シコ・ブアルキ
シコ・ブアルキ | |
---|---|
基本情報 | |
出生名 | フランシスコ・ブアルキ・ヂ・オランダ |
生誕 | 1944年6月19日(80歳) |
出身地 | ブラジル、リオデジャネイロ州リオデジャネイロ |
ジャンル | ボサノヴァ、サンバ、MPB、 |
職業 | 歌手、詩人、小説家、劇作家、映画監督 |
活動期間 | 1965年 - 現在 |
公式サイト | Official Site |
シコ・ブアルキ(Chico Buarque、本名フランシスコ・ブアルキ・ヂ・オランダ - Francisco Buarque de Hollanda シコはフランシスコの略称、1944年 6月19日 - , リオ・デ・ジャネイロ生まれ)はブラジルの詩人、歌手、音楽家、作曲家、劇作家、小説家である。
人物
[編集]名ソングライターとして名を馳せた他、著作のブダペストはプレミオ・ジャブチ(Prêmio Jabuti)というブラジルの文学賞を受賞した。ジョアン・ジルベルトの元妻ミウシャは彼の姉、またサンビスタのクリスチーナ・ブアルキや作曲家、政治家のアナ・ヂ・オランダは妹である。
シコは特権階級の家庭で育った。彼の父親、セルジオ・ブアルキ・ヂ・オランダ (Sergio Buarque de Hollanda)は有名な歴史家、社会学者で、彼のおじで辞書編集者であるアウレリオ・ブアルキ・ヂ・オランダの「アウレリオ」という名は、ブラジルでは著名な辞書の名である。 1964年に音楽家、そして作曲家としてデビューし、音楽祭やテレビのバラエティー番組に出演。デビューアルバムは郷愁的な悲しみ(いわゆるサウダーヂ)を根底とする、キャッチーなサンバであった。 シコは反政府的な活動によって、1968年に逮捕され、1969年にイタリアに亡命する。その後1970年にブラジルに戻り、彼の知名度を生かして、独裁政権へのプロテスト・ソングを制作しはじめる。このときの、若干ベールをかぶせたプロテスト・シングル "Apesar de Você" (In spite of you)は、どういうわけか軍の検閲の目をすり抜け、民主主義運動のアンセムとなった。10万枚が売れた後、結局弾圧の対象となり、すべて店頭から姿を消した。検閲にもかかわらず、オルリーのサンバ(Samba de Orly,1970年)やアコルダ・アモール(Acorda Amor、1974年)、ヴァイ・パッサー(Vai Passar)のような曲は、シコが反抗を続けていることを露骨に示すような作品だった。
1970年代から1980年代の間に、シコは、プロテスト作品をさらに制作するため、数冊の小説を発表している。
ポリチアマという自身のサッカーチームを所有し率いている。
作詞家・作曲家としての代表曲
[編集]- ヴィニシウス・ヂ・モライス、トッキーニョとの共作
- オルリーのサンバ (Samba de Orly)
- アントニオ・カルロス・ジョビンとの共作
- 黄金の歳月 (Anos Dourados / Looks Like December)
- 白黒のポートレイト (Retrato Em Branco E Preto)
- カロリーナ (Carolina)
- サンバと恋 (Samba E Amor)
- 映画「ドナ・フロールと二人の夫」のための作品
- いったい何だろう (O Que Será)
- 「オペラ・ド・マランドロ」(ブレヒトの三文オペラの舞台を大戦前夜のブラジルに移して製作。1985年に映画化され、邦題は「三文オペラ」として公開、また日本でも1990年に宮本亜門演出、田原俊彦主演で「マランドロ」として公演された)のための作品
- 私の愛しい人 (O Meu Amor)
- 愛のかけら (O Pedaço de mim)
- コパカバーナの女たち (Muchachas de Copacabana)
- ジェニと飛行船 (Geni e o Zepelin)
- テレジーニャ (Terezinha)
音楽以外の作品
[編集]
|
|
|