「事故のてんまつ」の版間の差分
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*川端が1970年(昭和45年)5月に[[長野県]][[南安曇郡]][[穂高町]](現・[[安曇野市]])に招聘された際に、[[植木屋]]「庭繁」(実際の店名は「アルプス園」)の娘として働いていた縫子と出会い、[[盆栽]]などを川端家に配達して来た縫子が川端家の[[家政婦]]として働くことになったのは事実であるが、本作に書かれているように、川端が嫌がる縫子を何度も何度も勧誘したということはなく、実際には、人手の足りない川端家に、もう1人家政婦を求めていた妻の秀子が、縫子の父親(血は繋がってない)に依頼し、名誉なことだと思った父親が縫子を説き伏せたことが、父親本人により証言されている<ref name="morimoto"/>。 |
*川端が1970年(昭和45年)5月に[[長野県]][[南安曇郡]][[穂高町]](現・[[安曇野市]])に招聘された際に、[[植木屋]]「庭繁」(実際の店名は「アルプス園」)の娘として働いていた縫子と出会い、[[盆栽]]などを川端家に配達して来た縫子が川端家の[[家政婦]]として働くことになったのは事実であるが、本作に書かれているように、川端が嫌がる縫子を何度も何度も勧誘したということはなく、実際には、人手の足りない川端家に、もう1人家政婦を求めていた妻の秀子が、縫子の父親(血は繋がってない)に依頼し、名誉なことだと思った父親が縫子を説き伏せたことが、父親本人により証言されている<ref name="morimoto"/>。 |
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*本作の中では、縫子や、川端の過去の恋人・[[伊藤初代]]が[[被差別部落]]出身者とされ、川端自身もそうであるかのような記述があるが、そ |
*本作の中では、縫子や、川端の過去の恋人・[[伊藤初代]]が[[被差別部落]]出身者とされ、川端自身もそうであるかのような記述があるが、川端自身については、語り手「縫子」がそうではないかと思ったのを、北条氏の子孫であるという系図を掲げて臼井は否定している。縫子の実母や実父の出身地は別の地域や県であり、川端や伊藤初代の[[戸籍]]や[[系譜]]は、森本が弁護士を用いて調査しているが、森本は同時に、「縫子」の養家が被差別の家であると『文芸日女道』532号の「巻頭言」に記しており、著作では臼井を攻撃するためにこのことを隠蔽している<ref name="morimoto"/><ref>[http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20121003 猫を償うに猫をもってせよ:小谷野敦]</ref>。 |
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[[森本穫]]は、このように臼井が事実をきちんと調べておらず、捻じ曲げている点があることに触れて、『事故のてんまつ』を臼井の晩節を汚した著書であると非難している<ref name="morimoto"/>。なお森本は、縫子本人に2012年(平成24年)時点で接触を試みているが、縫子は面談取材を一切断わり、本作について、「その小説の中の女性と自分とは無関係である」とし、「ただ一ついえることは、私に川端先生が執着したかどうか、わからない、ということです」と夫(当時付き合っていた恋人)を通じて伝えている<ref name="morimoto"/>。 |
[[森本穫]]は、このように臼井が事実をきちんと調べておらず、捻じ曲げている点があることに触れて、『事故のてんまつ』を臼井の晩節を汚した著書であると非難している<ref name="morimoto"/>。なお森本は、縫子本人に2012年(平成24年)時点で接触を試みているが、縫子は面談取材を一切断わり、本作について、「その小説の中の女性と自分とは無関係である」とし、「ただ一ついえることは、私に川端先生が執着したかどうか、わからない、ということです」と夫(当時付き合っていた恋人)を通じて伝えている<ref name="morimoto"/>。 |
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=== 意義のある点 === |
=== 意義のある点 === |
2015年11月28日 (土) 07:38時点における版
『事故のてんまつ』(じこのてんまつ)は、臼井吉見による中編小説。筑摩書房の雑誌『展望』1977年(昭和52年)5月号に一挙掲載され[1]、同年5月30日に筑摩書房より単行本刊行された[2]。
1972年(昭和47年)4月16日に自殺したノーベル文学賞受賞作家・川端康成の自殺の真相を明らかにする、と新聞広告ではあおられたが、実名はなく、家政婦として大作家に雇われた信州の「鹿沢縫子」(仮名)という女性の語りの形式をとり、縫子がその作家にいたく可愛がられた様子と、1年ほどの務めののち、縫子が辞めて信州へ帰ると言った翌日に作家が自殺するというのが前半で、後半は縫子の語りによる「川端康成論」になっている。
裁判沙汰
『展望』は増刷するほどに売れたが、川端家(未亡人・秀子、養女・政子、女婿・香男里)は筑摩書房に苦情を申し入れた。死者の名誉権は成立しないというのが通説だったが、川端家は秀子の名誉も毀損されたと主張、数次の準備書面のやりとりがあった[3]。
また同作では、縫子を被差別部落出身者とし、川端自身もそうであるかにとれる記述があったため、部落解放同盟が介入して筑摩・臼井に抗議声明を出した[4]。筑摩書房は差別にかかわる個所を削除して単行本として刊行しベストセラーとなったが、川端家は東京地方裁判所に提訴した。臼井は、解放同盟の圧力もあり、8月に川端家と和解し、本作は絶版とされた[3]。
週刊誌、女性週刊誌、月刊誌などで多くの記事が出たが、川端家側は細かな事実の間違いを指摘しつつ、家政婦の存在は否定せず、臼井の記述がある程度事実であることも否定しなかった。武田勝彦など川端研究者は、臼井を批判する側に回った[3]。
同年10月、城山三郎の『落日燃ゆ』の登場人物のモデル(故人)の遺族が名誉棄損で民事提訴していた裁判で、故人の名誉棄損は事実に反するのでなければ成立しないという判例が出た。
評価
事実との違い
『事故のてんまつ』に書かれていることと、実際の事実関係や経緯には違いがあり、臼井が川端を批判したいがために、脚色や誇張がされている部分が多々あることが、「鹿沢縫子」(仮名)や、その家族、地元の周辺人物からの取材で検証されている[5]。その中の主なものを以下に挙げる。
- 川端が1970年(昭和45年)5月に長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)に招聘された際に、植木屋「庭繁」(実際の店名は「アルプス園」)の娘として働いていた縫子と出会い、盆栽などを川端家に配達して来た縫子が川端家の家政婦として働くことになったのは事実であるが、本作に書かれているように、川端が嫌がる縫子を何度も何度も勧誘したということはなく、実際には、人手の足りない川端家に、もう1人家政婦を求めていた妻の秀子が、縫子の父親(血は繋がってない)に依頼し、名誉なことだと思った父親が縫子を説き伏せたことが、父親本人により証言されている[5]。
- 本作の中では、縫子や、川端の過去の恋人・伊藤初代が被差別部落出身者とされ、川端自身もそうであるかのような記述があるが、川端自身については、語り手「縫子」がそうではないかと思ったのを、北条氏の子孫であるという系図を掲げて臼井は否定している。縫子の実母や実父の出身地は別の地域や県であり、川端や伊藤初代の戸籍や系譜は、森本が弁護士を用いて調査しているが、森本は同時に、「縫子」の養家が被差別の家であると『文芸日女道』532号の「巻頭言」に記しており、著作では臼井を攻撃するためにこのことを隠蔽している[5][6]。
森本穫は、このように臼井が事実をきちんと調べておらず、捻じ曲げている点があることに触れて、『事故のてんまつ』を臼井の晩節を汚した著書であると非難している[5]。なお森本は、縫子本人に2012年(平成24年)時点で接触を試みているが、縫子は面談取材を一切断わり、本作について、「その小説の中の女性と自分とは無関係である」とし、「ただ一ついえることは、私に川端先生が執着したかどうか、わからない、ということです」と夫(当時付き合っていた恋人)を通じて伝えている[5]。
意義のある点
しかし、縫子が川端の死の直後、通夜の時に父親に、「先生の自殺の原因はわたしにあるように思う」と打ち明けたことに関しては、関係者の証言などの総合的な観点からほぼ事実であろうと森本は検証し[5]、家政婦の契約を更新せずに信州に帰ることを断言したことで、川端を傷つけたという意識が縫子の中にあったことがうかがえるとしている[5]。そして縫子本人が、「ただ一ついえることは、私に川端先生が執着したかどうか、わからない」と伝え、川端が縫子に強い好意を持っていたことを完全否定はしていない点を森本は鑑みながら、川端という作家がその生涯において抱き続けた「美神」の少女像(伊豆の踊子、伊藤初代、養女・政子)が、晩年において「鹿沢縫子」に受け継がれていたという可能性は十分あると考察しており、その点では、「縫子」という存在に着眼し世に知らしめた臼井の小説は、虚偽や脚色の部分を割り引いて、川端文学研究の観点から意義があるものとしている[5]。