「ブエノスアイレス」の版間の差分
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== 概要 == |
== 概要 == |
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「[[南アメリカ|南米]]の[[パリ]]」の名で親しまれ<ref name="a-short-history">''Argentina: A Short History'' by Colin M. Lewis, Oneworld Publications, Oxford, 2002. ISBN 1-85168-300-3</ref><ref>[http://travel.canoe.ca/Travel/SouthAmerica/2005/03/06/953104-sun.html 'Paris of the South'] by Kenneth Bagnell, [[Canadian Online Explorer|Canoe]] travel, 7 March 2005.</ref>、南米の中で美しい町の1つとして数えられる。 |
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'''「南米のパリ」の異名を持つブエノスアイレスは、南米屈指の美しい都市である。''' |
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[[ラプラタ川|ラ・プラタ川]]({{lang|es|Río de la Plata}} スペイン語で「銀の川」の意)に面しており、対岸は[[ウルグアイ]]の[[コロニア・デル・サクラメント]]。 |
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意味はスペイン語で「buenos(良い)aires(空気、風)」の意。船乗りの望む「順風」が街の名前になったものである。 |
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'''独立当時は人口5万人ほどの小さな町だったブエノスアイレスは、サルミエント政権による[[欧化政策|欧州化政策]]によって多くの移民を受け入れ、中南米の中でも最も欧州的な街へと変貌を遂げた。''' その後、20世紀には南米随一の繁栄を誇った[[アルゼンチン]]の首都として、長らく南米最大級の都市として君臨していた。 |
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独立当時は「偉大な田舎」と呼ばれる人口5万人程の小さな町だったが、[[ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント|サルミエント]] (Sarmiento) 政権による欧州化、文明化政策の実施以降数多くの移民が[[イタリア]]・[[スペイン]]などから渡来し、中南米の中でも最も欧州的な街になった。 |
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'''1970年代以降の経済悪化により、南米最大の都市の座は[[ブラジル]]の[[サンパウロ]]に譲ったものの、ブエノスアイレスは現在でもスペイン語圏都市として重要な役割を果たしている。''' 2019年のアメリカのシンクタンクによる世界都市ランキングでは、南米の都市の中で首位に輝き、その国際的な評価を証明している。 |
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かつて南米随一の豊かさを誇ったアルゼンチンの首都として、20世紀において長らくブエノスアイレスは南米最大級の都市であった<ref>{{Cite web|url=http://worldpopulationreview.com/world-cities/|title=World City Populations 2020|accessdate=2020年1月9日|publisher=}}</ref>。1970年代以降のアルゼンチン経済の悪化に伴い、南米最大の都市は[[ブラジル]]の[[サンパウロ]]に移ってしまったものの、現在でもブエノスアイレスはスペイン語圏の都市として重要性を保ち、アメリカのシンクタンクが2019年に発表した世界都市ランキングでは24位に評価され、南米の都市の中で首位であった<ref>{{Cite web|title=Read @ATKearney: Una Cuestión de Talento: Cómo el Capital Humano Determinará los Próximos Líderes Mundiales|url=http://www.atkearney.com/global-cities/2019|website=www.atkearney.com|accessdate=2020-01-09|language=en-US}}</ref>。 |
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'''ブエノスアイレスの市民はポルテーニョと呼ばれる。''' 港の街という意味を持つこの呼び名は、海と共にあるこの街のアイデンティティを象徴している。 |
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市民は[[ポルテーニョ]](porteño, 女性はポルテーニャporteña; 港の人、浜っ子の意)と呼ばれる<ref>{{cite web|url=http://www.portenospanish.com/word/138/Porte%C3%B1o|title=What is Porteño in English? – Porteño Spanish|publisher=Portenospanish.com|accessdate=2011-09-15}}</ref>。 |
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'''ブエノスアイレスは、美しい街並み、豊かな文化、情熱的な人々など、多くの魅力を持つ街である。''' 一度訪れれば、誰もがその虜になること間違いなしだろう。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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[[1516年]] |
[[1516年]]に[[スペイン君主一覧|スペイン王]]の命により新大陸の[[探検]]をしていた、[[スペイン人]]航海者 [[フアン・ディアス・デ・ソリス]]は、[[ラプラタ川|ラ・プラタ川]]に到達した。ソリスは今日のラ・プラタ地域に到達した最初のヨーロッパ人だと思われるが、今日の[[ウルグアイ]]領で、先住民の[[チャルーア族]]により殺害される。 |
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[[ファイル:Buenos Aires shortly after its foundation 1536.png|left|thumb|200px|1536年創設当初のブエノスアイレス市の風景図。]] |
[[ファイル:Buenos Aires shortly after its foundation 1536.png|left|thumb|200px|1536年創設当初のブエノスアイレス市の風景図。]] |
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[[1536年]]2月2日、バスク人貴族でスペインの探検家だったペドロ・デ・メンドーサ一行 |
[[1536年]][[2月2日]]、[[バスク人]]貴族でスペインの探検家だった{{仮リンク|ペドロ・デ・メンドーサ|es|Pedro de Mendoza}}の植民団一行は、現在のブエノス・アイレス南部の[[サン・テルモ地区]]に、ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリーア・デル・ブエン・アイレ市({{lang-es-short|''Ciudad de Nuestra Señora Santa María del Buen Ayre''}} 直訳すると「良き風の我々の聖母マリア市」)<ref name="a-short-history">''Argentina: A Short History'' by Colin M. Lewis, Oneworld Publications, Oxford, 2002. ISBN 1-85168-300-3</ref> を建設した。しかしグアラニー族やチャルーア族を始めとする先住民の包囲攻撃と、それに伴う飢餓のために町は[[1541年]]に放棄され<ref>[http://www.laeducacion.com/vinculos/materias/historia/not020107.htm Aborígenes de la Argentina] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140605092500/http://www.laeducacion.com/vinculos/materias/historia/not020107.htm |date=2014年6月5日 }}. (Spanish) John D. Torres Barreto. Retrieved 9 February 2012.</ref><ref>[http://www.mendoza.edu.ar/efemerid/p_mendoz.htm Pedro de Mendoza] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140711021051/http://www.mendoza.edu.ar/efemerid/p_mendoz.htm |date=2014年7月11日 }}. (Spanish) Retrieved 8 February 2012.</ref>、生き残りは[[パラナ川]]を上って[[アスンシオン]]を建設した。 |
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[[1580年]]、 |
[[1580年]]、アスンシオンから[[パラナ川]]を下って来た、[[フアン・デ・ガライ]]率いるヨーロッパ人植民団により、街はラ・トリニダー (La Trinidad) 市として再建された<ref name="provincia">[http://www.buenosaires.gov.ar/areas/ciudad/historico/calendario/destacado.php?menu_id=23203&ide=44 Calendario Histórico – Segunda fundación de Buenos Aires] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121024201506/http://www.buenosaires.gov.ar/areas/ciudad/historico/calendario/destacado.php?menu_id=23203&ide=44 |date=2012年10月24日 }}. (Spanish) Gobierno de la Ciudad de Buenos Aires. Retrieved 9 February 2012.</ref>。町は当初ラ・プラタ地域の皮革などを輸出する貿易港として賑わったが、16世紀、17世紀の大半をスペインの植民地政府は、[[ヨーロッパ]]への輸出品は全て[[ペルー]]の[[リマ]]を経由することを強制しつづけたので、市内の貿易業者の不満が高まり、イギリスやフランス、オランダとの密貿易が盛んになった<ref name="a-short-history" />。 |
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[[1776年]] |
[[1776年]]にブラジル方面から侵攻を続ける[[ポルトガル]]から[[バンダ・オリエンタル]]を防衛するために、[[ペルー副王領]]が分離され、[[リオ・デ・ラ・プラタ副王領]]が設置されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となり、正式に開港された。しかし、完全な[[自由貿易]]を求める[[クリオーリョ]]達にとっては、この措置は未だに不十分なものであり、スペイン当局への憤懣を鬱積させるもとになった。[[フランス革命]]後、ヨーロッパでの戦乱の中でスペインがフランスと同盟を結ぶと、スペインの敵対国となったイギリスはこの地域の支配を目論み、1806年、ブエノスアイレスに侵攻を試みた({{仮リンク|イギリスのラプラタ侵略|en|British invasions of the Río de la Plata}})。ラ・プラタ副王は逃亡したが、[[ポルテーニョ]]民兵隊は副王不在のまま[[イギリス軍]]を撃退し、翌1807年再侵略をも撃退すると、自信をつけたポルテーニョ達のスペインへの忠誠は揺らいでいった。現在もブエノスイアレス市民のことをポルテーニョ(港の人)と呼ぶのはこの時の民兵隊の名前から来ている。 |
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[[ファイル:Cabildoabierto-Subercaseaux.jpg|thumb|220px|left|[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]]] |
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[[フランス革命]]後、[[ヨーロッパ]]での戦乱の中で[[スペイン]]が[[フランス]]と同盟を結んだ結果、[[イギリス]]は[[スペイン]]の敵対国となりました。[[イギリス]]は南米における[[スペイン]]の影響力拡大を阻止するため、[[1806年]]に[[ブエノスアイレス]]侵攻を試みました。当時の副王は逃亡しましたが、ポルテーニョ民兵隊は副王不在のまま[[イギリス軍]]を撃退し、翌[[1807年]]再侵略をも撃退しました。この勝利で自信をつけたポルテーニョたちは、[[スペイン]]への忠誠心を揺るがせていき、独立への意識を高めていきました。現在も[[ブエノスアイレス]]市民のことをポルテーニョ(港の人)と呼ぶのは、この時の民兵隊の名前が由来となっています。[[ファイル:Cabildoabierto-Subercaseaux.jpg|thumb|220px|left|[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]]] |
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1808年に[[ナポレオン・ボナパルト]]の指導するフランス帝国が[[半島戦争|スペインに侵攻]]し、兄の[[ジョゼフ・ボナパルト]]をホセ1世に据えると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。[[1810年]]5月25日に[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]が勃発し、ラ・プラタ副王はポルテーニョ達により追放され自治政府が発足した。[[1816年]]7月9日には[[トゥクマンの議会]]でブエノスアイレスを首都に定めた[[アルゼンチン#国名|リオ・デ・ラ・プラタ連合州]]の独立が宣言された。独立後はすぐに[[連邦同盟]]のアルティーガス派との内戦が続いたが、各州の妥協により、ブエノスアイレス州が連合州の外交権を行使することが認められた。1821年に[[ベルナルディーノ・リバダビア]]が州内務大臣として辣腕を振るい、[[ブエノスアイレス大学]]が設立された。 |
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[[ファイル:Bernardino Rivadavia 2.jpg|thumb|200px|[[ベルナルディーノ・リバダビア]]]] |
[[ファイル:Bernardino Rivadavia 2.jpg|thumb|200px|[[ベルナルディーノ・リバダビア]]]] |
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1825年 |
1825年の[[アルゼンチン・ブラジル戦争|ブラジル戦争]]の最中に連合州はアルゼンチンと改名し、リバダビアはブエノスアイレス市をブエノスアイレス州から切り離した連邦直轄の首都に定める憲法を公布したが、この憲法はブエノスアイレス港を中央政府に奪われることを嫌って反対運動を起こした連邦派、統一派双方の利害よって流れ、結局この憲法とブラジル戦争の指導失敗が下でリバダビアは失脚した。 |
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リバダビア |
リバダビアの失脚後、連邦派の[[マヌエル・ドレーゴ]]が戦争の指導を継続するが、イギリスの圧力により、1828年の[[モンテビデオ条約]]で[[ウルグアイ]]の独立を認めさせられると(事実上の引き分け)帰還兵の不満は募り、同年ドレーゴは統一派の[[フアン・ラバージェ]]によって暗殺され、ラバージェが自ら州知事になった。このことがさらに連邦派と統一派の戦いを激化させ、1829年、ラバージェを打倒した[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]が州知事となった。 |
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1835年、ロサスが州知事に返り咲いた。ロサスは州内一の「馬上の人」(モントネーロ)であり、自らも[[ガウチョ]]より上手に馬を操ったといわれ、[[黒人]]や都市下層民、ガウチョ、友好的なインディオから圧倒的な支持を得ており、ロサス時代にはそのような人々からなる街に「ロサシート」と呼ばれるロサス派が街練り歩き、街はロサスの肖像画と、ロサスが好んだ連邦派の赤色で埋め尽くされた。また、秘密警察が市民を監視し、多くの自由主義者がチリのサンティアゴをはじめとする国外に亡命することになった。しかし、1852年、連邦派でロサスの腹心だった[[フスト・ホセ・デ・ウルキーサ]]が、ブラジル、ウルグアイと同盟を結んで[[エントレ・リオス州]]からロサスに対して反旗を翻すと、1852年2月3日ブエノスアイレス郊外のカセーロスの丘(現在は市街地になっている)でロサスはウルキーサを迎え撃つが、ウルキーサ軍に破れるとイギリスに亡命し、ロサスは失脚した。 |
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'''しかし1852年、連邦派でロサスの腹心だったフスト・ホセ・デ・ウルキーサは、ブラジル、ウルグアイと同盟を結んでエントレ・リオス州からロサスに対して反旗を翻す。''' 1852年2月3日、ブエノスアイレス郊外のカスエロスの丘(現在は市街地化されている)でロサスはウルキーサ軍と激突するが敗れ、イギリスへ亡命し、失脚することとなった。 |
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ミトレは当時のアルゼンチンの自由主義者の御多分に漏れず、ヨーロッパを崇拝し、ガウチョ、インディオ、黒人を野蛮なものとして嫌っていたが、こうした自由主義者が政権を握ったことにより、以降ブエノスアイレスから黒人は消えていくことになる。1865年にアルゼンチン初の国政調査が行われた際、全人口の165万人の内およそ2万人が黒人だったが、1864年に[[パラグアイ]]の[[フランシスコ・ソラーノ・ロペス|ロペス]]元帥が起こした[[三国同盟戦争]]により、黒人は人口に対して不釣合いな規模が徴兵された。1871年に[[黄熱|黄熱病]]が流行したが、これが黒人のコミュニティに止めを刺し、僅かな黒人もウルグアイなどの周辺国に出国していった。 |
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[[ファイル:Muelle de La Boca.jpg|thumb|210px|1880年のラ・ボカの港]] |
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ミトレは、当時のアルゼンチン自由主義者と同様に、ヨーロッパ文化を崇拝し、ガウチョ、インディオ、黒人を野蛮なものとして嫌悪していました。こうした自由主義者が政権を握ったことが、ブエノスアイレスから黒人が消えていく大きな要因の一つとなりました。 |
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1880年にブエノスアイレス州の反対を押し切ってブエノスアイレス市が分離され、ブエノスアイレスは連邦直轄区となり、正式にアルゼンチンの首都になった。また、この頃に[[カサ・ロサダ]]が大統領府となった。自由主義者の政権はヨーロッパから多数の移民を導入し、アルゼンチンの発展を目指した。[[リアチュエロ川]]河口の港に面した[[ラ・ボカ]]地区ではイタリア系移民が多く集まり、彼等によって[[タンゴ]]が発達した。また、輸出経済の進展と共にアルゼンチンには広大な鉄道網が建設され、国内の全ての鉄道がブエノスアイレスのレティーロ駅に行き着いた。 |
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1865年に行われたアルゼンチン初の国勢調査では、全人口165万人のうち、黒人は約2万人を占めていました。しかし、1864年にパラグアイのロペス元帥が起こした三国同盟戦争では、黒人が人口比に比べて不均衡な規模で徴兵されました。さらに、1871年には黄熱病が流行し、黒人コミュニティに大きな打撃を与えました。これらの出来事により、生き残った黒人はウルグアイなどの周辺国へ移住することを余儀なくされ、ブエノスアイレスから黒人の姿が消えていくことになったのです。[[ファイル:Muelle de La Boca.jpg|thumb|210px|1880年のラ・ボカの港]] |
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[[1911年]]にはスペイン語圏、及び[[南半球]]初の[[地下鉄]](A線)が五月広場から市内西部に向かって開通した。1920年代以降はアルゼンチンの富裕さを反映して南北アメリカ大陸最大規模の都市の一つとして成長すると同時に、内陸部諸州からの国内移民が増加し、市内に吸収しきれなかった人口が郊外に巨大な[[スラム]]街([[ビジャス・ミセリアス]])を築いた。 |
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1880年、ブエノスアイレス市はブエノスアイレス州の強い抵抗を押し切って分離独立し、連邦直轄区となりました。これにより、ブエノスアイレスは正式にアルゼンチンの首都となり、政治・経済・文化の中心地としての役割を確立しました。 |
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[[1976年]]に[[ホルヘ・ラファエル・ビデラ]]将軍が治安維持のために「[[汚い戦争]]」に従事し、多くの反体制、左翼、及び全く政治活動に無関係の市民を暗殺したが、しかし経済の回復は全く見込めず、日夜スト、デモ、暴動が起き、情勢はより悪化した。こうして殺害された市民の数はおよそ30,000人と見積もられている<ref name="Millions">''We are Millions: Neo-liberalism and new forms of political action in Argentina'', Marcela Lópéz Levy, Latin America Bureau, London, 2004. ISBN 189936563X.</ref>。[[1987年]]には[[急進市民同盟]]の[[ラウル・アルフォンシン]]政権の下で、ブエノスアイレスの一極集中を緩和するため首都を[[パタゴニア]]北端の[[リオネグロ州]]の州都[[ビエドマ]]に移転する法案が下院を通過したものの、上院で否決され遷都案は立ち消えとなった。 |
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同時期、カサ・ロサダはアルゼンチン大統領府として使用されるようになりました。この建物は1819年に建てられ、当初は郵便局として利用されていました。その後、政府機関や議事堂として使用され、1886年に大統領府となりました。 |
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1992年5月17日、[[イスラエル]]大使館が[[イスラーム|イスラム]]系のテロ組織に爆破され、多くの死傷者を出した。[[カルロス・メネム|メネム]]大統領(たまたま[[アラブ人|アラブ]]系である)はこの事件を非難した。 |
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自由主義政権を担ったロカ大統領は、積極的な移民政策を推進しました。欧州各国から多くの移民がブエノスアイレスに流入し、都市の発展に大きく貢献しました。特にラ・プラタ川河口に位置するラ・ボカ地区には、イタリア系移民が多く集住しました。彼らによって、タンゴは活気あふれるダンスへと進化を遂げ、アルゼンチンを代表する文化となりました。 |
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近年は政情の安定を反映して暴動などはあまり起きていないが、それでもサッカーの試合の際にサポーターが暴動を起こしたり([[ボカ・ジュニアーズ|ボカ]]が負けると危険である)、[[フォークランド紛争|マルビナス戦争]]帰還兵がデモを行うことが多い。 |
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輸出経済の進展に伴い、アルゼンチンには広大な鉄道網が整備されました。主要な鉄道は全てブエノスアイレスのレティーロ駅に接続され、国内各地との物流網が確立されました。この鉄道網は、アルゼンチンの経済発展を支える重要なインフラとなり、都市化や人々の生活にも大きな影響を与えました。 |
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1911年、ブエノスアイレス地下鉄A線が五月広場から市内西部へ開通。これは、スペイン語圏及び南半球初の地下鉄として歴史的な出来事だった。1920年代以降、アルゼンチンは第一次世界大戦後の好景気により繁栄を極めました。その結果、ブエノスアイレスは南北アメリカ大陸最大規模の都市の一つへと成長し、国内各地から多くの人々が仕事を求めて移住してきました。しかし、都市への人口流入が急増した一方で、十分な住宅やインフラ整備が追い付かず、郊外には多くの貧困層が居住する巨大なスラム街(ビジャス・ミセリアス)が形成されました。 |
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'''1976年、ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍率いる軍部は、国家再組織過程と称し「汚い戦争」と呼ばれる弾圧を展開しました。''' この弾圧は、反体制派や左翼活動家だけでなく、政治活動に関与していない一般市民も巻き込み、多くの人命が失われました。'''犠牲者数は3万人とも言われています。''' |
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しかし、経済の回復どころか、日々のストライキ、デモ、暴動が頻発し、社会情勢は悪化の一途を辿りました。 |
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1987年、急進市民同盟のラウル・アルフォンシン政権下では、ブエノスアイレスの一極集中を緩和するため、首都をパタゴニア北端のリオネグロ州ビエドマ市に移転する法案が下院を通過しました。 |
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しかし、上院で否決され、遷都案は頓挫してしまいました。 |
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1992年3月17日、ブエノスアイレスにあるイスラエル大使館がイラン政府と関連するイスラム過激派組織によるテロ攻撃を受け、22人が死亡、300人以上が負傷しました。当時、レバノン系アルゼンチン人であったカルロス・メネム大統領は、このテロ行為を強く非難しました。この事件はアルゼンチン史上最悪のテロ事件であり、その後の両国関係に大きな影響を与えました。 |
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近年、ブエノスアイレスでは政情が安定し、大規模な暴動は減少傾向にあります。しかし、'''小規模な衝突やデモは依然として発生'''しており、特に注意が必要です。 |
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'''サッカーの試合'''では、'''サポーター同士の衝突'''が稀に起こります。'''ボカジュニオルの試合'''では、'''特に負け試合'''の際に暴動が発生しやすいので、十分な注意が必要です。 |
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'''マルビナス戦争帰還兵'''による抗議活動も時折行われます。デモの規模や内容は、'''政治情勢や経済状況'''によって変動します。 |
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ブエノスアイレスを訪れる際には、最新の情報を確認し、'''人通りの多い場所や夜間の外出を避ける'''など、基本的な防犯対策をしっかりと行うことが重要です。{{-}} |
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== 景観 == |
== 景観 == |
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== 政治 == |
== 政治 == |
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[[File:Atardecer en el Congreso de la Nación Argentina.jpg|thumb|[[国会議事堂 (アルゼンチン)|アルゼンチン国会議事堂]]]] |
[[File:Atardecer en el Congreso de la Nación Argentina.jpg|thumb|[[国会議事堂 (アルゼンチン)|アルゼンチン国会議事堂]]]] |
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1880年の首都令によって正式にアルゼンチン共和国の首都となり、政府や議会が置かれている。ただし同法令によりブエノスアイレス州の州庁はブエノスアイレス市から南東のラ・プラタ市に移されている。 |
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=== 地方政治 === |
=== 地方政治 === |
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== 行政区 == |
== 行政区 == |
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{{main|ブエノスアイレスのコムーナとバリオ}} |
{{main|ブエノスアイレスのコムーナとバリオ}} |
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ブエノスアイレス市は、コムーナ(comuna、「共同体」という意味)と呼ばれる15の区域に分けられ、またバリオ(Barrio、「地区」という意味)と呼ばれる48の区域に分けられる。 |
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ブエノスアイレス市は、どのように行政区域が分けられているのだろうか? 答えは、15のコムーナと48のバリオである。コムーナは行政区域としての役割を持ち、市長を選出する。一方、バリオは地域コミュニティとしての役割を持ち、独自の文化や伝統を持つ。 |
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== 地理 == |
== 地理 == |
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[[ファイル:River Plate.jpg|right|thumb|220px|ラ・プラタ川流域を捉えた衛星写真]] |
[[ファイル:River Plate.jpg|right|thumb|220px|ラ・プラタ川流域を捉えた衛星写真]] |
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[[パンパ]]の真ん中に位置し、東を大西洋に接している。市内を[[リアチュエーロ川]]と[[ラプラタ川|ラ・プラタ川]]が流れる。 |
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'''市内東部の[[ラプラタ川|ラ・プラタ川]]沿岸には、[[1985年]]にユネスコ生物圏保護区に指定され、[[2005年]]に[[ラムサール条約]]に登録された南海岸公園が広がる。''' |
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'''広さ約18ヘクタールのこの公園には、[[パンパ]]の草原、沼地、湿地、乾燥森林が広がり、[[ピューマ]]、[[オセロット]]、[[アメリカヌマジカ]]、[[クロエリハクチョウ]]をはじめとする多様な野生動物が生息する。''' |
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市内東部のラ・プラタ川沿岸の{{仮リンク|南海岸公園|es|Parque Costero del Sur}}は1985年に[[ユネスコ]]の[[生物圏保護区]]に指定され<ref name=":1">{{Cite web |title=Parque Costero del Sur Biosphere Reserve, Argentina |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/parque-costero-del-sur |website=UNESCO |date=2020-5 |access-date=2023-04-09 |language=en}}</ref>、2005年に[[ラムサール条約]]登録地となった<ref name=":2">{{Cite web |title=Reserva Ecológica Costanera Sur {{!}} Ramsar Sites Information Service |url=https://rsis.ramsar.org/ris/1459 |website=rsis.ramsar.org |access-date=2023-04-09 |date=2005-03-22}}</ref>。一帯にはパンパの[[草地]]のほか、[[沼地]]、[[湿地]]および{{仮リンク|ヨーロッパエノキ|en|Celtis australis}}や{{仮リンク|Celtis ehrenbergiana|en|Celtis ehrenbergiana|label=''Celtis ehrenbergiana''}}の乾燥[[森林]]が広がり、[[ピューマ]]、[[オセロット]]、[[アメリカヌマジカ]]、[[クロエリハクチョウ]]などが生息している<ref name=":1" /><ref name=":2" />。 |
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'''特に、南海岸公園は渡り鳥の重要な休憩地として知られており、毎年数多くの渡り鳥が訪れる。''' |
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== 気候 == |
== 気候 == |
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== 経済 == |
== 経済 == |
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2008年、[[プライスウォーターハウスクーパース]]の公表した調査によると、ブエノスアイレスの[[域内総生産順リスト|都市GDP]]は3620億ドルであり、世界第13位である<ref>[https://www.ukmediacentre.pwc.com/Content/Detail.asp?ReleaseID=3421&NewsAreaID=2 プライスウォーターハウスクーパースによる都市のGDP] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110513194342/https://www.ukmediacentre.pwc.com/Content/Detail.asp?ReleaseID=3421&NewsAreaID=2 |date=2011年5月13日 }}</ref>。南米では[[サンパウロ]]に次いで第2位。また[[2011年]]3月、英国の[[シンクタンク]]により、世界第64位の[[金融センター]]と評価されており、南米では[[サンパウロ]]、[[リオデジャネイロ]]に次ぐ第3位である<ref>[http://www.zyen.com/GFCI/GFCI%209.pdf The Global Financial Centres Index 9]</ref>。 |
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アルゼンチンはブエノスアイレス一極集中型の経済を持ち、ブエノスアイレスはアルゼンチンのすべての産業の中心となっている。 |
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ブエノスアイレスは港町として発展してきた歴史を持ち、現在でもアルゼンチン最大の港を持つ。世界有数の肥沃な農業地域であるパンパの中心部にあり、さらに[[ラプラタ川|ラ・プラタ川]]の水運とも連絡があるため、アルゼンチンの主要輸出品である[[牛肉]]や[[コムギ|小麦]]、[[ダイズ|大豆]]や[[トウモロコシ]]、さらに[[ウール|羊毛]]や[[皮革]]などの輸出港として発展してきた。ラ・プラタ川を通じてパラグアイと、さらにウルグアイやブラジルともつながりがあり、アルゼンチンのみならず南アメリカ大陸南部の物流拠点となっている。 |
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工業としては、パンパからの農業輸出に関連した食品加工や製粉業、皮革工業に加え、自動車や石油精製、繊維や出版などの産業も盛んである。 |
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== 交通 == |
== 交通 == |
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[[File:Colonia del Sacramento 2016 042.jpg|thumb|[[ウルグアイ]]行きフェリー]] |
[[File:Colonia del Sacramento 2016 042.jpg|thumb|[[ウルグアイ]]行きフェリー]] |
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ブエノスアイレス市内では |
ブエノスアイレス市内で最も一般的な移動手段はコレクティーボ(市内バス)と地下鉄であり、タクシーも使いやすい。20世紀を通じて多く利用された鉄道は、市内や郊外では21世紀に入り更に便利になっているが、中・長距離路線は1993年より減少傾向のため、国内の地方都市や海外を訪れるには長距離バスや航空機を使うことが多い。 |
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=== 鉄道と地下鉄 === |
=== 鉄道と地下鉄 === |
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{{Main|ブエノスアイレスの鉄道}} |
{{Main|ブエノスアイレスの鉄道}} |
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ブエノスアイレスには |
ブエノスアイレスには[[ブエノスアイレス地下鉄|地下鉄]]、[[ライトレール]]・[[路面電車|トラム]]、近郊列車があり、近郊列車の路線網は[[アメリカ大陸]]では[[ニューヨーク]]に次いで第2位の規模を誇る。また、1993年より減便・廃止が進んでいるものの同州各都市や同国各都市へ向かう中・長距離列車も運行されている。 |
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かつては中・長距離列車も運行されていましたが、[[1993年]]以降減便・廃止が進んでいます。しかし、現在でも一部の路線は残っており、同州各都市や同国各都市への移動手段として利用することができます。 |
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=== 長距離バス === |
=== 長距離バス === |
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=== 空港 === |
=== 空港 === |
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国内線は[[ホルヘ・ニューベリー空港]](AEP)から、ポルテーニョからはアエロパルケと呼ばれて親しまれている。国際線はエセイサにある[[エセイサ国際空港|ミニストロ・ピスタリーニ国際空港]] |
国内線は[[ホルヘ・ニューベリー空港]] (AEP)から運行しており、ポルテーニョからはアエロパルケと呼ばれて親しまれている。国際線は[[ブエノスアイレス州]]の[[エセイサ (パルティード)|エセイサ]]にある[[エセイサ国際空港|ミニストロ・ピスタリーニ国際空港]] (EZE) から運行し、ラテンアメリカ諸国や[[ヨーロッパ]]、[[北アメリカ]]、[[オセアニア]]、[[アフリカ]]を結んでいる。 |
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== 観光 == |
== 観光 == |
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主な観光地としては[[テアトロ・コロン|コロン劇場]]、[[ブエノスアイレス大聖堂]]、レコレータ墓地、カミニートなど。 |
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'''活気に満ちた文化都市''' |
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ブエノスアイレスは、[[アルゼンチン]]の首都であり、活気に満ちた[[文教都市|文化都市]]です。[[ヨーロッパ]]風の建築様式と[[ラテンアメリカ]]の情熱が融合した街並みは、訪れる人を魅了します。 |
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フロリダ通り、ラバージェ通りは日夜観光客で賑わい、サン・テルモ地区には「バー・スール」、「エル・ビエホ・アルマセン」を始めとした多くの老舗[[タンゲリア]](タンゴ・バー)があり、多くの観光客を引き寄せている。 |
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'''歴史と文化を感じさせる観光スポット''' |
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主な観光地としては、世界三大劇場の一つと称される[[テアトロ・コロン|コロン劇場]]、[[アルゼンチン]]の独立記念碑である[[オベリスク|オベリスコ]]、[[アルゼンチン]]の英雄エビータが眠るレコレータ墓地などがあります。 |
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'''緑豊かな憩いの場''' |
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'''活気あふれるショッピングエリア''' |
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フロリダ通りとラバージェ通りは、日夜観光客で賑わうショッピングエリアです。高級ブランド店から地元の雑貨店まで、様々な店が軒を連ねています。 |
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'''[[タンゴ]]発祥の地で本場の[[タンゴ]]を堪能''' |
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サン・テルモ地区は、[[タンゴ]]発祥の地として知られています。「バー・スール」や「[[エル・ビエホ・アルマセン]]」など、多くの老舗タンゴバーがあり、本場のタンゴショーを楽しむことができます。 |
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== 市民 == |
== 市民 == |
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ブエノスアイレス市民は |
ブエノスアイレス市民は{{仮リンク|ポルテーニョ|en|Porteño}}と呼ばれ、プロビンシアーノと呼ばれる内陸部の住民とはお互いに感情的対立がある。 |
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ブエノスアイレス市には303万人(2007年)の人口が居住しているが、ブエノスアイレス州の一部を含めた周辺の大ブエノスアイレス都市圏には約1240万人が居住している。これは国民の約3割ほどである。 |
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19世紀半ばから20世紀初 |
住民の大多数を19世紀半ばから20世紀初めに移民してきたヨーロッパ系の白人が占めるが、その一方で、国内の貧しい州から移住してきた先住民系の[[アルゼンチン人]]や、近隣の[[ボリビア]]、[[パラグアイ]]からの移民、[[日系アルゼンチン人|日系人]]、[[中華人民共和国|中国]]系人、[[大韓民国|韓国]]系人、[[台湾]]系人、[[ラオス]]系人などの[[アジア系アルゼンチン人]]は見た目で非白人だと分かる人も多い。また、[[アフリカ系アルゼンチン人]]はかつてに比べれば大きくその数を減らしたが、それでもいなくなったわけではない。 |
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市域は15のコムーナ(共同体) |
市域は15のコムーナ(共同体)、48のバリオ(地区)に分けられる。{{main|[[ブエノスアイレスのコムーナとバリオ]]}} |
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== 文化 == |
== 文化 == |
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南米のパリと |
「南米のパリ」として知られ、白人系人口と、ヨーロッパ的な建築物の多さにより、南アメリカで最もヨーロッパ的な都市となっている。 |
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=== 建築 === |
=== 建築 === |
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[[ファイル:Tango au01.JPG|thumb|190px|街頭でのタンゴ舞踊]] |
[[ファイル:Tango au01.JPG|thumb|190px|街頭でのタンゴ舞踊]] |
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ブエノスアイレス市は五月広場が中心地であり、広場付近には[[ブエノスアイレス大聖堂]]、[[カサ・ロサダ]]、国立銀行などの重厚な建築物が多い。[[7月9日大通り]]にはオベリスコがあり、その近くには世界三大劇場の1つ、[[テアトロ・コロン|コロン劇場]]がある。 |
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五月広場は、アルゼンチン独立の舞台となった場所として知られています。広場の北側には、ピンク色の外観が印象的なブエノスアイレス大聖堂が建っています。この大聖堂には、[[アルゼンチン]]、[[チリ]]、[[ペルー]]の解放者である[[ホセ・デ・サン=マルティン]]将軍の亡骸が安置されています。 |
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五月広場から少し離れた7月9日大通りには、ブエノスアイレスのシンボルともいえる[[オベリスク|オベリスコ]]がそびえ立ちます。その近くには、世界三大劇場の一つに数えられる[[テアトロ・コロン|コロン劇場]]があります。[[テアトロ・コロン|コロン劇場]]では、[[オペラ]]や[[バレエ]]などの公演が定期的に開催されています。 |
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大聖堂にはアルゼンチン、チリ、ペルーの解放者、[[ホセ・デ・サン=マルティン]]将軍の亡骸が安置されている。 |
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ブエノスアイレスは、活気あふれる街並みと歴史的な建造物が魅力的な都市です。五月広場周辺を散策すれば、[[アルゼンチン]]の歴史と文化を肌で感じることができるでしょう。 |
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=== 言語 === |
=== 言語 === |
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[[ロサリオ]]、モンテビデオと共に、[[リオプラテンセ・スペイン語]]が話される最大の都市である。ポルテーニョのアクセントは[[イタリア語]]のナポリ方言に近い。 |
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アルゼンチンは19世紀に多くの移民を受け入れ、移民の多くはブエノスアイレスに定着したため、今でもブエノスアイレスでは[[ドイツ語]]、[[フランス語]]、[[ガリシア語]]など多種多様な言語が話されている。 |
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先住民の言語 |
南米先住民の言語もパラグアイからの移民による[[グアラニー語]]や、ブエノスアイレスで最も危険なスラムとなっているボリビア人街では[[アイマラ語]]が使われている。 |
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アジア系の言語も近年増加したアジア系の移民により、[[中国語]]や[[ラーオ語]]、ボリビア人街のすぐ側の韓国人街では[[朝鮮語|韓国語]]が日常的に使われている。日系人もいるが、[[日本語]]はあまり話されていない。 |
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=== タンゴ === |
=== タンゴ === |
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=== サッカー === |
=== サッカー === |
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{{Main|Category:ブエノスアイレスのサッカークラブ}} |
{{Main|Category:ブエノスアイレスのサッカークラブ}} |
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ブエノスアイレスには、[[アルゼンチンのサッカーリーグ構成|アルゼンチンリーグ]]の[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|プリメーラ・ディビシオン]](1部)に所属するプロ[[サッカー]]クラブが4つ存在しており、世界的にも非常に有名な'''[[ボカ・ジュニアーズ]]'''や'''[[CAリーベル・プレート|リーベル・プレート]]'''を筆頭に、[[CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ|サン・ロレンソ]]や[[CAウラカン|ウラカン]]などのクラブもある。 |
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'''熱狂的なサポーターが存在する世界屈指のサッカークラブの本拠地''' |
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[[アルゼンチン]]首都ブエノスアイレスは、世界屈指のサッカークラブの本拠地として知られています。アルゼンチンリーグ最高峰の[[プリメーラ・ディビシオン]](1部)に所属する4つのクラブチームが、この街を舞台に熱戦を繰り広げています。 |
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一方で、リーベル・プレートも当初はラ・ボカ地区からクラブをスタートしたものの、現在は[[ヌニェス (ブエノスアイレス)|ヌニェス]]地区を[[本拠地]]としている。ホームスタジアムは、収容人数7万人の'''[[エスタディオ・モヌメンタル・アントニオ・ベスプチオ・リベルティ|エル・モヌメンタル]]'''(''El Monumental'')である。 |
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{{wide image|River Monumental Panoramic.jpg|1200px|[[エスタディオ・モヌメンタル・アントニオ・ベスプチオ・リベルティ|エル・モヌメンタル]]では『[[1978 FIFAワールドカップ]]・決勝』も開催された}} |
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== 教育 == |
== 教育 == |
2024年5月24日 (金) 16:27時点における版
ブエノスアイレス | |||
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ブエノスアイレス自治市 Ciudad Autónoma de Buenos Aires | |||
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愛称: | |||
アルゼンチンの位置 | |||
座標:南緯34度35分59秒 西経58度22分55秒 / 南緯34.5997度 西経58.3819度座標: 南緯34度35分59秒 西経58度22分55秒 / 南緯34.5997度 西経58.3819度 | |||
国 | アルゼンチン | ||
建設 |
1536年2月2日(ペドロ・デ・メンドーサ) 1580年6月11日 (フアン・デ・ガライ) | ||
政府 | |||
• 種別 | 自治市 | ||
• 政府長官 | オラシオ・ロドリゲス・ラレッタ | ||
面積 | |||
• 自治市 | 203 km2 | ||
• 陸地 | 203 km2 | ||
• 都市圏 | 4,758 km2 | ||
標高 | 25 m | ||
人口 (2022年調査)[4] | |||
• 順位 | 1位 | ||
• 密度 | 15,372人/km2 | ||
• 都市部 | 3,120,612人 | ||
• 都市圏 | 15,624,000人 | ||
等時帯 | UTC−3 (アルゼンチン時間) | ||
市外局番 | 011 | ||
ウェブサイト |
buenosaires |
ブエノスアイレス自治市(ブエノスアイレスじちし、西: Ciudad Autónoma de Buenos Aires、CABA)、通称ブエノスアイレス(西: Buenos Aires)は、アルゼンチンの首都[5]。州には属さず[注釈 1]、他23州とともにアルゼンチンを構成する。
大ブエノスアイレス都市圏の都市圏人口は2016年時点で1,428万人であり、世界第21位である[6]。
建国以来アルゼンチンの政治、経済、文化の中心である。アルゼンチンの縮図ともなっている一方で、内陸部との差異が大きすぎるため、しばしば「国内共和国」と呼ばれる。
概要
「南米のパリ」の名で親しまれ[7][8]、南米の中で美しい町の1つとして数えられる。
ラ・プラタ川(Río de la Plata スペイン語で「銀の川」の意)に面しており、対岸はウルグアイのコロニア・デル・サクラメント。
意味はスペイン語で「buenos(良い)aires(空気、風)」の意。船乗りの望む「順風」が街の名前になったものである。
独立当時は「偉大な田舎」と呼ばれる人口5万人程の小さな町だったが、サルミエント (Sarmiento) 政権による欧州化、文明化政策の実施以降数多くの移民がイタリア・スペインなどから渡来し、中南米の中でも最も欧州的な街になった。
かつて南米随一の豊かさを誇ったアルゼンチンの首都として、20世紀において長らくブエノスアイレスは南米最大級の都市であった[9]。1970年代以降のアルゼンチン経済の悪化に伴い、南米最大の都市はブラジルのサンパウロに移ってしまったものの、現在でもブエノスアイレスはスペイン語圏の都市として重要性を保ち、アメリカのシンクタンクが2019年に発表した世界都市ランキングでは24位に評価され、南米の都市の中で首位であった[10]。
かの有名なアルゼンチン・タンゴはこの街のボカ地区で育った。また、サッカーが盛んなことでも有名で、ディエゴ・マラドーナが在籍したボカ・ジュニアーズやCAリーベル・プレートなど名門チームを数多く擁する。
市民はポルテーニョ(porteño, 女性はポルテーニャporteña; 港の人、浜っ子の意)と呼ばれる[11]。
歴史
1516年にスペイン王の命により新大陸の探検をしていた、スペイン人航海者 フアン・ディアス・デ・ソリスは、ラ・プラタ川に到達した。ソリスは今日のラ・プラタ地域に到達した最初のヨーロッパ人だと思われるが、今日のウルグアイ領で、先住民のチャルーア族により殺害される。
1536年2月2日、バスク人貴族でスペインの探検家だったペドロ・デ・メンドーサの植民団一行は、現在のブエノス・アイレス南部のサン・テルモ地区に、ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリーア・デル・ブエン・アイレ市(西: Ciudad de Nuestra Señora Santa María del Buen Ayre 直訳すると「良き風の我々の聖母マリア市」)[7] を建設した。しかしグアラニー族やチャルーア族を始めとする先住民の包囲攻撃と、それに伴う飢餓のために町は1541年に放棄され[12][13]、生き残りはパラナ川を上ってアスンシオンを建設した。
1580年、アスンシオンからパラナ川を下って来た、フアン・デ・ガライ率いるヨーロッパ人植民団により、街はラ・トリニダー (La Trinidad) 市として再建された[14]。町は当初ラ・プラタ地域の皮革などを輸出する貿易港として賑わったが、16世紀、17世紀の大半をスペインの植民地政府は、ヨーロッパへの輸出品は全てペルーのリマを経由することを強制しつづけたので、市内の貿易業者の不満が高まり、イギリスやフランス、オランダとの密貿易が盛んになった[7]。
1776年にブラジル方面から侵攻を続けるポルトガルからバンダ・オリエンタルを防衛するために、ペルー副王領が分離され、リオ・デ・ラ・プラタ副王領が設置されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となり、正式に開港された。しかし、完全な自由貿易を求めるクリオーリョ達にとっては、この措置は未だに不十分なものであり、スペイン当局への憤懣を鬱積させるもとになった。フランス革命後、ヨーロッパでの戦乱の中でスペインがフランスと同盟を結ぶと、スペインの敵対国となったイギリスはこの地域の支配を目論み、1806年、ブエノスアイレスに侵攻を試みた(イギリスのラプラタ侵略)。ラ・プラタ副王は逃亡したが、ポルテーニョ民兵隊は副王不在のままイギリス軍を撃退し、翌1807年再侵略をも撃退すると、自信をつけたポルテーニョ達のスペインへの忠誠は揺らいでいった。現在もブエノスイアレス市民のことをポルテーニョ(港の人)と呼ぶのはこの時の民兵隊の名前から来ている。
1808年にナポレオン・ボナパルトの指導するフランス帝国がスペインに侵攻し、兄のジョゼフ・ボナパルトをホセ1世に据えると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。1810年5月25日に五月革命が勃発し、ラ・プラタ副王はポルテーニョ達により追放され自治政府が発足した。1816年7月9日にはトゥクマンの議会でブエノスアイレスを首都に定めたリオ・デ・ラ・プラタ連合州の独立が宣言された。独立後はすぐに連邦同盟のアルティーガス派との内戦が続いたが、各州の妥協により、ブエノスアイレス州が連合州の外交権を行使することが認められた。1821年にベルナルディーノ・リバダビアが州内務大臣として辣腕を振るい、ブエノスアイレス大学が設立された。
1825年のブラジル戦争の最中に連合州はアルゼンチンと改名し、リバダビアはブエノスアイレス市をブエノスアイレス州から切り離した連邦直轄の首都に定める憲法を公布したが、この憲法はブエノスアイレス港を中央政府に奪われることを嫌って反対運動を起こした連邦派、統一派双方の利害よって流れ、結局この憲法とブラジル戦争の指導失敗が下でリバダビアは失脚した。
リバダビアの失脚後、連邦派のマヌエル・ドレーゴが戦争の指導を継続するが、イギリスの圧力により、1828年のモンテビデオ条約でウルグアイの独立を認めさせられると(事実上の引き分け)帰還兵の不満は募り、同年ドレーゴは統一派のフアン・ラバージェによって暗殺され、ラバージェが自ら州知事になった。このことがさらに連邦派と統一派の戦いを激化させ、1829年、ラバージェを打倒したフアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事となった。
1835年、ロサスが州知事に返り咲いた。ロサスは州内一の「馬上の人」(モントネーロ)であり、自らもガウチョより上手に馬を操ったといわれ、黒人や都市下層民、ガウチョ、友好的なインディオから圧倒的な支持を得ており、ロサス時代にはそのような人々からなる街に「ロサシート」と呼ばれるロサス派が街練り歩き、街はロサスの肖像画と、ロサスが好んだ連邦派の赤色で埋め尽くされた。また、秘密警察が市民を監視し、多くの自由主義者がチリのサンティアゴをはじめとする国外に亡命することになった。しかし、1852年、連邦派でロサスの腹心だったフスト・ホセ・デ・ウルキーサが、ブラジル、ウルグアイと同盟を結んでエントレ・リオス州からロサスに対して反旗を翻すと、1852年2月3日ブエノスアイレス郊外のカセーロスの丘(現在は市街地になっている)でロサスはウルキーサを迎え撃つが、ウルキーサ軍に破れるとイギリスに亡命し、ロサスは失脚した。
ウルキーサは連邦主義を体制化することを望み、フアン・バウティスタ・アルベルディが起草した1853年憲法を連邦の憲法に制定して同年アルゼンチン連邦の成立を宣言したが、ブエノスアイレス州は連邦派の支配を嫌って離反し、連邦はエントレ・リオス州のパラナに首都を置いた。その後、連邦とブエノスアイレスの戦いが繰り返されたが、1862年11月に州知事のバルトロメ・ミトレがウルキーサをバポンの戦いで破ると、ここにブエノスアイレスが連邦を併合する形で国家統一が実現し、アルゼンチン共和国の成立が宣言された。
ミトレは当時のアルゼンチンの自由主義者の御多分に漏れず、ヨーロッパを崇拝し、ガウチョ、インディオ、黒人を野蛮なものとして嫌っていたが、こうした自由主義者が政権を握ったことにより、以降ブエノスアイレスから黒人は消えていくことになる。1865年にアルゼンチン初の国政調査が行われた際、全人口の165万人の内およそ2万人が黒人だったが、1864年にパラグアイのロペス元帥が起こした三国同盟戦争により、黒人は人口に対して不釣合いな規模が徴兵された。1871年に黄熱病が流行したが、これが黒人のコミュニティに止めを刺し、僅かな黒人もウルグアイなどの周辺国に出国していった。
1880年にブエノスアイレス州の反対を押し切ってブエノスアイレス市が分離され、ブエノスアイレスは連邦直轄区となり、正式にアルゼンチンの首都になった。また、この頃にカサ・ロサダが大統領府となった。自由主義者の政権はヨーロッパから多数の移民を導入し、アルゼンチンの発展を目指した。リアチュエロ川河口の港に面したラ・ボカ地区ではイタリア系移民が多く集まり、彼等によってタンゴが発達した。また、輸出経済の進展と共にアルゼンチンには広大な鉄道網が建設され、国内の全ての鉄道がブエノスアイレスのレティーロ駅に行き着いた。
1911年にはスペイン語圏、及び南半球初の地下鉄(A線)が五月広場から市内西部に向かって開通した。1920年代以降はアルゼンチンの富裕さを反映して南北アメリカ大陸最大規模の都市の一つとして成長すると同時に、内陸部諸州からの国内移民が増加し、市内に吸収しきれなかった人口が郊外に巨大なスラム街(ビジャス・ミセリアス)を築いた。
1976年にホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が治安維持のために「汚い戦争」に従事し、多くの反体制、左翼、及び全く政治活動に無関係の市民を暗殺したが、しかし経済の回復は全く見込めず、日夜スト、デモ、暴動が起き、情勢はより悪化した。こうして殺害された市民の数はおよそ30,000人と見積もられている[15]。1987年には急進市民同盟のラウル・アルフォンシン政権の下で、ブエノスアイレスの一極集中を緩和するため首都をパタゴニア北端のリオネグロ州の州都ビエドマに移転する法案が下院を通過したものの、上院で否決され遷都案は立ち消えとなった。
1992年5月17日、イスラエル大使館がイスラム系のテロ組織に爆破され、多くの死傷者を出した。メネム大統領(たまたまアラブ系である)はこの事件を非難した。
近年は政情の安定を反映して暴動などはあまり起きていないが、それでもサッカーの試合の際にサポーターが暴動を起こしたり(ボカが負けると危険である)、マルビナス戦争帰還兵がデモを行うことが多い。
景観
政治
1880年の首都令によって正式にアルゼンチン共和国の首都となり、政府や議会が置かれている。ただし同法令によりブエノスアイレス州の州庁はブエノスアイレス市から南東のラ・プラタ市に移されている。
地方政治
選挙によって選ばれたブエノスアイレス市政府長官(es:Anexo:Jefes de gobierno de la ciudad de Buenos Aires)が首長である。議会はブエノスアイレス市議会(es:Legislatura de la Ciudad de Buenos Aires)で、一院制を採用している。
国政
国政では下院の25議席と上院の3議席が割り当てられている。大統領選挙の場合の結果は非常に流動的かつ他地域とは大きく異なった結果が出ることがあり、ブエノスアイレス市でのみ最多得票を得る候補者が出現するほどである。
行政区
ブエノスアイレス市は、コムーナ(comuna、「共同体」という意味)と呼ばれる15の区域に分けられ、またバリオ(Barrio、「地区」という意味)と呼ばれる48の区域に分けられる。
地理
パンパの真ん中に位置し、東を大西洋に接している。市内をリアチュエーロ川とラ・プラタ川が流れる。
市内東部のラ・プラタ川沿岸の南海岸公園は1985年にユネスコの生物圏保護区に指定され[16]、2005年にラムサール条約登録地となった[17]。一帯にはパンパの草地のほか、沼地、湿地およびヨーロッパエノキやCeltis ehrenbergianaの乾燥森林が広がり、ピューマ、オセロット、アメリカヌマジカ、クロエリハクチョウなどが生息している[16][17]。
気候
気候は温暖湿潤気候で四季がある。しかし南半球にある為、北半球の日本とは季節が逆になり、一番暑いのは1月(平均気温25.1℃)、一番寒いのは7月(平均気温10.9℃)である。年間通じて降雨があるものの年中一定というわけではなく、3月と10月、11月がやや多く、6月と7月はやや少ない。年間降水量は1214mm[18]。史上最高気温は1957年1月29日に記録された43.3℃である[19]。
ブエノスアイレス (1981–1990)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 43.3 (109.9) |
38.7 (101.7) |
37.9 (100.2) |
36.0 (96.8) |
31.6 (88.9) |
28.5 (83.3) |
30.2 (86.4) |
34.4 (93.9) |
34 (93) |
34 (93) |
36.8 (98.2) |
40.5 (104.9) |
43.3 (109.9) |
平均最高気温 °C (°F) | 30.4 (86.7) |
28.7 (83.7) |
26.4 (79.5) |
22.7 (72.9) |
19.0 (66.2) |
15.6 (60.1) |
13.9 (57) |
17.3 (63.1) |
18.9 (66) |
22.5 (72.5) |
25.3 (77.5) |
28.1 (82.6) |
21.5 (70.7) |
日平均気温 °C (°F) | 25.1 (77.2) |
23.7 (74.7) |
21.4 (70.5) |
17.7 (63.9) |
14.3 (57.7) |
11.2 (52.2) |
10.9 (51.6) |
12.7 (54.9) |
14.2 (57.6) |
17.7 (63.9) |
20.6 (69.1) |
23.2 (73.8) |
17.72 (63.92) |
平均最低気温 °C (°F) | 20.4 (68.7) |
19.4 (66.9) |
17.0 (62.6) |
13.7 (56.7) |
10.3 (50.5) |
7.6 (45.7) |
7.4 (45.3) |
8.9 (48) |
9.9 (49.8) |
13.0 (55.4) |
15.9 (60.6) |
18.4 (65.1) |
12.9 (55.2) |
最低気温記録 °C (°F) | 5.9 (42.6) |
4.2 (39.6) |
2.8 (37) |
−2.3 (27.9) |
−4 (25) |
−5.3 (22.5) |
−5.4 (22.3) |
−4 (25) |
−2.4 (27.7) |
−2 (28) |
1.6 (34.9) |
3.7 (38.7) |
−5.4 (22.3) |
降水量 mm (inch) | 121.6 (4.787) |
122.6 (4.827) |
153.9 (6.059) |
106.9 (4.209) |
92.1 (3.626) |
50.0 (1.969) |
52.9 (2.083) |
63.2 (2.488) |
77.7 (3.059) |
139.3 (5.484) |
131.2 (5.165) |
103.2 (4.063) |
1,214.6 (47.819) |
平均降水日数 | 9 | 9 | 9 | 9 | 8 | 6 | 7 | 8 | 7 | 10 | 10 | 9 | 101 |
% 湿度 | 65 | 70 | 72 | 77 | 76 | 79 | 79 | 74 | 71 | 69 | 68 | 64 | 72.0 |
出典:Servicio Meteorológico Nacional[18] |
環境
アルゼンチンの全産業の中心地でもあるため、都市部を中心に環境汚染が酷い。特にリアチュエロ川の汚染が酷くなっている。
経済
2008年、プライスウォーターハウスクーパースの公表した調査によると、ブエノスアイレスの都市GDPは3620億ドルであり、世界第13位である[20]。南米ではサンパウロに次いで第2位。また2011年3月、英国のシンクタンクにより、世界第64位の金融センターと評価されており、南米ではサンパウロ、リオデジャネイロに次ぐ第3位である[21]。
アルゼンチンはブエノスアイレス一極集中型の経済を持ち、ブエノスアイレスはアルゼンチンのすべての産業の中心となっている。
ブエノスアイレスは港町として発展してきた歴史を持ち、現在でもアルゼンチン最大の港を持つ。世界有数の肥沃な農業地域であるパンパの中心部にあり、さらにラ・プラタ川の水運とも連絡があるため、アルゼンチンの主要輸出品である牛肉や小麦、大豆やトウモロコシ、さらに羊毛や皮革などの輸出港として発展してきた。ラ・プラタ川を通じてパラグアイと、さらにウルグアイやブラジルともつながりがあり、アルゼンチンのみならず南アメリカ大陸南部の物流拠点となっている。
工業としては、パンパからの農業輸出に関連した食品加工や製粉業、皮革工業に加え、自動車や石油精製、繊維や出版などの産業も盛んである。
交通
ブエノスアイレス市内で最も一般的な移動手段はコレクティーボ(市内バス)と地下鉄であり、タクシーも使いやすい。20世紀を通じて多く利用された鉄道は、市内や郊外では21世紀に入り更に便利になっているが、中・長距離路線は1993年より減少傾向のため、国内の地方都市や海外を訪れるには長距離バスや航空機を使うことが多い。
鉄道と地下鉄
ブエノスアイレスには地下鉄、ライトレール・トラム、近郊列車があり、近郊列車の路線網はアメリカ大陸ではニューヨークに次いで第2位の規模を誇る。また、1993年より減便・廃止が進んでいるものの同州各都市や同国各都市へ向かう中・長距離列車も運行されている。
長距離バス
レティーロ駅のすぐ近くにレティーロ長距離バスターミナルがあり、国内各地やブラジル、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビア、チリ、ペルーといった近隣諸国を結ぶ便がひっきりなしに発着している。利用者の多い路線では新しい2階建てバスも使用されている。
市内交通
市内はコレクティーボ(バス)が多数運行しており、24時間運行している。タクシーは黄色と黒で塗り分けられている。
海運
プエルト・マデーロ地区のフェリー乗り場から、ブケブス社によりウルグアイのコロニア・デル・サクラメント、モンテビデオ行きのフェリーが毎日運行している。
空港
国内線はホルヘ・ニューベリー空港 (AEP)から運行しており、ポルテーニョからはアエロパルケと呼ばれて親しまれている。国際線はブエノスアイレス州のエセイサにあるミニストロ・ピスタリーニ国際空港 (EZE) から運行し、ラテンアメリカ諸国やヨーロッパ、北アメリカ、オセアニア、アフリカを結んでいる。
観光
主な観光地としてはコロン劇場、ブエノスアイレス大聖堂、レコレータ墓地、カミニートなど。
ラプラタ川沿いには「パレルモの森」と呼ばれる広大な緑地があり、市民の憩いの場所となっている。かつてフアン・マヌエル・デ・ロサスの私邸があった場所で、カセーロスの戦いの日を記念して、公式には「2月3日公園」という名称が付けられている。
フロリダ通り、ラバージェ通りは日夜観光客で賑わい、サン・テルモ地区には「バー・スール」、「エル・ビエホ・アルマセン」を始めとした多くの老舗タンゲリア(タンゴ・バー)があり、多くの観光客を引き寄せている。
市民
ブエノスアイレス市民はポルテーニョと呼ばれ、プロビンシアーノと呼ばれる内陸部の住民とはお互いに感情的対立がある。
ブエノスアイレス市には303万人(2007年)の人口が居住しているが、ブエノスアイレス州の一部を含めた周辺の大ブエノスアイレス都市圏には約1240万人が居住している。これは国民の約3割ほどである。
住民の大多数を19世紀半ばから20世紀初めに移民してきたヨーロッパ系の白人が占めるが、その一方で、国内の貧しい州から移住してきた先住民系のアルゼンチン人や、近隣のボリビア、パラグアイからの移民、日系人、中国系人、韓国系人、台湾系人、ラオス系人などのアジア系アルゼンチン人は見た目で非白人だと分かる人も多い。また、アフリカ系アルゼンチン人はかつてに比べれば大きくその数を減らしたが、それでもいなくなったわけではない。
市域は15のコムーナ(共同体)、48のバリオ(地区)に分けられる。
文化
「南米のパリ」として知られ、白人系人口と、ヨーロッパ的な建築物の多さにより、南アメリカで最もヨーロッパ的な都市となっている。
建築
ブエノスアイレス市は五月広場が中心地であり、広場付近にはブエノスアイレス大聖堂、カサ・ロサダ、国立銀行などの重厚な建築物が多い。7月9日大通りにはオベリスコがあり、その近くには世界三大劇場の1つ、コロン劇場がある。
大聖堂にはアルゼンチン、チリ、ペルーの解放者、ホセ・デ・サン=マルティン将軍の亡骸が安置されている。
言語
ロサリオ、モンテビデオと共に、リオプラテンセ・スペイン語が話される最大の都市である。ポルテーニョのアクセントはイタリア語のナポリ方言に近い。
アルゼンチンは19世紀に多くの移民を受け入れ、移民の多くはブエノスアイレスに定着したため、今でもブエノスアイレスではドイツ語、フランス語、ガリシア語など多種多様な言語が話されている。
南米先住民の言語もパラグアイからの移民によるグアラニー語や、ブエノスアイレスで最も危険なスラムとなっているボリビア人街ではアイマラ語が使われている。 アジア系の言語も近年増加したアジア系の移民により、中国語やラーオ語、ボリビア人街のすぐ側の韓国人街では韓国語が日常的に使われている。日系人もいるが、日本語はあまり話されていない。
タンゴ
アルゼンチン・タンゴの本場である。タンゴはこの街のラ・ボカで発祥したとも言われている。
スポーツ
サッカー
ブエノスアイレスには、アルゼンチンリーグのプリメーラ・ディビシオン(1部)に所属するプロサッカークラブが4つ存在しており、世界的にも非常に有名なボカ・ジュニアーズやリーベル・プレートを筆頭に、サン・ロレンソやウラカンなどのクラブもある。
ボカ・ジュニアーズのホームタウンであるラ・ボカ地区には、1938年にサッカー専用スタジアムのラ・ボンボネーラ(La Bombonera)が建設され、1996年には改修工事が行われメインスタンドにVIP専用のボックス席を増設。さらに警備上の問題からスタジアムとピッチの間に設置されていた金網のフェンスの代わりに、透明な防弾ガラスを設置し臨場感が増すようになった。
一方で、リーベル・プレートも当初はラ・ボカ地区からクラブをスタートしたものの、現在はヌニェス地区を本拠地としている。ホームスタジアムは、収容人数7万人のエル・モヌメンタル(El Monumental)である。
教育
姉妹都市・友好都市
ブエノスアイレス市と姉妹関係にある都市を列挙する。
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ブエノスアイレス市と姉妹関係にある地域や州を列挙する。
- アンダルシア州(スペイン, 2001年)
- バジリカータ州(イタリア)
- カラブリア州(イタリア, 1987年)
- ガリシア州(スペイン, 1998年)
- ニュージャージー州(アメリカ合衆国)
- オハイオ州(アメリカ合衆国)
写真集
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レティーロ駅
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サンマルティン広場
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国立美術館
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プラネタリウム
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プエルト・マテロの夜景
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フロリダ通り
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パレルモの森
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乙女の橋
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カビルド
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サント・ドミンゴ教会
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ブエノスアイレス大聖堂
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アルゼンチン空軍広場
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流水宮殿
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レコレータ墓地
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ラ・ボカ地区のカミニート
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エル・アテネオ(本屋)
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夜のブエノスアイレス
(衛星写真)
脚注
注釈
出典
- ^ Corsalini, Claudio (4 February 2017). “En la 'Reina del Plata', sólo el 3% de las calles tiene nombre de mujer” (スペイン語). Perfil. 1 December 2017時点のオリジナルよりアーカイブ。25 November 2017閲覧。
- ^ Lewis, Colin M. (2002). Argentina: A Short History. Oxford: Oneworld Publications. ISBN 1-85168-300-3
- ^ Green, Toby (4 February 2001). “The Paris of South America”. The Independent. オリジナルの9 June 2020時点におけるアーカイブ。 9 June 2020閲覧。
- ^ “Nuevos datos provisorios del Censo 2022: Argentina tiene 46.044.703 habitantes”. Infobae (31 January 2023). 2023年2月3日閲覧。
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- ^ 世界の都市圏人口の順位(2016年4月更新) Demographia 2016年10月29日閲覧。
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- ^ 'Paris of the South' by Kenneth Bagnell, Canoe travel, 7 March 2005.
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- ^ “Read @ATKearney: Una Cuestión de Talento: Cómo el Capital Humano Determinará los Próximos Líderes Mundiales” (英語). www.atkearney.com. 2020年1月9日閲覧。
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- ^ We are Millions: Neo-liberalism and new forms of political action in Argentina, Marcela Lópéz Levy, Latin America Bureau, London, 2004. ISBN 189936563X.
- ^ a b “Parque Costero del Sur Biosphere Reserve, Argentina” (英語). UNESCO (2020年5月). 2023年4月9日閲覧。
- ^ a b “Reserva Ecológica Costanera Sur | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2005年3月22日). 2023年4月9日閲覧。
- ^ a b “”. Características Climáticas Ciudad de Buenos AiresDec 2008閲覧。
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- ^ Ley Nº 682
- ^ “Berlin's international city relations”. Berlin Mayor's Office. 2008年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年7月1日閲覧。
- ^ “Intercity and International Cooperation of the City of Zagreb”. 2006–2009 City of Zagreb. 2009年6月23日閲覧。
- ^ a b “International Relations – São Paulo City Hall – Official Sister Cities”. Prefeitura.sp.gov.br. 2012年5月2日閲覧。
- ^ Prefeitura.Sp – Descentralized Cooperation Archived 2008年12月24日, at the Wayback Machine.
- ^ “Sister Cities”. Beijing Municipal Government. 2009年6月23日閲覧。
参考文献
- 松下マルタ/松下洋訳「ブエノスアイレス 南米のパリからラテンアメリカ型首都へ」『ラテンアメリカ都市と社会』国本伊代、乗浩子編、新評論、1991年(ISBN 4-7948-0105-X)
- 栗本斉『ブエノスアイレス 雑貨と文化の旅手帖』毎日コミュニケーションズ、2008年(ISBN 978-4-8399-2530-7)
- 栗本斉『アルゼンチン音楽手帖』DU BOOKS(ディスクユニオン)2013年 ISBN 978-4-925064-79-8
関連項目
- アスンシオン
- モンテビデオ
- モントリオール - 「北米のパリ」と呼ばれている。
- ベイルート - 「中東のパリ」と呼ばれている。
- プノンペン - 「東洋のパリ」と呼ばれている。
- ワルシャワ - 「北のパリ」と呼ばれている。
外部リンク
- ブエノスアイレス市公式サイト
- ブエノスアイレス - Curlie
- 『ブエノス・アイレス』 - コトバンク
- ウィキトラベルには、ブエノスアイレスに関する旅行ガイドがあります。
- ブエノスアイレスの地図 - ウィキマピア
- 地図 - Google マップ