「下山事件」の版間の差分
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[[File:The intersection of the Tobu Isesaki Line With the JR Joban Line and Tokyo Metro Chiyoda Line 1.JPG|thumb|250px|下山と思しき人物が多数目撃された東武伊勢崎線とJR常磐線(東京地下鉄千代田線)との交差部付近(2018年)]] |
[[File:The intersection of the Tobu Isesaki Line With the JR Joban Line and Tokyo Metro Chiyoda Line 1.JPG|thumb|250px|下山と思しき人物が多数目撃された東武伊勢崎線とJR常磐線(東京地下鉄千代田線)との交差部付近(2018年)]] |
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# 当日は清算係として[[東武伊勢崎線]][[五反野駅]]改札口で勤務していたが、午後13時43分、浅草駅発[[大師前駅]]電車が到着し、下車した約20人のうちの1人が切符を渡した後、「この辺に旅館はないですか?」と尋ねてきた。そこで一緒に駅を出て、末広旅館を案内した。その男は背が高く、40歳~50歳ぐらいで、白いワイシャツに茶のさめたような背広上下を着ていた。([[東武鉄道]]職員)<ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2005|p=102}}</ref> |
# 当日は清算係として[[東武伊勢崎線]][[五反野駅]]改札口で勤務していたが、午後13時43分、浅草駅発[[大師前駅]]電車が到着し、下車した約20人のうちの1人が切符を渡した後、「この辺に旅館はないですか?」と尋ねてきた。そこで一緒に駅を出て、末広旅館を案内した。その男は背が高く、40歳~50歳ぐらいで、白いワイシャツに茶のさめたような背広上下を着ていた。([[東武鉄道]]職員)<ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2005|p=102}}</ref> |
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# 午後14時頃に上品な男が玄関に立っており「6時ごろまで休ませてくれ」と休憩を申し出てきた。そこで2階4畳半の部屋に案内した。男は「涼しいですね~。水をください」と言ったので、1階からお茶を持ってきて宿帳への記入をお願いしたが、「それは勘弁してくれ」と断られた。さらに下から布団を運んで「お連れ様がお見えになりますか」と聞くと、男は「私のような年寄りに連れがありますか」と笑った。その後、男は部屋で休憩し、午後17時20分頃に手が鳴ったので行ってみると、既に身支度を終えて1階に降りてきていた。男から「おいくらですか?」と聞かれたので「200円です」と答えると、男は黒革の財布から200円と[[チップ (サービス)|チップ]]100円を |
# 午後14時頃に上品な男が(末広旅館)玄関に立っており「6時ごろまで休ませてくれ」と休憩を申し出てきた。そこで2階4畳半の部屋に案内した。男は「涼しいですね~。水をください」と言ったので、1階からお茶を持ってきて宿帳への記入をお願いしたが、「それは勘弁してくれ」と断られた。さらに下から布団を運んで「お連れ様がお見えになりますか」と聞くと、男は「私のような年寄りに連れがありますか」と笑った。その後、男は部屋で休憩し、午後17時20分頃に手が鳴ったので行ってみると、既に身支度を終えて1階に降りてきていた。男から「おいくらですか?」と聞かれたので「200円です」と答えると、男は黒革の財布から200円と[[チップ (サービス)|チップ]]100円を[[百円紙幣|百円札]]で支払った。その男は靴を履くときに、差し出した靴ベラを使わず、一旦靴をつっかけたのちに、玄関に腰かけてから靴の紐を解いて改めて履きなおしている。そして午後17時30分ごろに末広旅館を後にした。その男は身長172cm、年齢50歳くらい。色白面長でふくらみがあり、眉毛が開いてロイド眼鏡をかけ、髪は七三分けで上品で優しい顔をしていた。無謀でねずみ色の背広上下、白いワイシャツにネクタイ、チョコレート色のひだのある進駐軍の靴、木綿の紺色の靴下、黒革の財布、荷物は持たず一人であった。報道で知った下山と酷似していたことから[[西新井警察署]]にとどけでた。(末広旅館女将46歳)<ref>{{Harvnb|平塚|2004|p=228}}</ref><ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2005|p=103}}</ref>末広旅館の下山と思しき人物が休憩した部屋からは5本の人間の毛髪が見つかったが、そのうち1本が下山の毛髪と酷似してた<ref>{{Harvnb|佐藤一|1976|p=148}}</ref>。この証言と証拠は、事件に大きな影響を与えることになったので、のちに他殺説を主張する者からは、疑いの目を向けられることとなり([[#他殺説]]参照)、証言者に災いをもたらすこととなってしまった。([[#自殺説]]参照) |
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# 午後18頃(18時30分という報道もあり<ref>{{Harvnb|佐藤一|1976|p=176}}</ref>)、事件現場近くの高架下の手前の沼で[[ザリガニ|エビガニ]]獲りをしていたら、坂を立派な紳士が下ってきた。その男は常磐線の溝に沿って50mくらい行ってからまた戻ってきた。今度は東武線の土手沿いに沿って歩いていき、しばらくするとトンネルの方角から引き返してきた。年齢は50歳ぐらいで身長は170cm~172cm、顔は夏ミカンのような肌、眉毛は太く下がっていて髪は白髪交じり、飴色の眼鏡をかけていた。無帽で白っぽい背広、縞入りの白いワイシャツに手織りの金糸が入ったネクタイを着用。写真を見て下山に間違いないと思い届け出た。(工員36歳)<ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2005|p=105}}</ref>この工員の隣に住んでいた女子中学生(14歳)は弟を連れて、一緒にエビガニ獲りをしていたが、この女子中学生も、18時40分頃に、無帽でねずみ色の背広を着て眼鏡をかけた紳士を目撃したと証言している<ref>{{Harvnb|佐藤一|1976|p=176}}</ref>。 |
# 午後18頃(18時30分という報道もあり<ref>{{Harvnb|佐藤一|1976|p=176}}</ref>)、事件現場近くの高架下の手前の沼で[[ザリガニ|エビガニ]]獲りをしていたら、坂を立派な紳士が下ってきた。その男は常磐線の溝に沿って50mくらい行ってからまた戻ってきた。今度は東武線の土手沿いに沿って歩いていき、しばらくするとトンネルの方角から引き返してきた。年齢は50歳ぐらいで身長は170cm~172cm、顔は夏ミカンのような肌、眉毛は太く下がっていて髪は白髪交じり、飴色の眼鏡をかけていた。無帽で白っぽい背広、縞入りの白いワイシャツに手織りの金糸が入ったネクタイを着用。写真を見て下山に間違いないと思い届け出た。(工員36歳)<ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2005|p=105}}</ref>この工員の隣に住んでいた女子中学生(14歳)は弟を連れて、一緒にエビガニ獲りをしていたが、この女子中学生も、18時40分頃に、無帽でねずみ色の背広を着て眼鏡をかけた紳士を目撃したと証言している<ref>{{Harvnb|佐藤一|1976|p=176}}</ref>。 |
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# 午後18時10分頃、子供と銭湯に行く途中、東武線トンネル入口で、土堤下のあぜ道から出てきた立派な紳士と出会った。その男はトンネルに入っていき、出口で立ち止まって考え事をしていた。身長は167cm~170cm、顔色は浅黒く脂ぎっており、眉毛は濃くて黒縁の眼鏡をかけていた。[[ラバーソウル]]の靴で爪先に馬蹄型のひだがついていた。報道で見た下山の写真とは似ていないが、人相書とは一致するので届け出た。後日、警察に見せてもらった当日の下山の着衣と靴については、間違いなくその人物が着用していた。(会社員38歳)<ref>{{Harvnb|平塚|2004|p=223}}</ref><ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2005|p=104}}</ref> |
# 午後18時10分頃、子供と銭湯に行く途中、東武線トンネル入口で、土堤下のあぜ道から出てきた立派な紳士と出会った。その男はトンネルに入っていき、出口で立ち止まって考え事をしていた。身長は167cm~170cm、顔色は浅黒く脂ぎっており、眉毛は濃くて黒縁の眼鏡をかけていた。[[ラバーソウル]]の靴で爪先に馬蹄型のひだがついていた。報道で見た下山の写真とは似ていないが、人相書とは一致するので届け出た。後日、警察に見せてもらった当日の下山の着衣と靴については、間違いなくその人物が着用していた。(会社員38歳)<ref>{{Harvnb|平塚|2004|p=223}}</ref><ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2005|p=104}}</ref> |
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== 自殺説と他殺説 == |
== 自殺説と他殺説 == |
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=== 自殺説 === |
=== 自殺説 === |
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上記の通り、警察は組織として公式な捜査結果を公表することはなかったが、事件後しばらく経った1953年に警視庁が編纂した『警視庁史』においては「自殺説」の見地で本事件を記述している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20240416-3ELLTMJ5N5PYHPQUYU5HI3EJGM/|title=自殺・他殺両説入り乱れた「下山事件」|publisher=産経新聞社 |accessdate=2024-08-14}}</ref>。また、捜査にあたった警察関係者の見解としては、捜査の指揮をとった警視庁刑事部長坂本智元が、上述した後年の回想の通り自殺説の立場をとっている<ref>{{Harvnb|平塚|2004|p=248}}</ref>。警視庁捜査一課の名刑事[[平塚八兵衛]]も、下山失踪第一報後の妻からの聞き取りやその後の捜査によって「奥さんのこの証言をはっきり調書にとっておけば、他殺だなんて議論がでてくるわけがない。家族が一番よく知っているわけだよ」と、他殺説を一蹴している<ref>{{Harvnb|平塚|2004|p=226}}</ref>。他殺説の急先鋒であった松本清張も平塚に取材したことがあり、[[日比谷公園]]の中にあった飲食店で平塚の説明を聞いた松本は「やっぱり自殺ですね」と話していたが、後日に『日本の黒い霧』で他殺説を主張していたので、平塚は「ふざけた話だ」と立腹している<ref>{{Harvnb|平塚|2004|p=233}}</ref>。 |
上記の通り、警察は組織として公式な捜査結果を公表することはなかったが、事件後しばらく経った1953年に警視庁が編纂した『警視庁史』においては「自殺説」の見地で本事件を記述している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20240416-3ELLTMJ5N5PYHPQUYU5HI3EJGM/|title=自殺・他殺両説入り乱れた「下山事件」|publisher=産経新聞社 |accessdate=2024-08-14}}</ref>。また、捜査にあたった警察関係者の見解としては、捜査の指揮をとった警視庁刑事部長坂本智元が、上述した後年の回想の通り自殺説の立場をとっている<ref>{{Harvnb|平塚|2004|p=248}}</ref>。警視庁捜査一課の名刑事[[平塚八兵衛]]も、下山失踪第一報後の妻からの聞き取りやその後の捜査によって「奥さんのこの証言をはっきり調書にとっておけば、他殺だなんて議論がでてくるわけがない。家族が一番よく知っているわけだよ」と、他殺説を一蹴している<ref>{{Harvnb|平塚|2004|p=226}}</ref>。他殺説の急先鋒であった作家[[松本清張]]も平塚に取材したことがあり、[[日比谷公園]]の中にあった飲食店で平塚の説明を聞いた松本は「やっぱり自殺ですね」と話していたが、後日に著書『[[日本の黒い霧]]』で他殺説を主張していたので、平塚は「ふざけた話だ」と立腹している<ref>{{Harvnb|平塚|2004|p=233}}</ref>。 |
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東京地検については、主任検事の布施が他殺を疑っており、捜査一課の捜査が実質的に終わった後も、捜査二課二係と協力して下山油や染料の捜査を継続しているが、[[木内曽益]][[最高検察庁]][[次長検事]]は東京地検の捜査資料を見て「やっぱり自殺だったのかね」と述べている<ref>{{Harvnb|佐藤一|1976|p=150}}</ref>。 |
東京地検については、主任検事の布施が他殺を疑っており、捜査一課の捜査が実質的に終わった後も、捜査二課二係と協力して下山油や染料の捜査を継続しているが、[[木内曽益]][[最高検察庁]][[次長検事]]は東京地検の捜査資料を見て「やっぱり自殺だったのかね」と述べている<ref>{{Harvnb|佐藤一|1976|p=150}}</ref>。 |
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=== 他殺説 === |
=== 他殺説 === |
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[[File:Seichō Matsumoto (1960, 51 years old).jpg|thumb|400px|下山事件の調査を行う松本清張]] |
[[File:Seichō Matsumoto (1960, 51 years old).jpg|thumb|400px|下山事件の調査を行う松本清張]] |
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警察の自殺として捜査の幕引きをしようとしていたのに対して、東京地検の本事件主任検事[[布施健]]は、終生に渡って他殺と考え、事件が時効が迎えた後も独自に調査を続けて、作成した資料は数百ページにもなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/mikaiketsu/|title=未解決事件 大型シリーズ File.10下山事件|publisher=NHK |accessdate=2024-08-25}}</ref>。 |
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他殺説の中で最も著名なのは松本清張が『[[日本の黒い霧]]』の中の一篇として著した「下山国鉄総裁謀殺論」である。清張は当時日本を占領下に置いていた連合国軍の中心的存在である[[アメリカ陸軍]][[対敵諜報部隊]]が事件に関わったと推理した。ただ、アメリカ軍関係機関による下山謀殺論は清張が嚆矢だったわけではなく、[[1960年]] (昭和35年) に大野達三が刊行した『謀略』(三一書房) の中で既に、CIA東京支部による計画だと推理されている<ref name="秦-下-316">{{Cite book|和書|author=秦郁彦|authorlink=秦郁彦|chapter=再考「日本の黒い霧」(上)|title=昭和史の謎を追う|volume=下|publisher=[[文藝春秋]]|series=[[文春文庫]]|date=1999-12-10|isbn=4-16-745305-3|page=316}}</ref>。なお、[[秦郁彦]]は「再考「日本の黒い霧」(上)」(『昭和史の謎を追う・下』所収) の中で、後述の1201列車の存在を調べだしたのも大野が最初であるらしい、と書いているが<ref name="秦-下-316"/>、これは誤りである{{Refnest|group="注釈"|1201列車の存在や、同列車の運行に疑わしい点がないと警察が判断したことは下山白書の中で既に述べられており<ref>松本「謀殺論」(文春文庫版)、p.74.</ref>、リーク後『文藝春秋』『改造』に掲載された1950年 (昭和25年) 以後は公知の事実である。つまり、大野が最初に見つけ出したのではない。}}。 |
他殺説の中で最も著名なのは松本清張が『[[日本の黒い霧]]』の中の一篇として著した「下山国鉄総裁謀殺論」である。清張は当時日本を占領下に置いていた連合国軍の中心的存在である[[アメリカ陸軍]][[対敵諜報部隊]]が事件に関わったと推理した。ただ、アメリカ軍関係機関による下山謀殺論は清張が嚆矢だったわけではなく、[[1960年]] (昭和35年) に大野達三が刊行した『謀略』(三一書房) の中で既に、CIA東京支部による計画だと推理されている<ref name="秦-下-316">{{Cite book|和書|author=秦郁彦|authorlink=秦郁彦|chapter=再考「日本の黒い霧」(上)|title=昭和史の謎を追う|volume=下|publisher=[[文藝春秋]]|series=[[文春文庫]]|date=1999-12-10|isbn=4-16-745305-3|page=316}}</ref>。なお、[[秦郁彦]]は「再考「日本の黒い霧」(上)」(『昭和史の謎を追う・下』所収) の中で、後述の1201列車の存在を調べだしたのも大野が最初であるらしい、と書いているが<ref name="秦-下-316"/>、これは誤りである{{Refnest|group="注釈"|1201列車の存在や、同列車の運行に疑わしい点がないと警察が判断したことは下山白書の中で既に述べられており<ref>松本「謀殺論」(文春文庫版)、p.74.</ref>、リーク後『文藝春秋』『改造』に掲載された1950年 (昭和25年) 以後は公知の事実である。つまり、大野が最初に見つけ出したのではない。}}。 |
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大新聞の中では、[[朝日新聞]]と[[読売新聞]]が他殺説を報じた。朝日新聞記者の矢田喜美雄は[[1973年]](昭和48年)、長年の取材の成果を『謀殺・下山事件』に収め、自殺説を否定するとともに取材の過程でアメリカ軍内の防諜機関に命じられて死体を運んだとする人物に行き着いたとして、その人物とのやりとりを記載している。 |
大新聞の中では、[[朝日新聞]]と[[読売新聞]]が他殺説を報じた。朝日新聞記者の矢田喜美雄は[[1973年]](昭和48年)、長年の取材の成果を『謀殺・下山事件』に収め、自殺説を否定するとともに取材の過程でアメリカ軍内の防諜機関に命じられて死体を運んだとする人物に行き着いたとして、その人物とのやりとりを記載している。 |
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==== 他殺説の主張 ==== |
==== 他殺説の主張 ==== |
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* 国鉄は下山が他殺されたものと考えており、1949年12月末まで事件に関する情報提供を[[懸賞金]]付きで広く求めていた。しかし、期限内に有益な情報の提供はなかった<ref>{{Harvnb|矢田喜美雄|1973|p=256}}</ref>。 |
* 国鉄は下山が他殺されたものと考えており、1949年12月末まで事件に関する情報提供を[[懸賞金]]付きで広く求めていた。しかし、期限内に有益な情報の提供はなかった<ref>{{Harvnb|矢田喜美雄|1973|p=256}}</ref>。 |
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* 国鉄副総裁の加賀山、妻、運転手の大西はいずれも自殺とは思えないと発言している<ref>{{Harvnb|佐藤一|1976|p=170}}</ref>。 |
* 国鉄副総裁の加賀山、妻、運転手の大西はいずれも自殺とは思えないと発言している<ref>{{Harvnb|佐藤一|1976|p=170}}</ref>。 |
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* 特に妻については、下山の失踪直後は自殺と考えていたと話していたが<ref>{{Harvnb|平塚|2004|p=218}}</ref>(詳細は[[#自殺説]]参照)、その後の東京地検金沢清検事からの事情聴取に対しては、「下山はいい家柄の出である」「健康状態が良好だった」「家庭内で異常はみられなかった」「極度におびえている様子はなかった」「仕事上の失敗はなかった」「遺体に不審点がある」という理由で自殺を否定している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20230407-OYT1T50161/5/|title=検事がひそかに記した東京地検「1949年7月5日」の混乱…下山事件の謎に迫る【8】|publisher=読売新聞|accessdate=2024-08-24}}</ref>。この妻からの聴取によって東京地検は「自殺の決意、或るいは精神異常による自殺を確定的に裏付ける事実はない」と判断している<ref>{{Harvnb|佐藤一|1976|p=148}}</ref>。 |
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* 下山は幼いころからの[[鉄道マニア]]で、[[日本国有鉄道]]に入社してからも機関車を愛していたので、自殺の手段に鉄道を選ぶはずはない<ref>{{Harvnb|佐藤一|1976|p=599}}</ref>。 |
* 下山は幼いころからの[[鉄道マニア]]で、[[日本国有鉄道]]に入社してからも機関車を愛していたので、自殺の手段に鉄道を選ぶはずはない<ref>{{Harvnb|佐藤一|1976|p=599}}</ref>。 |
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* 下山の千代田銀行(現:[[三菱UFJ銀行]])の貸金庫には、[[百円紙幣|百円札]]の札束3束(3万円)、ドル紙幣5枚、株券、自宅の[[登記済証]]という貴重品の他に[[春画]]が1枚入っていた。それを知った下山の実弟は「自殺を決意して貸金庫に入った兄なら、性格からも身辺整理の意味からこんなものを残すはずがない」と断言している<ref>{{Harvnb|矢田喜美雄|1973|p=253}}</ref>。 |
* 下山の千代田銀行(現:[[三菱UFJ銀行]])の貸金庫には、[[百円紙幣|百円札]]の札束3束(3万円)、ドル紙幣5枚、株券、自宅の[[登記済証]]という貴重品の他に[[春画]]が1枚入っていた。それを知った下山の実弟は「自殺を決意して貸金庫に入った兄なら、性格からも身辺整理の意味からこんなものを残すはずがない」と断言している<ref>{{Harvnb|矢田喜美雄|1973|p=253}}</ref>。 |
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* 事件発生の1週間前から下山を含む政府首脳や国鉄関係者に対する脅迫が相次いでいおり、前日7月4日の午前11時頃には、鉄道弘済会本部に「今日か明日、吉田(首相)か下山か、そのどちらかを殺す」との予告電話があった。中には具体的なものもあり、日暮里駅のトイレには「5・19下山罐」という落書きがされていたが、事件後にこの落書きは5日の19時に(殺害した)下山を罐(ドラム缶)に入れたことを示しているのではと考えられた。同様に[[田端機関区]]の社内電話から東京鉄道局労働組合事務所に「5日の夜7時に下山総裁が自動車事故で死んだ」という奇怪な電話が入っている。この落書きをした人物と電話をした人物が同一なのかも不明である<ref>{{Harvnb|矢田喜美雄|1973|p=214}}</ref>。 |
* 事件発生の1週間前から下山を含む政府首脳や国鉄関係者に対する脅迫が相次いでいおり、前日7月4日の午前11時頃には、鉄道弘済会本部に「今日か明日、吉田(首相)か下山か、そのどちらかを殺す」との予告電話があった。中には具体的なものもあり、日暮里駅のトイレには「5・19下山罐」という落書きがされていたが、事件後にこの落書きは5日の19時に(殺害した)下山を罐(ドラム缶)に入れたことを示しているのではと考えられた。同様に[[田端機関区]]の社内電話から東京鉄道局労働組合事務所に「5日の夜7時に下山総裁が自動車事故で死んだ」という奇怪な電話が入っている。この落書きをした人物と電話をした人物が同一なのかも不明である<ref>{{Harvnb|矢田喜美雄|1973|p=214}}</ref>。 |
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* 下山の着衣に付着していたヌカ油と染料の組み合わせは皮革の[[捺染]]で用いられる。当時皮革捺染は東京の北東部、特に荒川沿いに集中しており現場付近にも捺染工場が複数存在した。下山はそれらいずれかの工場内に連行され、暴行殺害の後自殺に偽装するため現場に遺体が遺棄された可能性が高い<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20221208-OYT1T50211/6/|title=下山事件の謎に迫る【1】初代国鉄総裁が命を落とした「昭和史最大のミステリー」、73年後の現場を歩く|publisher=読売新聞社 |accessdate=2024-08-12}}</ref>。 |
* 下山の着衣に付着していたヌカ油と染料の組み合わせは皮革の[[捺染]]で用いられる。当時皮革捺染は東京の北東部、特に荒川沿いに集中しており現場付近にも捺染工場が複数存在した。下山はそれらいずれかの工場内に連行され、暴行殺害の後自殺に偽装するため現場に遺体が遺棄された可能性が高い<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20221208-OYT1T50211/6/|title=下山事件の謎に迫る【1】初代国鉄総裁が命を落とした「昭和史最大のミステリー」、73年後の現場を歩く|publisher=読売新聞社 |accessdate=2024-08-12}}</ref>。 |
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* 下山事件の結論を左右したとまで言われた旅館「末広旅館」の女将の証言については<ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2005|p=103}}</ref>、異常なほど詳細であり、東京地検は不自然さを感じていた。「末広旅館」の経営者は太平洋戦争前は[[特別高等警察]]の警察官で、下山事件の捜査を担当していた警視庁の幹部とは面識があり、事前に警察と申し合わせていた可能性がある<ref>{{Harvnb|諸永裕司|2002|p=152}}</ref>。また、[[ノンフィクション]]・[[冒険小説]]作家[[柴田哲孝]]によれば、柴田の祖父が下山の殺害に関与したという[[亜細亜産業]]に勤務していたが、その祖父に「末広旅館」の女将から[[年賀状]]が届いていたと柴田の母から聞いたとしており、亜細亜産業と「末広旅館」に何らかの関係があったと指摘している<ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2005|p=172}}</ref>。ただし、 |
* 下山事件の結論を左右したとまで言われた旅館「末広旅館」の女将の証言については<ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2005|p=103}}</ref>、異常なほど詳細であり、東京地検は不自然さを感じていた。「末広旅館」の経営者は太平洋戦争前は[[特別高等警察]]の警察官で、下山事件の捜査を担当していた警視庁の幹部とは面識があり、事前に警察と申し合わせていた可能性がある<ref>{{Harvnb|諸永裕司|2002|p=152}}</ref>。また、[[ノンフィクション]]・[[冒険小説]]作家[[柴田哲孝]]によれば、柴田の祖父が下山の殺害に関与したという[[亜細亜産業]]に勤務していたが、その祖父に「末広旅館」の女将から[[年賀状]]が届いていたと柴田の母から聞いたとしており、亜細亜産業と「末広旅館」に何らかの関係があったと指摘している<ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2005|p=172}}</ref>。ただし、「末広旅館」の女将が年賀状を送っていたのは、亜細亜産業ではなく、あくまでも柴田の祖父個人であることは注意が必要である<ref>{{Harvnb|佐藤一|2009|p=94}}</ref>。 |
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* 事件当日朝、下山は普段と同じ朝7時に起床し、何ら変わったところはなく家族と朝食を食べた。朝食の席での話題は、[[名古屋大学]]に通学している長男が今夜帰省することで、下山は「今夜は、久しぶりに帰ってくるんだな」と嬉しそうに語りながら、味噌汁、お新香、半熟卵とご飯2膳を平らげるなど食欲も旺盛であった<ref>{{Harvnb|諸永裕司|2002|p=26}}</ref>。 |
* 事件当日朝、下山は普段と同じ朝7時に起床し、何ら変わったところはなく家族と朝食を食べた。朝食の席での話題は、[[名古屋大学]]に通学している長男が今夜帰省することで、下山は「今夜は、久しぶりに帰ってくるんだな」と嬉しそうに語りながら、味噌汁、お新香、半熟卵とご飯2膳を平らげるなど食欲も旺盛であった<ref>{{Harvnb|諸永裕司|2002|p=26}}</ref>。 |
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* 上記の通り下山事件を取材し、『謀殺・下山事件』を出版した矢田は、その取材の過程で、下山の殺害計画に加担したり遺体を運搬するのを手伝ったという証言をいくつか得ている。そのためか、捜査本部解散後、下山事件の後日談のような記事を執筆した際に、「おまえは生かしてはおけない。お前に限らず予告のあった者はこの世から抹殺される運命にあるのだ」という脅迫状が送られてきた。同様な脅迫状は下山事件の記事を掲載した、他の新聞や雑誌にも送られ、朝日新聞には矢田が下山事件の記事を紙面に掲載するたびに送られてきたという<ref>{{Harvnb|矢田喜美雄|1973|p=330}}</ref>。 |
* 上記の通り下山事件を取材し、『謀殺・下山事件』を出版した矢田は、その取材の過程で、下山の殺害計画に加担したり遺体を運搬するのを手伝ったという証言をいくつか得ている。そのためか、捜査本部解散後、下山事件の後日談のような記事を執筆した際に、「おまえは生かしてはおけない。お前に限らず予告のあった者はこの世から抹殺される運命にあるのだ」という脅迫状が送られてきた。同様な脅迫状は下山事件の記事を掲載した、他の新聞や雑誌にも送られ、朝日新聞には矢田が下山事件の記事を紙面に掲載するたびに送られてきたという<ref>{{Harvnb|矢田喜美雄|1973|p=330}}</ref>。 |
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⚫ | * 下山は、かねてよりいずれ運輸省を辞して参議院選挙に出馬したいとの意向を周囲に語っていた。ただ下山は、同じ鉄道官僚出身で議員になった[[佐藤栄作]]と違い政治的バックボーンを持たなかったため、議員当選のためには「元国鉄総裁」という肩書が必要だったのではないかと推測される。つまり、下山は国鉄で大合理化さえ達成すれば役目は終わり、その後は国鉄を辞して[[参議院選挙]]に立候補し、元国鉄総裁というネームバリューと佐藤栄作や民主自由党のバックアップによって当選して参議院議員になるという計画があったとされ、事件直前に出版された雑誌『[[エコノミスト (日本の雑誌)|エコノミスト]]』1949年7月1日号の記事で「ラッキーボーイ」と呼ばれていた<ref>{{Harvnb|諸永裕司|2002|p=34}}</ref>。明るい未来が約束されていたはずであった下山が自殺するはずがない。 |
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=== 他殺説で事件への関与が疑われている組織 === |
=== 他殺説で事件への関与が疑われている組織 === |
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GHQの関与を裏付けるような証言もあっている。国会議員佐藤栄作の秘書の大原正が、下山失踪当日の5日の午前11時に、下山らしき人物が、国鉄の公用車ではない乗用車の後部座席に左右を囲まれて乗っているのを見たという証言を読売新聞の取材で答えているが、この証言が記事になると、CICのフジイという人物が、「何を見たというのかね」「何もみなかったんだろう」などと嫌がらせのような電話を何度もしてきたという<ref>{{Harvnb|矢田喜美雄|1973|p=298}}</ref>。このフジイと名乗った人物は実在しており、旧[[大日本帝国陸軍]]軍人で[[陸軍中野学校]]出身であり、戦後はその経歴を活かしてCICに勤務していた。藤井は後日になって元読売新聞記者鑓水に、元国鉄職員の共産党員が、[[ナッシュ=ケルビネーター]]47型で下山を拉致したなどとリークしたこともあった<ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2007|p=483}}</ref>。 |
GHQの関与を裏付けるような証言もあっている。国会議員佐藤栄作の秘書の大原正が、下山失踪当日の5日の午前11時に、下山らしき人物が、国鉄の公用車ではない乗用車の後部座席に左右を囲まれて乗っているのを見たという証言を読売新聞の取材で答えているが、この証言が記事になると、CICのフジイという人物が、「何を見たというのかね」「何もみなかったんだろう」などと嫌がらせのような電話を何度もしてきたという<ref>{{Harvnb|矢田喜美雄|1973|p=298}}</ref>。このフジイと名乗った人物は実在しており、旧[[大日本帝国陸軍]]軍人で[[陸軍中野学校]]出身であり、戦後はその経歴を活かしてCICに勤務していた。藤井は後日になって元読売新聞記者鑓水に、元国鉄職員の共産党員が、[[ナッシュ=ケルビネーター]]47型で下山を拉致したなどとリークしたこともあった<ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2007|p=483}}</ref>。 |
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また、ソビエト連邦の関与を主張していた李は実はアメリカとの二重スパイであり、アメリカのCIC指揮下の特殊機関「[[キャノン機関]]」による下山殺害を、ソビエト連邦の仕業と見せかけるために暗躍していたという主張もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/DX9VRJRJ6B/|title=未解決事件 File.10 下山事件 第2部|publisher=NHK |accessdate=2024-08-25}}</ref>。 |
また、ソビエト連邦の関与を主張していた李は実はアメリカとの二重スパイであり、アメリカのCIC指揮下の特殊機関「[[キャノン機関]]」による下山殺害を、ソビエト連邦の仕業と見せかけるために暗躍していたという主張もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/DX9VRJRJ6B/|title=未解決事件 File.10 下山事件 第2部|publisher=NHK |accessdate=2024-08-25}}</ref>。さらに、他殺説の中心人物のひとり元朝日新聞記者の矢田は、共産勢力封じ込めのために、当時の総理大臣[[吉田茂]]がGHQと謀って、共産勢力弾圧に利用するために、初めから下山を殺害する予定で国鉄総裁に選んだという主張をしている<ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2007|p=532}}</ref>。 |
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====亜細亜産業説==== |
====亜細亜産業説==== |
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[[1999年]]、『週刊朝日』誌上で「下山事件-50年後の真相」が連載される。その後、取材を共同で進めていた[[諸永裕司]]著『葬られた夏』、[[森達也]]著『下山事件(シモヤマ・ケース)』、[[柴田哲孝]]著『下山事件-最後の証言-』が相次いで出版され、いずれも元[[大日本帝国 |
[[1999年]]、『週刊朝日』誌上で「下山事件-50年後の真相」が連載される。その後、取材を共同で進めていた[[諸永裕司]]著『葬られた夏』、[[森達也]]著『下山事件(シモヤマ・ケース)』、[[柴田哲孝]]著『下山事件-最後の証言-』が相次いで出版され、いずれも、[[矢板玄]]が開業した[[亜細亜産業]]の指示で、元[[大日本帝国陸軍]][[軍属]]が実行犯として殺害したと推定している。特に柴田哲孝は、太平洋戦争中に[[オランダ領東インド|蘭印]]で陸軍の特殊工作員をしていた祖父が、下山事件の実行犯だったかも知れないと親族から聞くと、祖父が当時亜細亜産業に勤務していたことを調べ、亜細亜産業が国鉄とも取引があったことも調べた。さらには取引先であった鈴木金属という会社が「下山油」の正体とされた糠油と染料を使用していたことも突き止めた<ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2007|p=212}}</ref>。その後、ついに矢板との対談までこぎつけたが、そこで、矢板が下田殺害の疑いのあるキャノン機関と懇意にしていて、その反共工作に加担したことを聞きだした。そして単刀直入にキャノン機関が下山の殺害犯であったか問い詰めたところ、矢板は口を濁して「ますいな、今はまずい。まだ関係者も生きているんだ。あと10年、いや、おれが生きているうちはだめだ」と言って回答を拒否した。矢板は別れ際に柴田に「また遊びに来い、今日は楽しかった」と言ったが、再び両者が会うことはなく、矢板は1998年(平成10年)に死去した<ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2007|p=347}}</ref>。 |
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亜細亜産業が下山を謀殺した理由としては、下山は運輸次官時代に当時は官営であった国鉄で経費削減のために納入業者の見直しなどを行ったが、 |
亜細亜産業が下山を謀殺した理由としては、下山は運輸次官時代に当時は官営であった国鉄で経費削減のために、納入単価が移譲に高い納入業者の見直しなどを行ったが、そういった業者は利益分をGHQや政界などの有力者への贈賄資金としてばらまいており、金づるを失ったCTSのシャグノンやその他有力者は下山を恨んでいたという。また、下山は国鉄総裁に就任すると、GHQが無理強いしてくる人員削減よりは、さらに贈賄業者の取引を見直すことで、経費削減は可能と判断し、贈賄業者を告発すべく警察への相談の準備を進めていた。その情報を掴んだ亜細亜産業も、これまで取引を切られた業者と同様に、国鉄から得た不当利得を政界工作などに使っており、強い危機感を抱いていたが、来る[[朝鮮戦争]]に向けて日本の国鉄を支配下に置こうと考えていたGHQとも利害関係が一致し、そのバックアップを受けることができたので凶行に及んだものと推理している<ref>{{Harvnb|柴田哲孝|2007|p=522}}</ref>。 |
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== その他 == |
== その他 == |
2024年8月26日 (月) 00:00時点における版
下山事件 | |
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搬出される下山の遺体 | |
場所 | 日本 東京都足立区西綾瀬 常磐線北千住駅 - 綾瀬駅間 |
日付 |
1949年(昭和24年)7月6日 午前0時30分過ぎ (JST(UTC+8)[注釈 1]) |
概要 | 同年7月5日、国鉄総裁・下山定則が出勤途中に失踪。翌日未明に轢死体で発見された。 |
攻撃手段 | 不明 |
攻撃側人数 | 不明 |
武器 | 不明 |
死亡者 | 下山定則 |
犯人 | 不明 |
管轄 | 警視庁 |
下山事件(しもやまじけん)は、日本が連合国軍の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁・下山定則が出勤途中に失踪、翌7月6日未明に轢死体で発見された事件。
事件発生直後からマスコミでは自殺説・他殺説が入り乱れ、捜査に当たった警視庁内部でも、捜査一課が自殺として捜査を終えた後に、捜査二課二係が他殺の見解で捜査を継続したが、公式の捜査結果を発表することなく捜査本部は解散し、捜査は打ち切られた[1]。法医学会でも、他殺による遺体の「死後轢断」を主張する東京大学と、自殺による「生前轢断」を主張する慶応義塾大学などが対立して激しい論争が繰り広げられた[2]。下山事件から約1か月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、これら3事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる。
未解決のまま、事件発生から15年後の1964年(昭和39年)7月6日に殺人事件としての公訴時効が成立した。
事件の経過
時代背景
1949年(昭和24年)、GHQによる日本統治は4年目に入っていたが、経済復興は遅々として進んでいなかった。これは、総司令官ダグラス・マッカーサーが経済復興よりは「農地改革」「労働改革」「財閥解体」といった経済の民主化を優先しており、その副作用もあって生産高は落ち込み、インフレも進行していた。GHQにより海外貿易が制限されているため、ただでさえ弱い国内消費だけでは経済発展は見込めないことや、また、アメリカは食糧援助などで20億ドルを日本に供与したが、一方で終戦処理費という名目で47億ドル(日本円5,500億円)もの占領費用を負担させており、これらのGHQによる占領統治も経済復興を遅らせる要因となっていた。マッカーサーはアメリカ国内の経済紙から「日本経済の復活に失敗した」とバッシングされ、焦ったマッカーサーは1948年(昭和23年)の日本国民に向けた年初演説で「個別的な苦境は避けられない。日本国の経済は現状困窮状態にある」と語り掛けたが、それを劇的に改善させるような見通しは全くなかった[3]。そこで、GHQはデトロイト銀行頭取ジョゼフ・ドッジを、公使兼GHQ財政顧問として呼び寄せて日本経済復興の舵取りを行わせることとした[4]。
ドッジは、日本経済を安定成長させるために、悪性インフレを鎮静化させるとともに、緊縮財政を進めることとした。(ドッジ・ライン)その緊縮財政のためには、終戦後の外地引揚者の雇用の受け皿として肥大化していた公務員の大幅な人員整理による人件費圧縮が不可避であった[5]。1949年(昭和24年)の総選挙で圧勝した民主自由党は、戦後初めて単独での第3次吉田内閣の組閣に成功した。総理大臣吉田茂は安定した政治基盤で、ドッジ・ラインを進めていくこととなった。緊縮財政のために人員整理される公務員数は50万人にも達したが、なかでも最も注目されたのは10万人もの人員整理が行われる計画の日本国有鉄道であった[6]。しかし、GHQによる労働改革により、戦後になってから組織化が推奨されるようになっていた労働組合が、各事業所で大きな力を持つようになっており[7]、そのなかでも国鉄の国鉄労働組合はその先頭に立っており、この人員整理計画についても「国鉄防衛闘争」と規定し、政府や国鉄経営側と激しく対立する姿勢を見せていた[8]。
国鉄は従業員の大量余剰によって、戦後に入ってからは巨額の赤字を計上していた。そのような苦境下で、GHQの意向もあって国鉄は従来の官設官営事業から、より効率的な営業が可能な公共企業体へ組織改編が行われることとなり、「日本国有鉄道法」が 1948年(昭和23年)12月20日に公布されて、翌1949年6月1日に公共企業体としての日本国有鉄道が発足した[9]。政府は初代国鉄総裁の人選に苦慮しており、国鉄総裁と言っても、給料は国家公務員の規定に準じるため、その責務に対する対価としては不十分で、また接待交際費などの自由にできる予算もなかった。当時の関係者からは「よほど殉国的な方か、あるいは非常に勇気のある方か、あるいはおバカさんでなければやらない」と言われたほどであった。政府は首相経験者や財界の大物などに打診したが、まったく引き受ける者はおらず、最終的には内部昇格しかないということになり、永年国鉄に勤務し、現在は運輸次官となっていた下山定則に白羽の矢が立った。下山は初仕事がこれまで苦楽を共にした同僚たち10万人を解雇するといった火中の栗を敢えて拾うこととなってしまい[10]、下山は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち、事件前日の7月4日には、3万700人の従業員に対して第一次整理通告(=解雇通告)が行われた[11]。そして下山は国鉄総裁就任のわずか1か月後に不慮の死を遂げることとなる。
失踪までの足取り
- 1949年7月5日午前7時起床、家族と朝食を共にする[12]。
- 午前8時20分(当時の日本には夏時間が導入されていたため、現在の7時20分に相当する。以降の時刻も同様)に出勤のため、大田区上池台の自宅を公用車のビュイックで出発した[13]。
- 芝公園前を通って御成門を過ぎたとき下山が「佐藤栄作さんのところに寄るんだった」と言ったので、運転手の大西政雄が「引き返しましょうか」と聞いたところ、下山は御成門交差点を過ぎた辺りで「またにしよう」と大西に言った。車はそのまま日比谷方面に進んだ[14]。
- 午前8時45分ごろ、車が日比谷を抜け和田倉門に差し掛かったところで、下山が「買い物をしたいから、三越に行ってくれ」と指示した。大西は大手門停留所に来てから右折して三越に向かったが、その際に下山は独り言のように「今日は、10時までに役所(国鉄本社のこと)に行けばいいから・・・」と呟いた[15]。
- 大手町を過ぎて国鉄高架下をくぐった辺りで「白木屋でもいい、まっすぐ行ってくれ」と大西にはっきりした言葉で指示した[16]。
- 車が白木屋の角まできたところで、店のシャッターが閉まっているのが見えた。下山は大西に「左に廻って!」と三越に向かう様に指示。車は日本橋を渡って三越前まで来たが、三越も閉まっており正面玄関前には「9時半開店」の表札があった。大西は「開店は9時半ですね」と下山に教えると、次の指示を求めたが、下山は短く「うん」と言っただけであった。そこで大西が「役所までまいりますか」と、今度ははっきりとした声で指示を求めた。下山は短く「うん」と返事をしたので、大西は国鉄本社にようやく出勤するものと考えて車を発進させた[17]。
- 車を発進させてすぐに下山が「神田駅にまわってくれ」と指示したので、大西は新常磐橋を右折して、神田駅の西口まで車を走らせた。大西は下山に「お降りになりますか?」と聞いたが、下山は「いや」と言って車から降りることはなかった。大西は今度こそは出社するのだろうと考えて、車を発進させると国鉄本社を目指したが、東京駅北口の高架下をくぐって、国鉄本社の近くまで車を走らせた[18]。
- 室町三丁目交差点に来ると下山が「三菱銀行(このときは財閥解体命令で実際の商号は千代田銀行になっていた)に行ってくれ」と大西に指示した。これまで何度も行先を変えられたが、下山が行先を変えるのは日常茶飯事であり、大西は特におかしいとは感じていなかった。やがて車が国鉄本社ビルに近づくと、「もっと早く走れ」と怒るような声で命じている。これにたいして大西は「総裁は職員に顔でも見られるのがいやだったのでしょう」と下山が気まずい思いをしたので感情的になったと考えていた[19]。
- 午前9時5分ごろ、千代田銀行に到着。下山は大西を待たせると1人で銀行店舗内に入り、銀行係長から貸金庫の鍵をもらうと、地下の貸金庫室に入って行った[20]。後の捜査で、このときに下山は貸金庫から百円札25枚を出したことが判明している[21]。その後に鍵を銀行女子行員に返却しているが、この女子行員の記憶では、この時間は午前9時25分頃であった[22]。
- 下山は車の後部座席に座ると、大西に「これから行けばちょうどいいだろう」と言った。大西は三越の開店時間のことを言っていると考えて、三越に向かって車を走らせた[23]。車は下山がよく利用する三越南口に到着したが、下山は「まだ開いていないんじゃないか」と大西に話しかけてきた。大西は車から降りて車後部ドアを開ける際に「もう人が入ってますよ」と答え、それを聞いた下山は車から降りて三越南口に向かって歩き出したが、3歩ぐらい歩いた後に一旦引き返して「5分くらいだから待ってくれ」と大西に指示し、今度はそのまま三越南口から店舗内に入って行った。下山が入店した時間は、大西の記憶では午前9時37分ごろであった[24]。車内には書類の入った鞄と昼食の弁当が残されており、大西はこのまま夕刻までここで下山の帰りを待ち続けることとなる[25]。
- 国鉄本社では午前9時から局長会議が予定されていたが下山は現れなかった。下山の秘書は裏玄関で午前10時頃まで待っていたが、下山の車が来ることはなかった[26]。その間、下山の自宅に電話をしたが、妻からは「いつも通りに家を出ました」という返事があった[27]。午前10時まで待った秘書は心当たりのある13か所に電話して問い合わせたが、どこにも下山はいなかった。局長会議は下山不在のまま開催されたが、秘書はただならぬ事態と認識して。国家警察本部長の斎藤昇に下山行方不明の第一報を入れた。その後午前11時には、下山がもっとも気を使っていた、GHQ労働課長のR・T・エーミスとの面談約束であったが、ついにそこにも下山は現れなかった[28]。
- 午前11時、国鉄から連絡を受けた斎藤は警視庁の田中栄一警視総監と対応を協議、この協議の結果、田中は極秘裏に刑事部長と警備部長に万一に備えるよう指示を出した。同じころに下山邸所轄の東調布署から下山の妻に変わったことはないかとの問い合わせの電話があった[29]。
- 午前11時ころ頃には、秘書から下山行方不明の報告を受けた加賀山之雄副総裁が自ら公用車で、国家警察本部、警視庁、法務省、最高検察庁、東京地方検察庁を回って下山行方不明の報告を行った。その後は下山が立ち寄りそうなところを虱潰しに午後13時40分まで回ったが、下山を見つけることはできなかった[30]。
- 午後14時に鉄道公安局の芥川治局長が警視総監室を訪れ、田中に国鉄として正式に極秘捜査を依頼した。この時点で極秘捜査としたのは、このあとで下山が見つかっても困ることがないようにという配慮からであった。田中は捜査一課課長の堀崎繁喜に捜査の開始を命じ、堀崎は捜査一課2号室の関口由三主任に下山家の事情聴取を命じた[31]。関口は2号室の刑事の中から、須藤民五郎と平塚八兵衛を下山家に向かわせて妻から事情を聴かせたが、その際に妻が下山の自殺を匂わすような証言を行った[32]。
- 午後16時に国家警察本部、警視庁などの合同捜査会議が開催され対策を練った。その結果、隣接県にまたがる広域捜査で、まずは下山の公用車の発見に全力を尽くすこととなり、警視庁管轄下の全警察署に緊急指令が下された[33]。
- 午後17時、極秘捜査が解除されて、国鉄は下山行方不明の公表に踏み切った。NHKの臨時ラジオニュースで下山行方不明のニュースが放送されると、三越前で待っていた運転手の大西もそのニュースを聞いて慌てたが、すぐに警察に通報することはなく、三越店内に呼び出し放送をしてもらったり、三越劇場の中を探して回ったが、下山は見つからず、その後ようやく国鉄本社に連絡をとった。国鉄本社の指示で三越南口に戻ると、マスコミが既に情報をかぎつけ集まっており、大西は質問攻めにあった。そこに国鉄職員が現れて、揉みくちゃにされながら大西を車に押し込んで国鉄本社に連れて行き、総裁秘書室で副総裁の加賀山や鉄道公安官が事情聴取を行った。その後の午後17時25分には、捜査一課が大西を警視庁に護送して、あたかも犯罪者のように取調室で徹底した事情聴取を行った[34]。刑事が真っ先に質問したのが「どうしてもっと早く届けなかったのか?」であったが、大西は「待たせっぱなしはしょっちゅうのことで、特に不審に思うことはなかったからです」と答えている。大西は実直な人柄で、下山の命令には素直に従っており、この日も8時間もの間、飲まず食わずで下山を待ち続けていた[35]。
- 大西からの聴取に基づき、警視庁は多数の刑事を三越に派遣して、深夜まで及ぶ徹底的な捜査が行われたが、何のてがかりも見つからなかった[36]。
- 翌7月6日0時30分過ぎ、足立区綾瀬の常磐線北千住駅 - 綾瀬駅間、東武伊勢崎線との立体交差部ガード下付近で人間の轢死体が発見された。その轢死体は線路上90mにも渡ってバラバラになって散乱していたが、所持品により下山と断定された。しかし、遺体発見前後から現場には土砂降りの雨が降り、遺体の肉片や血液やその他の遺留品を流してしまい、これがのちの捜査に大きく影響することとなった。夜明けから現場検証が始まったが、下山の遺体は血液が殆ど雨で流れてしまいどれも真っ白だったという。のちにこの豪雨は「下山の涙雨」とも呼ばれた[37]。
捜査態勢
捜査一課と捜査二課二係
本事件は上記の通り、警視庁の捜査一課及び捜査二課二係が同時に捜査を行うという異例の捜査態勢となった。この当時の警視庁では、捜査一課が殺人、強盗、暴行、傷害、誘拐などのいわゆる強行犯の捜査を担当していたのに対して、捜査二課は主に汚職や選挙違反以外の公安関係の捜査が担当であった。さらに本事件で主に捜査にあたった二係は、暴力団やその他団体による犯罪の捜査を担当していた。下山怪死の情報を聞いた二係長の吉武辰雄が、下山が国鉄の人員整理で労働組合と対立していたことを知っており、自分たちの領分であると判断して、二課長の松本彊の指示なしに独自の判断で、係の全捜査員30人を本事件の捜査に投入することを決めている[38]。その後、報告を受けた警察庁刑事部長坂本智元は、万全の捜査をという方針から、そのまま捜査二課二係の捜査継続を決めた[39]。しかし、本事件の捜査を主に担当したのは、捜査二課のうちでも二係だけで、他の捜査二課は通常の捜査を行っており、8月1日には松本課長直卒により日本共産党を100人態勢で捜査しているが、二係だけが不参加であった[40]。
7月7日午前9時には初の合同捜査会議が開催され、刑事部長の坂本以下、捜査一課、捜査二課二係、捜査三課が集まって「下山事件特別捜査本部」が設けられたが、本部長坂本の下の現場指揮官は捜査一課の堀崎繁喜、捜査一課二係長金原と捜査三課一係長野田が総合的な指導監督に任じられたが、同じ係長の捜査二課二係吉武には特に役は付かなかった[41]。 初の捜査合同会議の結果、捜査実施担当区域は以下のように区分された[42]。
- 第一現場(三越周辺)、捜査一課16人、日本橋警察署署員21人、合計37人
- 第二現場(死体発見現場周辺)、捜査一課24人、西新井警察署署員21人、合計45人
- 下山の身辺調査、捜査一課2人
- 別動班、捜査三課5人
- 労働組合、思想団体等、捜査二課二係24人
この捜査分担によって、捜査一課の支援で現場周辺の聞き込み捜査を行っていた捜査二課二係は、自分たちの専門分野である労働組合等への捜査を担当することとなった。なお、事件後かなり経ってから、朝日新聞の取材で、捜査二課二係の浅野淳一警部補が、「本部の方針が変わったのは、末広旅館の証言や他の目撃者が出たためだ。一課の“殺し”専門の刑事たちには単純な判断しかできない」「二課に現場をまかせてくれていたら、怪しい男の正体をきっと洗い出していたんだがね」と語ったなどとされているが[43]、「末広旅館」の女将の証言を捜査一課が初めて聞いたのが、この捜査分担が決まった後の正午であり[44](「末広旅館」女将証言の詳細については#五反野付近参照)、この浅野の証言は記憶違いか、取材した朝日新聞の完全な事実誤認である。また、朝日新聞によれば、浅野が捜査一課の捜査能力を揶揄したとのことであるが、本事件捜査における、捜査一課の刑事たちの印象は、あくまでも捜査二課二係は、本事件が社会的影響の大きい事件だけに、捜査一課の捜査に対する情報関係の応援要員という認識であった[45]。
本事件の捜査を混乱させた要因として、新刑事訴訟法が1949年12月に施行されてからの初の重大事件であったこともあげられる。旧刑事訴訟法では検察に捜査の権限が委ねられていたが、新刑事訴訟法では第一次捜査の権限は警察に移っていた。しかし、東京地方検察庁はそれをよしとせず、その権限はないにもかかわらず、初めから事件捜査に主体的にかかわっていた[46]。特に主任検事の布施健は下山が殺害された(「他殺説」)と考えており、捜査会議では他殺説とは矛盾するような聞き込みをしてきた捜査員が報告すると「そんなバカげたことはあるか」などと叱責してきたという。そこで捜査一課の刑事たちと激しい言い合いになることもあった[47]。
のちに下山の衣服から大量の油(通称「下山油」詳細については#下山油参照)が発見され、これを「他殺説」の重要な証拠になると考えた東京地検が捜査を開始したが、これまで労働組合、思想団体等への捜査や、捜査一課の捜査支援に甘んじてきた捜査二課二係も、吉武の方針で東京地検と協力して「下山油」への捜査に集中していくこととなった[48]。これは、社会的に注目されている重大事件だけに捜査を万全にしたいという刑事部長坂本の方針に基づくものであったが[49]、のちに、捜査一課の方針に対して捜査二課が反発して捜査を継続した[50]などと喧伝されるようになっていく。しかし実際の捜査二課二係に対する捜査一課の刑事たちの目は、対立と言うよりは冷ややかで、東京地検や、後に「他殺説」で深く捜査に関わる東京大学法医学教室からの指示で、捜査一課からの視点では的はずれな力仕事をさせられているのを見ていた、捜査一課で後に名刑事と称された平塚八兵衛は「なにを、まぁ、やってるんだ」と呆れていた[51]。
失踪後の目撃証言
失踪直後の下山と思しき人物の目撃証言は、警察の必死の捜査や事件に対する国民的関心の強さから多く集まり、三越店内に消えてから轢死体として発見される前まで23人からの証言が得られている[52]。その中から、警視庁から流出した内部資料「下山国鉄総裁事件捜査報告」(通称「下山白書」)に記載されている証言を中心に抜粋する。[53]
三越およびその周辺
- 9時35分頃、50歳くらいの背が高く髪を分けた薄ねずみ色の背広を着用した人が1階北口寄りの化粧品売り場の前を行ったり来たりしていた。後にニュースで知り、この人が下山ではないかと思った。(三越店員19歳)[54]
- 午前10時少し前、草履のケースの前で1人の男が品物を見ていた。50歳くらいで中肉、顔色は白い方で、髪は分けてあずき色の洋服を着ていた品の良い落ち着いた会社重役タイプ、下山かどうかはわからない。(三越店員21歳)[55]
- 午前10時15分頃に地下鉄入り口付近を、年齢は50歳前後、背丈約170cm、体重約65kgぐらいの太った男が通った。額が広く眼鏡をかけた社長タイプ、白いワイシャツ、ねずみ色の背広、帽子は被っておらず手ぶらであった。その男の後ろを2~3人の男が同時に階段を降りて行ったが、連れかどうかはわからない。報道を見て、自分が見た人物が下山だと直感した。自分は長年案内係をしてきたので、1回見れば人相や服装を忘れない自信がある。(三越社員35歳)[56]
- 三越歩道上でライターに石や油を補充するアルバイトをしていたが、午前10時20分~30分ごろに三越正面から出てきた男が立ち止まって、両手をズボンのポケットに入れて4~5分間ぼんやりと考え事をしていた。その男は年齢47~8歳、身長172cm~175cm、背広上下に白いワイシャツを着用し、縁の太い眼鏡をかけた上品な人であった。やがてその男は「油を入れてくれ」と売り場までやってきた。その男の出したライターは進駐軍が持っているジッポーかシルバーのどちらかだった。(学生18歳)[57][58]
地下鉄
- 午前11時23分渋谷発浅草行きの地下鉄の先頭車両に乗って着席していたが、日本橋駅か末広町駅の間の駅で乗った50歳ぐらいの男に足を踏まれた。男は考え込んでいて詫びもしなかったので、変な奴だと思って足の先から顔まで見上げたのでよく覚えている。身長は170cm~172cm、髪は七三分け、白いワイシャツにねずみ色の洋服上下、チョコレート短靴を履いており、所持品はなかった。自分は上野駅で降りたが、男は浅草駅方面に乗り続けた。(自営業43歳)[59][60]
- 時間は覚えていないが、浅草地下鉄駅1番ホームから来た人が下山のような人相、着衣であった。(靴磨き65歳)[61]
このあと2時間以上目撃証言が途絶える。
五反野付近
- 当日は清算係として東武伊勢崎線五反野駅改札口で勤務していたが、午後13時43分、浅草駅発大師前駅電車が到着し、下車した約20人のうちの1人が切符を渡した後、「この辺に旅館はないですか?」と尋ねてきた。そこで一緒に駅を出て、末広旅館を案内した。その男は背が高く、40歳~50歳ぐらいで、白いワイシャツに茶のさめたような背広上下を着ていた。(東武鉄道職員)[62]
- 午後14時頃に上品な男が(末広旅館)玄関に立っており「6時ごろまで休ませてくれ」と休憩を申し出てきた。そこで2階4畳半の部屋に案内した。男は「涼しいですね~。水をください」と言ったので、1階からお茶を持ってきて宿帳への記入をお願いしたが、「それは勘弁してくれ」と断られた。さらに下から布団を運んで「お連れ様がお見えになりますか」と聞くと、男は「私のような年寄りに連れがありますか」と笑った。その後、男は部屋で休憩し、午後17時20分頃に手が鳴ったので行ってみると、既に身支度を終えて1階に降りてきていた。男から「おいくらですか?」と聞かれたので「200円です」と答えると、男は黒革の財布から200円とチップ100円を百円札で支払った。その男は靴を履くときに、差し出した靴ベラを使わず、一旦靴をつっかけたのちに、玄関に腰かけてから靴の紐を解いて改めて履きなおしている。そして午後17時30分ごろに末広旅館を後にした。その男は身長172cm、年齢50歳くらい。色白面長でふくらみがあり、眉毛が開いてロイド眼鏡をかけ、髪は七三分けで上品で優しい顔をしていた。無謀でねずみ色の背広上下、白いワイシャツにネクタイ、チョコレート色のひだのある進駐軍の靴、木綿の紺色の靴下、黒革の財布、荷物は持たず一人であった。報道で知った下山と酷似していたことから西新井警察署にとどけでた。(末広旅館女将46歳)[63][64]末広旅館の下山と思しき人物が休憩した部屋からは5本の人間の毛髪が見つかったが、そのうち1本が下山の毛髪と酷似してた[65]。この証言と証拠は、事件に大きな影響を与えることになったので、のちに他殺説を主張する者からは、疑いの目を向けられることとなり(#他殺説参照)、証言者に災いをもたらすこととなってしまった。(#自殺説参照)
- 午後18頃(18時30分という報道もあり[66])、事件現場近くの高架下の手前の沼でエビガニ獲りをしていたら、坂を立派な紳士が下ってきた。その男は常磐線の溝に沿って50mくらい行ってからまた戻ってきた。今度は東武線の土手沿いに沿って歩いていき、しばらくするとトンネルの方角から引き返してきた。年齢は50歳ぐらいで身長は170cm~172cm、顔は夏ミカンのような肌、眉毛は太く下がっていて髪は白髪交じり、飴色の眼鏡をかけていた。無帽で白っぽい背広、縞入りの白いワイシャツに手織りの金糸が入ったネクタイを着用。写真を見て下山に間違いないと思い届け出た。(工員36歳)[67]この工員の隣に住んでいた女子中学生(14歳)は弟を連れて、一緒にエビガニ獲りをしていたが、この女子中学生も、18時40分頃に、無帽でねずみ色の背広を着て眼鏡をかけた紳士を目撃したと証言している[68]。
- 午後18時10分頃、子供と銭湯に行く途中、東武線トンネル入口で、土堤下のあぜ道から出てきた立派な紳士と出会った。その男はトンネルに入っていき、出口で立ち止まって考え事をしていた。身長は167cm~170cm、顔色は浅黒く脂ぎっており、眉毛は濃くて黒縁の眼鏡をかけていた。ラバーソウルの靴で爪先に馬蹄型のひだがついていた。報道で見た下山の写真とは似ていないが、人相書とは一致するので届け出た。後日、警察に見せてもらった当日の下山の着衣と靴については、間違いなくその人物が着用していた。(会社員38歳)[69][70]
- 午後18時30分頃、綾瀬の妹の自宅を訪ねた帰りに、近道のために東武線の下りの線路内を歩いていたところ、事件現場の高架わきに大きな男が立っていた。しだいにその男に近づいて行ったが、周囲に他に人気はなく、怖くなって一旦引き返した。そのときに振り向いて男の様子を見ると、線路わきの土手を降りてかがみこんでいた。その男を避けるため、線路を横断して上り線路を上野方向に歩き出して自宅を目指したが、下り線でかがんでいる男を通り過ぎるときにすれ違いざまに様子を見たが、足元の草を千切っていたという。その男は年齢46歳~47歳、色白で鼻が高く、肥った顔、眼鏡は記憶にない。無帽でねずみ色の洋服、チョコレート色の上等な靴を履き上品な人であった。下山の写真が掲載された新聞を見て、「私が昨日会ったのは、この人に間違いない」と自ら駐在所に届け出ている。下山の上着のポケットからは、轢死現場付近の植物であるカラスムギが発見されており[71]、警察が現場を調査したところ、証言と一致するように植物を千切った後が見つかっている。(小売業43歳)[72][73]
- 午後18時40分頃、東武線高架のところに来ると、北千住方向から枕木の上をブラブラ歩いてくる男がいた。顔は広く角顔で、ねずみ色の体形にあった服、靴の記憶はないが、着衣は下山に似ていた。その男は電車の来る方角に背を向けて歩いていたので、命知らずだと思った。その男は眼鏡をかけていなかったうえ、人相は下山には似ておらず、西尾末広似ていた。(清掃人39歳)[74][75]
- 午後18時30分頃(実際は後述の下り貨物列車の通過時間から18時58分前)、犬の散歩中に東武線高架辺りで線路を見ると、常磐線の線路の中を下戸の人が酩酊したような格好で、キョロキョロと左右を見ながら千住の方から歩いてくる人がいたので、危ないなぁと思ってみていると、やがて下りの貨物列車が走ってきたので、その人物は高架下から2本目の電柱に身を寄せてどうにか貨物列車をやり過ごして無事であった。身長は175cmぐらい、顔は面長、眼鏡はかけておらず体形はよかった。着衣はねずみ色の洋服に白いワイシャツ、頭髪は分けていたと記憶している。(主婦60歳)[76]この男が貨物列車を避けるために身を寄せた電柱の下部はコールタールが塗り立てで乾いておらず、その一部が地面に流れていたが、のちに下山の靴底からコールタールが検出されており、この男は下山本人であった証拠ともされている[77]。
- 午後20時半すぎ、五反野踏切前で自転車を降りて待っていると、反対側から走ってきた知人が「変な人がいるよ」と言ってきた。見ると、この辺りでは見かけない立派な人が立っていた。電車が通過したので自転車に乗ろうとすると、その男は東武線の高架の方向へ線路を歩いて行った。年齢は50歳ぐらい、背は高い方で灰色のような服を着ていた。眼鏡はかけておらず、ワイシャツの襟が上着の上に出ているような感じであったがはっきりしない。辺りは暗かったので人相はわからなかった(女性20歳)[78][79]
- 7月5日常磐線下り263貨物列車に乗り、荒川放水路鉄橋を渡った後の午後22時9分頃に土手の踏切の約30m手前にさしかかったとき、ふと前方を見ると、踏切の警標の陰に人が立っていた。こんな夜遅くには人気がない場所なので、飛び込み自殺かと警戒して、機関車が踏切を通過するまで注視していた。その人は下山と人相、服装が似ていて、立派な紳士風の男だった。(国鉄機関士22歳)[80]
- 午後23時30分近く、ラジオ店からの帰り道で自転車で五反野南町にさしかかったとき、東武線の高架方向から1人の男が下を向いて歩いてきた。こんな夜遅くに何事だと思い、その顔を見ながら行き過ぎて、振り向くとその男も立ち止まってこちらを見ていた。雨が降り出したが、急ぐ様子もなくぶらりぶらりと高砂町の方へ歩いて行った。歳は4、50歳前後、身長は167cm以上、面長で肥った顔、黒か茶縁の眼鏡をかけ、髪は七三分けの肥った重役風の品のいい人であった。服はねずみ色のような背広上下に白ワイシャツ、荷物は持たず一人で、この辺りでははじめて見る人だった。翌日の新聞報道で、昨夜見た男が下山に酷似していたのではっとした。(魚商30歳)[81]
これらの目撃証言を繋ぎ合わせると、下山が三越内に入ってから、轢死するまでの間、浅草駅から五反野駅に現れるまでの約2時間を除けば、継続的に下山の目撃情報があっている[82]。特に事件現場付近での多くの目撃証言は、自殺前の彷徨いという状況が明らかであり[83]、警視庁捜査一課は下山は自殺したという方向で捜査を進めていたが(自殺説)、この証言の一部は、朝日新聞記者の矢田喜美雄による追跡調査により、自殺と結論付けたい捜査一課の脚色が加えられているという指摘もある[84]。また、下記の通り、下山の遺体の司法解剖により死後轢断であったという結果が出ると、下山は轢断前に殺害されており、事件現場付近をうろついていたのは、その殺害した犯人グループが準備した替え玉であったのではないか?という主張がされていくようになっていった[85]。(他殺説)
生体轢断か死後轢断か
東京大学での司法解剖
下山は東武伊勢崎線ガード下の国鉄常磐線下り線路上にて、付近を0時20分頃に通過した田端発平行きの下り貨物第869列車(D51 651牽引)にひかれたことが判明[注釈 2][注釈 3]した。所持品で轢死体が下山のものであると判明すると、にわかに現場は慌ただしくなり、続々と警察や国鉄関係者が集まりだした[87]。午前4時には下山の鉄道省時代の秘書であった折井正雄上野駅旅客係長が現場に到着、轢死体の顔面を見て下山であることを確認した[88]。
午前5時30分に、豪雨もあがったので総勢50名による物々しい現場検証が開始された。下山の遺体を検視した監察医は、東京都監察医務院の八十島信之助医師であったが、八十島はこれまで100体以上の轢死体を検視してきたベテラン監察医であった。現場での検視は、メスなどを使用することなく、外見や損傷面や皮膚状態を観察し、触手などで死後硬直などを判定するが、八十島程度の経験を積んだ監察医であれば、その検視に殆ど狂いはないとも言われていた。八十島は検視の結果、下山の死因を轢死であると判断した。鉄道事故の検視で轢死というのは、自殺及び事故死のことを指していたが、八十島は重大事件でもあり「国鉄総裁の死亡というのは大問題でしょう。司法解剖してみるのも一つの方法でしょう」とも付け加えた[89]。八十島が轢死と判断したのは、遺体の胴体の部分に、ほかの多くの轢死体と同様に死班が見られなかったためであり、生前に身体が大きく損壊した「生体轢断」であるとした。結局、他殺を疑っていた東京地検主任検事布施健からの進言もあり、下山の遺体は司法解剖に回されることになった[90]。
翌7月6日午前10時30分に東京大学で下山の司法解剖が行われた。この当時は、地域を決めて東大と慶應義塾大学が司法解剖を分担して行っていたが、下山の現場が東大の分担地域であった[91]。司法解剖の指揮は法医学教室主任の古畑種基教授が執ったが、実際の執刀は同教室の桑島直樹講師が行った。桑島は血液や麻薬などが専門で、解剖の経験は少なく、轢死体の執刀は今回が初めてであった。しかし、慣れていない分、たっぷりと時間をかけて執刀し、法医学の歴史に残るような詳細な所見となり、現場で検視した八十島の検視結果とは全く異なる以下のような鑑定結果を発表した[92]。
- 死体には血液がほとんど残存していなかった。心臓には穴が開いていて、ここにも血液はまったく認められなかった。
- 首、肩、腕、左足首の断裂面には、自殺ならば当然認められるべき生活反応が発見できなかった。つまりこの事実は、下山の遺体が「死後轢断」であることを示している。
- 遺体全体には380か所もの傷が確認されたが、その大半に生活反応が存在しなかった。だが、両手足の皮下出血、睾丸、陰茎、瞼、内膜の粘膜出血などごく一部には明確な生活反応が残っていた。
- 死亡推定時刻は5日22時前後(貨物第869列車が下山を轢く前の時刻)[93]
この司法解剖結果により、にわかに下山は殺害されたという見解が主流となっていく。早速日本政府が反応し、増田甲子七官房長官が以下のような政府談話を発表している[94]。
下山国鉄総裁の死体は東大で解剖しているが、両足、胸が切断されている点から、鉄道の専門家たちは自殺ではないと見ている。轢かれる前に死んでいたのではないかとの見方が強い。しかし政府としては慎重な態度で臨み、徹底的に調査する。—7月6日正午官房長官談話
これは、政府が下山が他殺であることを望み、他殺を前提として、治安対策や労働組合対策に利用しようとしていたという見方もある。マスコミも政府発表に反応し、紙面に他殺説の記事が踊り、なかには「死体に弾痕が見つかる」などというフェイクニュースまであり、国民の不安と恐怖心を煽った。政府や世論が過熱する中でも、警視庁捜査一課は冷静に捜査を進めており、7月6日午後19時10分の記者会見において、課長の堀崎が下記の見解を述べている[95]。
- 死因はまだ判明しない。
- 出血が少ないので死後に轢かれたものと認められる。
- 胃には全く内容物はなく、食後4~5時間経過している。
- 飲酒していたかは不明。
- 毒物の有無は判明しない。
- 他殺の疑いはあるが断定できない。
7月8日には東大裁判科学教室で秋谷七郎教授による死亡時間の割り出しが行われた。その検査方法というのが、下山の遺体のうち細菌に汚染されていなかった肩の筋肉を無菌室にてすり潰し、液状となった筋肉が時間の経過で示す水素イオンの発生量を測って、グラフに現れるカーブから科学的に死亡時間を割り出すというものであったが、この検査によって下山の推定死亡時刻は5日21時30分とされ、先に司法解剖で出された推定死亡時刻22時とあまり差が出ず、死後轢断を補完することとなった[96]。
古畑と東京地検は失われた下山の血液を探索すべく、事件現場から下山の胴体があった場所など3か所を、枕木の下40cmまで掘りおこして、その土砂に血液は混じっていないか、国家警察科学捜査研究所に持ち込んで検査してもらったが、100gの水にわずか1gの血液が混じっても検出できる鋭敏な薬品を使用しても、血液反応は出なかった[97]。現場で下山の血液が検出できなかったことで、他の場所で下山が血を抜かれたうえでの失血死の可能性が指摘された[98]。加えて、遺体の局部などの特定部位にのみ内出血などの生活反応を有す傷が認められたことから、該当部分に生前かなりの力が加えられたことが予想され、局部蹴り上げなどの暴行が加えられた可能性も指摘された。そして7月9日に古畑と桑島は死因を「局部を蹴上げられたためのショック死」で死亡推定時刻は、機関車に轢断される前の「5日午後21時頃」と判定した[99]。しかし、この判定は、8月30日に衆議院法務委員会の参考人招致であっさりと覆されることになる[100]。
法医学会での論争
しかし、7月10日の毎日新聞の紙面で、同じく警視庁の司法解剖を担当していた慶應義塾大学の中舘久平教授が生体轢断を主張し、東大古畑の死後轢断説に反論した。まずは秋谷の水素イオン検出法がまだ確実性がなく、その推定死亡時刻には疑義があることと、古畑が死後轢断としていた根拠の一つであった出血量の少なさについては、中舘の経験から飛び込み自殺の遺体では少ない方が多く、自分が検視した146体のうち、出血多量はわずか9%、少量16%、ごく少量が70%以上というデータも披露した[101]。東大への批判はその後も広がり[102]、小宮喬介(元名古屋医科大学教授)も参戦して「自殺の場合でも人体はまず排障器に当たった瞬間、その打撃のショックで心臓が停止するが、そのショックとなった打撃部分の生活反応を認めるのみで、他は死体となって轢かれた傷しかない」「死体が轢かれるのであるから血液は流出することはあっても、心臓の圧力による噴出はなく、轢断部分の生体反応である毛細血管の出血も起こらない。下山の死体の出血が少なかった事実は自殺の場合でも不思議はない」などと反論した[103]。
その後も、自殺の根拠となる生体轢断と見るか、他殺の有力な根拠となる死後轢断[注釈 4]とするかで意見が対立した。法医学界での深刻な対立を重く見た古畑は、当時の法医学学会会長の東北大学村上次郎教授に緊急法医学会の開催を申し出た。この学会には、古畑、八十島、中館、小宮などの当事者の法医学者のほか、警察や検察の関係者も出席したが、法医学会がこのような会議を開催することは異例中の異例であった[104]。現場で最初に検視した八十島は轢死遺体の生活反応について「自分が100体以上轢死体を検視してきたなかで遺体に生活反応がはっきりしないことは別に珍しいことではない。法医学の教科書にも鉄道死の場合、生活反応が必ずしもはっきり出るとは限らないとある」、中館は睾丸の出血について「私が最近検視した三鷹事件の轢死体4体のうち3体に陰嚢に皮下出血が見られた。従って下山の生活反応がある傷が生前にうけたものとは断定できない」と東大の解剖所見に反論するなど[105]各関係者は自分たちの見解を述べ合ったが、互いへの批判に終始し、会議として何らかの合意がなされることはなかった[106]。
8月30日には古畑、中舘、小宮の3人の法医学者が衆議院法務委員会に参考人招致され、国会や法医学界をも巻き込んだ大論争となった。法務委員会委員の質問に対し古畑は、上記の通りに死因を「局部を蹴上げられたためのショック死」などと公表していたにも関わらず[107]、「解剖執刀者桑島博士は、いまだかつて公式には他殺、自殺のいずれともいっていない。死後轢断という解剖所見を述べているだけである。研究は継続中であり、研究結果も知らない者が勝手に推論することは、学者的態度ではない」と述べている[108]。
現場の刑事の立場からは、古畑より中舘の方が信頼されていたという。中舘はどんな死体の解剖でも、事前に捜査員から現場の状況をつぶさに聞き取り、死体はどんな状況で、天候や日光の作用はどんな具合だったか確認したのちに判定していたが、古畑はあくまでも法医学の所見を重視し、現場の報告はほとんど無視していた。捜査一課の平塚は中舘から「いまの法医学では刑事の足にはかなわない。だから、刑事さんの足と、わたしたちのいわゆる死体を解剖した所見をあわせて、総合的に考えなければならない」と話されたという。一方で古畑は「法医学が100%先行する」という立場であった[109]。
衣服と遺留品
下山油
下山が着用していた、背広上下、ワイシャツ、肌着、褌、靴下、靴は現場で回収された後、捜査一課が保管していたが、警視庁の屋上で4~5日間も天日干ししたあとで、一旦東京地方検察庁に提出され、その後に鑑定された[110]。衣類についている血痕を検査したが、検出することができず、事故はあっても着ていた衣類には血さえついていないという奇怪な事実が判明した。その後に衣類は古畑ら東大法医学教室に送られてきたが、血液反応のない衣類を検査する必要もないとのことで、そのまま警視庁に送り返そうとしていた。そこで、秋谷が調査したいと申し出て、自分の研究室に移管させた。下山の衣類の検査には朝日新聞記者の矢田喜美雄も同席したが、まず秋谷らが注目したのが、下山のワイシャツや下着、靴下に大量の油が付着していたことであった。一方で上着や革靴内部には付着の痕跡が認められなかった[111]。
油を衣料から抽出したところ85.3gもの量となり[112]、秋谷や矢田らはこの量の油の付着は自殺では考えられないことだとわき立った。さらに徹底した付着物の調査が行われ、背広やワイシャツから、青緑、紫、褐色などの色素とみられるものも検出された。9月も終わりころになると、他殺説で捜査を続ける東京地検も秋谷らの調査に期待するようになり、正式な鑑定命令を出した。ここで晴れて秋谷らは公式に衣類付着物の調査ができるようになり、研究室の研究員だけでは足りないので、応援を呼んで調査を強化した。秋谷は研究員を3班に分け、まずは秋谷が直卒する油の正体追及班に7人、色素関係は助教授をチーフに5人、残り若干名は他の付着品の調査をそれぞれ担当することとなった[113]。
秋谷らが正体追及した謎の油は、通称「下山油」と呼ばれたが、まずは機関車などに使われている鉱物性の油であるか調査するため、田端機関区から鉱物性の油を3種類取り寄せて下山油と屈折率の調査を行ったが、田端機関区の油は鉱物性の油の屈折率であったのに対して、下山油は植物性の油の屈折率であった。さらに研究員は田端機関区で機関車の車底に実際に潜り込んで油を拭ってみたが、わずか4.5gしか採集できず、轢死した場合に遺体の衣服につく油は微量にとどまるはずであると主張した[114]。屈折率の調査の結果、植物油と判明した下山油の正体を特定すべく、東京地検と警視庁捜査二課の30人を動員して東京都内で当時使われていた油のサンプルが集められた[115]。
この当時、油は戦前からの配給制が続いており、油糧配給公団が配給していた。そのため、生産拠点や配給所を追跡することが可能で、秋谷らは早速公団に連絡を取ると、情報提供を依頼した。そして公団から提供を受けた情報をもとに、東京地検や警視庁捜査二課の捜査員が虱潰しに生産拠点や配給所を回ってサンプルを収集した。そのサンプル数は11月半ばまでに100か所以上の生産拠点や配給所から集められたが、その油種もごま油、菜種油、糠油、大豆油など14種類にも及び、さらにはそれらを混合した混合油もあった[116]。秋谷はこの集められたサンプル油で科学的判別法の一つである酸化測定を行った。酸化測定の結果、下山油と同じように時間経過と共に酸化の値が急上昇するのは、トウモロコシ油か糠油のいずれかまで絞り込んだ[117]。秋谷はさらに下山油を特定するため、複数のトウモロコシ油と糠油の沃素値を測定して下山油と比較した結果、糠油のサンプルの測定値内に入っていることが判明し、下山油は糠油であると断定した[118]。
糠油は無論、植物性油が機関車整備に使用されることはないと認識していた秋谷はこの検査結果に色めき立ち、下山油は轢断時に機関車から付着したものではなく、「油の流れている場所で下山さんは死んだ」と推定した[119]。この下山油の存在は、下山の監禁および殺害場所を特定する重要な手がかりになる可能性もあるとして注目され、一気に他殺説を盛り上げることとなった。下山は殺害されたのちに、糠油を入れていたドラム缶に押し込まれて現場まで輸送されたが、その際に衣類に糠油が付着したのではという推測もされた。のちに他殺説の急先鋒になる推理作家の松本清張は「私はドラム缶ではなく、四角い箱のようなものではなかったかと思う」「それに下山の身体は右脇を下にした状態で置かれたのではあるまいか」と推理しているが[120]、これは下山油の付着が下山の遺体の右側の方に多く付着していたからであった。さらに松本は背広上着に下山油が殆ど付着しておらず、ズボンや下着に大量に付着してることから、機関車から流れ出た油が轢断時に付着したものではなく、先に他の場所で付着したことは明白であるという主張も行った[121]。
一方でこの下山油の秋谷鑑定については異論もある。上記の通り、この下山油が、機関車整備には使用されない植物油であることや、電車に轢殺された遺体としては不自然なほど大量に、その衣類に付着していたと指摘され、下山他殺説の有力な根拠ともなっているが[122]、しかし、事件当時は、鉱物油の質が悪かったので、性状を安定させるために植物油を混入させることは常態化しており、その割合は5%から30%にも達していた[123]。また、秋谷は機関車の車底から、わずか4.5gの油しか採取できなかったとしているが、ジャーナリストとして下山事件を調査していた佐藤一が、実際に機関車の底に潜り込んで調査したところ、機関車の車体には大量の油が付着しており、手の届く範囲で拭ってみたところ300gを超える油が採取出来ている[124]。さらに、糠油と断定した秋谷の沃素値測定についても、東京大学生産研究所第4部の教授に検証を依頼するなどして問題点があったことも指摘している[125]。
松本らが指摘した、背広上着に下山油付着が少ない点についても、下村は機関車底部に巻き込まれて、轢断されたり引きずり回されている間に次第に衣服がはぎ取られていき、最後は殆ど裸体になってしまったので、真っ先にはぎ取られた上着に下山油の付着が少なく、より長く下山の遺体が着用していた、下着やズボンに付着が多かったのは当たり前で、もっとも付着が多かったのが、最後まで下山の大腿部にまとわりついていたボロボロのズボンであったのもその証左ともいえる[126]。
秋谷らが機関車の整備油に植物油が混じっていたという事実や、機関車には常時大量の油が付着しているという事実を敢えて黙殺して「秋谷鑑定」を行ったのは、当時、下山油に強い興味を示していた東京地検や警視庁捜査二課に忖度したのではないかとの指摘もある。特に捜査二課二係の吉武辰雄係長は、これまで資料の蒐集や協力活動といった捜査一課の捜査支援という立場に甘んじていたので、この事件で初めて主体的に捜査できた下山油に入れ込んでおり、秋谷の鑑定も吉武の捜査方針に沿った結果となって、結果的に協力活動をするような形になったという指摘もある。当事者の吉武は、後日になったこの当時のことを振り返り、下山油は東京中の油のサンプルと比較したが該当するものはなく、室蘭の製鉄所の油が似ているとの情報で室蘭まで行ったが、それも空振りに終わって、最終的な結論が出ることもなく、捜査終了前には油の捜査は終わっていたと語っている[127]。
遺留品
現場からは下山の多くの遺留品が発見されているが、生前には確実に所持していたはずなのに発見することができなかったものもある。その一部を抜粋すると、ロイド眼鏡、ネクタイ、ジッポーライター、シガレットケース、シガレットホルダー、シャープペンシルなどであり、警察は捜査員を動員して必死の捜索を行ったが、ついに発見することはできなかった。これらの物は、そのうちの1部であれば、機関車に挟まって遠くまで運ばれた可能性もあるが、それにしてはあまりにも数が多く、特にヘビースモーカーであった下山の喫煙道具一式が見つからなかったのは不可解であった[128]。喫煙については、旅館「末広屋」で下山と思しき人物が休憩した際に、喫煙した形跡がなかったこともおかしいと指摘されており、下山替え玉説の証拠ともされている。ただし、「末広屋」の女将は、灰皿を含む部屋の掃除はいつものルーティンワークで行っており、記憶にはないが灰皿もそのときに片づけてしまったかも知れないという話をしており、下山と思しき人物が全く喫煙をしていなかったと決めつけるのは、一方的で勝手な推理に過ぎないという指摘もある[129]。
見つかった遺留品についても謎の多いものがある。下山名義の東武鉄道優待券も見つかっているが、五反野駅員に目撃された下山と思しき人物は改札で切符を渡しており、なぜ優待券を持っていたのにわざわざ切符を購入したのかも謎とされている[130]。
多くの目撃証言で登場する、チョコレート色の靴も見つかったが、毎日靴の手入れをしていた書生の証言によれば、下山はこの靴を大切にしており、必ず橙色のコロンブス靴クリームを使って磨かせており外で靴磨きに磨かせたことはなかったという。だが、秋谷の鑑定書によれば、発見された靴にはコロンブスではないメーカーの焦げ茶色のクリームが塗られており、塗り方も書生の丁寧な塗り方とは異なり、靴紐や紐を通す穴などにクリームが付着している乱雑な塗り方であった。靴磨きを商売とする者がこの様な乱雑な仕事をすることはあり得ないし、また靴紐の結び方も、下山の妻は下山の結び方とは全く違うと証言している[131]。
しかし、この靴の検査をした塚元久雄教授(事件当時は助教授)の回想によれば、自分は靴クリームを検査した記憶はないし、そもそもクリームのメーカーの鑑定は不可能であると証言している。また秋谷の鑑定書についても、その鑑定書内で記述が矛盾しており、靴に関する記述は「靴は警視庁鑑識課で検査後のもので、外部の汚れは殆どなく、磨かれたようにキレイであった」で始まっているのに、他の研究員が書いた靴クリームについての記述になると「塗り方が乱暴」などと書かれていた。また機関車底部に付着している油も焦げ茶色で固まっているものもあり、その油が付着した可能性や、秋谷らが調査するまでに2ヶ月間もの期間があり、その間に警察や東京地検といった関係先を転々としており、靴クリームが変色した可能性も指摘されている[132]。
靴底には、五反野を半日歩き回ったのにも関わらず、砂や土が全く付着しておらず、付着していたのは1円玉大のアスファルトと微量の緑色色素であった。緑色色素については、警察の鑑識によりクロロフィルが抽出されたため、現場付近の草を踏んで着いたもので[133]、アスファルトは現場付近の目撃情報であった、下山とが走ってきた貨物列車を避けるため、東武線高架下から2本目の電柱に身を寄せた際に、半乾きのコールタールを踏んで付着したものと判断された[134]。ただ、この緑色色素については、秋谷の鑑定では、クロロフィルではなく工業用染料のマカライトグリーンであったとされており、他の多くの秋谷が手掛けた鑑定と同様に、鑑定結果が相違している[135]。
色素については、秋谷によって背広上着とワイシャツとハンカチと靴から、青緑、紫、赤色、褐色の4色が検出された。この染料は検査の結果、塩基性染料と判明した[136]。主にアルコールやシンナーなどに溶解し、皮革製品、ウール地衣料、金属製品、木製品の染色に使用されるものであった[137]。下山油のサンプル収集の過程で、この塩基性染料と糠油を併用する事業所があることが判明し、東京地検や捜査二課が注目した。秋谷は検事に「糠油と色素を一緒に使う産業があるという発見は、事件捜査に有力な糸口を見つけたことになると思う」と主張した。これは、下山が染料と糠油が併用されている事業所で殺害されたと秋谷が考えているということであったが、塚元助教授に色素の性質と名称を判定させて、さらに容疑事業所を絞り込むことを検事に約束している[138]。
この塩基性染料については、事業所といった限られた場所での染色目的だけではなく、医療用、科学実験、鮮やかな発色の婦人服の染色、部屋の化粧壁など日常生活にありふれており。通常の生活をしていても衣料に付着する可能性があることも指摘されている。秋谷から指示を受けて染料の調査をしていた助教授の塚元も「きわめて微量なものからその付着場所を特定するのは、事実上不可能である」と考えていた[139]。
線路上とロープ小屋の血痕
朝日新聞記者矢田喜美雄が血痕を指摘
7月18日に朝日新聞の矢田は下山の司法解剖をした東大の桑島から、GHQ憲兵司令部・犯罪捜査研究室(CIL)のフォスター軍曹という憲兵が、轢断地点付近にわずかな血痕を見つけたとの情報を入手したので、調査をするように勧められた[140]。しかし、この血痕が発見された経緯は、当時の関係者の記憶が曖昧であり、なぜ矢田が主張するように、突然にアメリカ軍の憲兵が登場して、このような重大な発見をしたかも全くの謎であった。矢田に情報を提供したはずの東大法医学教室の血液調査担当であった中野繁は、矢田が自ら「ひょっとしたら轢断面の上手の方に、下山さんの血痕があるんじゃないか」などとしきりに調査の必要性を主張していたのを聞いている。同じ東大法医学教室の野田金次郎も矢田が「現場周辺に血痕のようなものがある気がするんだ。そこを調べてみたい」と依頼に来て、野田は矢田の想像力の豊かさに感心したという。そして矢田自身も雑誌『中央公論』昭和26年1月号に寄稿した『下山総裁の血の謎』という記事で、自分のことを「ブン屋」と称し、その「ブン屋」が自ら探し出したと書いている[141]。
捜査関係者の血痕の記憶が曖昧なのは、事件直後の徹底した現場検証の際に、その時点で血痕があれば、まだ新鮮だったはずであり、多数の鑑識員がまず見逃すはずがないという考えに基づいていた。これは当時、事件現場の鑑識に携わった鑑識員のほぼ一致した見解であり、鑑識課長の塚本恭久は、血痕があったとしても、油じみなどとの区別が難しい古い血痕であったはずと述べている。しかし、矢田の通報もあって、7月19日には警視庁も血痕の調査をすることになった[142]。血痕の調査には、矢田も加わり、矢田は自分のハンカチで1本1本枕木を拭いて、様々な枕木の染みから血痕らしきものを探し出すと、持ってたガラス片で血痕を枕木からはぎ取って回収して回った。そしてその血液らしきもの東大法医学教室に持ち込んで桑島に鑑定を依頼したが、量が少なく、人間の血液であるかも判定できないかもしれないという回答であった[143]。一方、警視庁も課長の塚本以下9人の鑑識員を投入して鑑識を行った。科学捜査研究所顧問浅田一の監修も受けて、慎重な検査も行ったが、結局は現場の血痕が下山の血液に結び付くという結論は得られなかった[144]。
しかし、矢田は血痕に固執し、もっと効率的な調査法はないか野田に助言を求めた。野田はルミノール薬であれば、暗闇で血液に噴霧すれば光ることを矢田に教え、実際に実践して見せた。この当時はルミノールは一般的な薬品ではなく、東大法医学教室でも多くは持っていなかったうえ、そもそも製薬会社ですら在庫があるか怪しかった。そこで矢田は自ら薬問屋を訪ねると、私費でわずかに残っていたルミノールを買い占めた。7月22日の深夜0時から矢田は同僚記者と2人で枕木にルミノールを噴霧して回った。効果はてきめんで多くの枕木が蛍光色で光っており、多数の血痕が発見された。その血痕はあたかも酔っ払いが歩いているような千鳥足状になっており、矢田は他の場所で殺害した下山の遺体を、犯人たちは線路上を歩いて運搬したが、重かったので、ふらついたうえで、ときどきは遺体を置いて休憩したのではないかと想像した[145]。
東大法医学教室が関係しているとはいえ、新聞記者単独の現場検証の真似事のような調査であったが、古畑に報告したところ、東大が主張する「死後轢断」説を補完する材料にもなると好意的に受け入れられ、東京地検への紹介状を書いてくれた。矢田はその紹介状を持って東京地検刑事部山崎刑事部長と、一貫して他殺説を主張してきた主任検事の布施と面会し報告したところ、当然に布施から「証拠が消えてしまう」「先にこちらに話をしてくれ」と苦言を呈されたが、結局は東京地検と東大法医学教室共同で再度ルミノール検査を行うことが決まった。さらに警察からも鑑識課長の塚本も立会人で加わることとなった[146][注釈 5]。
検察・警察と東大による合同調査
合同検証は25日の午後23時から開始された、改めてルミノール検証が行われた結果、次々と枕木が蛍光色で光り、捜査員や研究員は徐々に上り方面に捜査範囲を伸ばしていくと、血痕は轢断地点から上り方の荒川鉄橋方面まで約199.3m続いていることが判明した。おおむね血痕は4群に分かれており、合計で46か所も見つかった[147]。さらに、血痕が途絶えた場所の土手下には、廃屋のような小屋が見つかった。捜査員はその小屋に注目し、ルミノールを噴射したところ、扉や柱など17か所に反応があった[148]。この検査結果で矢田は、他で殺害された下山の遺体を犯人らがまずこの小屋に運びこんだ後に、土手を登って線路上を轢断現場まで運んで、その後に線路上に遺体を放置したと推定した[149]。
この推定を証明するには、線路上や小屋の血痕が下山のものであると証明する必要があった。下山の遺体から保存していた血液は相当量あったが、ABO式血液型でのA型の判定はできても、それ以上の判定はできなかった[150]。そこで古畑は親族の血液型から下山の血液型を推定することとし、東京在住の3親等16人の親族の協力を得て、AMQ型70%、AMN型30%の確率であると推定した[151]。東大法医学研究室では、採集した血痕の血液型検査が進められていたが、これらの血痕のうち、検査可能な39検体のうち29検体が人間の血と確認された。このうちABO式血液型検査で検査できた15検体はすべてA型であり、さらにそのうち下山と同じ型の可能性が高いAMQ型は4検体に過ぎなかった[152]。
注目は、土手下にあった小屋から発見された血痕であったが、捜査一課は小屋の所有者の大村常太郎を探し出して、この小屋は大村が1935年(昭和10年)ごろに作って、1945年(昭和20年)8月までマニラロープ製造に使用していたことを聞きだした。そのためこの小屋は「ロープ小屋」と呼ばれるようになった。さらに捜査一課は「ロープ小屋」が1946年(昭和21年)2月に釣り糸製造業の角田に貸し出されていることも掴んだ。角田は1948年(昭和23年)5月まで釣り糸の製造に使用しており、その際に薪割り中に斧で大けがをして血痕が小屋に付着したと証言した[153]。ロープ小屋の扉についていた血液は、東大法医学室の検査によって下山と同じ型の可能性が高いAMQ型と鑑定されていたが、角田の証言を確かめるため、東京地検の依頼で東大法医学教室が角田の血液型検査を行った結果、ANQ型という結果が出て、角田の血液ではないことが判明した[154]。
しかし、この血痕の問題はその内容が時代を経るに従って二転三転しており、検出された血痕の多くが下山と同じ血液型であったという主張は矢田の記憶によるものが中心である。実際に東大法医学教室で血液の鑑定を行っていた中野は、採集したサンプル量ではQ型を特定することまではできなかったと記憶しており、そもそも生の血液ではない乾いた血痕ではMN型やQ型を特定するのは困難とされている[155]。また、東大法医学教室がANQ型と判定した角田の血液型は、警視庁の鑑識課の検査ではAMQ型と鑑定されており[156]、警視庁では、小屋内の血痕は角田のものという判断がされている[157]。
肝心の矢田の記憶も変化しており、長年の取材の成果をまとめた著書『謀殺・下山事件』では、下山と同一の可能性が高いAMQ型の血液が、「ロープ小屋」の扉を始め多数発見されているような記述であったが、のちに、作家松本清張をはじめとする他殺説を主張する有志により結成された「下山事件研究会」からの聴取に対しては、AMQ型の血痕は信号付近から2か所、あとロープ小屋の扉の血液型はAM型であったと主張を変えている[158]。いすれにしても、この時代においては血液型だけで個人を特定はできず、それが可能になるのはDNA型鑑定が普及してからであった[159]。
そもそも、下山の遺体からは血液がほとんど失われており、遺体運搬時にこれほどの血液をまき散らしているのは、他殺説で主張されている、他の場所で下山の血を抜いて失血死させたという死因とは矛盾しているという指摘もある[160]。それでも警視庁捜査一課は可能性を検証するため、下山と同じ重さの75㎏の砂袋を使って遺体運搬の実験をおこなった。実験は想定された7ルートで行われ、その所要時間や困難度を判定する本格的なものであったが、実験の結果、「運搬方法を現場で実施した結果不可能ではないが極めて困難である事が認定される」という結論に至った[161]。結局、見つかった血痕について捜査一課は、当時の列車のトイレは垂れ流であり、排泄物を線路上にまき散らしていたので、排泄物に混じった乗客の血液にルミノールが反応したのではと判断している[162]。
警察の捜査
捜査方針の変遷
上記のように、この事件の捜査に関しては、下山の死因が自殺か他殺かの判断が変遷していった。まずは、7月6日の東京大学法医学教室による「死後轢断説」の鑑定によって、下山は先に殺害され、その後に機関車に轢断されたことが示唆されると、日本政府を始め、世論は一斉に「他殺説」になびいていったが、この時点において警視庁は、「死因はまだ判明しない」「他殺の疑いはあるが断定できない」と拙速な判断はせず慎重であった[163]。しかし、7月7日に警視庁で初の合同捜査会議が開催されたが、その会議では意見を述べた捜査一課の全21刑事のうち、他殺もしくは他殺の可能性が高いと考えていた刑事が11人、自殺が4人、残りが不明もしくは5分5分であり、世論の流れと同様に他殺と考えていた刑事が多かった[164]。
初の合同捜査会議の決定により、捜査一課は所轄の警察署の捜査員の支援を受けて、第一現場(三越周辺)と第二現場(死体発見現場周辺)の聞き込みを開始した。三越周辺で聞き込みしていた刑事は下山らしき人物が2~3人の男に追われていたという証言を掴むと、この男たちが誘拐者ではないかと色めき立ったが、その目撃談のすぐ後に、下山と思しき人物が、三越の外でライターのガスの補充をしたという証言もあって、その不可思議な行動に頭をひねっていた。一方で、死体発見現場周辺では次々と下山と思しき人物の目撃談があっており、三越周辺の目撃談は次第に重要性が低下していくことになる[165]。特に7日に聞き込みした「末広旅館」女将の詳細な証言が、大きく捜査の流れを変えることになった。報道で事件を知った「末広旅館」の女将は、休憩した人物が下山に間違いないと確信すると、所轄の西新井警察署に届け出た[166]。その後捜査一課の刑事が聞き込みにきたが、「末広旅館」の女将の証言の重要性に驚き、一旦聞き込みを終えると、神妙な顔をして「末広旅館」を後にした。その光景をみていた毎日新聞の記者がただ事ではないと察すると、ベテランの事件記者が「末広旅館」の女将を取材したが、女将は記者をその風貌から刑事と誤認して、先ほどの捜査一課の刑事に話した目撃証言を洗いざらい話してしまった。この毎日新聞のスクープは翌8日の紙面を大きく飾り、この後、毎日新聞は自殺説の方向で報道するようになり、他殺説をとる朝日新聞や毎日新聞と紙面上で激しく対立していくこととなった[167]。
7月9日には東京大学法医学教室が「局部を蹴上げられたためのショック死」と下山は殺害されたとの見解を公表し、毎日新聞以外のマスコミや世論は一層他殺説が主流となっていったが、毎日新聞は東京大学法医学教室の主張する「死後轢断説」に疑問を呈していた慶応義塾大学中館の見解を紙面で紹介し、この後、東京大学の「死後轢断説」と慶応義塾大学などの「生前轢断説」が激しく対立していくこととなった[168]。その頃、世論の喧騒に構わず捜査一課は地道な地取り捜査を続けており、さらに多くの現場周辺での下山の目撃情報を聞き込んでいた。その間、他殺を疑わせるような発見もあったが、捜査一課は地道な地取りによって、自殺と考える様になっていった。福井盛太検事総長は、この事件を公安事件と捉えている旨の発言をしており、東京地検も検事総長の発言に沿って、捜査一課に他殺重点の捜査をしろとか盛んに捜査介入していたが、捜査一課は新刑事訴訟法の施行もあって検察の意向通りには動かなかった[169]。
7月21日には、最高検察庁、東京地検、警察による合同捜査会議が開催された。ここで東京地検が、疑義あるところを解明するとして、自殺説、他殺説両方の根拠や疑問点をまとめた資料を作成して、出席者に配布した。(この資料はのちに流出して、足立区立郷土博物館が入手し保存している[170]。詳細は#その他参照)東京地検とすれば、自殺説に傾斜していく捜査一課に釘を刺す目論見もあったが、逆に最高検察庁から会議に参加した木内曽益次長検事は自殺という印象を強めている[171]。この日の深夜23時からと翌22日の午前10時から合計7時間半にも渡って、捜査本部部長の坂本と捜査一課の首脳陣が「生前轢断」を主張している名古屋医科大学の小宮と面談しており、東大法医学教室が主張している「死後轢断」の検体に繋がった解剖所見についての意見を聞いている[172]。
自殺説に傾斜しつつある捜査本部に対して、他殺説を主張する東大法医学教室と朝日新聞記者の矢田は、上記の通り、線路上とロープ小屋に血痕を発見、これに同じく他殺説を主張していた東京地検が飛びついた[173]。東京地検と東大法医学部は、捜査一課に何の連絡もなく、血痕の捜査を開始し、その話を聞いた捜査一課の刑事たちは驚いたが[174]、この血痕の捜査には、労働組合、思想団体等の捜査をして特に成果のなかった捜査二課二係が[175]、坂本の「万全の捜査を」という方針によって加わっている。この後、捜査二課二係は東京地検の方針に従って捜査を継続していくことになる[176]。さらに、東大法医学教室で「下山油」と染料が下田の衣類から検出されると、東京地検と捜査二課二係はその捜査に集中していくようになった[177]。
捜査一課は東京地検が自分たちを出し抜いて進めている血痕や「下山油」の捜査にも冷静で、7月28日の夜には、東京地検の「ロープ小屋」から線路を伝って下山の遺体を轢断現場に置いたという推定を検証するため、下山の遺体に見立てた同じ重さの砂袋を使って4人がかりで運搬実験を行った[178]。この実験を見た、朝日新聞記者の矢田は、自分と東大法医学教室に対する当てつけのデモンストレーションだと嘲笑ったが[179]、何度も実験を重ねた結果、犯人たちが4人がかりで下山の遺体を運搬して轢断現場に置き、その後にロープ小屋まで帰るためには15分~20分かかるため、捜査一課の聞き込みにより判明した、午前0時前後に轢断現場付近を通行した7人もの通行者が、この異様な作業光景に全く気が付かなかったとは考えにくいという判断に至り、捜査一課は下山の遺体が運搬された事実はないと判断した[180]。
捜査結果発表の差し止め
8月1日には捜査本部での合同捜査会議が開催された。7月7日の捜査会議では他殺を疑っていた刑事の方が多かった捜査一課であったが、この会議においては発言者全員が自殺であると断言した。また、東京地検に協力し他殺説で捜査していた捜査二課二係の吉武も意見を述べているが、「他殺の裏付捜査をしてきたが、労働組合関係、共産党関係、朝鮮人関係、資金関係、女性関係などの捜査において、風評程度の話はあったが他殺を疑わせるようなことは何も出なかった」とのことであった[181]。8月3日には、「死後轢断」を主張している捜査本部は東大法医学教室と会議を開催した。捜査一課からは、慶応義塾大学などから異論も出ている「死後轢断」を妄信する必要はないという意見もあったが、捜査本部としては、東大法医学教室の権威や、東京地検も東大法医学教室の鑑定を支持していることもあって、さすがに無視するわけにもいかず、自殺との捜査結果を公表するにあたって東大側の見解を確認しようということになった[182]。
この会議には警視庁からは坂本刑事部長、堀崎一課長と各係長、松本二課長と各係長、塚本鑑識課長、東京地検からは山内刑事部長、布施首席検事以下担当検事3人、東大法医学教室からは古畑、桑島、秋谷といった、この事件捜査の主要関係者のほぼ全員が参加していた。さらには東大からは精神科医内村祐之教授の代理人も参加していた。これは、米子医科大学学長の下田光造名誉教授から、「初老期うつ憂症」による自殺ではないかとの助言もあって、捜査一課は1935年(昭和10年)からの下田の日記を調査して、精神状態の分析を行い、下山の自殺は精神的な問題が原因であると判断しており、その見解を説明するために東大側の精神科医も呼んだものであった。自殺説と他殺説で対立していると散々喧伝されてきた当事者が一堂に会した会議であり、紛糾も予想されたが、意外にも会議は円滑に進み、警察捜査本部から、犯罪行為による他殺とは考えられないとする根拠が次々と説明されていったが、東京地検からは何の反論もなく、東大の古畑ですら「解剖所見としては「死後轢断」という状態であったが、自殺ということもあり得る」と述べており、警察捜査本部による自殺という捜査結果の発表に、表立っての反対はない状態まで会議は進んだ[183]。
しかし、会議の終了まぎわになって、坂本に警視総監の田中から電話が入った。坂本は会議を中座すると警視庁に戻り、田中と一緒にどこかに出かけてしまった。しばらくして捜査本部に帰ってきた坂本は、集まっていた捜査本部の面々に「駄目だ」と呟くと、頭を抱え込んでしまった。ただならぬ坂本と状態に捜査本部は重苦しい空気につつまれたが、そこで捜査三課長の浦島が「おい、こんなことでは部長が初老期うつ憂症になるぞ。しっかりしろ、元気を出せ」と坂本を激励している[184]。しかし、捜査本部の自殺という捜査結果の公表は見送られることとなった。この、捜査結果公表直前に待ったをかけた人物については、捜査一課の主任刑事であった関口はGHQであると考えていた。GHQの対敵諜報部隊(CIC)のアメリカ軍人が頻繁に捜査本部に出入りしており、捜査一課が自殺として捜査を進めていると、露骨に面白くない顔をされたという。これはCICが東京地検に便乗して、左翼勢力による他殺として捜査を進めさせ、レッドパージに利用しようという意図があったとされる[185]。
しかし、捜査一課課長の堀崎によれば、GHQ参謀第2部の公安課(PSD)の課長プリアム大佐に自殺発表の許可をとったとしているが、なぜか翌日の3日になって同じPSDから発表の差し止めが命じられている。1970年(昭和45年)になって、当時PSDに勤務していたハリー・シュバックが、このときに坂本に自殺発表の差し止めを命じたのは自分であったと雑誌「週刊新潮」の取材で答えている。このシュバックの証言について、差し止めを命じられた坂本は、明言を避けながらも真実である可能性を示唆している[186]。いずれにしても、この8月3日の合同会議以降は、捜査一課は自殺と断定して捜査からは撤退し、一旦は自殺発表を容認した東京地検や捜査二課二係が[187]、引き続き他殺の線で、「下山油」や血痕の捜査を続けていくこととなった[188]。
捜査終了と「下山白書」の流出
捜査一課の捜査完了以降は、東京地検や捜査二課二係による「下山油」の捜査を中心とした他殺説の捜査の進展は全く見られなかった。そして12月に入ると、捜査二課二係長の吉武が、上野警察署次席に配転となった。捜査二課二係と懇意にしてきた朝日新聞の矢田は、これは捜査一課長の堀崎が、一課が決定した自殺説の決着が覆されるだけでなく捜査本部の解散もできなくなるため、大きな危機感を感じて、裏から手を廻して吉武を配転させたなどと考えていたが[189]、ジャーナリストの佐藤一が吉武本人に、下山事件によって転勤させられたのか単刀直入に確認したところ「そんなことありゃしませんですよ。第一、(下山)油を追ってみたって、犯罪のニオイはまったくしてこないんですからね。これは、あの血痕と同じですよ」「私の転勤に、下山事件はからんでいません。もうあの時期は、他殺の情報もあまりなくなっていて、松本(清張)氏のいうような事態じゃなかったんですから」と、矢田の主張を一蹴し、転勤した理由を、刑事部長の坂本や捜査二課長の松本と、ある事件によってケンカになったからだと話している。佐藤は坂本に吉武の発言の裏取りに行ったが、坂本も同じような回答であった。吉武と坂本が口を濁したある事件とは、下山事件と同じころに発覚して政治問題化していた「五井産業事件」で、吉武は五井産業の社長と懇意にしており、捜査情報を漏洩したという疑惑をかけられていた。そのほとぼりを覚ますために、捜査二課長の松本が、坂本に吉武の配転を申し出たものであった[190]。
上記の吉武の回想の通り、捜査二課二係による下山事件の捜査も完全に暗礁に乗り上げており、その後の吉武の配転によって、捜査二課二係の5人のみという細々とした捜査態勢で、下山油や染料の捜査が続けられた[191]。結局、捜査本部の正式な解散も、捜査結果の公表もついに行われることはなかった[192]。そんななかで、1949年(昭和24年)12月15日、警視庁下山事件特別捜査本部が作成した内部資料「下山国鉄総裁事件捜査報告」(通称「下山白書」)が流出し、1950年(昭和25年)1月に『文藝春秋』と『改造』誌上に掲載された[13]。警視庁記者クラブは、事件白書のようなものは記者クラブで共同発表すべきものとして抗議し、漏洩元を調査して回答せよと警視庁に要求した。これに対し刑事部長の坂本は「あれは正式なものではない、事実関係は調査の上回答する」とした[193]。その後、1月31日に坂本は漏洩を認めて「機密漏洩の容疑者は捜査一課にいる」と言明、捜査を監察官に任すとした。流出先として疑われたのが、共同通信社の警視庁担当山崎記者であり、山崎と懇意にしていた刑事は徹底的に調べられた。その頃、捜査一課は銀座のミュンヘンというバーで発生した、男性の同性愛者同士の殺人事件の捜査をしており、下山事件の捜査は終了していたが、年を越して1950年(昭和25年)になっても、下山白書流出の犯人捜しだけは継続していた[194]。
捜査一課は『改造』の編集長小野田政(のちの産経新聞出版局長)に出頭命令を出し執拗に事情聴取を行った。小野田によれば、「下山白書」流出のきっかけは、小野田が世論もマスコミも自殺説と他殺説で二分されている状況を見て、真相を知るためには捜査資料を手に入れる必要があると考えて、共同通信社社会課部長高田秀二に相談したところ、高田が小野田の提案を快諾して、自社の警視庁担当の記者に具体的な入手方法を指示している。そうして入手した「下山白書」は共同通信社から『文藝春秋』と『改造』に渡されて、それぞれの紙面に掲載された。事情聴取を受けた小野田はこのような事情を語ることはなく、「取材源の秘匿」の原則を盾に突っぱね続けた。事情聴取した刑事は「正直に言わないと、窃盗罪であなたを逮捕することができる」「逮捕状も用意している」と脅迫してきたが、小野田はそれにも屈しなかった。結局、小野田は同級生であった警視庁監察官高橋幹夫(のちの警察庁長官)に連絡をとり、マスコミの「取材源の秘匿」の権利を説明して、無罪放免になったという[195]。
矢田によれば、「下山白書」の流出は、警視庁記者クラブの調査で、氏名不詳の警視庁幹部が、世間では他殺説が叫ばれている中で、警視庁の方針通り自殺説に世論を導きたいという意向で捜査資料を流出することを決め、自殺説と他殺説で激しい論争を繰り広げている朝日新聞、毎日新聞、読売新聞という主要新聞ではなく、全国ネットでニュースを流すことができる共同通信社に白羽の矢を立て、警視庁担当の山崎記者に「下山白書」を貸与したという。山崎は主要部分を写すと、一旦警視庁幹部に「下山白書」を返却した。こうして流出した「下山白書」であったが、山崎が膨大な資料を3,000字程度に要約して各新聞社に流したため、インパクトが薄く、大手新聞社を始め各新聞社は小さく扱うか黙殺して、警視庁幹部の目論見とは異なり大きな話題とはならなかった。しかし『文藝春秋』と『改造』がこのニュースの重大性に気が付き、3,000字では詳しい内容はわからないので「下山白書」の写しの提供を求めた。共同通信社の山崎はその求めに応じて、施錠すらされていなかった捜査一課の金庫から「下山白書」の写しを持ち出して両社に渡したという[196]。
本報告書は自殺と結論づける内容となっているが、矢田や松本清張などは報告書の内容に矛盾点や事実誤認を指摘している。特に矢田は報告書に書かれている目撃証言のうち、1964年(昭和39年)時点で生存していた目撃者に直接聴き取りを行い、いくつかの証言に捜査一課刑事による改竄や創作が盛り込まれていると主張した。ただし、矢田は自著『謀殺・下山事件』にて「報告書はフィクションでいっぱい」などと記述しているが、実際に「下田白書」に記述してある目撃証言から、何等かの誇張をされていると主張している目撃者は5人に過ぎず[197]、そもそも事件15年以上経過した後では、その記憶が少しずつ変容してくるのは当然で、逆に、事件当時には、各新聞社が五反野に臨時の取材本部を設けて、何度も目撃者に対して取材を繰り返していたのにも関わらず[198]、その証言には「下山白書」の記載とは大きな変化がなかったので、当時の証言の方が信頼できるという見方もある[199]。同年7月6日、殺人事件である場合の公訴時効が成立した。
この様に、各界を巻き込んだ大論争に発展した重大事件につき、その捜査の結論を警察組織として公表しなかったことについて、捜査指揮の責任者であった坂本は後年に以下のように振り返っている。
あのころ私の立場としては万全の捜査を、という観点から、自・他殺の黒白をはっきり打ち出さず、1課の捜査で自殺と断定されたあとも2課に捜査を継続させたわけです。そのうちに東大の鑑定結果で、死後轢断(他殺説)という報告書が出ましたが、当時は轢死体についての(法医学上の)定説がなく、学問上の論争にまでなりました。そのため、警察が学問上の争いに水を差すような発表(自殺説)をして、警察不信の念を起こしてはまずいと判断し、論争が決着し、国民的同意が得られる時代が来るまで、待った方がよいと思って、正式発表に踏み切らなかったわけです。この点(学問上の論争)についてはGHQとの関わりが一切なかったと言えば嘘になりますが、意図的な捜査は絶対なかったと言い切れます。
そして、事件後しばらく経ってから生体轢断と死後轢断の研究が進み、法医学界において、下山の遺体の局部出血の症状が、生体轢断でも発生しうるという認識が広がるようになると「捜査報告書の内容(自殺説)がようやく真実として受け止められる時代が来た」と感じ入ったとも語っている[200]。
自殺説と他殺説
自殺説
上記の通り、警察は組織として公式な捜査結果を公表することはなかったが、事件後しばらく経った1953年に警視庁が編纂した『警視庁史』においては「自殺説」の見地で本事件を記述している[201]。また、捜査にあたった警察関係者の見解としては、捜査の指揮をとった警視庁刑事部長坂本智元が、上述した後年の回想の通り自殺説の立場をとっている[202]。警視庁捜査一課の名刑事平塚八兵衛も、下山失踪第一報後の妻からの聞き取りやその後の捜査によって「奥さんのこの証言をはっきり調書にとっておけば、他殺だなんて議論がでてくるわけがない。家族が一番よく知っているわけだよ」と、他殺説を一蹴している[203]。他殺説の急先鋒であった作家松本清張も平塚に取材したことがあり、日比谷公園の中にあった飲食店で平塚の説明を聞いた松本は「やっぱり自殺ですね」と話していたが、後日に著書『日本の黒い霧』で他殺説を主張していたので、平塚は「ふざけた話だ」と立腹している[204]。
東京地検については、主任検事の布施が他殺を疑っており、捜査一課の捜査が実質的に終わった後も、捜査二課二係と協力して下山油や染料の捜査を継続しているが、木内曽益最高検察庁次長検事は東京地検の捜査資料を見て「やっぱり自殺だったのかね」と述べている[205]。
事件発生直後から毎日新聞は自殺を主張(毎日新聞が自殺証言のスクープを出したため)。同紙記者平正一は取材記録を収めた『生体れき断』1964年を出版。大規模な人員整理を進める責任者の立場に置かれたことによる、初老期鬱憂(うつゆう)症による発作的自殺と推理した。
1976年には、佐藤一が自殺説の集大成と言える『下山事件全研究』を出版。佐藤は松川事件の被告として逮捕・起訴され、14年間の法廷闘争の末に無罪判決を勝ち取った人物であり、下山事件も連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)あるいは日本政府による陰謀=他殺と当初は考え、「下山事件研究会」の事務を引き受けていた。しかし、調査を進める過程で次第に他殺説に疑問を抱き、発作的自殺説を主張するようになる。他殺の根拠とされた各種の物証に関して、地道な調査に基づいて反論を加えた。
冤罪事件の被害者を支援してきた山際永三は「我々,冤罪に関わる人間が,一つのリトマス試験紙にしているのが下山事件なんです。下山事件は他殺だっていう人は私らの仲間ではないんです」とまで言い切っている[206]。
自殺説の主張
- 失踪の直後、警視庁の刑事平塚八兵衛が下山の自宅に事情を聞きに行ったところ、まだ遺体が発見される前だったが、妻は「ひょっとしたら、自殺じゃないかしら。自殺じゃなければ、いいんですが……」、事件と思っていた平塚は拍子抜けして妻に「なんで、そういう心配をなさるんですか?」と尋ねたところ、妻は下山が毎晩大量の睡眠薬を服用していることと、「うちの主人は非常にもだえていたことは確かです。それで私は、そういうふう(自殺するのではないか)に心配しているんですよ」と話したという[207]。その後、平塚が東京鉄道病院の記録を調べたところ、下山は6月1日に神経衰弱症と胃炎という診断を受け、事件直前の6月19日から26日にかけて3回も通院し、ブロバリン(睡眠薬)0.5グラムを10袋も処方してもらっていた。これは1日に0.5グラムのブロバリンを2袋も服用していたことになるが、事件当時には0.3グラム1袋で十分に睡眠できると考えられており、下山の状態はかなり重篤であったと思われる[208]。
- 下山が鉄道を愛していたので、自殺の手段に鉄道を選ぶはずはないという他殺説の立場での主張については、下山の自殺は初老期うつ憂症による発作的な自殺であり、多年の習性と愛着から鉄道の駅や線路から離れることができずに徘徊しているうちに、ふらふらと線路に飛び出してしまったとの反論もある。発作的な自殺であったため遺書も残さなかったと推定される[209]。日本を代表するような精神科医で、日本うつ病学会がその業績を記念して「下田光造賞」を制定しているほどの精神科医下田光造も[210]、早くから下田の初老期うつ憂症による自殺と考えて、捜査本部に自分の見解を助言している。この下田の助言も捜査一課の自殺説確信の理由の一つとなっている[211]。
- 事件直前の下山の言動は明らかにおかしく、人員整理交渉の相手方であった国鉄労働組合の中央委員の面々が心配するほどであったという。鈴木副委員長は事件3日前の7月2日の交渉時の下山の様子を「今日の総裁は、どうも落ち着きのない態度だった。なんとなく不安だ」と語っている。同日夕刻には下山は組合との交渉経過の報告を官房長官に行っているが、その報告は明らかな嘘であったという。几帳面な下山がすぐにばれるような嘘をついたことも尋常な精神状態ではなかったことを推測させる。事件前日の4日になるとさらに言動は不安定になり、4日に国鉄本社で予定されていた組合との交渉で、不安定な下山を同席させると却って交渉がこじれると考えた国鉄重役らが下山に本社からの一時待避を要請すると、下山はいつになく激高して机を叩きながら「死んでも職場を守る」と大声を張り上げたが、結局、重役らの進言通りに国鉄本社から待避している。その後は、アポなしで吉田首相の首相官邸に訪れて官房長官に首相と面会したいと要請したが、先客を待っている間に「会議がある」という口実で官房長官だけを残して首相官邸を後にしてしまった。しかし、実際にはそのような会議はなく、その後はあてどもなくあちこちをフラフラと回って、東京駅に現れると、湯茶の提供を一旦は断りながら、局長の飲みかけのお茶を飲み干したり、他人のアイスクリームを勝手に食べたりと尋常ではない精神状態をうかがわせる言動を繰り返していた[212]。
- 自殺に至るほどの精神変調をきたしていた証拠として、毎日欠かさずに行動や予定を書き込んでいた手帳が6月28日までしか書きこまれていなかったこともあげられている。最後の書き込みが「エーミスに叱られる。決裂のチャンスを掴めと言われた」というものであった、このエーミスというのはGHQのR・T・エーミス労働課長のことであり、恨みがましく斜めの走り書きで書かれていたという。それ以降も多くの公用をこなしていたが、その予定など一切の書き込みがなかった[213]。
- 下山には事件現場の土地勘もあった。現場はもともと視界が悪く、鉄道自殺が多い場所として有名であった。そこで地元住民が自殺を抑止するような立て札を立てようとしたが、国鉄としてそのような立て札を立てられるのは困るということで、その当時鉄道局長だった下山が、地元の住民との交渉に当たっていた[214]。また、下山は東京帝国大学のボート部に所属しており、練習場となっていた荒川放水路沿岸の事件現場付近には思い入れがあったことや、事件現場から遠く離れていない柴又の料理屋が行きつけであるなど、事件現場付近の土地勘は十分にあった[215]。
- 鉄道自殺など一瞬で生命を絶たれる事案の場合、轢断面に出血がないこともある。胸部は離断していないにもかかわらず内部の臓器が粉砕されており、これは轢過よりも立った状態での激突が疑わしい(北大・錫谷説)。
- 他殺説で主張される下山替え玉説については、下山が当日着用していた衣服を事前に準備しておくか、もしくは拉致した下山の衣服をはぎ取って替え玉に着用させる必要があるが、前者については、下山は背広2着、ネクタイ5本を日替わりで着用しており、その組み合わせを事前に予想して準備しておくのは困難であるし、ワイシャツと靴下については多数あるものの中で、その日の朝に下山自身が決めて着用しており、それを知っているのは妻と運転手の大西だけで、事前に準備しておくことは不可能である。また後者については、下山と思しき人物の目撃情報は、失踪直後から機関車に轢かれる直前の午後23時30分ごろまで断続的にあっており、下山を着替えさせる時間はなかった。特に事前に殺害していたのであれば、遺体を着替えさせるのはさらに時間がかかるのでなおさらである[216]。平塚も綿密な捜査結果から、現場付近をうろついていた人物を下山と断定、替え玉説を一蹴し「考えてもみな、他殺ならてめえの殺される場所を、わざわざ下見にいく馬鹿はいないだろ」と一笑に付している[217]。
- 他殺説を主張する人たちからは、捜査一課の聴取に口裏を合わせて、下山の替え玉に協力したかのような疑いをかけられている旅館「末広旅館」であるが、実際には、女将を始め家族は散々誹謗中傷されて精神的に病んでしまい、客足は激減して商売は立ち行かなくなり、結果的に旅館は廃業となった。妻であった女将に先立たれた元経営者も当時を振り返り、無責任な報道を繰り返したマスコミに怒りを吐露しており、そこまでして警察や真犯人に協力する理由はない[218]。また、女将は警察から聞き込みをうけた同日に、同じ話を毎日新聞の記者に行っており[219]、後に警察がその証言内容を捏造した可能性は少ない。
- 下山家の経済状況はかなり悪く、国鉄総裁の給与18,200円に対し、4人もの子供の学費負担が大きくのしかかっており、日々の資金繰りに窮していたという。そのために妻は晴れ着全てとダイヤの指輪を売り払い、どうにか50,000円を用立てて生活費に充当するほどであった[220][221]。
他殺説
警察の自殺として捜査の幕引きをしようとしていたのに対して、東京地検の本事件主任検事布施健は、終生に渡って他殺と考え、事件が時効が迎えた後も独自に調査を続けて、作成した資料は数百ページにもなった[222]。
他殺説の中で最も著名なのは松本清張が『日本の黒い霧』の中の一篇として著した「下山国鉄総裁謀殺論」である。清張は当時日本を占領下に置いていた連合国軍の中心的存在であるアメリカ陸軍対敵諜報部隊が事件に関わったと推理した。ただ、アメリカ軍関係機関による下山謀殺論は清張が嚆矢だったわけではなく、1960年 (昭和35年) に大野達三が刊行した『謀略』(三一書房) の中で既に、CIA東京支部による計画だと推理されている[223]。なお、秦郁彦は「再考「日本の黒い霧」(上)」(『昭和史の謎を追う・下』所収) の中で、後述の1201列車の存在を調べだしたのも大野が最初であるらしい、と書いているが[223]、これは誤りである[注釈 6]。
本事件が時効を迎えると、松本をはじめとする有志が「下山事件研究会」を発足し、資料の収集と関係者からの聞き取りを行った。同研究会では連合国軍の関与した他殺の可能性を指摘した。研究会の成果は、みすず書房から『資料・下山事件』として出版された。
大新聞の中では、朝日新聞と読売新聞が他殺説を報じた。朝日新聞記者の矢田喜美雄は1973年(昭和48年)、長年の取材の成果を『謀殺・下山事件』に収め、自殺説を否定するとともに取材の過程でアメリカ軍内の防諜機関に命じられて死体を運んだとする人物に行き着いたとして、その人物とのやりとりを記載している。
他殺説の主張
- 国鉄は下山が他殺されたものと考えており、1949年12月末まで事件に関する情報提供を懸賞金付きで広く求めていた。しかし、期限内に有益な情報の提供はなかった[225]。
- 国鉄副総裁の加賀山、妻、運転手の大西はいずれも自殺とは思えないと発言している[226]。
- 特に妻については、下山の失踪直後は自殺と考えていたと話していたが[227](詳細は#自殺説参照)、その後の東京地検金沢清検事からの事情聴取に対しては、「下山はいい家柄の出である」「健康状態が良好だった」「家庭内で異常はみられなかった」「極度におびえている様子はなかった」「仕事上の失敗はなかった」「遺体に不審点がある」という理由で自殺を否定している[228]。この妻からの聴取によって東京地検は「自殺の決意、或るいは精神異常による自殺を確定的に裏付ける事実はない」と判断している[229]。
- 下山は幼いころからの鉄道マニアで、日本国有鉄道に入社してからも機関車を愛していたので、自殺の手段に鉄道を選ぶはずはない[230]。
- 下山の千代田銀行(現:三菱UFJ銀行)の貸金庫には、百円札の札束3束(3万円)、ドル紙幣5枚、株券、自宅の登記済証という貴重品の他に春画が1枚入っていた。それを知った下山の実弟は「自殺を決意して貸金庫に入った兄なら、性格からも身辺整理の意味からこんなものを残すはずがない」と断言している[231]。
- 轢断面やその近辺の出血といった痕跡がないのは、轢かれる前にすでに死んでいたことを意味する(東大・古畑説)[232]。(ただし遺体を剖検した法医学者の古畑種基は「死後轢断」と断定しただけで、他殺とは言わなかった[注釈 7]。理屈のうえでは、自殺者の遺体が轢かれても死後轢断になることに注意)
- 事件発生の1週間前から下山を含む政府首脳や国鉄関係者に対する脅迫が相次いでいおり、前日7月4日の午前11時頃には、鉄道弘済会本部に「今日か明日、吉田(首相)か下山か、そのどちらかを殺す」との予告電話があった。中には具体的なものもあり、日暮里駅のトイレには「5・19下山罐」という落書きがされていたが、事件後にこの落書きは5日の19時に(殺害した)下山を罐(ドラム缶)に入れたことを示しているのではと考えられた。同様に田端機関区の社内電話から東京鉄道局労働組合事務所に「5日の夜7時に下山総裁が自動車事故で死んだ」という奇怪な電話が入っている。この落書きをした人物と電話をした人物が同一なのかも不明である[234]。
- 下山の着衣に付着していたヌカ油と染料の組み合わせは皮革の捺染で用いられる。当時皮革捺染は東京の北東部、特に荒川沿いに集中しており現場付近にも捺染工場が複数存在した。下山はそれらいずれかの工場内に連行され、暴行殺害の後自殺に偽装するため現場に遺体が遺棄された可能性が高い[235]。
- 下山事件の結論を左右したとまで言われた旅館「末広旅館」の女将の証言については[236]、異常なほど詳細であり、東京地検は不自然さを感じていた。「末広旅館」の経営者は太平洋戦争前は特別高等警察の警察官で、下山事件の捜査を担当していた警視庁の幹部とは面識があり、事前に警察と申し合わせていた可能性がある[237]。また、ノンフィクション・冒険小説作家柴田哲孝によれば、柴田の祖父が下山の殺害に関与したという亜細亜産業に勤務していたが、その祖父に「末広旅館」の女将から年賀状が届いていたと柴田の母から聞いたとしており、亜細亜産業と「末広旅館」に何らかの関係があったと指摘している[238]。ただし、「末広旅館」の女将が年賀状を送っていたのは、亜細亜産業ではなく、あくまでも柴田の祖父個人であることは注意が必要である[239]。
- 事件当日朝、下山は普段と同じ朝7時に起床し、何ら変わったところはなく家族と朝食を食べた。朝食の席での話題は、名古屋大学に通学している長男が今夜帰省することで、下山は「今夜は、久しぶりに帰ってくるんだな」と嬉しそうに語りながら、味噌汁、お新香、半熟卵とご飯2膳を平らげるなど食欲も旺盛であった[240]。
- 上記の通り下山事件を取材し、『謀殺・下山事件』を出版した矢田は、その取材の過程で、下山の殺害計画に加担したり遺体を運搬するのを手伝ったという証言をいくつか得ている。そのためか、捜査本部解散後、下山事件の後日談のような記事を執筆した際に、「おまえは生かしてはおけない。お前に限らず予告のあった者はこの世から抹殺される運命にあるのだ」という脅迫状が送られてきた。同様な脅迫状は下山事件の記事を掲載した、他の新聞や雑誌にも送られ、朝日新聞には矢田が下山事件の記事を紙面に掲載するたびに送られてきたという[241]。
- 下山は、かねてよりいずれ運輸省を辞して参議院選挙に出馬したいとの意向を周囲に語っていた。ただ下山は、同じ鉄道官僚出身で議員になった佐藤栄作と違い政治的バックボーンを持たなかったため、議員当選のためには「元国鉄総裁」という肩書が必要だったのではないかと推測される。つまり、下山は国鉄で大合理化さえ達成すれば役目は終わり、その後は国鉄を辞して参議院選挙に立候補し、元国鉄総裁というネームバリューと佐藤栄作や民主自由党のバックアップによって当選して参議院議員になるという計画があったとされ、事件直前に出版された雑誌『エコノミスト』1949年7月1日号の記事で「ラッキーボーイ」と呼ばれていた[242]。明るい未来が約束されていたはずであった下山が自殺するはずがない。
他殺説で事件への関与が疑われている組織
他殺論者からは数多くの事件関与容疑団体が名指しされているが、その一部を列挙する。
赤色テロ説
事件当時もっとも有力であった説である。捜査二課二係も、下山失踪の一報を聞くと、人員整理で下山と激しく対立していた労働組合の関与を疑って捜査開始している[243]。また、事件当時副総裁で、下山死亡後に二代目の国鉄総裁となった加賀山は、国鉄労組からのリークで日本共産党の指令書のビラを見せてもらったと主張しているが、そのビラには①日本の革命は近い②革命の前提は人心不安に不安にあるが、不安を起こすためには事件の続発が必要③事件はあくまでも自然発生的で人為的に見えてはならないと書いてあったという。加賀谷は日本共産党のこの指令に基づいて実行されたのが下山事件、三鷹事件、松川事件だと考えていた[244]。下山事件の殺人事件としての公訴時効直前の1963年(昭和38年)には元読売新聞記者鑓水徹が「4人の元国鉄労組の共産党員が三越から下山を拉致した」「4人のうち1人は自殺、3人は海外逃亡」という情報を聞き出している[245]。
労働組合の事件関与を疑っていた捜査二課二係は、当初から労働組合関係、共産党関係、朝鮮人関係などを捜査し[246]、上記の田端機関区の不審な落書きや脅迫電話なども捜査したが、結局、事件に繋がるような有力な情報が出ることはなく、左翼団体等の捜査を断念し、血痕や「下山油」といった証拠の捜査に移行することとなっている[247]。名指しされた日本共産党も反論して、中央委員の伊井弥四郎が、加賀谷が見たという共産党の司令書の存在を一笑に付して、同じく日本共産党員の国鉄組合員が共同謀議として起訴されながら、東京地裁判決では「共同謀議は空中楼閣」として組織の関与を否定された三鷹事件を例に出して、平気で空中楼閣をでっち上げると激しく批判している。そのうえで、これまでの日本共産党の方針であった下山事件の自殺説を覆し、共産党のテロだと言いふらして弾圧するために「アメリカと日本の反動勢力」が、労働者に親しまれる人物であった下山を殺害した。と1959年(昭和34年)のしんぶん赤旗で主張している[248]。
ソビエト連邦の指示であったという説もある。韓国人李中煥が事件の3日前に韓国代表部を訪れ、下山の殺害計画が進んでいること、その計画は自殺に見せかかて殺害するというものであることをリークし、この情報を日本政府に知らせて事件を未然に防ぐように忠告して5万円もの謝礼を請求したが、韓国の一等書記官は取り合わなかった。下山の遺体発見後、韓国代表部から情報提供を受けた東京地検は李に興味を示し、他の罪で逮捕されて小倉刑務所に収監されている李に対して、主任検事の布施自らが事情聴取し、以下のような証言を得た[249]。
- ソビエト大使館で暗号係をしているときに下山の暗殺計画を知った。
- ソビエト本国から李に下山と接触するよう指示があった。
- 国鉄は左翼分子を追い出すことによって、共産党を攻撃しようとしておりその責任者(下山)に断固たる処置を取らねばいけない。
- 殺害方法は注射で呼吸を止めて、血を抜くことによる失血死とする。
- 捜査を混乱させるため、遺体は海に沈めるのではなく、鉄道を使用して轢断させる。
李は自分が三越で下山を誘い出し、そのあと4人が下山を拉致してソビエト大使館の3号館に監禁したこと、その3号館のなかの4畳半ぐらいの部屋のなかで下山を殺害したと、詳細な図面まで描いて証言した。しかし、かつての李の同僚が、李は頭の回転が速く、嘘をつくのが非常に得意であること、李がソビエト大使館に勤務した経験はないなどの証言を行い、李の証言の信頼性が疑われて、ソビエト連邦関与説が深掘りされることはなかった[250]。
GHQ説
事件当時にダグラス・マッカーサー元帥の下で日本を占領統治していたGHQが、他殺論者からもっとも事件関与を指摘されており、関与した部署も多数挙げられ、その関与した部署の指示によって下山の遺体を運搬したなどの協力者からの証言も相次いでいる。上記の通り、GHQの関与を最初に指摘したと言われているのが作家の松本清張である。松本が「下山国鉄総裁謀殺論」で展開した主張によれば、国鉄に職員の大量整理を迫っていたGHQ民間運輸局(CTS)のシャグノン中佐が、人情家で職員のことを慮りシャグノンの命令を聞かない下山に痺れを切らしていた。そこで、対共産党対策で下山の利用を思い立った対敵諜報部隊(CIC)が下山の謀殺を計画した。CICは下山が国鉄労組の内通者を金で雇っており、三越店内の地下鉄に近いところでいつもその情報者と会っていたが、CICはそれを逆手にとって、まず内通者を拉致したのち、内通者に会うために会合場所に現れた下山を、言葉巧みに誘い出して、日本の警察が触ることができない進駐軍ナンバーの車両で「下山油」と染料のある工場に連れて行き殺害したとされている[251]。
しかし松本の主張は、現在では完全に否定されている。松本は「下山油」と染料を証拠として、下山は赤羽にあったアメリカ軍修理工廠内で殺害された、と推理した[252]。さらに、その死体は油の付着したドラム缶に横倒しにされて入れられ田端機関庫まで運ばれ、そこで1201列車(下山を轢いた869貨物列車[注釈 8]の1つ前に現場を通過した占領軍専用列車)に積まれた後、轢断現場付近で停車、死体を現場から数百メートル荒川側に寄ったところにあったロープ小屋に一旦隠した後で、死体を轢断現場まで運び、後続の貨物列車に轢かせたと推理を展開したが[252]、佐藤一の調査により、この1201列車は事件当日、ダイヤグラム通り定時で運行されたこと、田端駅では停車していないこと、下山事件当時に警察が調べにやってきており、警察側は1201列車に関して疑わしい点がなかったのを調査済みだったことが、乗務員への聞き取り調査で確認されている[注釈 9][注釈 10]。
GHQの関与を裏付けるような証言もあっている。国会議員佐藤栄作の秘書の大原正が、下山失踪当日の5日の午前11時に、下山らしき人物が、国鉄の公用車ではない乗用車の後部座席に左右を囲まれて乗っているのを見たという証言を読売新聞の取材で答えているが、この証言が記事になると、CICのフジイという人物が、「何を見たというのかね」「何もみなかったんだろう」などと嫌がらせのような電話を何度もしてきたという[255]。このフジイと名乗った人物は実在しており、旧大日本帝国陸軍軍人で陸軍中野学校出身であり、戦後はその経歴を活かしてCICに勤務していた。藤井は後日になって元読売新聞記者鑓水に、元国鉄職員の共産党員が、ナッシュ=ケルビネーター47型で下山を拉致したなどとリークしたこともあった[256]。
また、ソビエト連邦の関与を主張していた李は実はアメリカとの二重スパイであり、アメリカのCIC指揮下の特殊機関「キャノン機関」による下山殺害を、ソビエト連邦の仕業と見せかけるために暗躍していたという主張もある[257]。さらに、他殺説の中心人物のひとり元朝日新聞記者の矢田は、共産勢力封じ込めのために、当時の総理大臣吉田茂がGHQと謀って、共産勢力弾圧に利用するために、初めから下山を殺害する予定で国鉄総裁に選んだという主張をしている[258]。
亜細亜産業説
1999年、『週刊朝日』誌上で「下山事件-50年後の真相」が連載される。その後、取材を共同で進めていた諸永裕司著『葬られた夏』、森達也著『下山事件(シモヤマ・ケース)』、柴田哲孝著『下山事件-最後の証言-』が相次いで出版され、いずれも、矢板玄が開業した亜細亜産業の指示で、元大日本帝国陸軍軍属が実行犯として殺害したと推定している。特に柴田哲孝は、太平洋戦争中に蘭印で陸軍の特殊工作員をしていた祖父が、下山事件の実行犯だったかも知れないと親族から聞くと、祖父が当時亜細亜産業に勤務していたことを調べ、亜細亜産業が国鉄とも取引があったことも調べた。さらには取引先であった鈴木金属という会社が「下山油」の正体とされた糠油と染料を使用していたことも突き止めた[259]。その後、ついに矢板との対談までこぎつけたが、そこで、矢板が下田殺害の疑いのあるキャノン機関と懇意にしていて、その反共工作に加担したことを聞きだした。そして単刀直入にキャノン機関が下山の殺害犯であったか問い詰めたところ、矢板は口を濁して「ますいな、今はまずい。まだ関係者も生きているんだ。あと10年、いや、おれが生きているうちはだめだ」と言って回答を拒否した。矢板は別れ際に柴田に「また遊びに来い、今日は楽しかった」と言ったが、再び両者が会うことはなく、矢板は1998年(平成10年)に死去した[260]。
亜細亜産業が下山を謀殺した理由としては、下山は運輸次官時代に当時は官営であった国鉄で経費削減のために、納入単価が移譲に高い納入業者の見直しなどを行ったが、そういった業者は利益分をGHQや政界などの有力者への贈賄資金としてばらまいており、金づるを失ったCTSのシャグノンやその他有力者は下山を恨んでいたという。また、下山は国鉄総裁に就任すると、GHQが無理強いしてくる人員削減よりは、さらに贈賄業者の取引を見直すことで、経費削減は可能と判断し、贈賄業者を告発すべく警察への相談の準備を進めていた。その情報を掴んだ亜細亜産業も、これまで取引を切られた業者と同様に、国鉄から得た不当利得を政界工作などに使っており、強い危機感を抱いていたが、来る朝鮮戦争に向けて日本の国鉄を支配下に置こうと考えていたGHQとも利害関係が一致し、そのバックアップを受けることができたので凶行に及んだものと推理している[261]。
その他
- 下山国鉄総裁追憶碑
- 事件後、下山総裁の轢断地点に近い東武伊勢崎線ガード下、国鉄常磐線下り方向の土手の脇に建立された。その後、常磐線改良工事や営団地下鉄千代田線敷設にともなう工事により場所を移動。現在は轢断地点より約150メートル東、西綾瀬1丁目付近のJR常磐線ガード下の道路西側脇にある(北緯35度45分39.5秒 東経139度48分55.9秒 / 北緯35.760972度 東経139.815528度)。筆跡は第二代国鉄総裁となった加賀山之雄のもの。現在碑の置かれている場所は、五反野方面から南流する水路とそれに並行する小道が、東京拘置所(旧・小菅刑務所)方向へ向かう途中で常磐線を横切る地点で、かつての弥五郎新田踏切(通称五反野踏切)に当たる。下山総裁の轢死体片は、東武伊勢崎線ガード下とこの踏切までの間に散乱していた。現在、水路は「五反野親水緑道」として整備されている。
- D51 651
- 下山総裁を轢いたD51 651機関車は、1943年(昭和18年)10月26日に死者110名、負傷者107名を出した常磐線土浦駅列車衝突事故を起こした車両でもある。また当列車の機関士は、下山が仙台機関区長だったころの部下であり、事件後に抑鬱の症状を来たし数年後にストレス性の胃潰瘍で死亡した。また同機は、伯備線で1972年(昭和47年)3月まで行われていた貨物列車の三重連運転の最終日に、2両目の補助機関車として使用されている。
- 足立区立郷土博物館(東京都)所蔵 下山事件関連資料
- 警視庁の合同捜査会議の内部資料と考えられるガリ版刷り文書類。 柴田哲孝著『完全版 下山事件-最後の証言-』にも紹介されている。 平成17(2005)年度より整理資料を公開している(原資料保護のため複写版)[262]。
関連作品
参考文献
- 『下山総裁の追憶』(下山総裁記念事業会編、1951年)
- 『下山事件の謎を解く』(堂場肇、六興出版社、1952年)(初出:『時事新報』1952年6 - 9月)
- 「下山事件−その盲点と背景」(雑誌『日本』1959年7月号)
- 『日本の黒い霧』松本清張(1960年、文藝春秋/文春文庫、改版2004年)
- 「下山総裁自殺説の証人」(雑誌『文藝春秋』1963年6月号)
- 『下山総裁怪死事件 “迷宮入り”を科学推理する』(宮城音弥・宮城二三子、光文社カッパ・ブックス、1963年)
- 『資料・下山事件』下山事件研究会編(1969年8月、みすず書房)
- 矢田喜美雄 編『謀殺・下山事件』講談社、1973年7月。ISBN 978-4061167490。
- 佐藤一 編『下山事件全研究』時事通信社、1976年12月。
- 佐藤一 編『下山事件全研究』時事通信社、1999年3月。ISBN 978-4788776289。
- 佐藤一 編『「下山事件」謀略論の歴史』彩流社、2009年9月。ISBN 978-4779114618。
- 平塚八兵衛 編『刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史』新潮社〈新潮文庫〉、2004年12月。ISBN 978-4-101-15171-7。
- 森達也 編『下山事件(シモヤマ・ケース)』新潮社〈新潮文庫〉、2006年10月。ISBN 978-4101300719。
- 柴田哲孝 編『下山事件: 最後の証言』祥伝社、2005年7月。ISBN 978-4396632526。
- 柴田哲孝 編『下山事件: 最後の証言(完全版)』祥伝社〈祥伝社文庫〉、2007年7月。ISBN 978-4396333669。
- 『陸軍中野学校の真実 諜報員たちの戦後』(斎藤充功、角川書店、2005年/角川文庫、2008年)
- 『TOKYO REDUX 下山迷宮』(デイヴィッド・ピース、黒原敏行訳、文藝春秋、2021年)
- 諸永裕司 編『葬られた夏: 追跡下山事件』朝日新聞出版、2002年12月。ISBN 978-4022578044。
- ジェフリー・ペレット『ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず』林義勝、寺澤由紀子、金澤宏明、武井望、藤田怜史 訳、鳥影社、2016年。ISBN 9784862655288。
映像メディア
- 『黒い潮』(1954年、日活) 監督・主演:山村聡、脚本:菊島隆三、原作:井上靖
- 以下は、矢田喜美雄原作のルポルタージュ『謀殺 下山事件』講談社刊をモチーフにした映像作品。
- 『闇の伴走者〜編集長の条件』(2018年3月 - 4月、WOWOW)(全5話)監督:三木孝浩、脚本:阿相クミコ、原作:長崎尚志
- NHKスペシャル 未解決事件 File.10 下山事件(2024年、NHK)[263]
その他
脚注
注釈
- ^ 夏時間のため現在の7月5日午後11時30分過ぎに相当。
- ^ 事件当日、牽引機のD51 651は主発電機が故障しており、灯具類は非常用電池で発光させていたが、前照灯は10 W相当の光量しかなく、乗員が下山の身体を視認することは不可能であった。ただし、荻谷機関助手は荒川橋梁を渡った後、綾瀬方の信号確認のため運転室から身を乗り出している間に轢断地点を通過したため、機関車の底部にバラストがバチバチと当たる音を聞き「何かをひいた」と直感したという。
- ^ 機関士の山本健は下山が水戸機関庫の主任であった当時、その直属の部下であった。山本は事件後まもなく胃潰瘍になり同年9月に入院、10月には腸閉塞になり腹部に人工肛門を開けられるも、翌年春に死去した。[86]
- ^ ただし、死後轢断は直ちに他殺を意味しない。錫谷徹『死の法医学―下山事件再考』(1983、北海道大学図書刊行会)では「生体の死後轢断」も起こりうるとしている。
- ^ 本事件の捜査におけるルミノール薬の使用が、日本の科学捜査における初の事例となった。現在でも時間が経過した犯罪現場などで、古いあるいは微量の血痕検出にルミノール反応は用いられている。
- ^ 1201列車の存在や、同列車の運行に疑わしい点がないと警察が判断したことは下山白書の中で既に述べられており[224]、リーク後『文藝春秋』『改造』に掲載された1950年 (昭和25年) 以後は公知の事実である。つまり、大野が最初に見つけ出したのではない。
- ^ 古畑種基の息子・古畑和孝の記述によると、下山の「遺体は東大法医学教室に運ばれ、父の指揮の下、桑島直樹講師が責任者として、幾多の関係者た立会いの下執刀。その遺体には、何百カ所剖検しても、「生活反応」がなかった。特定の部位の出血を除けば。/そこで、父は確信をもって「死後轢断」と発表した。だが、「他殺」とは言わなかった。それは警察ないし検察の問題だからであった」[233]。
- ^ 松本清張「下山国鉄総裁謀殺論」では869貨物列車になっているが、秦「再考・日本の黒い霧 (上)」では896列車になっており、番号が一致しない。
- ^ 占領軍専用列車の運用は国鉄に任されていて、乗務員も日本人の国鉄職員だった[253]。また、当該1201列車の乗務員は、佐藤による聞き取り調査がなされた時点で国鉄の現役職員だった[253]。
- ^ 清張は、「下山事件捜査資料報告書」に書かれている通り死体の搬入は自動車では無理で、列車以外にはあり得ないと断定しており[254]、1201列車は清張の推理が成立するための肝の部分なので、この部分が否定されると、完全に崩壊してしまう。
出典
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関連項目
- 綾瀬 (足立区) - 轢断事件の現場地域
- プロ野球再編問題 (1949年)#既存球団の思惑 - 「3.1 読売と毎日」の項を参照
- 東京ヤクルトスワローズ#国鉄時代 - 「1.1.1 国鉄時代」の項を参照