コンテンツにスキップ

刀伊の入寇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Auf (会話 | 投稿記録) による 2024年9月13日 (金) 13:14個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (誤字修正)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

刀伊の入寇
(といのにゅうこう)
戦争:刀伊の入寇
年月日寛仁3年3月27日 - 4月13日
ユリウス暦1019年5月4日 - 5月20日
場所日本の旗 日本 壱岐対馬九州北部
結果:日本の勝利
対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退し、後に高麗 水軍により一掃される。
交戦勢力
大宰府 女真の一派とみられる集団を主体とした海賊
指導者・指揮官
藤原理忠 
藤原隆家
藤原蔵規
大蔵種材
平致行
平為賢
前肥前介源知など[1]
不明
戦力
数百~数千名 約3,000人

刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)3月末から4月にかけて、女真の一派とみられる集団を主体とした海賊壱岐対馬を襲い、更に九州に侵攻した事件[2]刀伊の来寇ともいう。

名称

刀伊(とい)とは、高麗語高麗以東の夷狄(いてき)である東夷(とうい)を指すtoiに、日本の文字を当てたとされている[3]

15世紀訓民正音発布以降の、ハングルによって書かれた書物では(そのまま「トイ」)として表れる[4]

史料

この事件に関しては『小右記』『朝野群載』等が詳しい。朝鮮の史書『高麗史』などにはほとんど記事がない。

経緯

日本沿岸での海賊行為頻発

9世紀から11世紀にかけての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前筑後肥前肥後薩摩の九州沿岸である。

侵攻の主体

刀伊に連行された対馬判官長嶺諸近は賊の隙をうかがい脱出、連れ去られた家族の安否を心配して密かに高麗に渡り情報を得た[5]。長嶺が聞いたところでは、高麗は刀伊と戦い撃退したこと、また日本人の捕虜300人を救出したこと、しかし長嶺の家族の多くは殺害されていたこと、侵攻の主体は高麗ではなく刀伊であったこと[5]などの情報を得た。

日本海沿岸部における 10 - 13世紀までの女真族

「刀伊の入寇」の主力は女真であったと考えられている。女真とは、12世紀を、後の17世紀には満洲族として後金を経てを建国する民族である。近年の発掘によると、10世紀から13世紀初頭にかけて、アムール川水系および特に現在のウラジオストクからその北側にかけての沿海州の日本海沿岸部には女真族の一派が進出していた時期で、女真系の人々はアムール川水系と日本海北岸地域からオホーツク海方面への交易に従事していたものと考えられている[6][7]。10世紀前後に資料に現れる東丹国や熟女直[注釈 1]の母体となった人々で、当時ウラジオストク方面から日本海へ進出したグループのうち、刀伊の入寇を担った女真族と思われる集団は日本海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たグループであったと考えられる[8][9]

13世紀初頭に蒲鮮万奴中国東北部大真国を建てたが、これら日本海沿岸部に進出していた女真もこれに加わっており、この時期にウラジオストク周辺や沿海州周辺の日本海側には多数の山城が建設された。しかし、日本海側沿岸部に進出した山城群は1220年代にモンゴル帝国軍によってことごとく陥落したようで、近年の発掘報告によれば13~14世紀は沿海州での山城跡や住居址などの遺構はその後使用された形跡がほとんど確認できず、これによって日本海沿岸部に進出していた女真グループは実質壊滅ないし大幅に減衰したと思われる。替わってモンゴル帝国に早期に従属したアムール川水系の女真系が明代まで発展し、13世紀半ば以降の北東アジアからオホーツク海方面の交易ルートの主流は、日本海沿岸部から内陸のアムール川水系へ大きくシフトしたものと思われる[9]。また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に日本側は北方からの蒙古の来襲を警戒していたことが知られているが、これに反して元朝側の資料でアムール川以東の地域の地理概念上に日本は含まれていなかったようである。この認識の差異も内陸のアムール水系への交易路のシフトが大きく原因していることが推測されている[9]

刀伊の入寇までの北東アジア情勢

926年契丹によって渤海が滅ぼされ、さらに985年には渤海の遺民が鴨緑江流域に建てた定安国も契丹の聖宗に滅ぼされた。当時の東北部にいた靺鞨・女真系の人々は渤海と共存・共生関係にあり、豹皮などの産品を渤海を通じて宋などに輸出していた。10世紀前半の契丹の進出と交易相手だった渤海が消失したことで女真などが利用していた従来の交易ルートは大幅に縮小を余儀なくされ、さらに991年には契丹が鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざされてしまった。女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からである。

1005年高麗で初めて女真による沿岸部からの海賊活動が報告されるようになり、1018年には鬱陵島にあった于山国がこれらの女真集団によって滅ぼされた。1019年に北九州に到達・襲撃するようになったいわゆる「刀伊の入寇」に至る女真系の人々の活動は、これら10世紀から11世紀にかけて北東アジア全体の情勢の変化によってもたらされたものと考えられる[10]

しかし、当時の女真族の一部は高麗朝貢しており、女真族が遠く日本近海で海賊行為を行うことはほとんど前例がなく、日本側に捕らわれた捕虜3名がすべて高麗人だったことから、権大納言源俊賢は、女真族が高麗に朝貢しているとすれば、高麗の治下にあることになり、高麗の取り締まり責任が問われるべきであると主張した[11]。また『小右記』でも海賊の中に新羅人が居たと述べている[12]

対馬への襲撃

寛仁3年3月27日(ユリウス暦1019年5月4日)、刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火、略奪を繰り返した。対馬の被害は36人が殺され、346人が拉致されている。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。

壱岐への襲撃

賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。

藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の下、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼した。島民148名が虐殺され、女性239人が拉致された。生存者はわずか35名。

筑前・肥前への襲撃

その後、刀伊勢は筑前国怡土郡志麻郡早良郡を襲い、4月9日には博多を襲った。博多には警固所と呼ばれる防御施設があり、この一帯の要衝であった。刀伊勢は警固所を焼こうとするものの、大宰権帥藤原隆家と大宰大監大蔵種材らによって撃退された[13]。博多上陸に失敗した刀伊勢は4月13日(5月20日)に肥前国松浦郡を襲ったが、源知(松浦党の祖)に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退した[5]。大宰府の軍は船で刀伊の追撃にあたったが、隆家は壱岐・対馬までにとどめ、朝鮮半島まで追撃することを禁じている[14]。『大鏡』の記述として、九州の武士だけでなく、大宰府文官にも武器を持たせて戦わせたとある。

高麗沿岸への襲撃

藤原隆家らに撃退された刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行った。『小右記』には、長嶺諸近と一緒に帰国した女10名のうち、内蔵石女と多治比阿古見が大宰府に提出した報告書の内容が記されており、それによると、高麗沿岸では、毎日未明に上陸して略奪し、男女を捕らえて、強壮者を残して老衰者を打ち殺し海に投じたという[15]。しかし賊は高麗の水軍に撃退された。このとき、拉致された日本人約300人が高麗に保護され、日本に送還された[16]

高麗との関係

上述の虜囚内蔵石女と多治比阿古見は、高麗軍が刀伊の賊船を襲撃した時、賊によって海に放り込まれ高麗軍に救助された。金海府で白布の衣服を支給され、銀器で食事を給されるなど、手厚くもてなされて帰国した[15]。しかし、こうした厚遇も、却って日本側に警戒心を抱かせることとなった。『小右記』では「刀伊の攻撃は、高麗の所為ではないと判ったとしても、新羅は元敵国であり、国号を改めたと雖もなお野心の残っている疑いは残る。たとえ捕虜を送って来てくれたとしても、悦びと為すべきではない。勝戦の勢いを、便を通ずる好機と偽り、渡航禁止の制が崩れるかも知れない」と、無書無牒による渡航を戒める大宰府の報告書を引用している[17]

日本はとの関係が良好になっていたため、外国の脅威をあまり感じなくなっていたようである。日本と契丹(遼)はほぼ交流がなく、密航者は厳しく罰せられた。

被害

大宰府の報告によれば、二週間の戦闘期間中に364名が殺害され、1280名が拉致され、牛馬の被害は355頭に及んだという[18]。 女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったという[19]

対馬の被害

人的被害は、対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人(うち男102人、女・子供244人)であった。またこの時連行された人の内、270人ほどは高麗に救助され、対馬に帰還した[20]

物的被害としては対馬銀山が焼損した。

壱岐の被害

壱岐守藤原理忠も殺害され、島民の男44人、僧侶16人、子供29人、女59人の、合計148人が虐殺された[20]。さらに、女性は239人が連行された[20]。壱岐に残った民は、諸司9人、郡司7人、百姓19人の計35人であった[20]。この被害は壱岐全体でなく、壱岐国衙付近の被害とみられる[20]

朝廷の対応

権帥藤原隆家は4月7日と4月8日に報告書を送り、京都に届いたのは10日後、4月17日のことであり[21]、4月18日には恩賞を約した勅符が発給されているが[22]、主要な戦闘はすでに終結していた。また隆家は親交のあった大納言藤原実資にも私信の形で連絡を行っている[14]

4月18日には報告を受けての陣定が開かれた。右大臣藤原公季山陰道山陽道南海道の警固強化を提案したが、実資は新羅の入寇の際の先例を踏まえて北陸道をこれに加えるように述べている[23]

6月29日に行われた陣定では、恩賞が約された勅符が出されたのは戦闘の後だったため、藤原行成藤原公任が恩賞不要の意見を述べた。これに対し藤原実資は寛平6年(894年)の新羅の入寇の際の例を上げ、今後のことを考え、約束がなくても恩賞を与えるべきと述べた。これを受け、本来与える必要はないが恩賞を与えることが決議されている[22]。恩賞を受けた例としては、戦闘で活躍した大蔵種材が壱岐守に叙任されている[24]。またこの際には、「刀伊に捕らえられた」という高麗人捕虜の証言についても検討されている[25]

賊の主体が高麗人でないと判明したのは、7月7日(8月10日)、連れ去られた家族の消息を知るために高麗に密航していた対馬判官代長嶺諸近が帰国し、事情を報じたことによる[23]。しかしこれを朝廷に取り次いだ大宰府は、敵国でありしばしば侵攻を行ってきた新羅と同一視した高麗への警戒を訴え、高麗側が友好姿勢を見せても擬態ではないかとしている[26]。8月末から9月にかけ、高麗虜人送使の鄭子良が保護した日本人270人を同行して対馬を訪れた[26]

9月22日には陣定において対応が検討されることとなったが、太閤藤原道長新羅使が貢納を行ってきた際の先例を踏まえ、米や絹を与えて帰国させるべきだと実資に伝えている[26]。陣定では大宰府に高麗使を呼ぶことなどが決定されたが、陣定に出ていた公卿からは日本側の情勢を知られることを警戒し、返礼の品を持たせて早く返すべきであるという意見が出ていたという[26]。高麗使は三艘の舟に乗って大宰府を目指したが、前大納言源俊賢が危惧していたように20人程を乗せた一艘の船が沈没している[26]。高麗使は翌年2月、大宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持ち、帰国した。藤原隆家はこの使者の労をねぎらい、黄金300両を贈ったという[注釈 2][27]

藤原隆家と九州武士団

藤原隆家は中関白家出身の公卿であり、長和2年(1013年)頃から眼病[注釈 3]に悩んでいた。実資の勧めにより大宰府に来訪する医者の診察を受けるため、大宰府行きを要望するようになった。翌長和3年(1014年)に大宰大弐が欠員となったため、その後任となることを要望し、大宰権帥を拝命して大宰府に出向していた[18]。専門の武官ではなかったが、撃退の総指揮官として活躍したことで武名を挙げることとなった。『大鏡』では「やまとごゝろかしこくおはする人にて」と評されている[28]。帰京後には大臣・大納言にするべきという声もあったとされるが、しばらく参内を見合わせていたため実現しなかったという[28]。『大鏡』によれば太閤藤原道長は、隆家を「すてぬもの(捨て置けない者)」と評したという。目加田さくをは道長が隆家を評価しながらも実権を与えず、都に呼び戻すことで九州の武士団とのつながりを断つ、いわば飼い殺しにしようとしたものだとしている[29]

討伐に活躍したと記録に見える主な者として、大蔵種材・光弘、藤原明範・助高・友近・致孝、平致行(致光?)、平為賢(為方・大掾為賢・伊佐為賢)・為忠(為宗)、財部弘近・弘延、紀重方、文屋恵光(忠光)、多治久明、源知、僧常覚らがいるが、寄せ集めに近いものであったといわれる。源知はのちの松浦党の先祖の1人とみられ、その地で賊を討って最終的に逃亡させる活躍をした。大宰府は戦功のあったものとして11名を挙げているが、明確に恩賞があったことが記録されているのは大蔵種材のみである[28]。『大鏡』では隆家を除く部下や武士団は皆恩賞に預かったとされる[28]

なお、中世の大豪族菊池氏は藤原隆家の子孫と伝えているが、石井進は在地官人の大宰少弐藤原蔵規という人物が実は先祖だったろう、との見解を示している。

九州・東国武士団は鎮西平氏とも呼ばれ、このうち伊佐為賢(平為賢)が肥前国鹿島藤津荘に土着し肥前伊佐氏となった。薩摩平氏はその後裔と称している。


脚注

注釈

  1. ^ 女真のうち、黒水靺鞨に服属し中国化が進んでた渤海人のグループ。対して、ツングース系本来の生活スタイルを守っていたグループは生女真と呼ばれる。
  2. ^ このことは『大鏡』にも記述がみられるが、高麗ではなく、旧称の新羅と記述している。
  3. ^ 原因は『御堂関白記』によれば「突目」、すなわち先の尖った物による外傷のため。

出典

  1. ^ 「小右記」
  2. ^ 『刀伊の入寇』/関幸彦インタビュー”. 中公新書 (2022年3月17日). 2024年5月20日閲覧。
  3. ^ 瀬野ほか 1975, p. 44.
  4. ^ 石井 2010, p. 93.
  5. ^ a b c 瀬野ほか 1975, p. 45.
  6. ^ 蓑島 2006, pp. 76–99.
  7. ^ 中村 2006, pp. 100–121.
  8. ^ 蓑島 2006, p. 91.
  9. ^ a b c 中村和之 「『混一疆理歴代国都之図』にみえる女真の活動」 (混一疆理歴代国都之図研究プロジェクト 国際シンポジウム「混一疆理歴代国都之図とその周辺」2012年12月8日 の講演より)
  10. ^ 蓑島 2006, pp. 88–90.
  11. ^ 土田 1965, p. 369.
  12. ^ 小右記』5巻140頁。寛仁3年4月25日
  13. ^ 佐藤 1994, p. 40.
  14. ^ a b 村井章介 1996, p. 62.
  15. ^ a b 小右記』5巻180頁。寛仁3年8月3日
  16. ^ 瀬野ほか 1975, p. 46.
  17. ^ 小右記』5巻177頁。寛仁3年8月3日
  18. ^ a b 勝倉壽一 2003, p. 15.
  19. ^ 寛仁三年四月十七日~同年七月十三日条。大日本資料2-14、213~312頁。[要出典]福田 1995, 戦争とその集団
  20. ^ a b c d e 瀬野ほか 1975, pp. 45–46.
  21. ^ 小右記』 寛仁3年4月17日条
  22. ^ a b 尾崎 1998, p. 36.
  23. ^ a b 村井章介 1996, p. 67.
  24. ^ 大蔵種材(おおくらのたねき)とは - コトバンク、朝日日本歴史人物事典の解説、朧谷寿執筆項
  25. ^ 尾崎 1998, p. 35.
  26. ^ a b c d e 村井章介 1996, p. 71.
  27. ^ 西川吉光「海民の日本史4」『国際地域学研究』第22号、東洋大学国際学部、2019年3月、93-122頁、ISSN 1343-9057NAID 120006629488 
  28. ^ a b c d 勝倉壽一 2003, p. 17.
  29. ^ 勝倉壽一 2003, p. 19.

参考文献

古典史料

現代文献

関連項目

外部リンク