アッティリオ・ロンバルド
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
ラテン文字 | Attilio LOMBARDO | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イタリア | |||||
生年月日 | 1966年1月6日(58歳) | |||||
出身地 | サンタ・マリーア・ラ・フォッサ | |||||
身長 | 175cm | |||||
体重 | 72kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 右 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1983-1985 | ペルゴクレーマ | 38 | (9) | |||
1985-1989 | クレモネーゼ | 141 | (17) | |||
1989-1995 | サンプドリア | 201 | (34) | |||
1995-1997 | ユヴェントス | 35 | (2) | |||
1997-1999 | クリスタル・パレス | 43 | (8) | |||
1999-2001 | ラツィオ | 33 | (2) | |||
2001-2002 | サンプドリア | 34 | (4) | |||
代表歴 | ||||||
1990-1997 | イタリア | 19 | (3) | |||
監督歴 | ||||||
1998 | クリスタル・パレス | |||||
2002-2006 | サンプドリア(リザーブ) | |||||
2006-2007 | キアッソ | |||||
2008 | カステルヌオーヴォ | |||||
2008-2009 | レニャーノ | |||||
2009 | スペツィア | |||||
2010-2012 | マンチェスター.C(アシスタントコーチ) | |||||
2012-2013 | マンチェスター.C(リザーブ) | |||||
2013-2014 | ガラタサライ(アシスタントコーチ) | |||||
2014-2015 | シャルケ(アシスタントコーチ) | |||||
2016- | トリノ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
アッティリオ・ロンバルド(Attilio LOMBARDO、1966年1月6日 - )は、イタリア・カンパニア州出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF。現在はトリノFCのアシスタントコーチを務める。
セリエAでは、UCサンプドリア、ユヴェントスFC、SSラツィオと異なる3つのクラブでタイトルを獲得した。代表では、メジャー大会には召集されなかったものの、19試合に出場した。
現役時代は、外見から「ポパイ」、体格とスタミナ、そして仕事率の良さから「ダチョウ」などのニックネームで呼ばれていた[1]。また、正確なクロスとゴール前での貢献度の高さでも知られていた[2]。
経歴
[編集]初期
[編集]1983年にUSペルゴクレーマの下部組織でキャリアをスタートした[3]。1985年からはセリエBのUSクレモネーゼに移籍した。当初は軍役もあって控え選手であったが、怪我人が出たことでポジションを得た[4]。
サンプドリア
[編集]1987年、クレモネーゼでの活躍が認められ、40億リラの移籍金でUCサンプドリアに移籍した[4]。ここでは、ファンからポパイのニックネームで親しまれた[4]。サンプドリアでは、ジャンルカ・ヴィアリ、ロベルト・マンチーニ、ピエトロ・ヴィエルコウッド、ジャンルカ・パリュウカ、ルート・フリットらとプレーし、1989-90シーズンのコッパ・イタリア決勝では、ディエゴ・マラドーナを擁するSSCナポリに4-0で勝利した。このシーズン、レギュラーを掴み、リーグ戦34試合で7得点を決めた[4]。カップウィナーズカップでは、ボルシア・ドルトムント、ASモナコ、RSCアンデルレヒトを破って優勝し、評価を高めた[1][3]。
翌1991シーズンには、スーペルコッパ・イタリアーナで前セリエA王者のローマを破ると、勢いそのままセリエAを制覇した。また、UEFAチャンピオンズカップでも決勝まで勝ち進んだが、決勝でヨハン・クライフ率いるFCバルセロナに敗れ、準優勝に終わった。1994年には、セリエAで8得点、コッパ・イタリアで5得点を挙げ、コッパ・イタリアの決勝では2得点を挙げて、チームの優勝に貢献した[1][3]。
ユヴェントス
[編集]1995年、前シーズンにセリエAを制したイタリアの強豪ユヴェントスFCに移籍した[1][3]。しかし、プレシーズンのボルシア・ドルトムント戦の怪我で、約4か月の離脱を強いられるなど、大きく出遅れた[4]。それでもセリエA、UEFAチャンピオンズリーグ、インターコンチネンタルカップ、UEFAスーパーカップなどで優勝した。しかし、在籍中は怪我に苦しみ、また、ディディエ・デシャンやアントニオ・コンテ、アンジェロ・ディ・リービオらとのポジション争いが激しかったため、散発的にしか出番を与えられず、2シーズンで51試合4得点に留まった[5]。
クリスタル・パレス
[編集]1997年、調子を落としていたロンバルドは、イングランドのクリスタル・パレスFCへ移籍した。彼はデビュー戦のエヴァートンFC戦でいきなり初ゴールを決め、移籍後すぐに中心選手として活躍した[4]。ここでは剥げ鷹の二ックネームで親しまれた[4]。同年11月、1998年3月には7連敗を記録するなど、苦戦が続いた[4]。チェアマンのマーク・ゴールドバーグによって、監督のスティーヴ・コッペルはディレクターに就任し、後任としてロンバルドがプレイングマネージャーに就任した[3]。32歳と2ヶ月8日での監督就任は、プレミアリーグ最年少記録だった[4]。
イタリア代表の試合で再び負傷してしまった。ロンバルドが怪我をした時点ではパレスは10位をマークしていたが、彼が復帰した4月の時点でパレスは最下位に沈んでいた。その後、復帰したロンバルドがホームで二つの決勝点をマークする活躍を見せたものの、パレスは二部のファーストディヴィジョン (現チャンピオンシップ)へと降格した[3]。
それでもロンバルドはチームに残ることを決め、新監督にはテリー・ヴェナブルズが就任した。しかし、厳しい財政事情から賃金が払えない状態となり、1999年1月、ロンバルドはスヴェン・ゴラン・エリクソン率いるSSラツィオに移籍した。2005年、ロンバルドはクリスタル・パレスの100周年を祝う企画の一環として、ファンによる投票で、わずか49試合の出場にも関わらず、センテナリーX1に選出された[3]。
晩年
[編集]ラツィオ移籍後は、サンプドリア時代のハイパフォーマンスを取り戻し、1999年にはカップウィナーズカップ 1998-99と1999 UEFAスーパーカップを、2000年にはセリエA、スーペルコッパ・イタリアーナ、コッパ・イタリアの三冠を獲得した[3]。その後2001年1月、1年半契約で、当時セリエBの古巣のサンプドリアに復帰し、2002年に引退した[4]。
イタリア代表
[編集]代表では、1990年から1997年の間にサッカーイタリア代表として19試合に出場し3得点を記録した。しかし、怪我の多さや、ロベルト・ドナドーニ、アンジェロ・ディ・リービオ、フランチェスコ・モリエーロ、ジャンルカ・ペッソットらとのポジション争いの激しさから、レギュラーとしての出番は限られ、メジャー大会には召集されなかった[3][6]。
引退後
[編集]引退後は指導者の道を進み、2002年からはサンプドリアのユースチームを指揮した。2006年6月からは、スイス2部のチャレンジリーグに所属するFCキアッソの監督に就任したが、モチベーションの欠如を理由に、2007年5月に辞任し[7]、その後、チームは3部に降格した。
2008年4月からは、セリエC2に所属するトスカーナ州のUSカステルヌオーヴォ・ガルファニャーナを指揮した[8]。2009年からはイタリア3部のACレニャーノの監督を務める[9]も、チームの降格を阻止することはできなかった。
2009年7月、イタリア4部のスペツィア・カルチョの監督に就任すると、3位と望外も躍進を遂げたにもかかわらず、10月に辞任した[10]。最終的にそのシーズン、スペツィアは3部に昇格した。
2010年7月からは、サンプドリア時代の同胞マンチーニが指揮するマンチェスター・シティのアシスタントコーチに就任[11]し、2012年からはユースチームの監督にも兼任した。しかし、2013年5月にマンチーニが解任されたことを受け、ロンバルドもその2日後に辞任した。
その後、2013年からはマンチーニが監督に就任したガラタサライのアシスタントコーチに、2014年10月からはイタリア代表での元チームメイトロベルト・ディ・マッテオが指揮するシャルケ04のアシスタントコーチをそれぞれ務めた。
タイトル
[編集]- セリエA(1):1990-1991
- コッパ・イタリア(2):1988-1989、1993-1994
- スーペルコッパ・イタリアーナ(1):1991
- UEFAカップウィナーズカップ(1):1989-1990
- セリエA(1):1995-1996
- スーペルコッパ・イタリアーナ(1):1995
- UEFAチャンピオンズリーグ(1):1995-1996
- UEFAスーパーカップ(1):1996
- インターコンチネンタルカップ(1):1996
- セリエA(1):1999-2000
- コッパ・イタリア(1):1999-2000
- スーペルコッパ・イタリアーナ(1):2000
- UEFAスーパーカップ(1):1999
- 個人
脚注
[編集]- ^ a b c d Stefano Bedeschi. “Gli eroi in bianconero: Attilio LOMBARDO” (Italian). Tutto Juve. 15 January 2015閲覧。
- ^ “Storie di calcio: Attilio "Popeye" Lombardo” (Italian). Storie di Calcio. 15 January 2015閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “MB – Meteore Bianconere: Attilio Lombardo” (Italian). Canale Juve.it. 15 January 2015閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “Attilio Lombardo, il 'Braccio di Ferro' del calcio che volava sulla fascia”. GOAL (2023年1月7日). 2023年9月20日閲覧。
- ^ “Attilio LOMBARDO” (Italian). Il Pallone Racconta. 15 January 2015閲覧。
- ^ “Nazionale in cifre: Lombardo, Attilio” (Italian). figc.it. FIGC. 24 April 2015閲覧。
- ^ Chiasso, Lombardo presenta le dimissioni
- ^ Bardelli, Paolo (24 April 2008). “UFFICIALE:Lombardo è il nuovo allenatore del Castelnuovo Garfagnana” (Italian). TuttoMercatoWeb 2008年4月24日閲覧。
- ^ “Attilio Lombardo:Ex Samp, Juve e Lazio sulla panchina del Legnano” (Italian). Yahoo! Sports Italia. (29 May 2008) 2008年5月29日閲覧。 [リンク切れ]
- ^ “Sampdoria legend Lombardo resigns as Spezia coach”. Tribalfootball.com. (13 October 2009) 2009年10月13日閲覧。
- ^ “Lombardo joins City coaching staff”. ESPNsoccernet (ESPN). (17 July 2010) 2010年7月17日閲覧。
- ^ “Italy - Coppa Italia Top Scorers”. RSSSF (4 June 2015). 29 October 2015時点のオリジナルよりアーカイブ。15 June 2015閲覧。
外部リンク
[編集]- アッティリオ・ロンバルド national-football-teams.com