儀銘
儀 銘(ぎ めい、1382年 - 1454年)は、明代の官僚。字は子新。本貫は膠州高密県。
生涯
[編集]儀智の末子として生まれた。若くして呉訥に学問を受けた。1425年(洪熙元年)、宣徳帝が即位すると、儀銘は兵部侍郎の戴綸の推薦により、行在礼科給事中に任じられた。1434年(宣徳9年)12月、翰林院修撰に転じた[1]。1438年(正統3年)、『宣宗実録』の編纂に参加し、翰林院侍講となった。1440年(正統5年)10月、郕王府左長史に転じた[2]。
1449年(正統14年)8月、郕王朱祁鈺が監国し、午門で朝議を開いた。廷臣たちが王振を弾劾して騒然となり、叫号のために弁論の声も聞こえない中、儀銘はひとり郕王の前に進み出て、冠を取って上奏した。王振を族誅する命令が下されると、人々の騒ぎもようやくおさまった。9月、景泰帝(朱祁鈺)が即位すると、儀銘は礼部左侍郎に任じられた[3]。1450年(景泰元年)、経筵官を兼ねた。景泰帝は講義の場に臨むたびに、宮中の宦官に命じて金銭を地に投げうち、講官にこれを拾わせて、「恩典」と称していた。文臣でこの恩典を与えられた者は、内閣の高穀らのほか、儀銘と兪山・兪綱・蕭鎡・趙琬ら数人だけだった。10月、儀銘は南京礼部尚書に進んだ[4]。1452年(景泰3年)4月、朱見済が皇太子に立てられると、儀銘は太子太保の位を加えられた。5月、兵部尚書となった。1453年(景泰4年)2月、詹事を兼ねた。
ときに蘇州府と淮安府の諸州に積雪があり、凍死したり餓死したりする民衆が相次いだ。沙湾で黄河の堤防修復工事をおこなうため、山東と河南から9万人の役夫を動員し、民間の鉄器数万を徴発した。儀銘は民衆の負担を抑えるよう景泰帝に請願した。敬天愛人を説き、『皇明祖訓』を書き写して、景泰帝に進上した。1454年(景泰5年)7月、死去した。享年は73。特進・光禄大夫・左柱国・太師の位を追贈された[5]。諡は忠襄といった。
子女
[編集]- 儀海(長男、錦衣衛百戸)
- 儀泰(末子、郷挙により礼科給事中となった)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『明史』巻152 列伝第40