コンテンツにスキップ

「南海蔭山新監督急死騒動」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
ページの置換: '#REDIRECT ホークス蔭山新監督急死騒動'
1行目: 1行目:
#REDIRECT [[ホークス蔭山新監督急死騒動]]
'''南海蔭山新監督急死騒動'''(なんかいかげやまかずおしんかんとくきゅうしそうどう)は、[[1946年]]のプロ野球再開以来[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]を率いていた[[鶴岡一人]]の後任として、[[1965年]][[11月13日]]に監督に就任した[[蔭山和夫]]ヘッドコーチが、わずか4日後の[[11月17日]]に急死したことによって生じた騒動である。

== 蔭山新監督誕生までのいきさつ ==
前任の監督であった鶴岡は、[[1939年]]に[[法政大学]]卒業と同時に、当時としては破格の金額で南海軍に入団。すぐに初の二桁(10本)の本塁打数(戦前のプロ野球では飛ばないボールを使用していた)で本塁打王のタイトルを手中にしたが、その年のオフ限りで召集された。

1945年からのプロ野球再開の際には選手兼監督としてチーム(当時の名称は「グレートリング」)に復帰すると、チームをまとめて初優勝に導いた<ref>[[読売ジャイアンツ|巨人]]・[[阪神タイガース|阪神]]以外のチームが年間優勝したのはこの時が初めてであり、[[日本野球連盟 (プロ野球)|1リーグ制]]時代では唯一であった。南海ホークスになった[[1948年]]も優勝している。</ref>。

[[1952年]]に引退して以降は監督専任となり、「機動力野球」「100万ドルの内野陣」「[[400フィート打線]]」「スコアラー情報を重視したデータ野球」等のアイデアでチームを黄金時代に導き、2度の日本一に輝いた。

しかし、かねてから構想を描いていた、球団職としての[[ゼネラルマネージャー]]設置案が立ち消え(鶴岡は監督であるとともに事実上のゼネラルマネージャーであった)になってしまい、また、主力のひとりである[[広瀬叔功]]がA級10年選手のボーナスを巡って球団と揉める出来事も起こった事から、監督退任を考えるようになっていたが、[[1965年の日本シリーズ|この年の日本シリーズ]]で巨人に初の日本一連覇を阻止され、勇退を決意し、後任の監督として前ヘッドコーチの蔭山和夫が就任することとなった。

蔭山は、南海に入団2年目の[[1951年]]、打率.315をマークして球団史上初の新人王となった。[[1959年]]に現役引退した後はヘッドコーチを務めたが、[[1962年]]には、開幕ダッシュの失敗によりBクラスに低迷した責任から'''「指揮官が悪いと部隊は全滅する」'''とコメントし、6月から休養した鶴岡監督に代わり監督代行として指揮をとっていた(8月には休養明けの鶴岡監督に交代している)。

== 蔭山新監督急死の報 ==
南海ホークスで1リーグ制時代から通算10回の優勝、2度の日本一に導いた鶴岡が勇退して解説者に転じた事について、'''「もったいない!」'''との声があがっていたが、[[東京ヤクルトスワローズ|サンケイスワローズ]]のオーナー[[水野成夫]]と[[千葉ロッテマリーンズ|東京オリオンズ]]のオーナー[[永田雅一]]が獲得を表明した。水野は[[金田正一]]の巨人移籍により弱体化したチームを立て直すため鶴岡を招聘しようと考え、一方の永田は[[1960年]]にリーグ優勝して以降Bクラスに低空飛行するようになったチームの再建と[[セントラル・リーグ]]流出阻止のために<ref>永田はアンチセ・リーグ主義者としても有名であった。実際鶴岡獲得に名乗りをあげた時'''「鶴岡君がいてこそ[[パシフィック・リーグ]]は繁栄する。」'''と力説した。</ref>これに対し、鶴岡は東京へ出向いて話を聞くということにしたが、その直後、'''「南海ホークス新監督蔭山和夫が副腎クリーゼ'''([[副腎]]の急性機能不全による[[副腎皮質ホルモン]]急減少)'''で急死した」'''と報じられた。

== 鶴岡前監督の監督復帰 ==

蔭山監督は、「南海をこのまま放っておけば、近い将来黄金時代が永久に到来しない」という現実を痛感しており、その打開策を思案していたが、ノイローゼとなり、就任後に[[ブランデー]]([[ジョー・スタンカ]]が贈ったものといわれる)と[[睡眠薬]]を併用なしでは睡眠できない状態であった<ref name="週刊ベースボール5月12日">雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年5月12日号『球界事件簿3』</ref>。就任から4日後の[[11月17日]]、実母が異様な寝姿に気づき[[119番]]通報、病院に担ぎ込まれ[[心肺蘇生]]が施されたが、38歳で急死した。'''「[[野村克也|野村]]に何か伝えてくれ…」'''と(担ぎ込まれた際)かすれ声でつぶやいたのが最後の言葉とされている。

蔭山新監督が亡くなった日は、鶴岡前監督が東京に出向いて水野・永田両オーナーと話をする予定日であったが、蔭山の急死を聞いた鶴岡前監督は東京行きの[[東海道新幹線]]の切符を破り捨て、'''「俺は、他へはいかない。」'''とつぶやいた。この時点で、鶴岡前監督はサンケイもしくは東京の監督を引き受けないと決意し、実際に水野・永田両オーナーも獲得を断念した。駆けつけた葬儀の席で鶴岡は'''「ワシが殺したようなもんや」'''と言った<ref name="週刊ベースボール5月12日" />。当の鶴岡本人はこの時点でどちらの球団に入団したかったかについては明かしていなかったという。

蔭山新監督の急死で、後任の監督の問題が浮上した。候補となりえる人材に[[柚木進]]・[[岡本伊三美]]がいたが、両者とも固辞し、鶴岡前監督の復帰を熱望した。その気持ちが強かったのは選手のほうで、主砲の野村克也は'''「親分が戻らなかったら野球をするのはやめだ」'''と言っていた。鶴岡は迷ったが、監督復帰を決意した<ref>この時鶴岡は'''「俺の心境は[[赤城山]]に立てこもった[[国定忠治]]の心境だ」'''と号泣した。</ref>、南海と3年契約を結び、監督に復帰した。

== 鶴岡監督の復帰 ==
南海に復帰すると、翌1966年には[[1953年]]以来となるパ・リーグ3連覇に導いたが、[[1966年の日本シリーズ]]では巨人に破れた。翌[[1967年]]は戦後初のBクラスに低迷した。

[[1968年]]には阪急ブレーブスと優勝争いをしたが、[[10月11日]]に行われた[[日本生命球場|日生球場]]での[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]戦に敗れ、阪急が[[阪急西宮スタジアム|西宮球場]]での東京戦で勝利したため、2年ぶりのリーグ優勝はならなかった<ref>この詳細は[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)#1968年のパ・リーグ]]、[[矢野清]]、[[福井宏]]の各項も参照。</ref>。なお、当時の鶴岡は医者から'''「もう2度と監督を務めてはいけない」'''と通告されていた。

鶴岡はこれを機に、前年サンケイ監督を辞任して南海にヘッドコーチとして復帰していた[[飯田徳治]]を後任とし、勇退した。その直後、[[藤本定義]]が勇退したばかりの[[阪神タイガース]]から就任要請を受けるが、辞退して解説者に転じた。その後[[1970年]]のオフ、[[三原脩]]の後任として近鉄から就任要請を受けるが、これも健康上の理由で固辞した。

[[1969年]]、飯田監督率いる南海は主力投手や主砲野村克也の故障があり15連敗(1引き分けを挟む)を喫するなどで成績は戦後初の最下位に終わった。

== 脚注 ==
<references />

{{DEFAULTSORT:なんかいかけやましんかんとくきゆうしそうとう}}
[[Category:日本の野球史]]
[[Category:南海ホークス]]
[[Category:1965年の野球]]

2012年2月28日 (火) 19:23時点における版