イザベラ・オブ・アングレーム
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イザベラ・オブ・アングレーム Isabella of Angoulême | |
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イングランド王妃 | |
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在位 | 1200年8月24日 - 1216年10月18日/19日 |
別称号 | アングレーム女伯 |
出生 |
1188年 |
死去 |
1246年5月31日 フランス王国、フォントヴロー修道院 |
埋葬 | フランス王国、フォントヴロー修道院 |
配偶者 | イングランド王ジョン |
ユーグ10世・ド・リュジニャン | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | タイユフェル家 |
父親 | アングレーム伯エマール・タイユフェル |
母親 | アリックス・ド・クルトネー |
イザベラ・オブ・アングレーム(Isabella of Angoulême, 1188年 - 1246年5月31日)は、プランタジネット朝のイングランド王ジョンの2度目の妃。フランス語名はイザベル・ダングレーム(Isabelle d'Angoulême)。
生涯
[編集]父であるアングレーム伯エマール・タイユフェルとピエール1世・ド・クルトネーの娘アリックスとの間に一人娘として生まれ、1202年の父の死後にアングレーム女伯となった[1]。
ラ・マルシュ伯ユーグの息子ユーグ9世・ド・リュジニャンと婚約の身であったが、1200年8月24日にボルドー大聖堂でイングランド王ジョンと結婚した[1]。ジョンはアングレームを身内に抱き込むことで、フランスと甥のブルターニュ公アルテュール1世(アーサー・オブ・ブリタニー)支持のアンジュー、メーヌ、トゥルネー、それらと対峙する母アリエノールの所領アキテーヌとの間に楔を打つのが目的であったが、この強引な結婚が元となってポワチエで蜂起が起こった[2]。
1220年のジョンの死没後、イザベラはかつての婚約者ユーグ9世の息子ユーグ10世と再婚した[1]。1241年末に息子ヘンリー3世とユーグ10世を扇動してフランス王ルイ9世に反乱を起こしたが、鎮圧された。
1246年に死去した。遺体はフォントヴロー修道院に埋葬された[3]。
子女
[編集]最初の夫ジョンとの間に2男3女を儲けた[4]。
- ヘンリー3世(1207年 - 1272年)
- リチャード(1209年 - 1272年) - コーンウォール伯、神聖ローマ皇帝候補(統治はできなかった)。
- ジョーン(1210年 - 1238年) - スコットランド王アレグザンダー2世の王妃
- イザベラ(1214年 - 1241年) - 神聖ローマ皇帝兼シチリア王フリードリヒ2世の3度目の王妃
- エリナー(1215年 - 1275年) - ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルと結婚、後にシモン・ド・モンフォールと再婚。
2度目の夫ユーグ10世との間に5男4女を儲けた[5]。子女はイングランドの貴族となった。
- ユーグ11世(1221年 - 1250年) - アングレーム伯、ラ・マルシュ伯
- アイマー(1222年 - 1260年) - ウィンチェスター大司教
- アガーテ(1223年 - 1269年) - シャトーの領主ギヨーム・デ・ショヴィニと結婚
- アリス(1224年 - 1256年) - サリー伯ジョン・ド・ワーレンと結婚
- ギー(? - 1264年)
- ジョフロワ(? - 1274年)
- ウィリアム(1227年頃 - 1296年) - 初代ペンブルック伯
- マルグリット(1226年/1228年 - 1288年) - トゥールーズ伯レーモン7世と結婚
- イザベラ(1234年 - 1299年) - モーリス・ド・クランと結婚、ジョフロワ・ド・ランゴンと再婚
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Alison Weir, Britain's Royal Families, Vintage, 2008.
- 森護 『英国王室史話』 大修館書店、1986年
関連項目
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