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やがてテュルク系遊牧民自身でも文字([[突厥文字]])を使って物事を記すようになると、[[ファイル:Old turkic letter O.png|10px]][[ファイル:Old turkic letter Y1.png|10px]][[ファイル:Old turkic letter G1.png|10px]][[ファイル:Old turkic letter R1.png|10px]] |
やがてテュルク系遊牧民自身でも文字([[突厥文字]])を使って物事を記すようになると、[[ファイル:Old turkic letter O.png|10px]][[ファイル:Old turkic letter Y1.png|10px]][[ファイル:Old turkic letter G1.png|10px]][[ファイル:Old turkic letter R1.png|10px]](Uγur)<ref>『[[テス碑文]]』。「[[ファイル:Old turkic letter O.png|10px]][[ファイル:Old turkic letter Y1.png|10px]][[ファイル:Old turkic letter G1.png|10px]][[ファイル:Old turkic letter R1.png|10px]]」は右から左へ読む。</ref>と表記した。 |
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===イルハン朝における表記=== |
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[[イルハン朝]]の政治家[[ラシード・ウッディーン]]はその著書『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ([[集史]])』の「ウイグル部族志」において、「ウイグル」とは[[テュルク語]]で「同盟」・「協力」の意であると記している。 |
[[イルハン朝]]の政治家[[ラシード・ウッディーン]]はその著書『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ([[集史]])』の「ウイグル部族志」において、「ウイグル」とは[[テュルク語]]で「同盟」・「協力」の意であると記している。 |
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現代ウイグル人の祖先と仮託されているウイグル人は自らの民族をテュルクと呼び中核集団をウイグルと呼んだが、東西[[トルキスタン]]の[[オアシス]]都市の住民は、都市国家単位での緩い民族名称しかもたず、異教徒に対しては[[ムスリム]]、他所者に対して[[イェルリク]](土地の者)と呼ぶ程度であった。 |
現代ウイグル人の祖先と仮託されているウイグル人は自らの民族をテュルクと呼び中核集団をウイグルと呼んだが、東西[[トルキスタン]]の[[オアシス]]都市の住民は、都市国家単位での緩い民族名称しかもたず、異教徒に対しては[[ムスリム]]、他所者に対して[[イェルリク]](土地の者)と呼ぶ程度であった。 |
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1921年、[[西トルキスタン]]のタリム盆地出身者が「ウイグル」という呼称を復活させたことをうけて、親ソ派で東トルキスタン地域を事実上の独立国家として支配していた[[盛世才]]が1934年、「維吾爾」という漢字表記とともに |
1921年、[[西トルキスタン]]のタリム盆地出身者が「ウイグル」という呼称を復活させたことをうけて、親ソ派で東トルキスタン地域を事実上の独立国家として支配していた[[盛世才]]が1934年、「維吾爾」という漢字表記とともに「ウイグル」呼称を確定した。この呼称は[[中華人民共和国]]によっても引き継がれている(維吾爾族、维吾尔族)。 |
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2012年4月25日 (水) 13:59時点における版
ウイグル(Uyghur)は、狭義には4世紀~13世紀に中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族を指し、広義には現在新疆ウイグル自治区などに居住するウイグル人を指す。本項では、古代から現在にいたる関連情報を記す。
呼称
古代中国での呼称
「ウイグル」という名称は初め、中国の史書によって伝えられており、袁紇[1],烏護[2],烏紇[2],韋紇[3],迴紇[4],回紇[5],迴鶻[4],回鶻[5]などと表記されてきた。
突厥碑文による表記
やがてテュルク系遊牧民自身でも文字(突厥文字)を使って物事を記すようになると、(Uγur)[6]と表記した。
イルハン朝における表記
イルハン朝の政治家ラシード・ウッディーンはその著書『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ(集史)』の「ウイグル部族志」において、「ウイグル」とはテュルク語で「同盟」・「協力」の意であると記している。
「新疆」
現代ウイグル人の祖先と仮託されているウイグル人は自らの民族をテュルクと呼び中核集団をウイグルと呼んだが、東西トルキスタンのオアシス都市の住民は、都市国家単位での緩い民族名称しかもたず、異教徒に対してはムスリム、他所者に対してイェルリク(土地の者)と呼ぶ程度であった。
モンゴル帝国、ジュンガルへの服属を経て、18世紀半ばにジュンガルを清朝が滅ぼすと、「ムスリムの土地」を意味する「回疆」また「新しい土地」を意味する「新疆」と呼ばれた。その後ロシアが中央アジアに進出し、1881年に西トルキスタンを併合すると、清朝は1884年に東トルキスタン地域に新疆省を設置した(-1955年)。
ウイグル(維吾爾)
1921年、西トルキスタンのタリム盆地出身者が「ウイグル」という呼称を復活させたことをうけて、親ソ派で東トルキスタン地域を事実上の独立国家として支配していた盛世才が1934年、「維吾爾」という漢字表記とともに「ウイグル」呼称を確定した。この呼称は中華人民共和国によっても引き継がれている(維吾爾族、维吾尔族)。
民族
民族としてはテュルク系民族に分類されている。
ウイグル人の居住地域は古来より様々な国家の興亡する地域で、また民族混交も進んでおり、厳密に単一の民族とすることには困難がともなう。中世以前のウイグルの人々と、現代のウイグル民族に直接の系譜的な繋がりがあるかどうかは明らかではない。現代のウイグル民族の話すウイグル語は、中世以前のウイグル人が書き残したウイグル語とはテュルク語の中でも系統を異にしているとされている[要出典]。
人種的には北東アジア人と古インド人の混血といえるが、個人差も大きく、見た目はトルコ人や漢族と区別がつきにくい者もいれば、インド人に近い者もいる。
創生伝承
ウイグルの創生については、モンゴル帝国時代のペルシア語文献においていくつかの物語が記されている。アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』(1260年編纂)とラシードゥッディーン『集史』(1314年編纂完成)がある。
特に後者の『集史』ではテュルク・モンゴル系の諸部族をイスラーム的世界観の枠内で分類しており、これらを大洪水後に現在の人類の遠祖となったノア(ヌーフ)の3人の息子セム、ハム、ヤフェトのうちヤフェト(ヤーフィス)の子孫としている。テュルク系種族をヤフェトの子孫とするのは『集史』以外にも見られるが、『集史』はこれにオグズ・カガン伝説も絡めて述べているのが特徴であり、後世にもこの傾向は受け継がれた。
- ラシードゥッディーン『集史』ウイグル部族誌(1314)
- 伝承:「ノアの子のアブルチャ・カン即ちヤフェトの子のディブ・バクイの子のカラ・カンの子のオグズ[7]は、唯一神(アッラー)のみを信じたので、叔父達や兄弟から攻撃を受けたが、彼はその親族の一部の援助を受けて打ち破り彼等の領地を併合した。彼は大会を開き、親族・異姓の集団・戦士達を鎮撫し、共に戦った親族の人々に“ウイグル”の名を授けた」[8]。
- 古代:「ウイグリスターン地方(wilāyat-i Ūyghūristān)には2つの非常に大きな山があり、ひとつはブクラト・ブズルク( بوقراتو بوزلوق Būqrātū-būzlūq)、もうひとつはウシュクンルク・タンクリム( اوشقون لوق تنكريم Ūšqūn-lūq-tankrīm)であった。そのふたつの間にはカラコルム山(kūh-i Qarāqūrum)が鎮座し、カアン(Qā'ān;オゴデイのこと)が建てられた都市はその山の名前にちなんで呼ばれている。その山のそばにクト・タク( قوت طاق Qūt-ṭāq)と呼ばれている山がある。その山々の一帯には10本の河(が流れている)場所と、9本の河(が流れている)場所がある。古い時代には、ウイグル諸部族の居住地は、これらの諸河川や山々や荒野(ṣuḥrā-hā)にあった。この10本の河にすむものたちがおり彼らはオン・ウイグル( اون اويغور Ūn Ūyghūr)と呼ばれ、9本の河にいるものはトグズ・ウイグル( توغوز اوغوز Tūghūz Ūyghūr)と呼ばれている[9]。この10本の河はオン・ウルグン( اون اُرغون Ūn-Urghūn)[10]と呼ばれている。それらの名前を以下に説明すると、 اييشلك Aīīšlik(部族)、 اوتنكر Ūtinkar?(部族), بوقيز Būqīz(部族),اوزقندر Ūzqundur(部族),تولار Tūlār部,تاردار Tārdār(部族),ادر Adar(部族:もしくは ادر اوج Adar-Ūjか),اوج تابين Ūj-Tābīn(部族:もしくは تابين Tābīnか), قملانجو Qamlānjū(部族),اوتيكان Ūtīkān(部族)である。3本の河畔に9部が、次の4本の河畔に5部がいる。9本目の Qamlānjū の河沿いには オン部族( قوم اونك qawm-i Ūnk:もしくは قوم لونك qawm-i Lūnkか)、10本目の河畔に قمق آتی كوز Qamaq-ātī-kūz 部がある。 その他名称不詳の部を含め122部がそれらの河に有った。数世代経ったがウイグル諸部族には決まった君長(pādshāhī wa sar-varī)が居らず、各部が武力争奪を始めると別の集団から長を立てていた。後に各部が共同利益の為に会議を開き、全体に命令を発する1人の全権君主(pādshāhī muṭalliq-i amr ki bar hamganān nāfidh farmān bāshad)を自分達の中から出すことを決議。全会一致で満場の意を受けて、アビシュリク( ابيشلك Abīšlik)部から最も聡明なマングダイ( منكوتای Mankūtāī /ないしマング・バイ منكوباى Mankū-bāī )を選出、イル・イルテベル( ايل ايلتبر Īl-Īltabar)の称号を授けた。また、ウズクンドゥル(اوزقندر Ūzqundur)部から品質性格の良好な人物を選んでキョル・イルキン( كول ايركين Kūl-Īrkīn)の称号を授けた。彼等二人は全民族と諸部族の君主(pādshāh-i jumhūr wa aqwām)となり、彼等の一族(ūrūgh/uruq)が100年間統治した[11]。」
- アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』(1260)
- 「カラコルムから発するトグラ河とセレンガ河が合流するカムランジュ( قملانجو Qamlānjū)に双樹があった。双樹の間の丘に天から光が降り注ぎ、日ごと丘は大きくなった。やがて丘陵が開き、天幕張りの5つの部屋が現れると各々に一人の子供が座っていた。5人の子供はこの土地の人々から王子と同じように尊敬され、長男はソンクル・テギン( سنقر تكين Sunqur Takīn /Sonqur Tegin),次男はクトル・テギン( قوتر تكين Qūtur Takīn/Qotur Tegin),三男はブカク・テギン( توكاك تكين Tūkāk Takīn/Tükel Tegin),四男はオル・テギン( اور تكين Ūr Takīn /Or Tegin),五男はブク・テギン( بوقو تكين Būqū Takīn/Buqu Tegin)と命名された。ウイグル人は彼らが天より降臨したものと信じ、彼ら3の一人を君主に戴くことにした。そこで、末子のブク・テギンが美貌と才智に最も秀で、あらゆる言語と文字に通じていたので、ウイグル人は彼を推戴してカン( خان Khān)とし、大祭を催して玉座に就かせた」[12]
歴史
ウイグルを含む中央アジアの歴史は、一般に、ユーラシア大陸内陸部を拠点とする遊牧民族、およびオアシス国家[13]の歴史を指す。歴史上、中央アジアの遊牧民は、北アジアのモンゴル高原から中央アジア・イラン高原・アゼルバイジャン・カフカス・キプチャク草原・アナトリアを経て東ヨーロッパのバルカンまでを活動領域としてきた。匈奴・サカ・スキタイの時代から、パルティア・鮮卑・突厥・ウイグル・セルジューク・モンゴル帝国などを経て近代に至るまでユーラシア大陸全域の歴史に関わり、遊牧生活によって涵養された馬の育成技術と騎射の技術と卓越した移動力と騎兵戦術に裏打ちされた軍事力と交易で歴史を動かしてきた。
古代
紀元前8世紀頃、南ロシア平原にキンメリア人、スキュタイ人などが勢力を形成した。なおペルシアのアケメネス朝も遊牧民を支配層とした国家である。
- 狄
中国史料にある狄或いは翟と記される民族がテュルク系民族または遊牧民に関する最古の記録とされる。狄は周代に中国の北方(河北地方:山西省、河北省)に割拠し、春秋時代の衛や鄭、晋といった国々に侵入しては略奪を行っていた。やがて狄は赤狄,白狄などに分かれるが、中国諸国と同盟・離反を繰り返しながら存続し、戦国時代には中原に中山国を建てる。中山国は紀元前296年に趙の攻撃によって滅亡するが、ある者は中国人と同化し、北狄,戎狄と総称される異民族は中国の周辺で遊牧を続けて後の匈奴や丁零となる。
- 都市国家と遊牧国家
紀元前4世紀頃、匈奴が中国の文献に登場し始め、紀元前3世紀には後へ続く遊牧国家の源流となる広域国家を形成した。東トルキスタン地域には、古くはインド・ヨーロッパ語族のいわゆるアーリア人が居住していた。タリム盆地には疏勒、亀茲、焉耆、高昌、楼蘭などの都市国家が交易により栄えたが、しばしば遊牧国家の月氏や匈奴などの影響下に入った。
前漢の武帝の時代に匈奴が衰えると今度は前漢に服属し、以後は北方の遊牧国家(突厥など)と東方の諸帝国(唐など)の勢力争いの狭間で何度か宗主が入れ替わった。タリム盆地の都市国家郡は7世紀ぐらいまでは存続した。
- 匈奴と丁零
匈奴は1世紀に南北に分裂し、南匈奴は後漢に服属し、北匈奴は後漢・烏桓・鮮卑に滅ぼされた。この頃、東アジアで鐙が発明され、騎兵の戦闘力は向上した。南北朝時代を経て300年ぶりに中国を統一した隋の楊氏や唐を建国した李淵は鮮卑系ともいわれる。
丁零(丁令)は匈奴と同時代にモンゴル高原の北方、バイカル湖あたりからカザフステップに居住していた遊牧民であり、「テュルク」の転写と考えられている。丁零は匈奴に叛服を繰り返していた。匈奴が南北に分裂すると、東の鮮卑がモンゴル高原の支配権を握ったが、五胡十六国時代に鮮卑が衰退すると丁零が台頭し、一部の丁零人は中国の黄河で翟魏を建てた(388-392年)。
高車(袁紇部)
丁零人は南北朝時代に中国の拓跋氏政権から高車と呼ばれるようになる。「高車」とは4~6世紀の中国(北朝)におけるテュルク系遊牧民の総称であり、彼らが高大な車輪のついた轀車(おんしゃ:荷車)を用いたことに由来する[14]。中国史書においてウイグルの名が初めて現れるのは4世紀の高車袁紇部[15]としてである。
柔然・北魏
袁紇部は、モンゴル高原をめぐって拓跋部の代国や北魏と争っていたが、後に台頭してきた柔然に4世紀末から5世紀初頭に柔然に従属した。また北魏と数度戦い、390年、道武帝の北伐で大敗を喫し[16]、429年に北魏が漠北へ遠征して柔然を打ち破ると、高車諸部族は北魏に服属し漠南へ移住させられた。一時期、高車諸部は孝文帝の南征に従軍することに反対し、袁紇樹者を主に推戴して北魏に対して反旗を翻したが、のちにまた北魏に降った。
487年、高車副伏羅部の阿伏至羅は柔然の支配から脱し、独立を果たす(阿伏至羅国)。阿伏至羅国は柔然やエフタルと争ったが、6世紀に柔然に敗れて滅亡した。
突厥
6世紀中頃の555年、中央ユーラシア東部の覇者であった柔然可汗国はその鍛鉄奴隷であった突厥に滅ぼされる。突厥は柔然の旧領をも凌ぐ領土を支配し、中央ユーラシアを支配した。東ローマ帝国の史料であるテオフィラクト・シモカッタ(Theophylact Simocatta)『歴史』にも「テュルク」として記されている。
また突厥は自らの言語(テュルク語)を自らの文字(突厥文字)で記し、突厥碑文が残っている。
582年に東突厥と西突厥の東西に分裂し、8世紀には両突厥が滅亡する。
鉄勒の回紇部の台頭
タリム盆地の北に位置しモンゴル高原の南西にあるジュンガル盆地は、遊牧国家(匈奴、突厥など)の勢力圏となっていたが、鉄勒の中からウイグル(回鶻)が台頭し、8世紀には突厥を滅ぼす。
6世紀~7世紀の鉄勒時代には烏護,烏紇,韋紇などと記され、やがて迴紇,回紇と表記されるようになる。当時、鉄勒諸部は中央ユーラシアを支配していた突厥可汗国に対し、その趨勢に応じて叛服を繰り返していた。
隋代に42部を数えた鉄勒諸部(アルタイ以西に31部・勝兵88000、以東に11部・勝兵20000)は、唐代に至ると徐々に東へ移動・集合(15部・勝兵200000)、その中でも回紇部は特に強盛となってモンゴル高原の覇権を薛延陀部と争った。
648年に部族長の吐迷度が、姪である突厥の車鼻可汗と血縁にあった親突厥の烏紇と倶羅勃に謀殺される動乱を唐の介入によって平定したため、唐の羈縻政策下に入り部族長は大イルテベル(大俟利発)・瀚海都督・左驍衛大将軍を名乗った。
7世紀後半に後突厥が再興すると再び屈従を余儀なくされたものの、734年に毘伽可汗が貴族に毒殺されると、内戦に陥った東突厥第二可汗国へ度々攻撃を仕掛け、741年に骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が唐との挟撃により最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して突厥可汗国を滅ぼした。
ウイグル可汗国
744年、クトゥルグ・ボイラ(骨力裴羅)は回鶻可汗国(ウイグル可汗国)を建国する(- 840年)。ウイグル可汗国は東突厥の旧領を支配し、新たなモンゴル高原の支配者となった。
以後、彼ら回紇の筆頭氏族である薬羅葛(ヤグラカル)氏によって可汗位が継承され、唐とも友好な関係を築き、絹馬貿易とシルクロード交易を発展させた。また、回鶻可汗国では懐信可汗(在位:795年 - 805年)の代にマニ教が国教化され、世界史上唯一となるマニ教国家が誕生した。
回鶻可汗国の崩壊後
回鶻可汗国は天災と内部紛争によって崩壊し、その一部は西の葛邏禄(カルルク)へ逃れたり、吐蕃,安西(タリム盆地)へ逃れたりした。
このうち、カルルクに逃れた者たちはのちにテュルク系初のイスラーム王朝であるカラハン朝を建国したものと思われる。
吐蕃に逃れた者たちは河西(現在の甘粛省)に割拠し、甘州(張掖)を中心に甘州ウイグル王国(甘州回鶻)を形成し、1028年のタングートによる甘州陥落まで勢力を保つ。現在、中華人民共和国領の甘粛省の西部に居住するテュルク系民族のユグル族(裕固族)は、このとき甘粛に移住したウイグルの末裔とされている。
天山ウイグル
安西に割拠した者たちは天山ウイグル汗国を建国してこの地で定住化し、「ウイグル(Uyghur)」とか「トゥグズグズ(Tughuzghuz)」などと呼ばれた。彼らは遊牧の時代からソグド人の影響でマニ教を尊崇したが、中央アジアに入った者は仏教も信仰し、イスラム教勢力と接する中央アジアの一角で独自の文化を築き上げた。この天山ウイグル王国は12世紀までは独立した国家であったが、東から来た西遼(カラ・キタイ)、つづくモンゴルといった新たな遊牧国家に服属するようになり、13世紀には完全に消滅した。
12世紀:西遼への服属
12世紀に入り、東から耶律大石がこの地へを征服して西遼(カラ・キタイ)を建て、ウイグル族はこれに服属するようになる。
モンゴル帝国時代のウイグル駙馬王家
13世紀にモンゴルでチンギス・ハーンが勃興すると、1211年にウイグル国王(イディクト)バルチュク・アルト・テギンがこれに帰順した。
チンギスは彼の帰順を大変に歓迎して息女の一人アル・アルトン(『集史』ではイル・アルタイ、Īl-Altaī)を娶らせ駙馬(キュレゲン)とした[17]。またバルチュク国王はジョチなどチンギスの4人世嗣に準ずる「第5位の世嗣」と称されるほど尊重された[18]。
以後モンゴル帝国ではウイグル王家は「ウイグル駙馬王家」としてコンギラト駙馬家と並ぶ、駙馬王家筆頭と賞されモンゴル王族に準じる地位を得る。
モンゴル帝国および大元朝ではウイグル出身官僚がモンゴル宮廷で多数活躍し、帝国の経済を担当するようになった。この時代、ウイグル王国方面を指して「ウイグリスターン(Ūyghristān)」と呼ばれた[19]。
モンゴル帝国以後はイスラーム化した。
ヤルカンド・ハン国
その後、長らくモンゴル系領主の支配を受けた。16世紀の1514年、モグリスターン・ハン国(東チャガタイ・ハン国)の系譜を引くトルファンの支配者アヘマの子サイードが、カシュガルでハン位に就き、ウイグル人国家であるヤルカンド・ハン国が成立した。
最盛期には天山以北のバルハシ湖南岸やパミール高原以西のフェルガナ盆地にまで及んだが、政権内部の権力闘争やイスラム教の黒山派と白山派の教派対立によって衰えた。
近世
ジュンガル時代
ヤルカンド・ハン国は、17世紀に北方からやってきたオイラト族のジュンガル部に滅ぼされた。
清朝への併合
18世紀なかばにはジュンガルが清により征服され、その支配下に入った。1755年、清の乾隆帝はモンゴル軍と満州軍を動員した大軍をジュンガルに進軍させ、ジュンガル帝国を滅ぼした。
清朝の支配では、イリ将軍統治下の回部として、藩部の一部を構成することとなり、その土地は「ムスリムの土地」を意味する「回疆」、もしくは「新しい土地」を意味する「新疆」などと呼ばれた。
ロシア
19世紀の半ば、バルカン半島から中央アジアに及ぶ広大な地域を舞台に、大英帝国とロシア帝国との「グレート・ゲーム」が展開されていた。ロシア帝国はイギリスよりも先にトルキスタンを手に入れるべく、1867年にコーカンド・ハン国を滅ぼし、1868年にブハラ・ハン国を、1873年にヒヴァ・ハン国を保護下に置き、1881年に遊牧集団トルクメンを虐殺して西トルキスタンを支配下に入れた。
東トルキスタンはかつてウイグリスタン、モグーリスターンとよばれ、西トルキスタンはマーワラーアンナフルと呼ばれていたが、これらの地域を「トルキスタン」と一括する慣習は19世紀以降のロシアによる。
汎テュルク主義
また、ロシア領内のテュルク人の間では、19世紀末からムスリムの民族的覚醒を促す運動が起こり、オスマン帝国を含めてテュルク人の幅広い連帯を目指す汎テュルク主義(汎トルコ主義)が生まれた。しかし、ロシア革命が成功すると、旧ロシア帝国領内に住むテュルク系諸民族は個々の共和国や民族自治区に細分化されるに至った。一方、トルコ革命が旧オスマン帝国であるアナトリアに住むトルコ人だけのための国民国家であるトルコ共和国を誕生させた結果、汎テュルク主義は否定される形となった。
清からの離脱と再併合
19世紀後期、西トルキスタンのフェルガナ盆地を支配していたコーカンド・ハン国の軍人ヤクブ・ベクの手によっていったん東トルキスタンの大半が清から離脱する。しかし、間もなく清は欽差大臣の左宗棠を派遣して再征服に成功した。この時期になると列強が積極的に東アジアに進出してきており、清はヤクブ・ベクの乱をきっかけにロシア帝国との国境地帯にあたる東トルキスタンの支配を重視し、1884年に清朝内地並の行政制度がしかれることとなった(新疆省)。
近現代
ソ連
帝政ロシアの支配下にあった西トルキスタンは、帝国がロシア革命で倒された後は社会主義共和国が作られ、ソ連の傘下に組み込まれた。ソビエト政権は、民族政策として「民族別の自治」を掲げ、西トルキスタンでも遊牧諸集団やオアシス都市の定住民の間に「民族的境界区分」が引かれ、諸民族が「設定」されていった。その際、各共和国の国境線は人為的に引かれたため、民族分布とは必ずしも合っていない。
「ウイグル」呼称の復活
西トルキスタンには、1881年のロ清イリ条約の締結の際にロシア領に移住したタリム盆地出身者が多数おり、彼らは1921年、カザフスタンのアルマトイにおいて、古代のウイグルという呼称を復活させた。
盛世才政権における改名
この「ウイグル」呼称は中国統治下の東トルキスタンにも次第に知られるようになり、従来より中国当局が用いていた「纆回(ぼくかい)」という呼称を「ウイグル」に改めるよう求める運動がおこった。この改名運動は、1933年から1944年にかけて新疆を事実上の独立国のように統治し、また一時ソ連共産党党員でもあった盛世才政権のもとで受け入れられ、1934年、省府議会が正式にこの呼称を採用、「維吾爾」という漢字表記もこの時に正式に確定した。
中華民国時代
東トルキスタン地域は、辛亥革命によって清を滅亡させた中華民国によって統治が継承された。東トルキスタンはイリ地方の軍事政権、東部の新疆省勢力圏などに分かれたが、やがて漢人勢力の新疆省がイリ地方を取り込んだ。この結果、藩部のうち、民族政権が維持されていたチベットとモンゴルは手をたずさえて「中国とは別個の国家」であることを宣言(チベット・モンゴル相互承認条約)したのに対し、漢人科挙官僚によって直接支配が維持された東トルキスタンは、中華民国への合流を表明することとなった。
ただし、中華民国中央が軍閥による内戦状態にあったため、新疆省は以後数十年に渡り事実上の独立国のような状態であった。
東トルキスタン共和国
1933年および1944年から 1946年にかけてソ連の後援でウイグル人主体の独立政権である東トルキスタン共和国の建国が試みられた。1935年にテュルク系言語を話すイスラム教徒のオアシス定住民たちの中から、その統一的な民族名称として滅び去ったウイグルの名が再び見出され、民族名称として採用された。
中華人民共和国によるウイグル侵攻
1949年、国共内戦で勝利した中国共産党は中華人民共和国を建国し、独立運動の続いていたウイグル地域へ軍事侵攻し、鎮圧に成功する。これによってウイグルは再び併合された。
この地域が中華人民共和国に併合管理された後、彼らの民族名称は中央政府によってウイグル族(維吾爾族、维吾尔族)と公式に定められ、現在に至っている。
中国政府は1950年ごろ、新疆ウイグル自治区に漢族を中心とする新疆生産建設兵団を大量に入植させた。その後、入植当初人口7パーセントだった漢族が1991年には40パーセントになり、ウイグル族に匹敵する割合となり[20]、駐留する人民解放軍とあわせるとウイグル人よりも多いと言われる[21]。
新疆ウイグル自治区の設置
1955年には新疆ウイグル自治区が設置された。しかし、自治区とはいえ実際の政治・政策は北京の中国共産党政府主導のもとで行われている。
東トルキスタン独立運動
1950年代から1960年代にかけてはカザフの新疆脱出が発生した。独立運動各派は弾圧され、中国政府は「政治犯」として50万人もの東トルキスタン人を処刑したといわれる。ほか妊婦に対して「計画生育」と言う名目で胎児の中絶を強制し、犠牲になった胎児は850万に上ると推計されている。 またチベットでも同様の産児制限と中絶・不妊手術の強制が行われた[22]。東トルキスタン独立問題は国際連合ほか国際社会でも重大な人権侵害問題として問題視されている。なお、独立運動の一派は2004年9月に東トルキスタン亡命政府をアメリカで樹立している。
政治体制
可汗
ウイグルの君主は突厥と同様に可汗(カガン:Qaγan)といい、中国で言う皇帝にあたる。皇后にあたるのは可敦(カトゥン:Qatun)という。
イディクト
天山ウイグル王国の中期まではカガン(Qaγan)、ハン(χan)やイリグ (Ilig)(il+lig:「国持てる」の意味)といった称号を用いていたが、後期になると「カガン(Qaγan、可汗)」から「イディクト(Ïduq qut > Ïdï qut > Ī dī qūt、亦都護)」(「幸いの主」、「神聖なる吉祥」の意味[23])という称号を用いるようになった。
官職
他種族や他国の首領にあたるのは大俟斤(Ulugh erkin)といい、身分としては匐(bāg)などがあり、官職としては以下などがあった。[24]
- 葉護(ヤブグ:Yabγu)…最高位の爵位、近親者のみが与えられた、実権は無し。
- 設(シャド:šad)…非回紇諸部の兵権を司る官職、東部の突利施(töliš)設と西部の達頭(turduš)設が置かれた。
- 特勤(テギン:Tägin)…突厥語で奴隷の意、転じて可汗の子弟。実権の無い爵位、設と同程度の地位。
- 都督(トゥトゥク:tutuq)…主要部族の部族長
- 大相…筆頭宰相
- 宰相…十回紇の貴族から選ばれる内宰相3名と外宰相6名からなり、使節や可汗庭に於いて兵を監督する官職。
- 将軍(センギュン:sängÜn)…実権の無い爵位。
- 達干(タルカン:Tarqan)…十回紇の貴族から選ばれ、兵馬の監督や唐への使節を担う官職。突厥の(bāg)
- 監使…可汗の親族か十回紇の貴族から選ばれ、征服された他部族や他国からの徴税、労役の割当を担当する官職。突厥でいう吐屯。
- 梅緑(ブイルク:buïruq)…近衛兵や伝令を務める官職。
- 啜(チュル:Čur)…可汗の一族から選ばれ、軍事全般を担う官職。
- 俟斤・俟利発(イルテベル:Ëltäbir)…征服した民族の部族長
- 阿波(アパ:apa)
言語と民族
現代ウイグル人は言語的にはウイグル語という共通した言語を話すものの、人種的にテュルク人と古インド人の混血である。タリム盆地は様々な民族の交流地であったため、古代から民族混血が進んでいた。歴史的にタリム盆地の民族は東イラン語やトカラ語を話し、古インドやイランの人種に属す人々を元として幾波にも渡って北のトルコ民族や東の漢民族の支配を受けた。11世紀まではソグド語やトカラ語を使い続けた。
現在のようにテュルク系の言語を話すようになったのは、9世紀から12世紀にタリム盆地東部を支配した天山ウイグル王国、タリム盆地西部を支配したカラハン朝においてである。以降、タリム盆地の言語はモンゴル、カラキタイ(西遼),チャガタイ・ハン国,モグーリスタン・ハン国といった国の支配下、独自のテュルク語方言を形成し、現在のウイグル語が生まれた。
古代ウイグル語と新ウイグル語
回紇部および回鶻可汗国時代までは、突厥と同じ古代テュルク(突厥)語を話していたと思われる[25]が、天山ウイグル王国時代(9世紀 - 16世紀頃)になると、その言語はウイグル文字で表記される古代ウイグル語となる。
現在、タリム盆地などで話されている新ウイグル語(現代ウイグル語)はテュルク諸語のひとつであるが、言語学者の分類するところによれば、若干古代ウイグル語と系統が異なるとされ、使用される地域の分布も若干異なる。
文字
文字は突厥第二可汗国時代の突厥文字をそのまま流用し、『テス碑文』,『タリアト碑文』,『シネ・ウス碑文』,『カラ・バルガスン碑文』などを残した。また、バイ・バリクやオルド・バリクといった城郭都市を建設し、新たに「遊牧都城文化」ともいうべき[26]文化形態を生みだした。
天山ウイグル王国ではソグド人が用いていたアラム文字の系統に属すソグド文字の草書体から派生したウイグル文字を用いて自らの言語を書き表すなど、独自な文化を発達させる。また、チンカイ、タタトゥンガ(塔塔統阿)を始め、多くのウイグル人がモンゴル帝国に仕え、ウイグル文字がモンゴル語を筆記するために導入(モンゴル文字)されるなど、モンゴル帝国の発展に多大な影響を及ぼした。
文化
文学
カラハン朝の詩人ユースフ・ハーッス・ハージブの『クタドグ・ビリク』(1069年)が最初のテュルク語文学とされる。以後、11世紀にマフムッド・カッシュガリ 13世紀にはアフマット・ユグナキ、14世紀にはユスーフ・サッカキ、15世紀にはルットフィが現れた。17-18世紀のウイグル古典文学の代表に、ヒルキティ、ゼリリ、ノビティがいる。
音楽
古典音楽として、「ムカム」(マカム、マカームとも)と呼ばれる楽曲(体系)が伝わっている。同様の伝統音楽は中央アジア・中近東に広く行われるが、ウイグルにおいては代表的なものとして、カシュガルのウイグルが伝えるムカム(12ムカム)などが知られている。
料理
ウイグル料理と呼ばれる伝統的な料理がある。中国では清真料理と呼ばれる(より包括的な「新疆料理」という呼称もある)。ウイグル人はムスリムであるためハラールが遵守されている。主食は小麦(ナンや麺類)と米で、ほかにトウモロコシ、マトン(羊肉)、牛肉、鶏肉、ラクダ肉、トマト、ニンジン、ジャガイモなど。スパイスでは、クミン、コリアンダー、唐辛子、花椒、フェンネル、カルダモンなどが使用される。
飲み物はチャイ、アイラン(塩味のヨーグルト飲料)、クワスなど。
宗教
シャーマニズム
ウイグル人は北アジアに広く見られる狼・鳥・大樹などの信仰をしており、「カム」と呼ばれる巫術師(シャーマン)がいた。カムは鬼神を自由に扱い、鬼神を通じて現在未来に起こるすべての物事に精通していると称した。鬼神は帳幕の天窓から入って来てカムたちと言葉を交わし、親密な関係となって一体化した。また、カムは病気を治療する能力も持っていた。
現代でもシャーマニズムの儀式の名残が見られ、現代ウイグル人の民族舞踊の一つ「サマ踊り (Sama Usuli)」はシャーマンの儀式に由来するとされ、ウイグル南部には呪術師バックシが存在する。
上天神信仰
天神を頂点として、乌女神や大地神など気象を司る神々を崇拝する多神教信仰も行っていた。
マニ教
ウイグル可汗国では第3代牟羽可汗(在位:759年 - 779年)の時に初めてマニ教を受容し、ソグド人官僚を多く採用した。しかし、それらの政策に不満を持つ勢力によって牟羽可汗が殺され、マニ教とソグド人は弾圧された。以降、マニ教は一旦息をひそめるが、第7代懐信可汗(在位:795年 - 805年)の代に再び受け入れられ、ついに国教となった。可汗国の崩壊後も天山ウイグル王国でマニ教は信仰された。
仏教
天山ウイグル王国では10世紀頃までマニ教の信仰が維持され、周辺のオアシス都市の仏教勢力と共存していたが、10世紀後半から11世紀にかけてウイグル支配層の仏教への改宗が進み、仏教国家化した。
イスラム教
現在の新疆に住むウイグル人はほぼ全員がスンナ派イスラム教を信仰しているが、これは天山ウイグル王国の滅亡後、数々のイスラーム王朝がこの地を支配したためである。その際、仏教寺院は破壊され、仏教壁画の眼や顔の部分がそぎ落とされた。
歴代指導者
回紇部
- 俟斤(イルキン)、頡利発(イルテベル)
- 特健(時健)俟斤
- 活頡利発(菩薩)(627年 - 646年)…特健俟斤の子
- 胡禄頡利発(吐迷度)(646年 - 648年)…菩薩の子、瀚海都督、左驍大将軍。
- 烏紇…吐迷度の甥、突厥・車鼻可汗の婿。
- 婆閏(648年 - 661年)…吐迷度の子、瀚海都督。
- 比粟毒(661年 - 680年)…婆閏の子(甥)、瀚海都督。
- 獨解支(680年 - 695年)…比栗の子、瀚海都督。
- 伏帝匐(695年 - 719年)…獨解支の子、瀚海都督。
- 承宗(719年 - 727年)…伏帝匐の子、瀚海都督。
- 伏帝難(727年)…承宗の子、瀚海都督。
- 護輸…承宗の一族、頡利発
- 葉護頡利吐発(骨力裴羅)…承宗の子
回鶻可汗国
- 可汗(カガン)
- 懐仁可汗(骨力裴羅)(744年 - 747年)
- 英武威遠可汗(葛勒可汗)(747年 - 759年)
- 英義建功可汗(牟羽可汗)(759年 - 779年)
- 武義成功可汗(長寿天親可汗)(779年 - 789年)
- 忠貞可汗(789年 - 790年)
- 奉誠可汗(790年 - 795年)
- 懐信可汗(795年 - 805年)
- 滕里野合倶録毘伽可汗(805年 - 808年)
- 保義可汗(808年 - 821年)
- 崇徳可汗(821年 - 824年)
- 昭礼可汗(824年 - 832年)
- 彰信可汗(832年 - 839年)
- 㕎馺可汗[27](839年 - 840年)
- 烏介可汗(841年 - 846年)
- 遏捻可汗(846年 - 848年)
甘州(河西)ウイグル王国
- 権知可汗、甘沙州回鶻可汗、可汗王
- 英義可汗(仁美)(? - 924年)
- 烏母主可汗(狄銀、テギン)(924年 - 926年)…仁美の弟
- 阿咄欲(926年 - 939年)
- 順化可汗(仁裕、奉化可汗)(926年 - 959年)…仁美の弟
- 景瓊(959年 - ?)…仁裕の子
- 夜落紇密礼遏(? - ?)
- 禄勝(? - ?)
- 夜落紇(夜落隔、忠順保徳可汗王)(? - 1016年)
- 夜落隔帰化(1016年 - ?)
- 夜落隔通順(帰忠保順可汗王)(? - ?)
西州(天山)ウイグル王国
- 克韓王
- ウルグ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・アルプ・キュリュグ・ビルゲ・懐建・カガン(龐特勤)(844年 - 856年頃)
- トルテュンチュ・イル・ビルゲ・テングリ・イリグ(? - 954年 - ?)
- トルテュンチュ・アルスラン・ビルゲ・テングリ・イリグ・シュンギュリュグ・カガン(? - 983年 - ?)
- ボギュ・ビルゲ・テングリ・イリグ(996年 - ?)
- キュン・アイ・テングリテグ・キュセンチグ・コルトゥレ・ヤルク・テングリ・ボギュ・テングリケニミズ(? - 1007年 - ?)
- キュン・アイ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・バヤン・オルナンミシュ・アルピン・エルデミン・イル・トゥトミシュ・アルプ・アルスラン・クトゥル・キョル・ビルゲ・クチャ・ハン( 1017年 - 1024年頃)
- キュン・アイ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・バヤン・オルナンミシュ・アルピン・エルデミン・イル・トゥトミシュ・ウチュンチュ・アルスラン・ビルゲ・ハン(? - ?)
- テングリ・ボギュ・イル・ビルゲ・アルスラン・テングリ・ウイグル・テルケニミズ(? - 1067年 - ?)
- 喝里・ハン(1127年頃 - ?)
- 華勒哥・王(1130年頃 - ?)
- 月仙・帖木児・亦都護(? - 1209年頃)
- モンゴル領
- バルチュク・アルトゥン・亦都護(1209年頃 - 1229年)…月仙帖木児の子、1209年モンゴルに帰順
- キシマイン・亦都護(1229年 - 1241年)…アルトゥンの子
- サリンディ・亦都護(1242年 - 1252年)…キシマイン弟
- オグリュンチ(1252年 - 1257年)…サリンディ弟
- マムラク・テギン(1257年 - 1265年)…オグリュンチの子
- コスカル(1266年 - 1280年)…マムラクの子
- ネギュリル・テギン(1280年 - 1318年)…コスカルの子、1308年大元封-亦都護、1316年高昌王
- 『亦都護高昌王世勲碑』に見えるイドゥク・クト
- テムル・ブカ(1318年 - 1329年)…ネギュリルの長子、高昌王
- センギ・テギン(1329年 - 1331年)…テムル・ブカの弟、高昌王
- タイピンドゥ(1331年 - ?)…センギ・テギンの弟
- エル・テムル(? - 1353年)
- セング・亦都護(1353年 - ?)
- 『大宗正府也可札魯火赤高昌王神道碑』に見える高昌王
- 月魯哥
- 14世紀前半『ウイグル語印刷仏典奥書』に現れるイドゥク・クト(亦都護)[28]
- チャガタイ汗国領イドゥク・クト(亦都護)
東トルキスタン・イスラーム共和国
- 大統領
東トルキスタン共和国
- 主席
- アリー・ハーン・トラ(イリハン・トレ)(1944年 - 1947年)
- 新疆省連合政権主席
- イリ政権
- アフメトジャン・カスィミ(1948年 - 1949年)
脚注
- ^ 『魏書』太祖武帝記・列伝第九十一 高車、『北史』列伝第八十六 高車
- ^ a b 『新唐書』列伝第一百四十二上 回鶻上
- ^ 『隋書』列伝第四十九 北狄、『北史』列伝第八十七 鉄勒
- ^ a b 『旧唐書』列伝第一百四十五 迴紇
- ^ a b 『新唐書』列伝第一百四十二上 回鶻上、列伝第一百四十二下 回鶻下
- ^ 『テス碑文』。「」は右から左へ読む。
- ^ " اوغوز پسر قرا خان پسز ديب باقوى پسر يافِث پسر نوح عليه السّلام Ūghūz pisar-i Qarā-Khān pisar-i Dīp Bāqūy pisar-i Abūlja Khān Yāfith pisar-i Nūḥ `alaihi al-salam."(Jāmiʿ al-tavārīkh/Али-Заде, p.331; Jāmiʿ al-tavārīkh/M. Rawshan & M. Mūsavī, vol. 1., p. 138.)
- ^ Jāmiʿ al-tavārīkh/Али-Заде, p.331; Jāmiʿ al-tavārīkh/M. Rawshan & M. Mūsavī, vol. 1., p. 138.
- ^ on はテュルク語で数詞の「10」の意味で、tuγuz は同じく数詞の「9」の意味である。
- ^ M. Rawshan & M. Mūsavī,本に従う。Али-Заде本本文では最初のアリフにはシャクルが振られていないので「アルグン(Arghūn)」とも読めそうだが、Али-Заде本335頁註3によると اورقون ūrghūnとしている写本もあるため、M. Rawshan & M. Mūsavī,本の読みに従った。
- ^ Jāmiʿ al-tavārīkh/Али-Заде, p.331-332; Jāmiʿ al-tavārīkh/M. Rawshan & M. Mūsavī, vol. 1., p. 139-140. ; ドーソン『モンゴル帝国史』第1巻(訳注:佐口透)平凡社、1968年、326頁。
- ^ Tārīkh-i Jahān-gushā/Qazwíní, p. 40-41; Tārīkh-i Jahān-gushā/Boyle, p. 55-57 ; ドーソン『モンゴル帝国史』第1巻(訳注:佐口透)平凡社、1968年、320-321頁。
- ^ 間野英二「中央アジアの歴史」講談社
- ^ 『魏書』列伝第九十一、『北史』列伝第八十六
- ^ 『魏書』、『北史』
- ^ 《『魏書』道武帝紀》「390年に道武帝が北伐を行って高車袁紇部を大いに破り、多数の奴隷と馬牛羊20万頭余を得る」
- ^ 『元朝秘史』による
- ^ 「世界征服者の歴史」
- ^ 『世界征服者の歴史』や『集史』など
- ^ 新疆ウイグル自治区参照
- ^ 新疆における歴史とその研究状況|新疆研究情報|新疆研究サイト
- ^ 産児制限と中絶・不妊手術の強制
- ^ 杉山正明『遊牧民から見た世界史』
- ^ 『キョル・テギン碑文』
- ^ 『テス碑文』,『タリアト碑文』,『シネ・ウス碑文』,『カラ・バルガスン碑文』
- ^ 村上正二が提唱。
- ^ 「㕎」は「厂+盍」と書く。
- ^ 中村健太郎「14 世紀前半のウイグル語印刷仏典の奥書に現れる「Könčög イドゥククト王家」をめぐって」『内陸アジア言語の研究』第XXIV号(2009年6月)。
参考資料
- 『魏書』(列伝第九十一 高車)
- 『隋書』(列伝第四十九 北狄)
- 『北史』(列伝第八十六 高車、列伝第八十七 鉄勒)
- 『旧唐書』(列伝第一百四十五 迴紇)
- 『新唐書』(列伝第一百四十二上 回鶻上、列伝第一百四十二下 回鶻下)
- 『旧五代史』(外国列伝二)
- 『新五代史』(四夷附録第三)
- 『宋史』(列伝第二百四十九 外国六)
- 三上次男・護雅夫・佐久間重男『人類文化史4 中国文明と内陸アジア』(講談社、1974年)
- コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン(訳注:佐口透)『モンゴル帝国史1』(平凡社、1976年)
- 榎一雄『講座敦煌2 敦煌の歴史』(大東出版社、1980年、ISBN 13200303074384)
- 山田信夫『北アジア遊牧民族史研究』(東京大学出版会、1989年、ISBN 4130260480)
- 小松久男『世界各国史4 中央ユーラシア史』(山川出版社、2005年、ISBN 463441340X)
- 森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』(講談社、2007年、ISBN 9784062807050)
- 楊経敏『回紇史』(広西師范大学出版社、2008年、ISBN 978-7-5633-7451-9)
- アター=マリク・ジュワイニー『世界征服者の歴史(Tārīkh-i Jahān-gushā)』
- (ed.) Mírzá Muḥammad Qazwíní, The Taʾríkh-i-jahán-gushá of ʿAláʾu ʾd-Dín ʿAṭá Malik-i-Juwayní, vol. 1, (Layden, 1912)
- (tr.) John Andrew Boyle, The History of the World-Conqueror by ʿAla-ad-Din ʿAta-Malik Juvaini, vol. 1, (Manchester, 1958)
- ラシードゥッディーン・ハマダーニー『集史』(Jāmiʿ al-tavārīkh)
- (ed.) А.А. Али-Заде, Джа̄миʿ ат-тава̄рӣх̮, том. 1. часть. 1, (Москва, 1968)
- (ed.) Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsavī, Jāmiʿ al-tavārīkh, (Tihrān, 1373 [1994 or 1995] )