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[[画像:Koheti_Susuki_pass.jpg|right|thumb|250px|熊野古道小辺路、薄峠(すすきとうげ)付近の尾根道(高野町)。2005年10月18日撮影(76KB)]] |
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[[画像:Koheti_Hatenasi.jpg|right|thumb|250px|果無集落。2005年10月21日撮影(124KB)]] |
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'''小辺路'''(こへち)は、[[熊野三山]]([[熊野本宮大社]]、[[熊野速玉大社]]、[[熊野那智大社]])へと通じる参詣道・[[熊野古道]]のひとつ。 |
'''小辺路'''(こへち)は、[[熊野三山]]([[熊野本宮大社]]、[[熊野速玉大社]]、[[熊野那智大社]])へと通じる参詣道・[[熊野古道]]のひとつ。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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小辺路は、[[弘法大師]]によって開かれた[[密教]]の聖地・[[高野山]]と熊野三山を結んでいる。始点と終点のそれぞれにちなんで、高野熊野街道、 |
小辺路は、[[弘法大師]]によって開かれた[[密教]]の聖地・[[高野山]]と熊野三山を結んでいる。始点と終点のそれぞれにちなんで、高野熊野街道<ref name="Ue_2004b_29">宇江[2004b: 29]。</ref>、熊野街道(『[[紀伊続風土記]]』)<ref name="Waka_1982_19">和歌山県文化財研究会[1982: 19]。</ref>、高野道ないし高野街道と呼ばれることもあるが、歴史的には小辺路の名のほうが古い<ref name="Ue_2004b_29"/>。熊野古道の中では、起点から熊野本宮大社までを最短距離(約70km)で結ぶ。しかし、奥高野から[[果無山脈]]にかけて、東西に走る[[紀伊山地]]の地質構造を縦断することになり<ref name="Kumano_1987_57">[熊野記念館資料収集調査委員会自然・歴史部会 1987: 57]。</ref>、[[大峯奥駈道]]を除けば最も厳しいルートである<ref>宇江[2004b: 27]、小山[2004: 155]</ref>。 |
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高野山([[和歌山県]][[伊都郡]][[高野町]])を出発した小辺路は、すぐに[[奈良県]]に入り、[[吉野郡]][[野迫川村]]・[[十津川村]]を通って、[[十津川温泉]]付近で[[熊野川]]に出会う。十津川温泉を発つと、果無山脈東端にある果無峠を過ぎて再び和歌山県側に入り、[[田辺市]]本宮町八木尾の下山口にたどり着く。ここからしばらく[[国道168号]]線を経て三軒茶屋付近で[[中辺路]]に合流し、熊野本宮大社に至る。 |
高野山([[和歌山県]][[伊都郡]][[高野町]])を出発した小辺路は、すぐに[[奈良県]]に入り、[[吉野郡]][[野迫川村]]・[[十津川村]]を通って、[[十津川温泉]]付近で[[熊野川]]に出会う。十津川温泉を発つと、果無山脈東端にある果無峠を過ぎて再び和歌山県側に入り、[[田辺市]]本宮町八木尾の下山口にたどり着く。ここからしばらく[[国道168号]]線を経て三軒茶屋付近で[[中辺路]]に合流し、熊野本宮大社に至る。 |
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古人のなかには、この参詣道をわずか2日で踏破したという記録もあるが、現在では2泊3日または3泊4日の行程が勧められている。[[日本二百名山]]に数えられる伯母子岳が単独で、または[[護摩壇山]]の関連ルートとして歩かれている他は、交通至難であることも手伝って、歩く人も少なく、時として観光客でごった返すこともある中辺路などと比べると、静謐な雰囲気が保たれている。ただ、全ルートの踏破には、1000m級の峠3つを越えなければならないほか、一度山道に入ると、長時間にわたって集落と行き合うことがないなどするため、本格的な登山の準備が必要である。また、冬季には積雪が見られるため雪山向けの準備が必要となり、不用意なアプローチは危険である。 |
古人のなかには、この参詣道をわずか2日で踏破したという記録もある<ref>[[土居清良]]の事績([[#前近代|後述]])。熊野記念館資料収集調査委員会自然・歴史部会[1987: 59, 63]。</ref>が、現在では2泊3日または3泊4日の行程が勧められている<ref>宇江[2004a: 129-137]、小山[2004: 155]。</ref>。[[日本二百名山]]に数えられる伯母子岳が単独で、または[[護摩壇山]]の関連ルートとして歩かれている他は、交通至難であることも手伝って、歩く人も少なく、時として観光客でごった返すこともある中辺路などと比べると、静謐な雰囲気が保たれている。ただ、全ルートの踏破には、1000m級の峠3つを越えなければならないほか、一度山道に入ると、長時間にわたって集落と行き合うことがないなどするため、本格的な登山の準備が必要である。また、冬季には積雪が見られるため雪山向けの準備が必要となり、不用意なアプローチは危険である。 |
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基本的に、ほとんどの部分で古来の面影がよく残されている。だが、かつてはこの山域の生活道として利用されてきた道であるだけに、道路整備等によって吸収され、[[紀伊路]]や[[伊勢路 (熊野古道)|伊勢路]]ほどではないが古来の面影を失ってしまった部分がある(後述)。特に高野山から大股集落にいたる区間にそれが著しく、過半が自動車道路と林道になっている。 |
基本的に、ほとんどの部分で古来の面影がよく残されている。だが、かつてはこの山域の生活道として利用されてきた道であるだけに、道路整備等によって吸収され、[[紀伊路]]や[[伊勢路 (熊野古道)|伊勢路]]ほどではないが古来の面影を失ってしまった部分がある(後述)。特に高野山から大股集落にいたる区間にそれが著しく、過半が自動車道路と林道になっている。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== 小辺路の開創 === |
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小辺路は、もともと、紀伊山地の山中の住人の生活道として大和・高野・熊野を結ぶ山岳交通路が開かれていた<ref name="Waka_1982_19"/>ものが、畿内近国と高野山・熊野を結ぶ参詣道として利用され始めたことが起源であると考えられている<ref name="Kumano_1987_57"/><ref>[熊野記念館資料収集調査委員会自然・歴史部会 1987: 55-56]。</ref>。このルートの生活道としての形成時期ははっきりしないが、周辺に介在する遺跡・史資料のから少なくとも[[平安時代|平安期]]には開創されていたと見られる<ref name="Waka_1982_19"/>。このことを裏付けるいくつかの傍証として、第21代[[熊野別当]]であった[[湛増]]が高野山往生院に住房を構えていたこと、現在も小辺路からの下山口である八木尾口(田辺市本宮町)に[[1332年]]([[正慶]]元年)に関所が設けられたことを伝える史料の記述(『紀伊続風土記』)<ref name="Waka_1982_19"/>がある。 |
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小辺路は、もともと、この山域の住人の生活道として開かれた道があったところを、畿内近国の人々が高野山を経て熊野三山に至る道として利用し始めたことが起源である。 |
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高野・熊野の2つの聖地を結ぶことから、このルートは『修験の道』[和歌山文化財研究会 1982]としての性格をも帯びており、修験宿や廻峰記念額も残されているという<ref name="Waka_1982_18">和歌山県文化財研究会[1982: 18]。</ref>。山中の住人が生活物資を得るために生産物を高野山などへ運搬する道でもあった。[[1646年]]([[正保]]3年)付の「里程大和著聞記」は、[[郡山藩]]主[[本多政勝|本多内記]]と[[高取藩]]主[[植村家政|上村出羽守]]が幕命を受けて紀和国境のルートを調査した文書だが、この中には「中道筋」なる名で小辺路がとり上げられている。 |
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{{Cquote2|中道筋 紀州境やけ尾越<sub>ヨリ</sub> 同コヘド越<sub>マデ</sub>道法、是は熊野本宮<sub>ヨリ</sub>高野<sub>ヘ</sub>巡礼道|「里程大和著聞記」<ref name="Waka_1982_19"/>}} |
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このルートについての記述には、「道幅一尺」「難所」「牛馬常通不申」との表現が繰り返し見られ、険しい峰道か峠道、あるいは獣道程度の道でしかなく、困難な道であったことが分かる。 |
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この他、特筆すべきものとして木地師<ref>[和歌山県文化財研究会 1982: 20]。</ref><ref name="Ue_2004b_33-34">宇江[2004b: 33-34]。</ref>や杓子屋<ref name="Ue_2004b_33-34"/>の活動の道であることも挙げられよう。木地師とは、山で木を採り、それを椀や盆などの木製品に仕上げる職人で、奥高野から[[吉野]]にかけての山域には、[[近江国]]小椋村(現・[[滋賀県]][[永源寺町]])を本拠地とした江州渡(こうしゅうわたり)木地師と呼ばれた人々が大正の頃までいたのだという<ref name="Ue_2004b_33-34"/>。近世の熊野参詣記にもこうした木地師がいた事が述べ伝えられている。 |
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⚫ | 小辺路に関する17世紀以前の記録については、 |
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{{Cquote2|おばこ峠 木地の挽物する者あり、五六人つれて山へ人参堀ニ行く者有〔後略〕|『三熊野参詣道中記』<ref>神道大系編纂会[1984: 381]。宇江[2004b: 46]にしたがって表記を一部変更。</ref>}} |
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木地師たちの本拠地である小椋村では、木地師の免状や鑑札を発行するとともに、各地の木地師のもとに奉納金を集める使者を送り出した。その記録として「氏子駈帳」なる文書が残されており、[[1893年]]([[明治]]26年)まで250年間に渡って、計87冊・3万世帯に及ぶ記録が残されている。上に引用した旅行記が著されて10年後の日付で3名の木地師の名が記録されている<ref name="Ue_2004b_47-48">宇江[2004b: 47-48]。</ref>。その他にも、野迫川村全体で[[1707年]]([[宝永]]4年)から[[1867年]]([[慶応]]3年)までの160年間の間に32回の氏子駈の記録があるという(『野迫川村史』)<ref name="Ue_2004b_47-48"/>。 |
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=== 近世まで === |
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⚫ | 小辺路に関する[[17世紀]]以前の記録については、伝承的性格が強いものがある。源氏との戦いに敗れた[[平維盛]]が、密かに逃亡の道としたとする言い伝えがあり<ref name="Ue_2004b_60-65">宇江[2004b: 60-65]</ref>、それにちなむ史跡もあった<ref>ただし、水害により流失[宇江 2004b: 62]。</ref>。[[元弘の乱]]に際して[[後醍醐天皇]]の王子[[護良親王]]が、鎌倉幕府の追討を逃れて落ちのびた際にこの道を利用したとも伝えられる(「大塔宮熊野落ちの事」『[[太平記]]』巻第5)<ref name="Ue_2004b_60-65"/>。 |
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参詣道としての利用が文書上で確認できるのは、近世(特に[[18世紀]])以降である。畿内近国からの、また、「かんとうべぇ」「おうしゅうべぇ」などと呼ばれた関東・東北からの参詣者による利用が確かめられている。後者は、[[伊勢神宮]]参詣の後、熊野三山を経て高野山に向かうために小辺路を用いた。また、前者については、現在知られている近世の小辺路参詣記のほぼ全てが大阪の町人によるもの([[松尾芭蕉]]の門人、[[河合曾良]]による『[[近畿巡遊日記]]』を除く)であるという点で特に注目に値する。 |
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参詣の記録として最古のものは、16世紀にさかのぼる。[[伊予国]]の武将・[[土居清良]]が戦死した父の菩提を弔うために高野山を経て熊野三山に参詣したと伝えられている。土居清良は、伊予国領主の[[西園寺氏]]に仕えた[[西園寺十五将]]のひとりである。土居氏は、紀伊国[[牟婁郡]]木本土居(現・[[三重県]][[熊野市]])を発祥とし、熊野三党の一家・鈴木一党を祖とすると伝えられ、熊野三山への篤い信仰をもっていた。清良の参詣記は、清良の一代記である軍記『[[清良記]]』の巻十七に収められており、まず高野山に参詣し、さらに大嶽(大滝)・大股を経て、五百瀬(いもぜ)で神納川(じんのがわ)を渡って多量の弓を購入し、矢倉に一泊。「柳本(やぎもと)の渡」から「はてなし山」([[#果無峠|果無峠]])を越えて、「焼尾谷」(八木尾)に下り、本宮に参詣したとしている。この後、清良は那智・新宮を巡拝し、先祖の故地である木本土居を訪ね、伊勢に向かった<ref>熊野記念館資料収集調査委員会自然・歴史部会[1987: 59-63]、小山[2004: 155-156]。</ref>。 |
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次いで[[1581年]]([[天正]]9年)には、[[毛利氏]]の家臣[[玉木吉保]]が[[京都]]から伊勢に参詣し、新宮・那智・本宮を巡拝し、高野山奥ノ院に参ったことが知られる<ref>熊野記念館資料収集調査委員会自然・歴史部会[1987: 54]、小山[2004: 156]</ref>。吉保の参詣記は、一代記『[[身自鏡]]』に記されたもので、地名が明言されていないが、日程や経路から見て小辺路を利用したことは確実である<ref name="Koyama_2004_156">小山[2004: 156]</ref>。 |
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[[1889年|1889]]([[明治22年|明治22]])年には、大水害により壊滅的な打撃を受けた十津川村の住人の一部が再建を断念して北海道に入植(のちの[[新十津川町]])。その際、小辺路を経て、神戸より海路をたどった。 |
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[[明治維新]]以降の近代に入ってからは、熊野詣の風習も殆どなくなってしまったことから、参詣道としての利用はほとんど絶えたものの、周囲の住人が交易・物資移送を行う生活道路として、昭和初期までは使用されつづけた。 |
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=== 近世の参詣記 === |
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[[17世紀]]後半以降の近世になると、畿内近国の町人たちによる参詣記が見られ、小辺路の詳しい様子を知ることができるようになる。 |
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[[河内国]]丹北郡向井村(現・[[大阪府]][[松原市]])の庄屋で俳人でもある寺内安林は『熊野案内記』<ref>山口・出水ほか[1996]にて翻刻。</ref>と題する紀行文を残している。安林は[[1682年]]([[天和]]2年)、友人3、4人とともに高野山から小辺路を経て熊野三山に参詣し、那智からは[[大辺路]]経由で[[西国三十三箇所]]の札所([[紀三井寺]]から[[葛井寺]]まで)を巡拝して帰郷している。『熊野案内記』は、俳句や狂歌、挿絵を交えた案内記となっている。[[松尾芭蕉]]の門人である河合曾良は[[1691年]](元禄4年)に3月から7月下旬まで4ヶ月近くにわたって近畿各地を巡遊した際に、小辺路を通行して高野山から本宮へ参詣を果たしている。曾良の旅行記『近畿巡遊日記』によれば、4月9日に高野山に上り、大又(大股)・長井(永井)に宿をとり、翌々日の4月11日には本宮に到達している<ref>岡田[1991: 146-148]。</ref>。 |
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[[18世紀]]以降には、大坂高麗橋付近に住む氏名不詳の商人による[[1738年]]([[元文]]3年)の『熊野めぐり』<ref>奈良県教育委員会[2002]所収。</ref>(以下、『めぐり』と略記)、伊丹の酒造家・八尾八佐衛門の家人<ref name="Mikumano_47">神道大系編纂会[1984: 47]。</ref>による[[1747年]]([[延享]]4年)の『三熊野参詣道中記』<ref>神道大系編纂会[1984]所収。</ref>(以下、『道中記』と略記)などが見られる。『めぐり』の商人たちは、5月14日に大坂を出立し、高野山から小辺路をへて熊野に入り、本宮・新宮・那智を巡拝し、中辺路を通って大坂へ帰着している。『めぐり』の記述は道中の風物について詳しく行き届いたものであり、事物の有り様をあざやかに浮かび上がらせている<ref>宇江[2004b: 58]。</ref>。『道中記』では、3月29日に友人2人、駕籠屋2人の一行で伊丹を発ち、『熊野めぐり』と同じルートを辿っている。4月3日に高野山に着き、4日後の7日に本宮、次いで新宮・那智に立ち寄った後、11日に再び本宮、13日に[[田辺市|紀伊田辺]]、19日に伊丹へ戻っている。『道中記』は、「内容豊富で、異色に富み、とくに民俗関係資料に見るべきものが少なくない」<ref name="Mikumano_47"/>点で際立ったものである。 |
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[[明治維新]]以降の近代に入ってからは、熊野詣の風習も殆どなくなってしまったことから、参詣道としての利用はほとんど絶えたものの、周囲の住人が交易・物資移送を行う生活道路として、昭和初期までは使用されつづけた<ref name="Ue_2004b_49-52">宇江[2004b: 49-52]</ref>。前近代にはもっぱら人力に頼ったが、明治中期以降は馬を使うようになった。野迫川村では集落ごとに2、3頭の馬を飼うようになり、高野山との間で往来があった。高野山からは、米、塩、醤油、味噌、酒、魚、その他日用雑貨品が、山中からは木炭、木材、箸、[[経木]]、[[コウゾ|楮]]、割菜、[[高野豆腐]]がもたらされた<ref name="Ue_2004b_49-52"/>。 |
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=== 現代~世界遺産登録と再興 === |
=== 現代~世界遺産登録と再興 === |
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以上のように、小辺路は参詣道であるだけでなく生活道路としての性格を持っていた道であった。そうした生活道路としての使用は、[[国道168号]]が十津川・新宮まで全通するまで続いた。小辺路を含む[[熊野川|十津川]]流域に自動車道が初めて通じたのは[[1922年]]、北の[[五条市]]から天辻峠(標高800m)にトンネルを開削してのことであったが、工事は遅々として進まず、川津集落まで開通したのはようやく[[1936年]]([[昭和]]11年)のことであった<ref name="Ue_2004b_49-52"/>。前後して、野迫川村内にも自動車道が通じると、生活道路としての役目を終えることとなった。加えて、いくつかの区間では、国道や林道に吸収され、古くからの姿が失われた。以下はその中でも顕著な部分である。 |
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* 大滝集落(高野町)~水ヶ峰(野迫川村) |
* 大滝集落(高野町)~水ヶ峰(野迫川村) — [[高野龍神スカイライン]]([[国道371号]]線) |
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* 水ヶ峰~大股集落(野迫川村) |
* 水ヶ峰~大股集落(野迫川村) — 林道タイノ原線(1999年開通) |
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* 大股集落~伯母子岳登山道(野迫川村) — 拡幅工事による<ref>小山[2004: 159]。</ref> |
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* 西中大谷~十津川温泉(ともに十津川村) — [[国道425号]]線 |
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* 八木尾~三軒茶屋(ともに田辺市本宮町) — [[国道168号]]線 |
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[[1936年|1936]]([[昭和11年|昭和11]])年には十津川村川津集落まで道路が開通し(現在の国道168号線)、前後して野迫川村にも道路が開通したことにより、生活道路としての小辺路は役割を終えた。こうした道路整備につれて歩かれなくなった古道は、半ば忘却されていた。 |
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こうした道路整備につれて歩かれなくなった古道は、半ば「忘れられた参詣道」[玉置 1979]となっていった。 |
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しかし、玉置善春[1979]の先駆的な業績における小辺路の重要性の指摘をさきがけとし、[[1980年代]]以降、関心を集めるようになり、熊野記念館(新宮市)[1987]の調査報告、[[宇江敏勝]]らによる踏査(1982、2003)および報告[宇江1989][宇江2004b]などが相次いだ。その後、熊野古道の世界遺産登録の動きが活発になり、[[1999年]]に[[南紀熊野体験博]]が開催されると、それと呼応して再調査と整備が行われた。[[2004年]][[7月]]、[[世界遺産|世界文化遺産]]「[[紀伊山地の霊場と参詣道]]」の一部として登録された。 |
しかし、玉置善春[1979]の先駆的な業績における小辺路の重要性の指摘をさきがけとして、[[1980年代]]以降、関心を集めるようになり、熊野記念館([[新宮市]])[1987]の調査報告、[[宇江敏勝]]らによる踏査(1982、2003)および報告[宇江 1989][宇江 2004b]などが相次いだ。その後、熊野古道の世界遺産登録の動きが活発になり、[[1999年]]に[[南紀熊野体験博]]が開催されると、それと呼応して再調査と整備が行われた。[[2004年]][[7月]]、[[世界遺産|世界文化遺産]]「[[紀伊山地の霊場と参詣道]]」の一部として登録された。 |
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== 小辺路の峠 == |
== 小辺路の峠 == |
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小辺路の主要な3つの峠 |
小辺路のルートと主要な3つの峠、その周囲の名所・古蹟について記述する。 |
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=== 伯母子峠 === |
=== 伯母子峠 === |
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: 本宮町八木尾を起点(第1番)とし、果無峠(第17番)、果無集落(第30番)を経て櫟左古(いちざこ)の第33番まで、山道沿いに配されている観音像群。[[西国三十三箇所]]の[[観音]]の像を、十津川・本宮の信者たちが大正末期に寄進・造立したもの。 |
: 本宮町八木尾を起点(第1番)とし、果無峠(第17番)、果無集落(第30番)を経て櫟左古(いちざこ)の第33番まで、山道沿いに配されている観音像群。[[西国三十三箇所]]の[[観音]]の像を、十津川・本宮の信者たちが大正末期に寄進・造立したもの。 |
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== 注 == |
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== 文献 == |
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* 熊野記念館資料収集調査委員会自然・歴史部会編、1987、『熊野古道小辺路調査報告書』、熊野記念館資料収集調査委員会 |
* 熊野記念館資料収集調査委員会自然・歴史部会編、1987、『熊野古道小辺路調査報告書』、熊野記念館資料収集調査委員会 |
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* |
* 岡田 喜秋、1991、『旅人・曾良と芭蕉』、[[河出書房新社]] ISBN 4309007252 |
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* 小山 靖憲、2000、『熊野古道』、[[岩波書店]]([[岩波新書]]) ISBN 4004306655 |
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* ——、2004、『吉野・高野・熊野をゆく - 霊場と参詣の道』、[[朝日新聞|朝日新聞社]](朝日選書) ISBN 4022598581 |
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* 神道大系編纂会、1984、『参詣記』、神道大系編纂会(神道大系文学編5) |
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* 奈良県教育委員会、2002、『熊野古道小辺路調査報告書』、奈良県教育委員会 |
* 奈良県教育委員会、2002、『熊野古道小辺路調査報告書』、奈良県教育委員会 |
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* 和歌山県文化財研究会、1982、『修験の道』、和歌山県教育委員会(歴史の道調査報告書IV) |
* 和歌山県文化財研究会、1982、『修験の道』、和歌山県教育委員会(歴史の道調査報告書IV) |
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* 山口 之夫・出水 睦巳ほか、1996、『熊野案内記と寺内安林』、松原市役所([http://www.city.matsubara.osaka.jp/ky-syakai/bunkazai/kankou/syousai/kiyou06.html 松原市史研究紀要第6号]) |
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* 吉田 智彦、2004、『熊野古道巡礼』、東方出版 ISBN 4885919150 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [http://www.sekaiisan-wakayama.jp/ 世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道 和歌山県世界遺産センター] |
* [http://www.sekaiisan-wakayama.jp/ 世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道 和歌山県世界遺産センター] |
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以下は、小辺路の踏破記を含む個人運営サイト。 |
以下は、小辺路の踏破記を含む個人運営サイト。 |
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* [http:// |
* [http://fumiki.travel.coocan.jp/ 「三重県のダイビングと熊野古道など」] |
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* [http://www.asahi-net.or.jp/~pf8k-mtmt/bokuno/bokuno.htm 「街道を行く ボクの細道」] |
* [http://www.asahi-net.or.jp/~pf8k-mtmt/bokuno/bokuno.htm 「街道を行く ボクの細道」] |
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2008年5月3日 (土) 17:43時点における版
小辺路(こへち)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道・熊野古道のひとつ。
概要
小辺路は、弘法大師によって開かれた密教の聖地・高野山と熊野三山を結んでいる。始点と終点のそれぞれにちなんで、高野熊野街道[1]、熊野街道(『紀伊続風土記』)[2]、高野道ないし高野街道と呼ばれることもあるが、歴史的には小辺路の名のほうが古い[1]。熊野古道の中では、起点から熊野本宮大社までを最短距離(約70km)で結ぶ。しかし、奥高野から果無山脈にかけて、東西に走る紀伊山地の地質構造を縦断することになり[3]、大峯奥駈道を除けば最も厳しいルートである[4]。
高野山(和歌山県伊都郡高野町)を出発した小辺路は、すぐに奈良県に入り、吉野郡野迫川村・十津川村を通って、十津川温泉付近で熊野川に出会う。十津川温泉を発つと、果無山脈東端にある果無峠を過ぎて再び和歌山県側に入り、田辺市本宮町八木尾の下山口にたどり着く。ここからしばらく国道168号線を経て三軒茶屋付近で中辺路に合流し、熊野本宮大社に至る。
古人のなかには、この参詣道をわずか2日で踏破したという記録もある[5]が、現在では2泊3日または3泊4日の行程が勧められている[6]。日本二百名山に数えられる伯母子岳が単独で、または護摩壇山の関連ルートとして歩かれている他は、交通至難であることも手伝って、歩く人も少なく、時として観光客でごった返すこともある中辺路などと比べると、静謐な雰囲気が保たれている。ただ、全ルートの踏破には、1000m級の峠3つを越えなければならないほか、一度山道に入ると、長時間にわたって集落と行き合うことがないなどするため、本格的な登山の準備が必要である。また、冬季には積雪が見られるため雪山向けの準備が必要となり、不用意なアプローチは危険である。
基本的に、ほとんどの部分で古来の面影がよく残されている。だが、かつてはこの山域の生活道として利用されてきた道であるだけに、道路整備等によって吸収され、紀伊路や伊勢路ほどではないが古来の面影を失ってしまった部分がある(後述)。特に高野山から大股集落にいたる区間にそれが著しく、過半が自動車道路と林道になっている。
歴史
小辺路の開創
小辺路は、もともと、紀伊山地の山中の住人の生活道として大和・高野・熊野を結ぶ山岳交通路が開かれていた[2]ものが、畿内近国と高野山・熊野を結ぶ参詣道として利用され始めたことが起源であると考えられている[3][7]。このルートの生活道としての形成時期ははっきりしないが、周辺に介在する遺跡・史資料のから少なくとも平安期には開創されていたと見られる[2]。このことを裏付けるいくつかの傍証として、第21代熊野別当であった湛増が高野山往生院に住房を構えていたこと、現在も小辺路からの下山口である八木尾口(田辺市本宮町)に1332年(正慶元年)に関所が設けられたことを伝える史料の記述(『紀伊続風土記』)[2]がある。
高野・熊野の2つの聖地を結ぶことから、このルートは『修験の道』[和歌山文化財研究会 1982]としての性格をも帯びており、修験宿や廻峰記念額も残されているという[8]。山中の住人が生活物資を得るために生産物を高野山などへ運搬する道でもあった。1646年(正保3年)付の「里程大和著聞記」は、郡山藩主本多内記と高取藩主上村出羽守が幕命を受けて紀和国境のルートを調査した文書だが、この中には「中道筋」なる名で小辺路がとり上げられている。
「 | 中道筋 紀州境やけ尾越ヨリ 同コヘド越マデ道法、是は熊野本宮ヨリ高野ヘ巡礼道 | 」 |
このルートについての記述には、「道幅一尺」「難所」「牛馬常通不申」との表現が繰り返し見られ、険しい峰道か峠道、あるいは獣道程度の道でしかなく、困難な道であったことが分かる。
この他、特筆すべきものとして木地師[9][10]や杓子屋[10]の活動の道であることも挙げられよう。木地師とは、山で木を採り、それを椀や盆などの木製品に仕上げる職人で、奥高野から吉野にかけての山域には、近江国小椋村(現・滋賀県永源寺町)を本拠地とした江州渡(こうしゅうわたり)木地師と呼ばれた人々が大正の頃までいたのだという[10]。近世の熊野参詣記にもこうした木地師がいた事が述べ伝えられている。
「 | おばこ峠 木地の挽物する者あり、五六人つれて山へ人参堀ニ行く者有〔後略〕 | 」 |
木地師たちの本拠地である小椋村では、木地師の免状や鑑札を発行するとともに、各地の木地師のもとに奉納金を集める使者を送り出した。その記録として「氏子駈帳」なる文書が残されており、1893年(明治26年)まで250年間に渡って、計87冊・3万世帯に及ぶ記録が残されている。上に引用した旅行記が著されて10年後の日付で3名の木地師の名が記録されている[12]。その他にも、野迫川村全体で1707年(宝永4年)から1867年(慶応3年)までの160年間の間に32回の氏子駈の記録があるという(『野迫川村史』)[12]。
近世まで
皇族や貴人の参詣道として利用された中辺路や、近世以降に文人墨客の道として利用された大辺路などと異なり、もっぱら庶民の参詣道として用いられたことから、小辺路の記録は潤沢とはいえない。
小辺路に関する17世紀以前の記録については、伝承的性格が強いものがある。源氏との戦いに敗れた平維盛が、密かに逃亡の道としたとする言い伝えがあり[13]、それにちなむ史跡もあった[14]。元弘の乱に際して後醍醐天皇の王子護良親王が、鎌倉幕府の追討を逃れて落ちのびた際にこの道を利用したとも伝えられる(「大塔宮熊野落ちの事」『太平記』巻第5)[13]。
参詣の記録として最古のものは、16世紀にさかのぼる。伊予国の武将・土居清良が戦死した父の菩提を弔うために高野山を経て熊野三山に参詣したと伝えられている。土居清良は、伊予国領主の西園寺氏に仕えた西園寺十五将のひとりである。土居氏は、紀伊国牟婁郡木本土居(現・三重県熊野市)を発祥とし、熊野三党の一家・鈴木一党を祖とすると伝えられ、熊野三山への篤い信仰をもっていた。清良の参詣記は、清良の一代記である軍記『清良記』の巻十七に収められており、まず高野山に参詣し、さらに大嶽(大滝)・大股を経て、五百瀬(いもぜ)で神納川(じんのがわ)を渡って多量の弓を購入し、矢倉に一泊。「柳本(やぎもと)の渡」から「はてなし山」(果無峠)を越えて、「焼尾谷」(八木尾)に下り、本宮に参詣したとしている。この後、清良は那智・新宮を巡拝し、先祖の故地である木本土居を訪ね、伊勢に向かった[15]。
次いで1581年(天正9年)には、毛利氏の家臣玉木吉保が京都から伊勢に参詣し、新宮・那智・本宮を巡拝し、高野山奥ノ院に参ったことが知られる[16]。吉保の参詣記は、一代記『身自鏡』に記されたもので、地名が明言されていないが、日程や経路から見て小辺路を利用したことは確実である[17]。
小辺路の呼称を確認できる最古の史料は、1628(寛永5)年の笑話集『醒睡笑』である[18]。『醒睡笑』の成立年代を考えるならば、この名は早ければ戦国時代末期には知られていたことが推測できる[19]。なお、小辺路の読み方(こへち)は、この『醒睡笑』が典拠であり、「こへじ」と濁音にするのは誤りである。
近世の参詣記
17世紀後半以降の近世になると、畿内近国の町人たちによる参詣記が見られ、小辺路の詳しい様子を知ることができるようになる。
河内国丹北郡向井村(現・大阪府松原市)の庄屋で俳人でもある寺内安林は『熊野案内記』[20]と題する紀行文を残している。安林は1682年(天和2年)、友人3、4人とともに高野山から小辺路を経て熊野三山に参詣し、那智からは大辺路経由で西国三十三箇所の札所(紀三井寺から葛井寺まで)を巡拝して帰郷している。『熊野案内記』は、俳句や狂歌、挿絵を交えた案内記となっている。松尾芭蕉の門人である河合曾良は1691年(元禄4年)に3月から7月下旬まで4ヶ月近くにわたって近畿各地を巡遊した際に、小辺路を通行して高野山から本宮へ参詣を果たしている。曾良の旅行記『近畿巡遊日記』によれば、4月9日に高野山に上り、大又(大股)・長井(永井)に宿をとり、翌々日の4月11日には本宮に到達している[21]。
18世紀以降には、大坂高麗橋付近に住む氏名不詳の商人による1738年(元文3年)の『熊野めぐり』[22](以下、『めぐり』と略記)、伊丹の酒造家・八尾八佐衛門の家人[23]による1747年(延享4年)の『三熊野参詣道中記』[24](以下、『道中記』と略記)などが見られる。『めぐり』の商人たちは、5月14日に大坂を出立し、高野山から小辺路をへて熊野に入り、本宮・新宮・那智を巡拝し、中辺路を通って大坂へ帰着している。『めぐり』の記述は道中の風物について詳しく行き届いたものであり、事物の有り様をあざやかに浮かび上がらせている[25]。『道中記』では、3月29日に友人2人、駕籠屋2人の一行で伊丹を発ち、『熊野めぐり』と同じルートを辿っている。4月3日に高野山に着き、4日後の7日に本宮、次いで新宮・那智に立ち寄った後、11日に再び本宮、13日に紀伊田辺、19日に伊丹へ戻っている。『道中記』は、「内容豊富で、異色に富み、とくに民俗関係資料に見るべきものが少なくない」[23]点で際立ったものである。
幕末から近代
幕末期の動乱の中、尊王攘夷派の一党、天誅組が決起(1868年)し、宮廷と関係の深い十津川の郷士らも呼応して京都に向かうが、情勢の急変により帰村、天誅組も東吉野村で壊滅する。その後、若干の分派が、十津川村をたよって小辺路を敗走する[26]。1889(明治22)年には、大水害により壊滅的な打撃を受けた十津川村の住人の一部が再建を断念して北海道に入植(のちの新十津川町)。その際、小辺路を経て、神戸より海路をたどった。
明治維新以降の近代に入ってからは、熊野詣の風習も殆どなくなってしまったことから、参詣道としての利用はほとんど絶えたものの、周囲の住人が交易・物資移送を行う生活道路として、昭和初期までは使用されつづけた[27]。前近代にはもっぱら人力に頼ったが、明治中期以降は馬を使うようになった。野迫川村では集落ごとに2、3頭の馬を飼うようになり、高野山との間で往来があった。高野山からは、米、塩、醤油、味噌、酒、魚、その他日用雑貨品が、山中からは木炭、木材、箸、経木、楮、割菜、高野豆腐がもたらされた[27]。
現代~世界遺産登録と再興
以上のように、小辺路は参詣道であるだけでなく生活道路としての性格を持っていた道であった。そうした生活道路としての使用は、国道168号が十津川・新宮まで全通するまで続いた。小辺路を含む十津川流域に自動車道が初めて通じたのは1922年、北の五条市から天辻峠(標高800m)にトンネルを開削してのことであったが、工事は遅々として進まず、川津集落まで開通したのはようやく1936年(昭和11年)のことであった[27]。前後して、野迫川村内にも自動車道が通じると、生活道路としての役目を終えることとなった。加えて、いくつかの区間では、国道や林道に吸収され、古くからの姿が失われた。以下はその中でも顕著な部分である。
- 大滝集落(高野町)~水ヶ峰(野迫川村) — 高野龍神スカイライン(国道371号線)
- 水ヶ峰~大股集落(野迫川村) — 林道タイノ原線(1999年開通)
- 大股集落~伯母子岳登山道(野迫川村) — 拡幅工事による[28]
- 西中大谷~十津川温泉(ともに十津川村) — 国道425号線
- 八木尾~三軒茶屋(ともに田辺市本宮町) — 国道168号線
こうした道路整備につれて歩かれなくなった古道は、半ば「忘れられた参詣道」[玉置 1979]となっていった。
しかし、玉置善春[1979]の先駆的な業績における小辺路の重要性の指摘をさきがけとして、1980年代以降、関心を集めるようになり、熊野記念館(新宮市)[1987]の調査報告、宇江敏勝らによる踏査(1982、2003)および報告[宇江 1989][宇江 2004b]などが相次いだ。その後、熊野古道の世界遺産登録の動きが活発になり、1999年に南紀熊野体験博が開催されると、それと呼応して再調査と整備が行われた。2004年7月、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録された。
小辺路の峠
小辺路のルートと主要な3つの峠、その周囲の名所・古蹟について記述する。
伯母子峠
小辺路の最高地点(標高1220m)となるのがこの峠。伯母子岳(1344m)の東側を巻いて、大股と三浦口をつなぐ。
- 上西家跡(うえにしけあと)
- 明治頃まで街道宿を営んでいた上西家の遺構。石垣が残り、眺望が開けている。
三浦峠
標高1070m。茶屋跡が残る。林道に横断されており、眺望は開けない。
果無峠
標高1070m。小辺路の峠のなかでもおそらく最も著名なのがこの峠である。果無峠は、厳密には奈良県と和歌山県の西南部県境にそびえる果無山脈の稜線東端にある峠を指すが、熊野古道の一部として言及する場合には、果無峠を越えて十津川と本宮町八木尾をつなぐ参詣道の山上部全体を指す(この項では後者)。果無越え(はてなしごえ)とも呼ばれる。
- 果無集落
- 果無峠の十津川側登山口(十津川村蕨尾)からすぐの山上(稜線上)にある集落。
- 三十三観音像
- 本宮町八木尾を起点(第1番)とし、果無峠(第17番)、果無集落(第30番)を経て櫟左古(いちざこ)の第33番まで、山道沿いに配されている観音像群。西国三十三箇所の観音の像を、十津川・本宮の信者たちが大正末期に寄進・造立したもの。
注
- ^ a b 宇江[2004b: 29]。
- ^ a b c d e 和歌山県文化財研究会[1982: 19]。
- ^ a b [熊野記念館資料収集調査委員会自然・歴史部会 1987: 57]。
- ^ 宇江[2004b: 27]、小山[2004: 155]
- ^ 土居清良の事績(後述)。熊野記念館資料収集調査委員会自然・歴史部会[1987: 59, 63]。
- ^ 宇江[2004a: 129-137]、小山[2004: 155]。
- ^ [熊野記念館資料収集調査委員会自然・歴史部会 1987: 55-56]。
- ^ 和歌山県文化財研究会[1982: 18]。
- ^ [和歌山県文化財研究会 1982: 20]。
- ^ a b c 宇江[2004b: 33-34]。
- ^ 神道大系編纂会[1984: 381]。宇江[2004b: 46]にしたがって表記を一部変更。
- ^ a b 宇江[2004b: 47-48]。
- ^ a b 宇江[2004b: 60-65]
- ^ ただし、水害により流失[宇江 2004b: 62]。
- ^ 熊野記念館資料収集調査委員会自然・歴史部会[1987: 59-63]、小山[2004: 155-156]。
- ^ 熊野記念館資料収集調査委員会自然・歴史部会[1987: 54]、小山[2004: 156]
- ^ 小山[2004: 156]
- ^ 東洋文庫版の『醒睡笑』(1964)の校註にて鈴木棠三は小辺路を中辺路のことと見なしているが、誤りである(玉置[1979])。
- ^ 小山[2000: 164-165]
- ^ 山口・出水ほか[1996]にて翻刻。
- ^ 岡田[1991: 146-148]。
- ^ 奈良県教育委員会[2002]所収。
- ^ a b 神道大系編纂会[1984: 47]。
- ^ 神道大系編纂会[1984]所収。
- ^ 宇江[2004b: 58]。
- ^ 宇江[2004b: 38-40]。
- ^ a b c 宇江[2004b: 49-52]
- ^ 小山[2004: 159]。
文献
- 安楽庵策伝、鈴木棠三訳、1964、『醒睡笑』、平凡社(東洋文庫31)
- 宇江 敏勝、1989、『木の国紀聞 - 熊野古道より』、新宿書房 ISBN 4880081310 - 宇江らによる1982年の踏査記を含む。
- ——、2004a、『熊野古道を歩く』、山と渓谷 ISBN 4635600335
- ——、2004b、『世界遺産熊野古道』、新宿書房 ISBN 4880083216 - 宇江らによる2003年の踏査記を含む。
- 熊野記念館資料収集調査委員会自然・歴史部会編、1987、『熊野古道小辺路調査報告書』、熊野記念館資料収集調査委員会
- 岡田 喜秋、1991、『旅人・曾良と芭蕉』、河出書房新社 ISBN 4309007252
- 小山 靖憲、2000、『熊野古道』、岩波書店(岩波新書) ISBN 4004306655
- ——、2004、『吉野・高野・熊野をゆく - 霊場と参詣の道』、朝日新聞社(朝日選書) ISBN 4022598581
- 神道大系編纂会、1984、『参詣記』、神道大系編纂会(神道大系文学編5)
- 高桑 信一、2005、『古道巡礼』、東京新聞出版局 ISBN 4808308193
- 玉置 善春、1979、「埋もれた熊野参詣路 - 近世の「小辺路」の諸相」、『くちくまの』42号
- 奈良県教育委員会、2002、『熊野古道小辺路調査報告書』、奈良県教育委員会
- 伏見 元嘉、2001、「『清良記』の傍証研究 - 将棋記述よりのアプローチ」、『伊予史談』321号
- 和歌山県文化財研究会、1982、『修験の道』、和歌山県教育委員会(歴史の道調査報告書IV)
- 山口 之夫・出水 睦巳ほか、1996、『熊野案内記と寺内安林』、松原市役所(松原市史研究紀要第6号)
- 吉田 智彦、2004、『熊野古道巡礼』、東方出版 ISBN 4885919150
- 和歌山県神職取締所編、1909、『続紀伊風土記』第三輯、地方帝国行政学会出版部
関連項目
外部リンク
以下は、小辺路の踏破記を含む個人運営サイト。