ホン・フアリスティ
ヨン・フアリスティ Jon Juaristi | |
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誕生 |
1951年3月6日(73歳) スペイン、バスク地方ビスカヤ県ビルバオ |
職業 | 言語学者・詩人・随筆家 |
言語 | スペイン語・バスク語 |
国籍 | スペイン |
ウィキポータル 文学 |
ヨン・フアリスティ・リナセロ(Jon Juaristi Linacero, 1951年3月6日 - )は、スペイン・ビルバオ出身の政治活動家・言語学者・詩人・随筆家。翻訳者としてはスペイン語からバスク語への翻訳を行う。かつてバスク祖国と自由(ETA)の政治活動家だったことを認めている[1]。マドリード在住。
経歴
[編集]政治活動家として
[編集]16歳の時に言語学者のフェデリコ・クルトヴィッヒの『バスコニア』の解釈に熱中し、武力闘争開始前のバスク祖国と自由(ETA)に加入した[1]。地元のデウスト大学ではETA内の労働者主義者集団「ETA-セクスタ・アサンブレア」[2]に加わり、ETA-セクスタ・アサンブレアは1973年にトロツキー主義の革命的共産主義連盟(Liga Comunista Revolucionaria、LCR)と合併して、革命的共産主義連盟のバスク支部となった。しかし、革命的共産主義連盟での活動で警察の注意を引いたため、地元での勉学を断念し、アンダルシア地方のセビリア大学でロマンス言語学を学んだ。結局はデウスト大学に戻り、1972年には「扇動活動」によってデウスト大学から放校処分を受けたが、1973年に再入学して博士号を取得した。この期間には「軽犯罪」で何度も収監され、また治安裁判所(es:Tribunal de Orden Público)[3]により有罪判決を受けた[4]。
1974年にはほぼ完全に革命的共産主義連盟と左翼政治活動から離れ、その後は学問の世界に身を捧げた。1980年にはスペイン共産党の党員となった。暴力の使用を拒否して活動を行う、新しい社会民主主義政党としてバスク左翼(EE)があり、スペイン共産党はバスク左翼との統一過程にあった。しかし、1986年のバスク自治州議会選挙の際に、バスク左翼がスペイン社会労働党(PSOE)と提携しなかったことに失望し、同年にバスク左翼を去った。1987年には社会労働党に入党した。後の回顧録では、過激分離主義者「メンデク」がポルトゥガレテのカサ・デル・プエブロ(社会労働党の自治体支部)を襲撃した際、「倫理的要請」に駆り立てられたことを振り返っている。この襲撃では社会労働党の何人かのメンバーが焼死した[5]。
多くの記事や随筆の執筆、演説などで、特にバスク民族主義に対する批判を行っている。反テロリズムやETAの暴力活動の犠牲者の支援を主張するフアリスティの姿勢は、1997年に保守的反テロリズム組織(その起源はバスクの左翼主義)のフォロ・エルムアを設立したことによって、さらに目に見えるものとなった。2000年代以降の多くのマスメディアのインタビューを通じて、スペイン国家主義者と認識されている[6]。バスク分離主義者による暴力活動を辛辣に批判したため、1980年代末以降にはETAから生命の脅迫を受けている。ETAが1998年に発表した停戦宣言の撤回を発表すると、フアリスティは1999年末にはデウスト大学とバスク地方を離れた。宗教的な理由よりも個人的な理由で、フアリスティはユダヤ教徒に改宗しており[7]、「私にとってユダヤ教は、厳密には宗教ではなく、世界の道徳的視野である」と語っている。イスラエルの権利の保護に関する文章を執筆することもある。
言語学者として
[編集]セビリアのセビリア大学とビルバオのデウスト大学で学び、ロマンス言語学の博士号(Ph.D)を取得した。バスク大学とアメリカ合衆国のニューヨーク大学のフアン・カルロス1世センターでスペイン語文献学を教え、メキシコのエル・コレヒオ・デ・メヒコで講師や研究者として働いた。バレンシア大学でのカニャーダ・ブランク財団(Fundación Cañada Blanch)提供による現代思想講座(Cátedra de Pensamiento Contemporáneo[8])の教授となった。1999年から2001年にはスペイン国立図書館の館長を務め、その後は2004年までセルバンテス文化センター(Instituto Cervantes)の所長を務めた。
作品
[編集]詩集
[編集]フアリスティの詩風は親友でもあるバスク人詩人ガブリエル・アレスティや、バスク地方に生まれスペイン語で執筆した哲学者ミゲル・デ・ウナムーノとブラス・デ・オテーロ、アングロサクソン系アメリカ人随筆家W・H・オーデンなどに影響されている。フアリスティの詩は彼の幼年・青年時代のビルバオの雰囲気を連想させ、その雰囲気は冷静で、辛辣で、都会的で、理知的である。
- 1986年 Diario de un poeta recién cansado (最近退屈な詩人の日記)
- 1987年 Suma de varia intención (様々な意図の総計)
- 1988年 Arte de marear (当惑する芸術)
- 1992年 Los paisajes domésticos (国内の風景)
- 1993年 Mediodía (正午)
- 1996年 Tiempo desapacible (不愉快な時)
- 2001年 Poesía reunida (再結合した詩) (1986-1999)
- 2002年 Prosas en verso (韻文の中の散文)
随筆
[編集]フアリスティの随筆の分析は、カール・ユングやレオン・ポルヤコフに触発された心理的・社会学的視点を持ち、ヨーロッパのナショナリズム、特にバスク・ナショナリズムの歴史的・神話的な起源からなる。その文章には著者、主題、神秘学の成果に関する言及や逸話の紹介だけでなく、言語学の文献が頻繁に登場する。これらはしばしばよそよそしさや皮肉を持って言及される。
- 1976年 Euskararen Ideologiak (バスクのイデオロギー)
- 1984年 El linaje de Aitor. La invención de la tradición vasca(アイトールの血筋 バスク伝統の発明)
- 1987年 Literatura vasca (バスク文学)
- 1987年 Arte en el País Vasco (バスクの芸術)コスメ・M・デ・バラニャーノとハビエル・ゴンサーレス・デ・ドゥラナとの共書
- 1990年 Vicente de Arana (ビセンテ・アラナ)
- 1992年 Vestigios de Babel. Para una arqueología de los nacionalismos españoles (聖書の手掛かり)
- 1994年 Auto de Terminación: raza, nación y violencia en el País Vasco (終末の決定: バスクの民族、国家、暴力)フアン・アリスメンディとパチョ・ウンスエタとの協同
- 1994年 La Europa (cultural) de los pueblos: voz y forma (民族のヨーロッパ: 声と形)他執筆者との協同
- 1994年 El chimbo expiatorio (la invención de la tradición bilbaína, 1876-1939)(贖罪のチンボ)
- 1997年 El bucle melancólico. Historias de nacionalistas vascos (憂鬱なループ バスク民族主義者の歴史)
- 1999年 Sacra nemesis. Nuevas historias de nacionalistas vascos (サクラ・ネメシス バスク民族主義者の新しい歴史)
- 1999年 Sermo humilis: poesía y poética(つつましい説教: 詩と詩法)
- 2000年 El bosque originario (原初の森林)
- 2002年 La tribu atribulada. El Nacionalismo Vasco explicado a mi padre(苦悩の部族 父に教えたバスク民族主義)
- 2004年 El reino del ocaso(落日の王国)
自伝
[編集]- 2006年 Cambio de destino(運命の変化)
受賞
[編集]- 1988年 イカロ文学賞
- 1997年 エスパサ随筆賞 - 『El bucle melancólico』(憂鬱な巻き毛)
- 1998年 フランシスコ・セレセード・ジャーナリズム賞
- 1998年 スペイン国民文学賞 - 『El bucle melancólico』(憂鬱なループ)
- 2000年 ファステンラス賞
脚注
[編集]- ^ a b Jon Juaristiエル・ムンド
- ^ ETA-セクスタ・アサンブレア(ETA-VI Asamblea)はETAの第6回会議の意味で、詳細はes:Liga Komunista Iraultzailea#La VI Asamblea de ETA参照。
- ^ フランコ体制期の1963年から民主化期移行期の1977年まで存在した裁判所。
- ^ Nacionalistas. La otra cara: Jon Juaristiエル・ムンド, 2006年3月5日
- ^ Ibídem, page 364
- ^ Un «nacionalista español» con imperativos éticosラ・ベルダ, 2007年3月3日
- ^ Cambio de destino, pages 370-371
- ^ Universitat de València (スペイン語), Cátedra de Pensamiento Contemporáneo