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相馬永胤

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相馬永胤

相馬 永胤(そうま ながたね、1850年12月25日嘉永3年11月22日) - 1924年大正13年)1月26日)は日本の政治家、法学者、経済学者、代言人横浜正金銀行頭取、専修学校創立者の一人・校長、専修大学創立者・初代学長。専修大学第7代総長の相馬勝夫は孫。

人物

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近江国犬上郡彦根尾末町で、彦根藩士の家に生まれる。この相馬氏は下総相馬氏の一族で、代々彦根藩(井伊家)に仕えていた。戊辰戦争では官軍として奮闘。明治維新後、安井息軒に学び、1870年に彦根藩費留学生(欧米視察員)として渡米。ミシガン州農学校で学ぶが、1873年文部省からの一斉帰国命令により止む無く一時帰国する。

再渡米後、1875年にコロンビア法律学校(現コロンビア大学ロー・スクール)に入学。同期の日本人留学生に、徳川御三卿の清水家当主徳川篤守鳩山和夫文部省の留学生監督に目賀田種太郎がいた。図書館で判例を精読し、模擬裁判では米人学生に伍して活躍した。その後、エール大学大学院に進学し、経済学を修めるとともに、田尻稲次郎と出会う[1]。内務省からアメリカの商業事情調査に派遣されていた神鞭知常や、ラトガース大学で経済学を学んでいた駒井重格とも出会う。

再渡米中の間には法学徒のクラブ「日本法律会社」(専修学校の土台ともいわれる)や、さまざまな学問分野の留学生による学術クラブ「興学社」の結成に関わるなど、社交的な人物であった。

1879年に帰国後は、福澤諭吉や目賀田と親しくし、慶應義塾夜間法律科の初代講師となった。その後、1880年6月に司法省附属代言人(弁護士)への就任を経て、同年9月に田尻・目賀田・駒井と共に、専修学校(後の専修大学)を創立。初代校長ならびに初代学長を勤めた。

なお、司法省附属代言人(弁護士)は、最初の三人のうちの一人であった。

また、横浜正金銀行(後の三菱UFJ銀行)の取締役(1882年1888年1890年1924年)、同銀行内外法律顧問(1888年)、頭取1897年1906年)を歴任した。墓所は青山霊園(1イ10-5)

略歴

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  • 1850年 生まれる
  • 1870年 彦根藩費留学生(欧米視察員)として渡米
  • 1873年 文部省からの帰国命令により一時帰国
  • 1875年 コロンビア法律学校入学。卒業後はイェール大学の大学院へ進学
  • 1879年 帰国。慶應義塾夜間法律科の講師となる
  • 1880年
    • 6月 司法所附属代言人に就任
    • 9月 専修学校創立。初代校長に就任
  • 1881年 横浜始審裁判所判事に就任
  • 1882年 横浜正金銀行の官選取締役に就任(~1888年)し、外国公債の募集や同銀行のロンドン支店開設などに尽力
  • 1887年 東京高等商業学校で法律を講じる(~1890年)
  • 1888年 横浜正金銀行の内外法律顧問に就任
  • 1890年
    • 横浜正金銀行の取締役に再就任(~1924年)
    • 第1回衆議院議員選挙に郷里の滋賀県から出馬し、当選
  • 1891年 衆議院議員を辞任(2月27日[2]
  • 1897年 横浜正金銀行の頭取に就任(~1906年)
  • 1913年 専修学校を私立専修大学と改めるにあたり、初代学長に就任
  • 1922年 文部省の学制頒布50年記念祝典にて、専修学校を創立した田尻とともに「教育功労者」として表彰される
  • 1924年 尿毒症のため沼津の別荘で歿する[3]

栄典

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位階
勲章

著書

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  • 『英米売買法』
  • 『米国訴訟法』

関連人物

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脚注

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  1. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、605頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  2. ^ 『官報』第2297号、明治24年2月28日。
  3. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)16頁
  4. ^ 『官報』第5077号「叙任及辞令」1900年6月7日。
  5. ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
  6. ^ 『官報』第3428号「叙任及辞令」1924年1月30日。
  7. ^ 財界の実力

外部リンク

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先代
園田孝吉
横浜正金銀行頭取
第6代:1897年 - 1906年
次代
高橋是清