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名鉄知多新線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
名古屋鉄道 知多新線
知多奥田駅に進入する3500系ワンマン車
知多奥田駅に進入する3500系ワンマン車
概要
系統 内海・河和方面
起終点 起点:富貴駅
終点:内海駅
駅数 6駅
路線記号 KC
ウェブサイト 河和線・知多新線
運営
開業 1974年6月30日 (1974-06-30)
最終延伸 1980年6月5日 (1980-06-05)
所有者 名古屋鉄道
路線諸元
路線総延長 13.9 km (8.6 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 直流1,500 V,
架空電車線方式
運行速度 最高100 km/h[1]
路線図
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知多新線(ちたしんせん)は、愛知県知多郡武豊町富貴駅から同郡南知多町内海駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。名鉄で「新線」を名乗る唯一の路線である[2][注釈 1]

概要

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沿線の宅地・観光開発のために建設された比較的新しい路線で、沿線には海水浴場や名鉄が開発した行楽地(南知多ビーチランドやかつての内海フォレストパークなど)が立地する。また、知多奥田駅周辺には日本福祉大学美浜キャンパスがあり、通学路線としても利用されている。知多半島東側にある富貴駅から半島中央部を貫き、半島西側の丘陵部を走っているため、名古屋鉄道の路線の中では最もトンネル数が多く(7か所)、急勾配も随所にある。

全線において単線となっているが、用地の確保及びトンネルは複線規格で造られており、橋梁部分は橋台のみが設置されている。利用者数の伸び悩みにより複線化への進展は見られないが、複線化用地を流用して別曽池信号場が設置されている。2023年3月の改正で線内を走る列車が減便となったため、上野間駅と野間駅の交換設備が廃止されている。

線内の駅は知多奥田駅を除き無人駅だが[注釈 2]駅集中管理システム導入前は季節によって上野間駅野間駅駅員が配置されていたことがある。始発の富貴駅は2023年9月30日より終日無人駅となった[3]。終点の内海駅も利用者が少ないため2020年5月25日より暫定的に終日無人駅になっていたが[4]、2023年3月25日より正式に終日無人駅となった[5]。知多新線内は特急列車も全ての駅に停車し、一部の列車には特別車が連結されているため、無人駅でも自動券売機でミューチケットを購入することができる。

運賃計算区分はC(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.25倍)。さらに、建設費回収のための加算運賃が適用される。すべての駅でmanacaなどの交通系ICカード全国相互利用サービス対応カードが利用できる。

なお、『鉄道要覧』による起点は富貴駅だが、列車運行および旅客案内、列車番号の設定においては、内海駅から富貴駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。本項では鉄道要覧に合わせて富貴駅から内海駅へ向かう方を下り、逆方向を上りと表現する。

加算運賃

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新線であるため、キロ程で算出された運賃に加算額を加算する。大人の普通運賃への加算額は、知多新線内の運賃計算キロ(営業キロ×1.25)を下の表に照らし合わせて算出する[6]。駅間距離が長いうえに「C線+加算運賃」という条件下にあるため、他の路線に比べて初乗り運賃が高くなることがある(野間 - 内海が260円、富貴 - 上野間が280円、その他の隣接駅間は190円)。

運賃計算キロ 加算額
0.1キロ - 3.9キロ 20円
4.0キロ - 6.9キロ 30円
7.0キロ - 9.9キロ 40円
10.0キロ - 12.9キロ 50円
13.0キロ - 15.9キロ 60円
16.0キロ - 17.4キロ 70円

路線データ

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  • 路線距離(営業キロ):13.9 km
  • 軌間:1,067 mm
  • 軌条:50 kgN
  • 駅数:6駅(起終点駅含む)
  • 複線区間:なし(全線単線・複線用地が確保されている)
  • 電化区間:全線電化(直流1,500 V)
  • 閉塞方式:自動閉塞式[1]
  • 保安装置M式ATS[1]
  • 最高速度:100 km/h[1]
  • 交換可能駅:別曽池信号場、知多奥田駅
  • 最急勾配:34.8 (別曽池信号場 - 上野間駅間)
  • 最小曲線半径:350 m(富貴駅付近)

交換駅は片開き式分岐器が使用されている。また、交換駅のホーム両端には出発信号機が1基ずつ(計4基)立っている。一線スルー化は行われておらず、列車交換は左側通行で行う。かつて特急が通過する際は名古屋方面行きの場合速度制限を受けて低速で通過していた。

踏切は富貴駅構内を除き存在しない。

歴史

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知多半島の海岸線は古来より風光明媚な地として知られており、半島南部(南知多)へ鉄路を伸ばす試みが戦前より企図されていた[7]。1912年(大正元年)8月に常滑駅 - 内海間の免許を取得した愛知電気鉄道の「内海線」計画、これに刺激された地元資本が設立した知多軽便鉄道(武豊 - 常滑、武豊 - 師崎間。1913年5月免許取得)、そして鉄道省武豊線の延伸として測量まで行った師崎延伸計画[注釈 3]の3案である[8]。しかし、南知多は鉄道敷設に見合うほど人口密度が高くなく、産業も乏しかったため[7]、昭和不況や太平洋戦争の戦況悪化の影響もあっていずれの案も実現せずに終わっている[8]

戦後になると、半島北部は名古屋港衣浦港を軸とする工業化・宅地化が進行し、景観に優れた海岸線は失われていった[7]。他方、南知多には従来の自然環境が残されており、都市近郊の観光地として注目を集め、1958年昭和33年)には三河湾国定公園の一部に指定された[7]。名鉄も昭和30年代から南知多の開発に力を注ぎ、河和駅からのバス連絡で観光客を輸送していたが、これを機に南知多への鉄道延伸を改めて企図することにした[9]

新線のルートはいくつかあった。まずどの駅から延伸するかについて、常滑駅延伸案(常滑ルート)、河和駅延伸案(河和ルート)、河和線途中分岐案(野間ルート)の3案が検討されたが、常滑ルートは南下距離が長いことから却下され、河和ルートより半島中央部の開発が期待できる野間ルートが採択された[10]。次に、半島西部のルートを海岸寄り(海岸ルート)にするか、丘陵部(丘陵ルート)にするかが検討された。海岸ルートは海水浴客などの輸送に向いており、丘陵ルートは宅地造成に適していたが、副社長の竹田弘太郎は宅地造成の将来性を主張し、社長の土川元夫もこれを承諾、丘陵ルートに決定した[9]。また、河和線からの分岐地点についても変遷があった。当初は知多武豊駅 - 富貴駅間に武豊信号所を設けて分岐する予定で1966年(昭和41年)9月に免許を申請し、翌年に認可を得ていたが、信号所設置予定付近に大足駅を新設しようとする地元の運動と重なり用地買収が難航していた[11]。これを受けて分岐地点の変更が検討されたが、分岐駅機能を誘致したい富貴地区が用地買収に応じたことで富貴駅分岐に落ち着いた[9]。かくして分岐地点は富貴駅に変更され、1969年(昭和44年)10月には第1工区(富貴駅 - 別曽池間)の施工認可が下りた[7]

第1工区の建設は比較的順調に進み[9]1971年(昭和46年)6月には別曽池 - 内海間の施工も認可された[7]。このうち別曽池 - 上野間間を第2工区として同年8月より着工した[9] が、途中区間にある深谷トンネルで出水事故が起きた。出水は広目側(上野間側)300m地点の試掘中に発生し、排水の目処が立たないことから工事は一旦中断された[12]。検討の結果、早期開通を優先するため工法を開削工法に切り替えることとし、そのために必要な用地の追加買収を行った[12]。深谷トンネルは予定より6ヶ月遅れて1973年(昭和48年)4月に開通[12]1974年(昭和49年)6月には富貴駅 - 上野間駅間が無事開業した[13]。その後の小原、谷トンネルは問題なく開通し[12]1975年(昭和50年)7月には知多奥田駅、1976年(昭和51年)4月には野間駅まで延伸した[14][注釈 4]

内海への延伸に当たり問題となったのが内海駅の位置である。当初案では小野浦トンネルからそのまま南下して知多乗合内海管理所付近に駅を設置し、隣接する旧内海中学校用地(1964年取得)と合わせて総合開発を計画していた[16]。地元は鉄道延伸そのものには賛成していたが、観光客への商売、内陸部の開発といった観点から海岸沿いの駅設置に反対した。最終的には名鉄側が折れて現在地への駅設置に計画が変更され、トンネルが一つ追加された(内海トンネル)[16]

内海駅の位置変更により2つの問題が生じた。ひとつは近隣の内海中学校が電車の騒音を問題視したことで、これは学校隣接地約300 mに渡って防音壁を設置して解決した[17]。もうひとつは予期せぬ遺跡の発見である。1978年(昭和53年)6月の内海駅建設工事中に発見された先苅貝塚は東海地方最古の貝塚で[18]縄文時代に起きた縄文海進を裏付けるなど学術的には貴重な発見と言える[8]が、発掘調査のため知多新線の延伸は遅延することになった[10]

こうした紆余曲折の末、1980年(昭和55年)6月にようやく内海駅まで延伸、知多新線が全通する[14]が、着工からすでに10年が経過しており[10]、この10年間で南知多を巡る情勢は大きく様変わりしていた。まず、沿線の大半が市街化調整区域に指定された[19]ことで宅地造成がほとんど不可能になり、美浜緑苑など僅かな開発に留まった。また、内海駅延伸と同時に開業予定だった小野浦駅(仮称)[20]は付近の開発が遅れたことで建設が中止された(未成駅[21][注釈 5]。知多新線の需要予測は宅地造成による居住者利用を基に想定されていたため、実際の利用者数は予測を大きく下回った[19][注釈 6]

そこで名鉄は1977年(昭和52年)2月に南知多開発局を半田市内に設け、宅地開発の不調を補うためにも南知多の観光開発を推進することにした[19]。まず内海駅を拠点にバス連絡網を整備し、名鉄海上観光船の高速船に連絡するバスダイヤを設定した[24]。しかし、海水浴客輸送だけでは利用が夏季に偏ってしまうきらいがあり[19]、その海水浴客のアクセスも道路整備や意識変化によってマイカー利用へ流れ始めていた[23][25]ため、開発局は通年利用の行楽施設を知多新線沿線に作る方針を固め、海水浴客以外の観光利用を創出することにした[19]。この方針に従って建設されたのが南知多ビーチランド(1980年4月29日開園)や内海フォレストパーク1982年10月20日開園)である[24]。このほか、1984年(昭和59年)には『移動も楽しむ』という観光ニーズの変化に対応するため新型特急車両『8800系「パノラマDX」』を犬山線 - 知多新線間に投入。マイカーや観光バスのプライベート性・居住性に対抗した[24]。ただ、宅地造成を優先して丘陵ルートを選択したことが仇となり、行楽施設へはバスなどを介する必要があった[26]

観光ニーズのさらなる変化[27]によって南知多観光が停滞気味[注釈 7]となったこともあり、現在は日本福祉大学および付属高校(ともに1983年移転)への通学利用が中心となっている[25]。その日本福祉大学も2027年4月から東海市の東海キャンパスを拡張し、当線沿線の美浜キャンパスから中核の社会福祉学部を移転させる予定である[28]

年表

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運行形態

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2023年3月18日のダイヤ改正において、昼間の時間帯の河和線直通列車が全て廃止され、9時から22時台の普通列車は、全ての列車がワンマン運転となった。ただし、朝夕のみワンマン対応車両の出し入れのため河和線直通の優等列車の運行は継続される[32]。内海駅は4線あるためワンマン運転開始後も引き続き同駅での特急車両等の夜間滞泊は行われている。

2011年3月26日のダイヤ改正からワンマン運転の開始まで、昼間以降は特急急行普通が毎時各1本運転されていた。いずれの種別も知多新線内での通過駅はなく、実質的には各駅停車が毎時3本、約20分毎に運転される形だった。当線内の標準所要時分は全列車各駅停車で16 - 21分である。

昼間 - 夕刻は上下列車の列車交換が別曽池信号場で1時間当たり2回(昼間の特急と普通)、知多奥田駅で同2回(特急と急行、夕方以降の普通同士)、野間駅で同1回(昼間の普通同士)行われる。交換可能駅及び別曽池信号場では安全側線が無いため、列車交換の際は必ず一方の列車が先着してから対向列車が進入する。

最大編成は河和線などと同じく8両だが、途中駅のホームは6両までしか対応していないため、8両編成では後ろ2両のドアが開かない。また駅間距離が他の路線に比べて長い区間が多く、トランパス導入前は車内改札を行うことも多かった。

2011年3月26日のダイヤ改正以降の種別ごとの基本ダイヤは以下の通りである。2021年のダイヤ改正において知多新線での終電繰り上げは行われていない。

特急

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2023年3月改正でワンマン運転開始により、日中の特急列車は廃止となった。ただし、内海駅での夜間滞泊の関係で平日休日共に2往復ずつ一部特別車での運転が継続される。いずれも6両編成であり、現行ダイヤにおいて知多新線内を8両で走る定期特急は存在しない。

2023年3月改正以前は、平日昼間帯のみ全車一般車で、それ以外は一部特別車で運行されていた。原則として名鉄名古屋駅発着だが、平日の17時台 - 20時台は尾西線の佐屋駅まで延長運転となり(折り返しは、名鉄名古屋方面へ回送となり別の系統になる)、平日21、22時台と休日21時台は金山止まりとなる列車が運行されていた。平日最終の下り特急は新鵜沼発である。名鉄名古屋駅 - 内海駅間の所要時間は下りが56 - 58分、上りが58 - 59分であった。

全車一般車の場合は6000系・6500系による4両編成が使用されていた(3100系3150系9100系による重連4両での運用が1本ある[34] ほか、5000系による代走もある)。現行の一部特別車特急は1200系2200系が各1往復ずつの運用で、いずれも6両編成である。以前はごくわずかに8両でも運用されていた。

2008年12月27日のダイヤ改正までは、全車特別車が原則であった。停車駅は、上野間駅と知多奥田駅のみで、一部が美浜緑苑駅と野間駅にも停車していた。また、2008年12月改正から2011年3月改正までは平日の朝に快速特急も運転されていたが、日中の特急の運行はなかった。快速特急は野間駅には停車せず、美浜緑苑駅には特別停車扱いで停車していた。知多新線内では下り列車が追い抜き可能な駅はなく、上り列車のみ富貴駅で追い抜きが可能である。河和線の知多半田駅で折り返し上り列車に接続することはあるが、阿久比駅まで基本的に先行列車を追い抜かない。

1990年までは高速も設定されていた。知多新線内は各駅に停車していた。

快速急行・急行

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快速急行は2024年3月改正時点で平日朝に上り2本が設定されている。

急行は2023年3月改正でワンマン運転開始により、日中には運転されなくなった。最終であった22:39発の急行一宮行きは、富貴駅発着へ変更となったため平日上りの急行は全車運転取りやめとなったが、2024年3月改正で深夜に2本が従来富貴駅始発の急行が内海駅始発に変更になったため復活している。休日は朝に上り2本の急行が運転される。下りでは平日5本、休日は2本運転される。河和線とは異なり、内海駅発着の準急は設定されていない。

名鉄名古屋駅から知多新線各駅への終電は22時56分発(新鵜沼駅22時18分始発)の急行で、河和行きより30分早い。 車両は4両、6両編成が基本で、3500・3700・3100系3300・3150系6000・6500・6800系、5000系、9500・9100系により運行される。現行ダイヤでは8両の急行は存在しない。

名鉄名古屋駅 - 内海駅間の所要時間は、下りが1時間2分 - 4分、上りが1時間3分 - 4分。

運行系統は、名鉄岐阜駅発着で犬山線・各務原線経由が基本だったが、2008年12月27日のダイヤ改正より新鵜沼駅発着となった。2011年3月26日のダイヤ改正までは毎時2本の運行で、富貴駅で河和駅発着の折り返し普通列車に接続していた。それ以降、ワンマン運転の開始までは富貴駅で接続する河和駅発着の折り返し普通列車はなくなり、毎時1本の運転となった。

普通

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朝のみ河和線方面への直通列車があるが、日中は線内折り返しで運転している。基本はワンマン対応の3500系9500系の4両で運行される。日中は毎時2本となっており、富貴駅で太田川・名古屋方面へは河和発の特急、河和方面へは普通と接続する。駅集中管理システムが導入されていない蒲郡線などとは異なり、ワンマン列車でも従来通りホーム側のドアが全て開く[35]

2008年12月27日のダイヤ改正以前は線内折り返しの列車と、佐屋駅発着の列車がそれぞれ毎時1本ずつ運行されていた。急行と同様に2011年3月26日のダイヤ改正までは毎時2本の運行だった。

利用状況

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各駅の一日平均乗車人員の推移は以下の通り(詳細は各駅を参照)。

知多新線利用客の多くは知多奥田駅の日本福祉大学(および附属高校)への通学である。周辺の高齢化に伴い利用客は年々減少している。南知多町へ向かう唯一の鉄道路線であるが、町内唯一の鉄道駅である内海駅の利用客は多くない。

駅一覧

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  • 全駅愛知県知多郡内に所在。
  • 知多新線内で運行される種別として、特急・快速急行・急行・普通があるが、知多新線内では全列車が各駅に停車する。
  • 停車駅は2011年12月17日改正時点。
凡例
線路(全線単線) … |:交換不能駅 ∨・◇・∧:交換可能駅・信号場
駅番号 駅名 駅間キロ 営業キロ 接続路線 線路 所在地
KC17 富貴駅 - 0.0 名古屋鉄道:KC 河和線(早朝深夜一部直通運転) 武豊町
  別曽池信号場 3.0 3.0  
KC20 上野間駅 2.8 5.8   美浜町
KC21 美浜緑苑駅 0.9 6.7  
KC22 知多奥田駅 1.4 8.1  
KC23 野間駅 1.7 9.8  
KC24 内海駅 4.1 13.9   南知多町
  • 別曽池信号場 - 上野間駅の間で常滑市を通るが、同市内に駅はない。
  • KC18・KC19は河和線河和口駅・河和駅に割り振られている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 豊田線羽島線はかつて「豊田新線」「羽島新線」と称されていたが、両路線とも正式名称は開業時より「豊田線」「羽島線」であり、正式名称が「新線」なのは知多新線が唯一である[2]
  2. ^ 土休日は知多奥田駅を含め、全て無人駅となる。
  3. ^ 鉄道省の計画は武豊 - 坂井 - 上野間 - 奥田 - 野間 - 細目谷 - 小野浦 - 浜田 - 東端 - 師崎という経路を辿っており、これは知多新線の当初ルートに酷似していた[8]
  4. ^ 建設中にオイルショックが発生したため工事が緩慢になり、1駅ごとの小刻みの延伸となった[15]
  5. ^ 現在でもその遺構が残されており、車窓から相対式ホームの名残を見ることができる。
  6. ^ 将来を見越して複線化用地を確保していた[13] ものの、利用が伸び悩んだこともあり日の目を見なかった。知多新線の複線化は1986年(昭和61年)3月の別曽池信号所新設[22] によって事実上棚上げされている[23]。後年、この複線化用地を使ってHSSTの実験線を敷設することが検討されたが、最終的に築港支線の複線敷跡地に敷設された[23]
  7. ^ 内海フォレストパークは2003年11月に閉園した[27]
  8. ^ この変更により武豊信号所は未設置となった。
  9. ^ 1986年7月20日設置とする説もある[23]。なお、同日ダイヤ改正が実施されている。

出典

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  1. ^ a b c d 徳田耕一『名古屋鉄道 今昔―不死鳥「パノラマカー」の功績』交通新聞社〈交通新聞社新書〉、2017年8月、147頁。ISBN 978-4330819174 
  2. ^ a b 清水武「名古屋鉄道の新線展開を振り返る」『鉄道ピクトリアル』第816巻、電気車研究会、2009年3月、121頁。 
  3. ^ 一部の駅における窓口係員配置時間の変更について”. 名古屋鉄道 (2023年8月22日). 2023年9月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月29日閲覧。
  4. ^ 内海駅の駅員無配置化について”. 南知多町 (2020年6月15日). 2020年7月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月2日閲覧。
  5. ^ 一部の駅における窓口係員配置時間の変更について”. 名古屋鉄道 (2023年2月22日). 2023年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月22日閲覧。
  6. ^ 鉄軌道旅客運賃・料金等の改定について』(PDF)(プレスリリース)名古屋鉄道、2019年9月5日https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2019/__icsFiles/afieldfile/2019/09/05/release190905_unkai.pdf2019年10月6日閲覧 
  7. ^ a b c d e f g h i j 名古屋鉄道広報宣伝部(編)『名古屋鉄道百年史』名古屋鉄道、1994年、499頁。 
  8. ^ a b c d 中村隆義『鉄路風雪の百年―なるほど・ザ・名鉄』中部経済新聞社、1995年、247頁。ISBN 978-4885200175 
  9. ^ a b c d e f g 中村隆義『鉄路風雪の百年―なるほど・ザ・名鉄』中部経済新聞社、1995年、243頁。ISBN 978-4885200175 
  10. ^ a b c 川島令三『全国鉄道事情大研究 名古屋東部篇』草思社、2002年、170頁。ISBN 978-4794211408 
  11. ^ 武豊町誌編纂委員会(編)『武豊町誌 本文編』武豊町、1984年、794頁。 
  12. ^ a b c d e 中村隆義『鉄路風雪の百年―なるほど・ザ・名鉄』中部経済新聞社、1995年、244頁。ISBN 978-4885200175 
  13. ^ a b c d e f g h i 南知多町誌編集委員会(編)『南知多町誌 本文編』南知多町、1991年、668頁。 
  14. ^ a b c d e 南知多町誌編集委員会(編)『南知多町誌 本文編』南知多町、1991年、669頁。 
  15. ^ 青木栄一「名古屋鉄道のあゆみ [戦後編] -路線網の形成と地域開発-」『鉄道ピクトリアル』第624巻、電気車研究会、1996年7月、100頁。 
  16. ^ a b 中村隆義『鉄路風雪の百年―なるほど・ザ・名鉄』中部経済新聞社、1995年、245頁。ISBN 978-4885200175 
  17. ^ 中村隆義『鉄路風雪の百年―なるほど・ザ・名鉄』中部経済新聞社、1995年、246頁。ISBN 978-4885200175 
  18. ^ a b 名古屋鉄道広報宣伝部(編)『名古屋鉄道百年史』名古屋鉄道、1994年、503頁。 
  19. ^ a b c d e 名古屋鉄道広報宣伝部(編)『名古屋鉄道百年史』名古屋鉄道、1994年、504頁。 
  20. ^ 中西文孝「名鉄の主要建設・改良工事」『鉄道ピクトリアル』第370巻、電気車研究会、1979年12月、28頁。 
  21. ^ 徳田耕一『新版 まるごと名鉄ぶらり沿線の旅』七賢出版、1997年、88頁。ISBN 978-4883043323 
  22. ^ 名古屋鉄道広報宣伝部(編)『名古屋鉄道百年史』名古屋鉄道、1994年、502頁。 
  23. ^ a b c d e f g h 清水武「名古屋鉄道の新線展開を振り返る」『鉄道ピクトリアル』第816巻、電気車研究会、2009年3月、115頁。 
  24. ^ a b c 三木理史「名鉄と観光 沿線地域の開発」『鉄道ピクトリアル』第473巻、電気車研究会、1986年12月、95頁。 
  25. ^ a b 太田貴之「輸送と運転 近年の動向」『鉄道ピクトリアル』第816巻、電気車研究会、2009年3月、39頁。 
  26. ^ 川島令三『全国鉄道事情大研究 名古屋東部篇』草思社、2002年、172-173頁。ISBN 978-4794211408 
  27. ^ a b c d e 曽根悟(監修)『週刊歴史でめぐる鉄道全路線 No.09―大手私鉄 名古屋鉄道 2』朝日新聞出版、2010年、11頁。ISBN 978-4023401396 
  28. ^ 日福大、東海キャンパス拡張 27年、社会福祉学部など再編 - 中日新聞、2023年7月24日
  29. ^ 清水武「ビーチライン名鉄知多新線が全通」『鉄道ファン』第233巻、交友社、1980年9月、99頁。 
  30. ^ 名古屋鉄道広報宣伝部(編)『名古屋鉄道百年史』名古屋鉄道、1994年、1060頁。 
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関連項目

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外部リンク

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