した。しかし、第506空挺歩兵連隊が高射砲陣地で足止めされている間にドイツ軍はソンセ橋爆破の準備を整えており、連隊の先頭が橋まで数メートルまで達したときに目の前で爆破されてしまった。第506空挺歩兵連隊がソンセ橋を確保できなかったことが、この作戦に暗い影を落とすことになった[79]。
イギリス軍地上部隊
イギリス第30軍団は「マーケット作戦」開始の報告を受けたのち前進を開始する計画であり、司令官のホロックスはその連絡を待っていた[80]。その間、ホロックスは細心の注意で準備を進め、部下に「持てるだけ多くの食糧、ガソリン、弾薬を携行せよ」と命じている。時間はたっぷりとあったためホロックスには考えをめぐらす余裕もあったが、どうしても不安が拭えなかった。そのホロックスの不安というのが「戦争中に参加した、日曜日が開始日の作戦はこれまで成功したことがなかった」というものであったが、本日はその日曜日であった。やがて、午後13:30ごろに「マーケット作戦」開始の報告を受けると、ホロックスは午後14:15分きっかりに「ガーデン作戦」開始を命じ、350門ものQF 25ポンド砲に支援砲撃開始を命じ[81]、戦車部隊にはクロマツの林を北に向かって走る1本道での前進を命じた[82]。
戦車隊は時速約13kmでノロノロと進んだが、その先頭の戦車の先90mと場所に25ポンド砲弾が次々と着弾し、イギリス軍戦車隊は弾幕に先導されて進撃しているようであった。やがてベルギー国境を超えてオランダ国内に突入したときに、両脇の森林に巧みに隠されて砲兵弾幕から生き延びたドイツ軍の対戦車砲が砲門を開いた。ドイツ軍はわざと最初の数台が目の前を通過した後に砲撃を開始したので、車列の途中を砲撃されたイギリス軍は大混乱に陥り、たちまち3輌の戦車が撃破され、6輌が戦闘不能となって1本道を塞いでしまった[83]。進撃する戦車隊には上空に絶え間なく8機ずつの戦闘爆撃機が援護についていたが、地上から支援を要請し、ホーカー タイフーンが急降下して森林にロケット弾を撃ち込んだ。タイフーンが対戦車陣地を制圧しているうちに、地上部隊は擱座している戦車を押しのけて前進を開始した。歩兵部隊はタイフーンと協力して次々と森林内のドイツ軍陣地を撃破していき、戦車部隊の進撃路の安全を確保して多くの捕虜を獲得した。しかし、ひたすらの突進を命じられていた近衛戦車師団には、捕虜を後送する余裕などなく、ドイツ軍捕虜は戦車の上に乗せられるか、後ろから歩いてついてくるよう命じられた。ドイツ軍火砲は味方の兵士がいようが構わず砲撃してきたので、捕虜のドイツ兵は自分の身を守るため、たまらず友軍の対戦車砲陣地の位置をイギリス軍に告白し、タイフーンは効率よくそれを撃破することができた[84]。
ホロックスは、ドイツ軍の待ち伏せ攻撃にあったが、それを撃破して道路は逐次通行可能となっているとの報告を受けて胸をなでおろしたが、計画ではアイントホーフェンまでの21.4kmを2~3時間で踏破することになっていたが、ドイツ軍のしぶとさは、ホロックスらの想像をはるかに上回っており、実際には先頭のアイルランド近衛連隊は、計画の約半分の11.5kmしか前進できておらず、夕刻になってようやくファルケンスワードに到着できたに過ぎず、作戦は早くも不吉なほどの遅れが生じていた[85]。作戦には致命的とも言える遅れが生じているのに、ホロックスは本日挙げた多大な戦果に満足してしまい、夕方には軍団に停止を命じてしまった[86]。
ドイツ軍
ドイツ側にとっても事態はそれほど良くなかった。理由の大半は何が起こっているかはっきりしなかった点にある。偶然オースターベークに司令部があったモーデルは、戦略的に意味が何も無いはずである場所(オースターベーク)に突然降下してきたイギリス軍によって完全に混乱し、自らを誘拐しにきたゲリラ部隊であると結論を下した(空挺部隊による要人奪取についてはドイツ空軍によるムッソリーニ救出など前例があり、荒唐無稽な発想ではない)。一方の第2SS装甲軍団を指揮するヴィルヘルム・ビットリヒ親衛隊中将は事態を明確に把握していた。彼は橋の防御を強化するためにナイメーヘンへ第9SS装甲師団の偵察隊を直ちに送った。オースターベークの司令部からアーネム東部のドゥーティンヘムの司令部に避難してきたモーデルに対しビットリッヒはナイメーヘン、アーネムの橋の爆破を進言したが却下された(「きたるべき反攻の日のために」)。ビットリッヒは唖然としたが、いざと言う場合には自分の責任においてナイメーヘンの道路橋を爆破しようと部下に爆破の準備をさせた。アイントホーフェンの北西、フュフトで指揮を執っていたシュトゥデントの元には、墜落したグライダーから回収された重要な作戦書類、マーケットガーデン作戦の全計画(作戦目標、降下地点、時間表等)が届けられた。夜を徹して行われたテレタイプによる伝送により、マーケットガーデン作戦の全容は、オランダ駐留ドイツ軍の中枢に完全に把握されることとなった。
二日目、1944年9月18日(月)
イギリス軍空挺部隊
アーネムでは未明にかけて橋を巡っての激戦が繰り広げられた。イギリス軍は橋の北側まで達することはできなかったが、逆にドイツ軍は南側まで進んで、街路から街路、家から家、部屋から部屋といった激しい近接状態での白兵戦が展開された。ドイツ軍は明らかに圧倒的多数の兵員を投入し、フロストの第2大隊を圧し潰しにかかっていたが[87]、フロストらイギリス第1空挺師団の兵士たちは軍上層部から「アーネムには数人のドイツ軍老兵と数輌の戦車くらいしかない」と言われており、このような激しい反撃を受けることは全くの想定外であった[88]。夜を徹しての激戦は夜が明ける頃には小康状態となり、イギリス・ドイツ両軍ともに橋上に転がっている負傷者の回収を行った[89]。
午前9:30に橋の北側から戦車の走行音が聞こえてきた。第2大隊の兵士は第30軍団が到着したと狂喜したが、橋に近づいてきたのはイギリス軍ではなく、前日のナイメーヘンの偵察から帰ってきた第9SS装甲師団の偵察部隊であった。この偵察部隊を率いていたパウル・グレープナ親衛隊大尉は、橋の南側をイギリス軍に抑えられているという報告を受けると、手持ちの22輌もの装甲車両があれば、小火器しか装備していないはずの空挺部隊は一蹴できるとたかをくくって攻撃してきたものであった[90]。第2大隊の兵士は近づいてきたのがドイツ軍だと知ると失望したが、すぐに防御態勢を整えて、装甲車やハーフトラックで一気に橋の突破をはかろうとしたドイツ軍に、火炎放射器とPIATを含む猛射を浴びせた。予想もしていなかったイギリス軍からの猛射に、ドイツ軍の運転手はパニックに陥り、ハンドル操作を誤ったり、慌ててバックしようとする車両も現れ、手が付けられないほどに橋上でもつれあってしまった。進退もままならないドイツ軍車両は次々と炎上し、車両に追随していたドイツ軍歩兵も銃撃でなぎ倒されるか、橋の北側に向かって逃走を始めた。2時間も経たないうちに、指揮官のグレープナは戦死し、車両12輌が撃破され、生存した兵士と車両は来た道に向かって退却して行った。この大戦果に対して第3大隊の損害は少なく、赤い悪魔(Red Devils)と呼ばれて恐れられたイギリス軍空挺部隊の面目躍如となった[91]。
昨日は優勢なドイツ軍に進撃を止められたイギリス第1落下傘旅団第3大隊は、夜が明けると同時に西方からアーネム市街に向け前進を開始した。しかし、昨日のドイツ軍に続き、今度はオランダ国民が第3大隊の行軍を阻むことになる。オランダ国民は待ち望んだ解放軍が到着したことに歓喜し、オランダのナショナルカラーであるオレンジ色[92]の布を巻き付けて第3大隊を歓待した。たちまち大量のオランダ国民老若男女に囲まれた第3大隊兵士は、コーヒーやワインや果物などの贈り物を受け取ったり、窓から手を振る若い娘に応えたり、子供と一緒に行進したりするなど行軍速度を緩めてしまい、わずか5km進むのに13時間もかかってしまった[93]。第3大隊の幸せなひと時は、目標の橋の3km手前に来たところで終わりを告げた。前方からドイツ軍の戦車と突撃砲が姿を現すと、第3大隊に激しい砲撃を浴びせてきた。第3大隊にはまともな対戦車兵器はなく、投擲用プラスチック爆弾で対抗したが全く歯が立たず、第3大隊は進撃どころか、建物から建物を逃げ回る生きるための戦いに追い込まれてしまった[94]。
第3大隊後方の3階建ての民家で指揮を執っていたアーカートとラズベリーもいつの間にかドイツ軍に包囲されてしまった。アーカートらは民家の家具をバリケード替わりにして、将官や佐官自ら小銃でドイツ軍に応戦していたが、このままでは殲滅されるのは確実であったので、アーカートは撤退を命じた[95]。アーカートらは第3大隊兵士が煙幕を焚いている間、民家から飛び出して空挺師団司令部に向かって走った。周囲の建物は破壊され、多くのイギリス軍兵士の死傷者が転がっている惨状を見てアーカートは戦況が予想以上に悪化していることを認識させられた[96]。建物や樹木などに隠れながら、アーカートとラズベリーと2人の大尉は進んで行ったが、途中でドイツ軍のMG42の銃弾がラズベリーの足を背骨を砕き、アーカートはやむなく動けないほどの重傷を負ったラズベリーを近くのオランダ人老夫婦に預けると、残る2人と先を急いだ[97]。しかし、ドイツ兵は増える一方で、進退窮まったアーカートらは近くの民家に飛び込み、そこの主人の協力を得て屋根裏部屋に隠れた。アーカートは作戦開始から30時間も司令部を留守にする羽目になり、イギリス第1空挺師団は一番厳しい時期を師団長不在で戦うこととなった[98]。
イギリス第1落下傘旅団がドイツ軍の重囲に苦しんでいる中、午後15:00から順次、輸送機不足で第2陣となったイギリス第4落下傘旅団が降下を始めた。イギリス第1空挺旅団が守っていた着陸点にもドイツ軍が散発的に攻撃してきたが、師団砲兵隊の75㎜榴弾砲で撃退していた。第2陣には輸送機のほかに、約300機のグライダーが曳航されていたが、ドイツ軍の高射砲は1日目よりも激しくなっており15機のグライダーがオランダ上空で撃墜されるか不時着させられた[99]。降下までは激しい攻撃に晒されたイギリス第4落下傘旅団であったが、1日目に引き続き降下時にドイツ軍の妨害はなく殆ど損害はなかったが、投下された食料、弾薬390トンがドイツ軍支配地域に落ちてしまい、接収されていた[100]。
降下したイギリス第4落下傘旅団を、アーカートが行方不明となっていたため師団長代行をしていたピップ・ヒックス准将が出迎えた。ヒックスは指揮下のイギリス第1空挺旅団の一部をアーネムの救援に送っていたが、第4落下傘旅団長のジョン・ハケット准将にも、アーネムで孤立するイギリス第1落下傘旅団を救援するため、第4落下傘旅団の1個大隊をアーネムに至急向かわせるよう依頼した。しかし、第4落下傘旅団の任務は、第30軍団進撃の援護のためのアーネム北の高地の占領であったうえ、ハケットとヒックスは同じ階級ながら、ハケットが先任であり、軍の組織上では下の階級に等しいようなヒックスに命令されるのを快く思っていなかった。そこでハケットは「我が旅団は3個大隊を1体として構成されており、それを分散させるのは任務達成に大きな支障をきたす」と反論して、ヒックスの指示を拒否した。ヒックスはアーカートが行方不明で自分が師団長代行であり、自分の指示を聞くように詰め寄ったが、アーネムの状況を把握していない軍司令部からそのような正式な命令は発されておらず、ハケットはヒックスの師団長代行を認めなかった。その後もハケットとヒックスは膝を突き合わせて延々と議論を続けたが、結局この日にイギリス第4落下傘旅団は殆ど行動を起こすことはなく、戦況の悪化に拍車をかけてしまった[101]。
アメリカ軍空挺部隊
ナイメーヘンの第82空挺師団も問題を抱えていた。グレーヴはよく守られたが、ドイツ軍はナイメーヘンの東の丘に展開した米第82空挺師団の降下地点を攻撃し続けた。午前には午後一時に到着予定であった降下第二陣の着陸目標地点のうちの1つを確保した。全エリアからの降下地帯への反撃で午後三時には同地帯の支配はドイツ軍の手に戻ったが、幸いにもイギリスでの遅れにもかかわらず降下第二陣は午後2時に到着したため補給と増援は成功した。
ゾン橋の確保に失敗した米第101空挺師団は、ベストから数キロ遠方の同様の橋の確保を試みた。しかしながら強固な抵抗に遭い結局あきらめた。この日の空挺補給は順調におこなわれたが、ヴィルヘルミナ運河に架かる全ての橋はすでにドイツ軍により爆破され、橋を確保する当初の計画は完全に失敗した。他の部隊は地上部隊と合流のため南へ移動し続け、結局アイントホーフェンの北端に達した。正午ごろ彼らは英第30軍団からの偵察部隊に遭遇した。彼らは午後四時に南の本隊と無線交信を行いゾン橋の状況について報告を行い、部隊を南下させるために仮設した橋が戦車の重量には耐えられない事、ベイリー式仮設橋でのかけ直しの必要性、前線への輸送依頼などを報告した。
イギリス軍地上部隊
英第30軍団はすぐにアイントホーフェンに着き、イギリス軍工兵部隊がゾン橋付近にベイリー式の仮設橋を組み立てるのを待ちながらその夜までにゾン橋の南で野営した。アイントホーフェンでは連合軍による解放を喜ぶ市民が路上にあふれ、英第30軍団の行く手を阻んだ。二日目の終了までに作戦は36時間遅延し、主要な両方の橋は依然としてドイツ軍の支配下にあった。
三日目、1944年9月19日(火)
イギリス軍空挺部隊
9月19日の朝、これまで凶報続きであったイギリス第1空挺師団にとってようやく事態好転の希望を抱かせる事案が起こった。まずは上述の通り作戦計画から大きく遅延してはいるが、第30軍団がアーネムに向けて進撃を再開したこと。あとはアーカートがようやく師団司令部に復帰したことであった。隠れていた民家を取り囲んでいたドイツ軍の戦車が去っていき、代わりにイギリス兵が近づいてきたのがわかったので、アーカートは意を決して2人の大尉と民家を飛び出して友軍と合流し、その後にジープを挑発してオーステルベークのハルテンシュタインホテルに設置されたイギリス第1空挺師団司令部まで向かい、午前7:25になってようやく、作戦のもっとも重要だった39時間もの間留守にしていた師団司令部にたどり着いた[102]。師団参謀たちはアーカートの復帰を喜び、なかでも、ハケットとヒックスの指揮権争いを冷ややかな目で見ていたC・マッケンジー中佐は以下のような想い抱いた[103]。
軍隊には集団指導制はあり得ないことを、あらためて痛感した。もし、師団長が帰らなかったら、2人の准将が決闘するか、新師団長の到着までは決着はつかなかったに違いない。 — C・マッケンジー
アーカートは師団参謀から報告を受けて厳しい戦況の全体像を把握した。特にがっかりさせられたのが、第30軍団が未だにナイメーヘンにすら到達していないことであった。さらに作戦開始前になぜドイツの機甲師団がいないなどと楽観的に考えていたのかを後悔したがもはや後の祭りであった[104]。
本日にはポーランド第1独立パラシュート旅団が降下する計画であったが、降下予定の午前10:00になっても霧によって輸送機の離陸は困難であり、出撃は5時間延期された。旅団長のスタニスラウ・ソサボフスキー少将は、ドイツ軍のポーランド侵攻で戦ったのち、フランスからイギリスへと転進しながら自由ポーランド軍部隊を率いてきた。気難しく頑固で情熱的であったソサボフスキーはこの作戦に疑問を抱き、作戦開始前はブラウニングを批判もしていたが[105]、作戦開始が決まると少しでも早く戦場に駆け付けたいと願い、霧が晴れ次第命令を変更してすぐに出撃できる準備を整えていたが、結局この日は終日天気が回復することはなかった。ソサボフスキーはアーカートが苦戦していると確信しており、早く救援に駆け付けたいという思いと、時間が経てば経つほどドイツ軍の抵抗が激しくなると判断しており、イギリス空軍に多少の悪天候でも出撃するよう詰め寄ったが、結局明朝まで出撃は延期されることとなった[106]。
ポーランド第1独立パラシュート旅団が到着しないなかで、アーカートは手持ちの兵力でイギリス第1落下傘旅団を救援しようとしたが、ドイツ軍の重囲下でそれもままならず、救援は困難を極めていた。とくにアーネムで孤立するフロストの第2中隊に対しては、第10SS装甲師団長ハインツ・ハルメル少将自らが殲滅に乗り出した。しかしハルメルはこれまでのフロストの勇戦を敬って、まずは捕虜のイギリス兵をフロストの元に差し向けてフロストに降伏を迫ることとした。捕虜の軍曹は、ドイツ軍がフロストに、死ぬか降伏以外に選択肢はないと迫っていることを告げたが、フロストはその軍曹に「敵軍は自軍の犠牲者にがっくり来ているようだ」と話すと「馬鹿野郎と言え」と告げた。その答えを聞いた軍曹は勇気が湧いて、再び戦線に加わって戦うことを決意しフロストも了承している。捕虜が帰ってこなかったことを知ったハルメルは、今度はドイツ兵に白旗を持たせて第2大隊の陣地に近づかせて「降伏せよ」と叫ばせたが、それを見ていた第2大隊のエリク・マケイ大尉は「我々のところはたった2部屋しかないのだ。このうえ、捕虜を受け入れたら狭苦しくなる」「とっとと消え失せろ。捕虜なんかいらないよ」と罵倒してドイツ兵を追い返した。降伏を拒絶したフロストに対し、ハルメルは殲滅を決断した[107]。
私は戦車と砲を持ってきて、イギリス軍が占拠している建物という建物を片っ端から完全に破壊してやろうと決心した。 — ハインツ・ハルメル
ハルメルは砲兵に砲撃開始を命じた。ドイツ軍砲兵は第2大隊が立て籠もる建物に次々と正確な砲撃を浴びせた。橋の南岸で第2大隊が確保していた建物は18棟あったが、そのうちこの砲撃下で確保できた建物は10棟まで減っていた。さらに戦車が前進して近距離から砲撃を浴びせたが、熟練の親衛隊兵士が「これまで見た中で最良の、もっとも効果的な砲撃であった」「イギリス兵が本当で気の毒で仕方なかった」と同情するほど徹底的なものであった。戦車の中にはティーガーIも含まれており、その強力な88㎜砲で建物を1棟、1棟完全に破壊していった。破壊された建物からはイギリス兵は蜘蛛の子を散らすように逃げまどい、ティーガーIはその建物をブルドーザーの様に踏み固めてしまった[108]。ハルメルの攻撃は終日続いて、建物の地下室は第2大隊の負傷者で溢れていた。やがて夜のとばりが下りてきたが、あちこちから炎が上がっており、フロストからはアーネム全市が燃えているように見えた。強力な戦車部隊を前にフロストのできることは、暗号ではなく平文で第30軍団に救援を求め続けながら、残った建物に立て籠ることだけであった[109]。
フロストを救援すべきイギリス第1落下傘旅団もドイツ軍の重囲下でもはや前進も後退もできなくなっていた。第1大隊長のデビッド・ドビー中佐は手榴弾で負傷したところで捕虜となり[110]、第3大隊長のジョン・フィッチ中佐は迫撃砲の直撃を受けて戦死していた[111]。ヒックスの命令でフロストの救援に向かっていたイギリス第1空挺旅団もドイツ軍の重囲を突破できず、アーネムに進むどころか、逆に司令部のあるオーステルベークに押し戻されていた[112]。アーカートはもはやフロストを救うどころか、自分たちもドイツ軍に殲滅されかねない現実を思い知らされると、断腸の思いでフロストら第2大隊を見殺しにする非情の決断をして、アーネムに向かっていたハケットのイギリス第4落下傘旅団に撤退を命じて、オーステルベークを固めることとした[113]。
アメリカ軍空挺部隊
米第82空挺師団の行動は幾らかうまくいっていた。同師団は前進してきた第30軍団を発見しその朝に合流することが出来た。戦車の支援の下彼らはドイツ軍を速やかに撃退し、協力してナイメーヘン橋を確保することを決定した。英第30軍団近衛機甲師団と第82空挺師団505連隊は南から攻撃し、同504連隊はボートで渡河し北を確保することとなった。午後遅くにボートが要求されたが、南での交通渋滞によりそれらは翌日まで到着しなかった。第30軍団の戦闘車両はナイメーヘン橋の正面に展開した。
米第101空挺師団はベストを確保するため前日に南側に送られ、新たな攻撃に直面し土地を明け渡した。しかしながらイギリス軍の戦車が到着しドイツ軍は午後遅くに撃退された。その後パンターがゾンに到着し、ベイリー橋に砲撃を始めた。しかし二両のパンターは新たに投下された対戦車砲によって撃破され、橋は守られた。
四日目、1944年9月20日(水)
イギリス軍空挺部隊
アーネムでは19日の終日に渡るハルメルの大攻勢を凌いだフロストの第2大隊が夜明けを迎えたが、既に不眠不休で72時間、食事抜きで24時間、飲料水なしで12時間戦い続けており、健常な兵士はわずか150人にまで減っていた[114]。 この日になってようやく第2大隊はイギリス第1空挺師団司令部と連絡が取れるようになったが、作戦開始以降で初めてのアーカートとフロストの会話は、師団が第2大隊を見捨てるという残酷な告知であった。アーカートはフロストと合流していた師団偵察隊のガフから簡単な報告を受けた後でフロストと話した。アーカートは師団が第2大隊を救援する手段はなく「南からの救援(第30軍団)を頼みするしかない」と告げ、フロストと部下将兵への個人的な賛辞を贈ったが、フロストは「師団長の声を聴いて非常にうれしかった」ものの、勇気づけられるような話は一切なく、アーカートも難問を抱えているのだと察して、フロストへの返事は「ご武運をお祈りします」だけであった[115]。
アーカートは降下が延期となったポーランド第1独立パラシュート旅団に期待を寄せてその到来を心待ちにしていたが、降下予定地点にはドイツ軍が迫っており、出撃準備していた指揮官のソサボフスキーに出撃わずか3時間前に降下予定位置の変更が告げられた。これまで入念に検討してきた降下後の作戦計画が全くの白紙になるばかりか、わずか3時間では新たな計画を練る時間すらなくソサボフスキーは不安と不満を覚えたが、それでもようやく出撃できるので、部下のポーランド兵たちの士気は向上していた。ソサボフスキーらは114機の輸送機に分乗して輸送機の離陸を待ったが、やがて輸送機は滑走路を離陸位置に移動し始めた。しかし、ソサボフスキーが搭乗していた先頭機は、滑走位置まで達するとプロペラが停止してしまった。ソサボフスキーが心配していると、イギリス空軍将校がやってきて、霧を理由に明日午後13:00までの作戦延期を告げた[116]。
アーネムで苦闘を続けるフロストは防衛線縮小を命じ、ドイツ軍の目を盗んで第2大隊の兵士はこれまで死守してきた建物を脱出した。最前線で指揮してきたフロストもついに両足を負傷し、次席のガフに大隊の指揮を任せた。地下室は負傷兵で溢れかえっており、このままであったら、崩壊する建物で生き埋めとなる危険性が高かった。そこで軍医はフロストにドイツ側に休戦を申し込んで、負傷兵だけでも降伏するように進言し、フロストも了承した。イギリス側の休戦の申し出に対しドイツ軍は即座に承知し、地下室に閉じ込められていたイギリス兵とドイツ兵の負傷兵を収容していったが、その際に狡猾にも3個中隊を第2大隊が支配していた地域に送り込んで、第2大隊を小部隊ごとに孤立させてしまったが、フロストにはどうすることもできなかった[117]。ドイツ軍はもう戦闘は終了したことを認識していたが、残されたイギリス軍の指揮官代行のガフは、明日になれば第30軍団が救援に来てくれると信じて、それまでなんとか持ちこたえようと部下将兵を励ました[118]。
アメリカ軍空挺部隊
ナイメーヘンでは前日の夜に要請したボートが到着した。午後一時、イギリス本土の航空支援の予定時刻にあわせて、"オールアメリカン"第82空挺師団・504連隊の26艘の手漕ぎボートは機関銃掃射と迫撃砲のなか渡河を強行した。この渡河は戦史における最も勇敢な行動の一つとして見なされた。彼らは河岸を確保し、ついで鉄道橋を確保し(ここは戦車での渡橋は不能)、北岸の機銃台座や要塞を攻撃しはじめた。北岸の防衛が崩れだすと、ナイメーヘン道路橋南岸を確保していたドイツ兵も敗走を始めた。南岸の英第30軍団(コールドストリームガーズ連隊)の車両は道路橋を蹂躙攻撃し、北岸の504連隊と合流した。ビットリッヒの部下たちが設置した爆破装置はなぜか起爆せず、ナイメーヘン橋は四日目にして連合軍の手に落ちた。
アイントホーフェンでは第101空挺師団と様々なドイツ部隊との戦闘は継続しており、結局弾薬不足の車両を残して数両のパンターの再突撃が道路を分断した。
イギリス軍地上部隊
アーネムの友軍への道は確保されたが、英第30軍団の車両は進軍を停止した。ナイメーヘンからアーネムへの街道はオランダに特有の低湿地帯に築かれた台状の道で、歩兵支援のない車両の単独走行は対戦車砲の格好の標的になる危険があった。第82空挺師団の将兵は激昂して即座の進軍を主張したが、英第30軍団は安全を優先した。すなわち後方からの陸軍歩兵部隊の到着を待ち、歩兵支援を受けたうえでの進軍を選択した。その間にドイツ軍は街の東側の丘からの別の攻撃を組織した。アーネム橋を死守するフロストの部隊が救援される最後の希望は失われた。
五日目、1944年9月21日(木)
イギリス軍空挺部隊
9月21日の夜が明けると同時にドイツ軍は第2大隊の残敵掃討を開始した[119]。司令官代行のガフとわずかに残った健常な兵士たちは隠れ家から姿を現して、橋の方向を見て救援隊を探したが到着することはなかった。生き残った兵士はドイツ兵に急き立てられて降参するか、最後まで戦って殺されていった。ガフはハルテンシュタインホテルのイギリス第1空挺師団司令部に合流するため脱出をはかったが、周囲はドイツ兵で溢れており、隠れているところを引っ張り出されて捕まってしまった。ガフはそのまま臨時の捕虜収容所に連行されていったが、ドイツ軍少佐が「貴官が指揮官ですか?」と話しかけてきたので「そうですが」と答えた。するとその少佐は「貴官らはまことに立派な軍人です。小官はスターリングラードで戦いましたが、あなた方イギリス軍は市街戦に豊富な経験をお持ちのことは明瞭です」と称賛してきたので、ガフは以下の様に答えている[120]。
とんでもない。これが我々の初めての奮戦でした。だからこの次はもっとうまくやりますよ。 — フレデリック・ガフ
ハルテンシュタインホテルのイギリス第1空挺師団司令部では、アーカートがハケットとヒックスと参謀を集めて作戦会議を開いていた。イギリス第1落下傘旅団は壊滅していたが、その詳細な状況をアーカートらは把握していなかった。フロストの第2大隊も全滅前に戦況報告を司令部に打電していたが、受電できていなかった。アーカートは自分が見捨てた第2大隊の健在を信じ「我々は橋の北端と渡船所を確保している」「したがって、第30軍団が橋から来ても渡船所から来ても出迎えの準備はできている」と現実を無視した話をし、さらに本日、ポーランド第1独立パラシュート旅団の増援がついに到着すること、第30軍団と通信ができて、わずか10マイルのところまで達しており、数時間内に合流できると声を張り上げた。その話を聞いた参謀らは歓喜したが、結局このアーカートの話が実現することはなかった[121]。イギリス第1落下傘旅団が絶望的な戦いを続けている間に、イギリス第1空挺旅団とイギリス第4落下傘旅団もドイツ軍の猛攻に晒されて、しだいに橋頭保が圧縮されており、ネーデルライン川沿いに、長さ3.2km、幅は最大で2.4kmの地図上では指先程度の地域に押し込められていた。そのため、毎日補給物資は輸送機が空中から補給されていたものの、投下された補給物資の殆どはドイツ軍支配地域に落下して、ドイツ軍を潤すばかりで、イギリス第1空挺師団は食料も弾薬も薬品もなにもかもが欠乏し、底をつきかけていた[122]。
これまで2度も出撃が延期されていたポーランド第1独立パラシュート旅団がようやくオランダに到着して、午後17:15に降下を開始した。しかし、天候は完全には回復しておらず、一部は引き返したほか、ドイツ軍の激烈な高射砲弾幕で撃墜される機も続出し、飛来した110機の輸送機の内、降下部隊をはきだすことができたのは約半分の53機に過ぎなかった。ポーランド第1独立パラシュート旅団が降下したのは、アーカートの師団司令部があるネーデルライン川北岸の対岸であり、ソサボフスキーは戦力の集結と周囲の空き家を接収して司令部の設営を進めたが、なぜ軍司令部がわざわざポーランド第1独立パラシュート旅団を味方もいない対岸に降下させたのか全く理解ができなかった[123]。例によってイギリス製の通信機ではアーカートの司令部とは連絡がつかなかったが、師団司令部から泳ぎが達者なポーランド軍連絡将校がネーデルライン川を泳いで渡ってきて、アーカートからの早急な支援の要請を要請してきた。しかし、ソサボフスキーは、降下後に地元の女性からすぐ近くにドイツ軍の大部隊が迫っているという情報を入手していたことや、1,500人の旅団兵員中、本日降下に成功してソサボフスキーが掌握していた兵力は750人に過ぎず、満足に渡河装備もない中で夜間に渡河すればドイツ軍のいい的になるのは目に見えており、この日は旅団に防備を固めさせて夜明けを待つこととした[124]。
イギリス軍地上部隊
アーネムでイギリス第1空挺師団が苦闘を続けている間、英第30軍近衛機甲師団の主力はナイメーヘンにとどまっていた。彼らの南側は依然として脅威にさらされており指揮官はナイメーヘン前方への部隊の移動を拒絶した。そして英第43歩兵師団の担当ラインまで後退し街を奪取するため移動することを無線連絡した。彼らの後方には30マイルに渡る長い交通渋滞があり、第43歩兵師団は翌日まで到着しなかった。しかしイギリス軍の砲兵部隊は十分に接近しており、オーステルビークの中の部隊と無線連絡を取り、そして彼らに接近することを試みたドイツ部隊への攻撃を始めた。
ドイツ軍の攻撃は依然道路沿いに続けられた。しかし連合軍の優位は明白に成りつつあった。ドイツ軍の攻撃は停滞し、イギリス軍と米第101空挺師団はより多くのエリアを確保した。
六日目、1944年9月22日(金)
イギリス軍空挺部隊
ハルテンシュタインホテルのイギリス第1空挺師団司令部にドイツ軍はじりじりと迫りつつあった。イギリス兵は勇敢に戦い続けていたが、その兵士たちをもっとも苦しめたのが、食料と飲料水の不足であった。上述の通り、空中から投下される補給物資の殆どがドイツ軍に接収されていたが、時折イギリス軍支配地にも降下してくることがあった。飢えたイギリス兵は地上でそれを待ち構えて、司令部近くの樹木に引っかかるとたちまち木を登って回収してきたが、中身は故障で使い物にならなくなっていた17ポンド対戦車砲の砲弾など、役に立たないものばかりでイギリス兵を失望させた。水は、上水道の給水をドイツ軍が停止していたため、ホテルに掘られていた井戸から給水するしかなかったが、そこを狙ってドイツ軍の狙撃兵が照準を合わせており、給水もままならなかった[125]。オランダに降下したイギリス第1空挺師団10,000人のうち、すでに健常な兵士は3,000人程度と推定されたが、そんな少数になってもイギリス兵の戦意は衰えを見せておらず、攻めている第2SS装甲軍団軍団長ヴィルヘルム・ビットリヒ親衛隊大将は以下の様に敵であるイギリス第1空挺師団を称賛した[126]。
私はオーステルベークとアーネムにおけるイギリス兵ほど、猛烈に戦う兵士を見たことがなかった。 — ヴィルヘルム・ビットリヒ
アーカートはなかなか進撃してこない第30軍団にしびれを切らし、ホロックスに早急な救援を要請するため、参謀長のマッケンジー中佐と工兵隊長のエディ・マイヤーズ中佐をナイメーヘンまで向かわせることとした。敵中を突破しなければならない決死の任務であったが、アーカートとすれば藁にも縋る想いであった。しかし、マッケンジーらは対岸のポーランド第1独立パラシュート旅団までたどり着くのがせいぜいで、そこで無線機を借りて第30軍団に師団の窮状を訴えた。その後、マッケンジーとマイヤーズはソサボフスキーとポーランド第1独立パラシュート旅団を渡河させる方法について協議した。そこでマイヤーズは旅団が所有していた数隻のゴムボートを使って夜陰に紛れて渡河することを提案し、ソサボフスキーも200人は渡河させられると乗り気で了承した[127]。
午後21:00に作戦は開始され、川幅360mの対岸までロープが張られて、そのロープをつたって4隻のゴムボートと、急遽ポーランド旅団工兵が作成した木造の筏で兵士と物資を渡河させようというものであった。第一陣を渡河させているとドイツ軍陣地から照明弾が上がって、渡河中のゴムボートと木製ボートに向かってドイツ軍の迫撃砲弾と機銃掃射が浴びせられた。たちまちゴムボートとポーランド兵は蜂の巣になって川の中に沈んで行き、ソサボフスキーは一旦作戦を中止して兵士を避難させたが、照明弾が燃え尽きて、辺りが暗くなると、作戦を再開して兵士と物資を渡河させようと試みた。しかし、渡河しきらないうちに再びドイツ軍に見つかって掃射されるといったようないたちごっこを午前3:00まで繰り返した。この渡河作戦でポーランド第1独立パラシュート旅団は多大な損害を被ったが、渡河に成功したのはわずか50人だけで、物資は殆ど水中に没してしまった[128]。
イギリス軍地上部隊
ここまでの進攻で、戦闘地域の大半は連合軍の支配下にあったが、問題の全ては英第30軍団とニーダーライン川の北側にあった。第43歩兵師団が到着すると直ちに事態は改善され、近衛機甲師団はアーネム橋の再奪取のため攻撃を試みた。
ドイツ軍
ドイツ軍は他の考えを持っており、前夜に二つの混成装甲部隊を組織しフェフヘルとグレーヴ間の国道69号線の中間地点の両脇に配置した。彼らは攻撃を始め一方では連合軍部隊が国道までたどり着き防御線を切断したが、もう一方では連合軍を停止させた。アイントホーフェン、ナイメーヘンの「地獄の街道」に対する独15軍団の攻撃は激化し、アイントホーフェン-ナイメーヘン間の補給路が分断され、ナイメーヘンが包囲を受けかねない状況のなか、アーネムへの連合軍の前進は不可能であった。
七日目、1944年9月23日(土)
イギリス軍空挺部隊
作戦開始7日目の朝を迎えたが、作戦開始以降初めての晴天であった。そこで連合軍空軍は全力で出撃し、アメリカ第101空挺師団と第82空挺師団にこれまで空輸できていなかった残存部隊を送り込むことができたが、肝心のポーランド第1独立パラシュート旅団の残存部隊については、不幸なことにアーネム周辺だけ天候回復が遅れたことや、先行のソサボフスキーらがドイツ軍包囲下にあることから、無事に降下させることが困難と判断されて、第82空挺師団と同じ降下点への降下となり、苦闘を続けるアーカートへ増援を送り込むことはできなかった。これでようやく連合軍は空挺部隊全兵力の35,000人をオランダに降下させることができたが、当初計画は3日で完了する予定であったので、倍以上の日数がかかってしまった[129]。
イギリス第1空挺師団への物資の空輸も大規模に行われたが、ドイツ軍の高射砲が作戦開始時よりも遥かに強化されており、その激烈な対空弾幕によって輸送機はハルテンシュタインホテルの投下位置をなかなか発見できず、いつものように補給品の殆どをドイツ軍支配地に投下してしまった。連合軍空軍はイギリス第1空挺師団への補給のため123機もの輸送機を出動させたものの、6機が撃墜され、63機が撃破されるという大損害を被った[130]。さらに午後からはこれまで天候不良によって殆どできていなかった、戦闘爆撃機による航空支援を行った[131]。しかし上述の通り、アーネム周辺の天候回復が遅れたことから、航空支援は午後のみで飛来した機数も少なく不十分なものであったが、作戦開始日以来久々に見る友軍機の銀翼に、苦闘を続けるイギリス兵は「救援は近いぞ」と士気が向上した[132]。夜になって、ポーランド第1独立パラシュート旅団は、昨晩に引き続きソサボフスキー率いる主力のネーデルライン川渡河を決行したが、その際には本日降下してきた残存部隊が運んできた第82空挺師団・504連隊の敵前渡河作戦で使用した手漕ぎボートを使用した。しかし、昨晩に続きドイツ軍の砲撃によって損害が続出し、ネーデルライン川を渡河できたのは200人に過ぎなかった[133]。
イギリス軍地上部隊
イギリス第1空挺師団の苦闘は無線機の不調による通信困難もあってあまり知れ渡っていなかった。そのため新聞報道等は第30軍団の華々しい進撃が強調されており、連合国国民は「マーケット・ガーデン作戦」は大成功だと信じて疑っていなかった。あるイギリスの新聞では「モントゴメリー陸軍元帥は、第1空挺軍の素晴らしい支援の下に、ルール地方突入と、戦争終結の道を開いた」などと大げさな報道がされていた[134]。しかし、この日になってようやく連合軍の中央司令部でイギリス第1空挺師団の運命は風前の灯火であるとの厳しい戦況認識がされるようになった。その頃、第82空挺師団と同行しアーネムへの進撃チャンスをうかがっていたブラウニングの元に、昨日にアーカートから遣わされたマッケンジーとマイヤーズがどうにか到着し、さらに詳細な戦況報告をブラウニングに行った。マッケンジーらの報告を聞いたブラウニングは愕然とし、以下のように悲観的な判断をした[135]。
アーネムの北に行くには、第1空挺師団がアーネム橋頭保を確保しなければならぬが、同師団はその能力を喪失したものと判断できる。 — フレデリック・ブラウニング
このイギリス空挺部隊指揮官の部下を見捨てるような判断は上部の司令部にも是認された。ブラウニングの判断を聞いたイギリス第2軍司令官デンプシーは、モントゴメリー及び連合軍第1空挺軍司令官ブレアトンと作戦協議し、ブラウニングの戦況判断が適当であるとの結論に至った。そこでデンプシーはブラウニングに対しアーカートに「情勢悪化の場合の退却の権限」を与えるように指示をした。これは実質的な救援の断念であったが、イギリス第30軍司令官のホロックスはその判断に反発し、「第43(ウェセックス)歩兵師団さえアーネムに進出させれば、何もかもがハッピーになる」として、第43(ウェセックス)歩兵師団にドイツ軍の防衛線突破を命じた[136]。しかし、ドイツ軍の抵抗が激しいうえに、進撃開始時間が遅かったこともあって、渡河がうかがえる地点まで進撃できたときには既に日が暮れていた。イギリス第1空挺師団を救援するには時間は貴重であったが、この日も無為に時間は過ぎていった[137]。
八日目、1944年9月24日(日)
ドイツ軍
B軍集団司令官のモーデルは南部にアメリカ軍のグライダーが続々と降下してきているとの情報を掴んでおり、イギリス第1空挺師団の殲滅に手間取っていることを問題視して、ビットリヒに対して「オーステルベークのイギリス軍を早急に処分せよ」と命令した[138]。ビットリヒは第30軍団の進撃の足止めをしていることや、イギリス軍とポーランド軍の合流を阻止できていると反論したところ、普段は妥協することのないモーデルがビットリヒに24時間もの猶予を与えた。その後ビットリヒはイギリス軍の第43(ウェセックス)歩兵師団の進撃を阻止していたハンス・ペータ・クナウスト少佐の下に車をとばして、これからさらにイギリス第1空挺師団殲滅までの24時間もの間、第43(ウェセックス)歩兵師団足止めをはかるよう命じると、オーステルベークの包囲攻撃を指揮していた第9SS装甲師団長代理ウォルター・ハルツァー中佐にも「明日は敵の空挺作戦に対する攻撃を強化せよ。今度の作戦を全て収束させる」と命じた[139]。
ハルツァーがなかなかイギリス第1空挺師団に止めを刺せないのは、オーステルベークの街路が狭すぎて戦車の使用が制限されているのも大きかった。特に虎の子の戦力として投入された新鋭重戦車ティーガーIIが、そのあまりに重い車体のため、埋め立て地の軟弱な地盤にはまり込んで殆ど役にたっていなかった。どうにか軟弱な地盤を避けても、ティーガーIIが通過した土地の地盤は引きはがされて耕地のようになり、方向転換すれば道路の舗装を引っぺがしてしまった[140]。また、近接戦闘では折角の強力な88㎜砲や重装甲を活かすことができず、まともな対戦車能力のない空挺部隊に対し、わずかな対戦車砲とPIATの集中砲火でティーガーIIが次々と撃破された[141]。ハルツァーは、激烈なイギリス軍の抵抗を見て「空挺部隊を孤立させ、締め付ければ締め付けるほどまします強硬に抵抗する」と考えていたが[142]、イギリス軍の無線は筒抜けで、イギリス第1空挺師団の様子も、救援に駆け付けているイギリス第30軍団の状況をよく把握しており、あまり無理攻めはせず「救援は来ない。我々は勝者の慈悲を示しながら、イギリス空挺部隊の自滅を待てばよい」と焦る上官を尻目にして余裕を見せていた[143]。
イギリス軍空挺部隊
9月24日を迎えてついに戦闘は予想外の第2週目に突入していた。作戦開始前にブラウニングがモントゴメリーに約束した「4日間の持久」期間はとうの昔に経過しており、イギリス第1空挺師団は限界を迎えていた。過酷な戦場で誕生日を迎えるイギリス兵もおり、ささやかな誕生日祝いとして雨水を沸かしていれた紅茶が振舞われたが、その後にドイツ軍の猛砲撃が始まり、誕生日を迎えたイギリス兵は「自分の誕生日プレゼントは3時間にも渡って撃ち込まれた迫撃砲弾だった」と振り返っている[144]。イギリス第4落下傘旅団長のハケットも迫撃砲弾の破片を腹部に受けて負傷していたが、同様に部下兵士多数も負傷しており、旅団司令部はさながら野戦病院の状況を呈していた。朝早くにそのイギリス第4落下傘旅団司令部にドイツ軍攻撃指揮官ハルツァーから軍使が遣わされた。負傷をおしてハケット自ら応対したが、軍使は「我が軍はこれから当地区を砲撃します。前線を600ヤード後退されたら安全だと思います」と通告してきた。ハケットに対抗する手立てはなかったが、イギリス第4落下傘旅団が600ヤードも後退したら、ハルテンシュタインホテルの師団司令部が危機にさらされてしまうことから、即座にハルツァーの通告を拒否した。やがてドイツ軍の猛砲撃が開始されたが、負傷者でいっぱいで赤十字を掲げていた旅団司令部は目標とされなかった[145]。
ドイツ軍の砲撃で倒壊したハルテンシュタインホテルの地下室では、まだブラウニングに見捨てられたことを知らなかったアーカートとわずか2,500人までに減った戦闘可能なイギリス兵が救援の到着に望みをつないでいた。しかし、大量の負傷兵があちこちに溢れかえっており、このままではじきに多くが死んでしまうことは確実であった。イギリス兵の治療にあたっていた師団の主任軍医のグレイム・ウォラク博士は、アーカートに負傷兵をドイツ軍に投降させてアーネムの病院で治療を受けさせるように提案し、負傷兵を輸送する間の休戦の申し出も提案した。アーカートはウォラクの提案を了承したが、ドイツ軍に師団が崩壊していると思われないためにも、あくまでもこの申し出はウォラクが軍医として人道上の理由で行うものであり、師団を代表したものではないことをドイツ軍側に認識させるよう徹底したが、この状況に至ってまでかような意地を張るのは殆ど意味がないことであった[146]。
ウォラクは同行者2人と一緒に、まずは第9SS装甲師団の軍医に接触し、ドイツ軍軍医同行で、アーネムまでドイツ軍に鹵獲されていたイギリス軍のジープで向かった。アーネムのドイツ軍司令部では事前に連絡を受けていた師団長代理のハルツァーが待っていた。ハルツァーによればその場で自分がウォラクの提案を了承したとしているが、ウォラクの同行者であったオランダ海軍の連絡将校アルノルダス・ウォルタース少佐によれば、ハルツァーは即座に拒否したが、幕僚の一人がビットリヒの判断を仰ぐ必要があると主張し、ビットリヒを呼びに行っている間しばらく待たされたという。その間ドイツ軍は3人にニンニクのサンドウィッチとブランデーを出されたが、医者のウォラクからはすきっ腹にアルコール摂取は危険だと注意されている。やがてビットリヒが現れ、ウォラクらに対して「私は両国間のこの戦争を甚だ遺憾に思う」とドイツ語で言った後、ウォラクからの負傷兵の移送計画を黙って聞き、それに承諾した。承諾した理由についてもウォラクらに以下の様に伝えた[147]。
人間はすべての人間性を失うわけにいかんからだ、最も苛烈な戦闘中と言えどもな。もちろん、人間がまず第一にそういう感情を持っているという前提の上での話だが。 — ヴィルヘルム・ビットリヒ
そして、ブランデーを1本差しだして「これを貴官の将軍に差し上げてくれ」とアーカートへの手土産を渡した[148]。
休戦は午後15:00から始まり、イギリス軍負傷兵はドイツ軍が総動員した軍用車両で次々と病院に向けて運び出されていた。しかし、両軍兵士とも血気に逸っており、完全な休戦は困難で小規模な小競り合いは絶えなかった[149]。特に祖国をドイツ軍に蹂躙され、その奪還と多くの死傷者の復讐を誓っていたポーランド第1独立パラシュート旅団兵士は、決死の想いでネーデル・ライン川を渡河して合流してきたのに、いきなり休戦を命じられて憤懣遣る方無いという表情であった。歩行不能な250人の負傷兵がドイツ軍軍用車で運び出され、歩行可能な負傷兵200人は歩いて戦場を後にし、ドイツ軍の捕虜となった[150]。休戦は午後17:00に終わり、その後は激しい戦闘が再開された。ティーガーIIが現れたが、イギリス軍は数少ないオードナンス QF 6ポンド砲で砲撃してキャタピラーを破壊して擱座させた。しかし、すぐに次のティーガーIIが現れ、またイギリス軍は6ポンド砲で砲撃するも、今度は車体に命中し重装甲で跳ね返された。戦車は搭載砲と搭載機銃で反撃を開始し、せっかく負傷者を運び出したのに、また大量の死傷者が発生した[151]。
イギリス軍地上部隊
イギリス第30軍団司令官のホロックスは、モントゴメリーを始めとする軍上層部や、デンプシーら第2軍司令部がアーカットの救援を断念しようとしているなかで、唯一、物資の送り込みと、部隊を渡河させての救援を決してあきらめようとしなかった。合流したソサボフスキーのポーランド第1独立パラシュート旅団と第43(ウェセックス)歩兵師団に対して、夜陰に紛れてボートと水陸両用車で強行渡河するように命じた。ホロックスはこのときの計画を「もし順調にゆけば、第43師団を横滑りさせてネーデル・ライン川をずっと西方で渡らせ、空挺師団を攻撃しているドイツ軍に左フックを食らわせたかった」と述べているが[152]、しかしまたしても、強行渡河作戦は失敗し、渡河を試みた400人の第43(ウェセックス)歩兵師団の兵士のうち、75人が渡河できずに引き返し、渡河に成功したイギリス兵も優勢なドイツ軍に追い回されて殆どが捕虜となってしまった[153]。
ブラウニングは第30軍団が先に進めないと確定したので、すぐにでもアーカートと兵士を脱出させなければいけないと確信し、それはデンプシーも同じであった。デンプシーはブラウニングとホロックスを呼びつけると作戦協議を行った。ここでもホロックスは諦めずに大規模な渡河作戦を主張したが、デンプシーはとても成功の見込みはないとしてホロックスの作戦計画を却下し、「(アーカートを)脱出させろ」と命じた。デンプシーはブラウニングの方を向いて「君の方もそれでいいかね?」と尋ねたが、ブラウニングに異存はなく、なるべく感情を抑えながら同意した。このデンプシーの決定はモントゴメリーに上申されたが、なぜかモントゴメリーはその決裁を渋り、決裁されたのは日も改まった翌日25日の午前9:30となった。ここで正式に「マーケット・ガーデン作戦」の途中での中止が決定された[154]。
九日目、1944年9月25日(月)
イギリス軍空挺部隊
午後10時に英第1空挺師団の撤退が開始された。撤退はドイツ軍の傍受を想定して「ベルリン作戦」と呼ばれ、イギリス軍およびカナダ軍の工兵部隊がニーダーライン川を14隻のモーターボートと多数の上陸舟艇を使って渡河させ、ポーランド第3降下兵大隊が北岸を援護した。翌26日の早朝までに2,000名が撤退完了したが300名が依然北岸にあり、夜明けからのドイツ軍の攻撃が撤退作業を停止させ、結局彼らはドイツ軍に降伏した。英第1空挺師団の10,000名の内、脱出できたのは2,000名であった。
イギリス軍地上部隊
南方では新たに到着した英第50歩兵師団(ノーサンブリア師団)がドイツ軍の確保する国道を攻撃した。翌日までにドイツ軍は排除され抵抗は終了した。ドイツ軍は撤退の際に大量の地雷を敷設していったため、道路の安全が確保されるのに数日を要した。回廊は安全になったがどこにも通じなかった。
結論
今日マーケット・ガーデン作戦に対する見方は二分される。アメリカの歴史家はモントゴメリーの用兵を評価しない傾向にあり、一方イギリスの歴史家はアメリカ軍の貢献を評価しない傾向にある。
アイゼンハワーはその死までマーケット・ガーデン作戦に行う価値があったと信じた。コーネリアス・ライアンはアイゼンハワーの発言を引用する。「...あなたがイギリスで何を聞いたか知らないが、イギリス人はアメリカ軍の指揮系統を理解したことはなかった。...私はイギリス人から賞賛の言葉は一言も聞かなかった。あなたもモントゴメリーのような人たちから賞賛の言葉を聞くことはないだろう。」しかし、アイゼンハワーはこのような見解を彼自身の胸に留め、戦争の終了まで明らかにしなかった。
問題は作戦がライン川支流、ニーデルライン川とワール川に架かる両方の橋を占領、確保することを要求した点にあった。アーネムの橋の北端はかろうじて確保されたものの、ナイメーヘン橋はドイツ軍の手中にあり、英第1空挺師団は他の空挺軍、地上軍と希望もなく切断された。ナイメーヘン橋の占拠に成功しても、アーネム橋が得られなければ事態は好転しなかった。これはニーデルライン川を渡って空挺部隊を救援する必要を示した。そしてこのような不測の事態に対して許可される渡河計画はそもそも存在しなかった。
フェフヘルやグレーヴなど、重要な橋の確保はその付近に降下が行われた場合直ちに容易に達成された。アーネムとナイメーヘンでは英第1空挺師団や米第82空挺師団の半日にも及ぶ徒歩やその他の努力にもかかわらず、成功の可能性はほとんど無かった。
ジョン・フロスト中佐の第1パラシュート旅団第2大隊はアーネム道路橋を巡る戦闘で失われたが、アーネム橋が唯一の渡河手段ではなかった。実際、作戦計画の段階でフェリーがドライエルで利用可能であることは確認されており、英第1空挺師団を支援するために計画の当初からそれを確保・使用することを想定していれば、救援作戦はより安全に展開されたとも考えられている。
英第30軍団司令官ブライアン・ホロックス中将は作戦の別の方針を求めた。約25キロ西のレーネンにアーネム橋に似た橋があり、その橋はドイツ軍の戦力がオーステルビークの防衛に振り向けられていたためほとんど無防備である筈だった。実際その通りで、第30軍団がその橋を攻撃すれば反撃を受けることなく彼らはオーステルビーク西のドイツ軍防衛ラインの後方を確保できた。しかしながらこの時までに、ドイツ軍の継続的な抵抗が行われモントゴメリーはチャンスを掴み損ねた。
装備にも重大な問題があった。連合軍はドイツの装甲車輌の配備が壊滅状況にあると見なしていたため、降下部隊に十分な対戦車兵器(バズーカやPIAT)が配備されなかった。しかしドイツ軍歩兵部隊にはパンツァーファウストやパンツァーシュレックなど強力な対戦車兵器が配備されていたため、連合軍の降下兵はドイツ軍の装甲車両の攻撃に対して逃げるか隠れるか、降下地点に設置した僅かな対戦車砲の支援攻撃を要請しなければならない状況であった。さらに通信機器の不調により部隊は各個に孤立し状況の把握が困難を極め、ドイツ軍の迅速な展開に対してつねに対処が遅れた。支援攻撃の要請や、イギリス本土から飛来した航空支援に対して地上から支援要請をおこなえない不具合から、好機を逸する不手際も発生した。
また、連合軍がモーデル、ビットリッヒ、シュトゥデントといった有能なドイツ軍指揮官に直面したことを考慮すべきである。連合軍が奮戦した一方、ドイツ軍はそれ以上に奮戦し車輌を撃破した。モーデルが2つの重要な道路橋の爆破を禁じたことは、結果として連合軍にとっては悪意に満ちた挑発行為となった。また急ごしらえの混成軍で、兵器も旧式のものが中心であったにもかかわらず、ビットリッヒ、シュトゥデントの防衛線は執拗に降下地点に攻撃仕掛け続け、連合軍の空挺補給・増援を困難にした。アイントホーフェン-ナイメーヘン間(地獄の街道)、ナイメーヘン-アーネム間(孤立地帯)を結ぶ「ただ一本の道」に側面攻撃をかけ続けることは英第30軍団の進軍を妨げ作戦の達成をより困難にした。
その中で連合軍はことごとく悪い選択を行い、好機は無視された。グライダー連隊の指揮官はアーネム橋南部に着陸し橋を速やかに確保するための小部隊を要求した。このことはアーネムで戦いの趨勢を変更する可能性があった。フロスト中佐の部隊は南岸からの支援により橋は両岸で完全に確保できる可能性があった。
イギリスでは、グライダー降下部隊である第52ローランド歩兵師団の指揮官イクウェル・スミス少将がアーネム、およびオーステルビークで苦闘するロイ・アーカート少将の英第1空挺師団を支援するためブラウニング中将に出撃を懇願したがこれは許可されなかった。ポーランド第1独立空挺旅団のスタニスラフ・ソサボフスキー少将は霧中での危険にもかかわらず降下を申請したが、これも拒絶された。
ナイメーヘンの橋が奪取された四日目、米第82空挺師団の果敢な渡河作戦によりアーネムへの道が開かれた段階では、ナイメーヘン-アーネム間のドイツ軍防衛線はまったくの空白状態であり、またアーネムの苦戦を知らされていた第82空挺師団の将兵は英第30軍団の即座の前進を確信していたが、この期待は裏切られた。慎重な進軍計画と無駄にされた時間はドイツ軍の再配備に費やされ、あとわずか10数キロに満たない友軍への道を塞ぐ結果となった。
最後に、そして恐らく最も重要なことはオランダのレジスタンスが連絡将校の戦死によりアーネムで連合軍と連絡が取れなかったことである。数百人の十分に武装されかつ土地勘のあるレジスタンス闘士は、彼らの知識およびドライエル・フェリーと秘密電話網と言った二つの特殊装備で大きな助けとなっていたと考えられる。ドライエル・フェリーはライン川両岸の戦力を統合することが出来た可能性が十分にあり、秘密電話網はアーネムやナイメーヘンを始めとした重要拠点の連絡を可能にしていたと考えられる。後者は特に重要だった。皮肉なことに、レジスタンスによって交換所が占拠されていた一般電話回線網は、戦闘地区全域において通話可能な状態で維持されていた。つまり無線通信に頼らずとも民家の受話器を使いさえすれば、最高司令部に戦況を伝えることは可能であった。
結局モントゴメリーはマーケット・ガーデン作戦を「90%成功した」とし、「私の偏見的な見方では、もし作戦が当初から援護され、十分な航空機、地上兵力、そして遂行するのに十分な資材が与えられていたなら、私の失敗や悪天候、アーネム地域に存在した第2SS装甲軍団にもかかわらず成功していたであろう。私はマーケット・ガーデン作戦を擁護することを後悔していない」と自己弁護していたが、後の書いた自伝では作戦の意義を主張しつつも、最終目的を達成できなかったことを認めている[155]。
グラーヴェではミューズ川の渡河点、ナイメーヘンではライン川下流の渡河点を確保したことは後になって重要な意義をもたらした。すなわち、オランダの大部分を解放し、それにつづくラインラントの戦闘を成功に収める飛び石の役割を果たしたのである。これらの戦果を収めることができなかったら、1945年3月に強力な軍をライン川を越えて進めることはできなかったであろう。だが最終橋頭保を奪取しえなかったことは認めなければならない。 — バーナード・モントゴメリー
イギリス首相のウィンストン・チャーチルも作戦を失敗とは考えていなかった。第2回ケベック会談から帰国したチャーチルは、ヤン・スマッツ元帥から作戦の詳細の報告を受けたが、スマッツが作戦は失敗したと悲しんでいるのに対して「アーネムの戦いでは非常な危険が冒されたが、その危険は我々の手の届くすぐそばに、それだけ大きな賞品があったための冒険であり当然のものである」と考えて、スマッツに対して以下のような返答を打電した[156]。
この戦闘は決定的に勝利です。ただ先頭師団が極めて当然の増援を求めている間に、短い一撃を食ったのです。これについて私は少しも失望感を受けてませんし、我々の指揮官たちがこの種の危険を冒す能力のあることを喜んでます。 — ウィンストン・チャーチル
しかし、戦場となったオランダではモントゴメリーに辛辣な評価もあり、作戦開始前に概要を知らされたオランダ王配ベルンハルトは以下の様にモントゴメリーを批判した[157]。
私の国は二度と再び、新たなモントゴメリーの成功などという愚にもつかぬ我がままを許すことは出来ない。 — ベルンハルト・ファン・リッペ=ビーステルフェルト
マーケット・ガーデン作戦でオランダ国民の受けた損失も大きく、アーネムの市街に多大な損害が生じたほか、500人の市民が死亡したと言われる。しかし市民の被害は直接に戦闘に関連したものだけではなく、戦闘の結果、家が破壊されたりドイツ軍に強制疎開させられた市民が厳しい寒さや飢餓により多数が犠牲となっており、マーケット・ガーデン作戦に関連する人的な損失は10,000人以上に達したとの推計もある[158]。
作戦の失敗により、モントゴメリーによる戦争早期終結策は実現しなかった。結局スヘルデの戦いによりアントウェルペンの安全が確保されるまで、連合軍の補給状況は改善されなかった。11月になって補給状況に改善が見られると、連合軍はいよいよ本格的攻勢準備に着手するが、その目標はオランダではなく、ドイツ・ベルギー国境にあるヒュルトゲンの森となった。この作戦ではモントゴメリーは完全に退けられ、アメリカ軍は単独で大規模攻撃を行うが、地形を利用したドイツ軍の防衛は頑強でアメリカ軍の進撃は捗らなかった(ヒュルトゲンの森の戦い)[159]。モントゴメリーはブラッドレーの苦戦を見て、「ノルマンディーの偉大な勝利の後の誤った戦略によって戦争は長引い てしまった」と考え、アイゼンハワーに「ブラッドレーは私の目から見ると、戦術的に十分均衡がとれていないように見える」と批判するほどであった[160]。更には、アドルフ・ヒトラー肝いりでのドイツ軍の大反撃でバルジの戦いが始まると、その対応でさらに連合軍の進撃は停滞してしまい、1945年3月まで連合軍はライン川を超えることができなかった[161]。
なお、アーネムの橋は作戦後に連合軍の爆撃によって破壊されるが、戦争終結後速やかに架け直された。奮戦したフロスト中佐に敬意を払い、当時のままの姿で復旧した上で「ジョン・フロスト橋」と改名され現在に至っている。
文献
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- コーネリアス・ライアン『遥かなる橋 下:史上最大の空挺作戦』早川書房、1975年。ASIN B09CCMYPB2。
- ウィンストン・チャーチル『第二次世界大戦〈4〉勝利と悲劇』佐藤亮一 (訳)、河出書房新社、1975年。ASIN B000J9EIUA。
- バーナード・モントゴメリー 著、高橋光夫 訳『モントゴメリー』読売新聞社、1971年。ASIN B000J9GDYO。
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- ケネス・マクセイ(著)『米英機甲部隊―全戦車,発進せよ!』〈第二次世界大戦ブックス50〉、菊地晟(訳)、サンケイ新聞社出版局、1973年。ASIN B000J9GKSS。
- チャールス・マクドナルド(著)『空挺作戦―縦横無尽の奇襲部隊』〈第二次世界大戦ブックス36〉、板井文也(訳)、サンケイ新聞社出版局、1972年。ASIN B000J9H082。
- アラン・ロイド『危うし空挺部隊』石川好美 訳、朝日ソノラマ〈文庫版航空戦史シリーズ 56〉、1985年。ISBN 978-4257170563。
- 学習研究社 編『ヨ-ロッパ空挺作戦 (歴史群像 第2次大戦欧州戦史シリーズ Vol. 22)』学研パブリッシング、2003年。ISBN 978-4056031737。
- アントニー・ビーヴァー『第二次世界大戦1939-45(下)』平賀秀明(訳)、白水社、2015年。ISBN 978-4560084373。
- ウィリアム・K・グールリック、オグデン・タナー『ライフ 第二次世界大戦史 「バルジの戦い」』明石信夫(訳)、タイム ライフ ブックス、1980年。ASIN B000J7UJH8。
- 児島襄『第二次世界大戦―ヒトラーの戦い〈7〉』文藝春秋、1992年。ISBN 978-4167141424。
- Reynolds, Michael (2001). Sons of the Reich: The History of II SS Panzer Corps. Spellmount Publishers Ltd. ISBN 978-1862271463
小説
映画
- 『第一空挺兵団』-Theirs is the Glory:“アルンヘム攻防”を描くセミ・ドキュメンタリー映画。戦後その地でロケが行われ、出演者は全部この作戦に従った兵士の二個中隊だった。
- 『遠すぎた橋』 - A Bridge Too Far:コーネリアス・ライアンによるノンフィクション『遙かなる橋』が原作。リチャード・アッテンボロー監督により1977年に映画化された。
- 『バンド・オブ・ブラザース』 - “Band of Brothers”:第101空挺師団第506パラシュート歩兵連隊第2大隊E中隊を描いたスティーヴン・アンブローズのノンフィクション作品を基に2001年に製作されたTVドラマ。第4話『補充兵』(“Replacements”)がアイントフォーヘン解放からニューネンでの戦闘を描いる。また、第5話『岐路』(“Crossroads”)でもイギリス空挺師団の生き残りを救出するシーンがある。
ゲーム
- Arnhem, Panzerfaust Publications, 1972,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- Arnhem(Westwall), SPI, 1976,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- Arnhem, SPI, 1976,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- Highway to the Reich, SPI, 1977,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- Red Devils(Paratroop),SPI, 1979,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- R.U.S.E.,エレクトロニック・アーツ,2010,(リアルタイムストラテジー)
- Storm Over Arnhem, アバロンヒル, 1981,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- Arnhem Bridge, Attactix Adventure Games, 1982,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- マーケットガーデン作戦, ホビージャパン, 1982,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- Hell's Highway(地獄のハイウェイ), Victory Games/ホビージャパン, 1983,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- Operation Market Garden, Game Designers' Workshop(GDW), 1985,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- Air Bridge to Victory, GMT Games, 1990,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- クロースコンバット遠すぎた橋, マイクロソフト, 1996
- Arnhem 1944, Dragon, 1996,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- Arnhem 1944, Vae Victis, 1997,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- Arnhem:The Third Bridge(ASL), Critical Hit, 1999,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- SCREAMING EAGKES IN HOLLAND, Multiman Publishing(MMP), 2002,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- Arnhem - Defiant Stand, Critical Hit, 2003,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- Monty's Gamble:Market Garden, Multiman Publishing(MMP), , 2003,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- Target Arnhem:Across 6 Bridges, Multiman Publishing(MMP), 2005,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- Toppling the Reich, Against the Odds, 2006,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- マーケットガーデン作戦(ドイツ装甲軍団), 『コマンドマガジン日本版第74号』付録, 国際通信社, 2007,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- メダル・オブ・オナー エアボーン, エレクトロニック・アーツ, 2007,(PC版,PlayStation 3版,Xbox 360版)
- カンパニーオブヒーローズ:オポージング フロント, Relic Entertainment, 2007
- Witches Cauldron ,Critical Hit, 2007,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- The Devil's Cauldron, Multiman Publishing(MMP), 2007/2008,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- Highway to the Reich(Reprint edition), Decision Games, 2008,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
- ブラザー イン アームズ ヘルズハイウェイ, ユービーアイソフト, 2008,(PlayStation 3版,Xbox 360版)
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