大隈信幸
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大隈 信幸 おおくま のぶゆき | |
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大隈信幸(1948年) | |
生年月日 | 1910年5月20日 |
没年月日 | 2004年2月28日(93歳没) |
出身校 |
東京帝国大学経済学部卒業 (現東京大学経済学部) |
前職 | 日立製作所従業員 |
現職 | 外務省職員 |
所属政党 |
(民主党→) 民主クラブ |
称号 |
従四位 経済学士(東京帝国大学・1935年) |
配偶者 | 大隈馨子 |
親族 |
祖父・大隈重信(内閣総理大臣) 祖父・松浦詮(貴族院議員) 伯父・松浦厚(貴族院議員) 伯父・佐竹義準(貴族院議員) 叔父・井上勝純(貴族院議員) 父・大隈信常(貴族院議員) 義父・久原房之助(逓信大臣) |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1947年5月3日 - 1953年4月14日 |
選挙区 | 貴族院侯爵議員 |
在任期間 | 1947年2月15日 - 1947年5月2日 |
大隈 信幸(おおくま のぶゆき、1910年5月20日 - 2004年2月28日)は、日本の政治家、外交官、華族(侯爵)。
貴族院議員、参議院議員(1期)、コロンビア駐箚特命全権大使、ガーナ駐箚特命全権大使などを歴任した。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]東京帝国大学の経済学部に入学し、1935年に卒業した。1947年、父である大隈信常の死去にともない、爵位を襲爵し侯爵となった。
政界での活動
[編集]1947年2月に貴族院議員に就任したが、日本国憲法施行により貴族院が廃止されたため、3か月弱で貴族院議員としての地位を失った。また、同年4月に行われた第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し、当選を果たした。参議院では民主クラブに所属した。任期満了まで2か月あまりを残し、1953年4月に議員を辞職した。以降は政界での積極的な活動は行わず、再び国会議員になることはなかった。
官界での活動
[編集]1953年に参議院議員を辞職すると、同年に外務省に入省した。外務省では外交官として活躍し、ウルグアイ駐箚公使、コロンビア駐箚特命全権大使、ガーナ駐箚特命全権大使を歴任した。
官界引退後
[編集]外交官を退くと、早稲田大学名誉顧問、早稲田大学校賓、早稲田実業学校名誉校長、早稲田高等学校名誉校長などの各種名誉職に就いた。2004年2月に死去、早稲田大学大隈講堂にて大学葬が行われた。
栄典
[編集]家族・親族
[編集]華族大隈侯爵家の出身で、首相を務めた大隈重信を祖父(名目上は義祖父、実際は血縁上も祖父)に持つ。父は松浦家出身で養子のため重信との血縁はない。母は重信の後妻・綾子の姪ということになっているが、実際には重信が女中に産ませた子である[2]。父の信常も貴族院議員を務めた。妻は立憲政友会正統派総裁を務めた久原房之助の三女。
大隈家
[編集]- 祖父:大隈重信(旧佐賀藩士、侯爵、政治家、教育者)
- 養祖母:大隈綾子(重信の後妻)
- 父:大隈信常(政治家、実業家、大隈重信の養嗣子)
- 母:大隈光子(綾子の兄・三枝守富の三女、実際には大隈重信が女中に産ませた子)
- 妹:広沢豊子(広沢金次郎の息子広沢真吾の妻)
- 伯母:大隈熊子(大隈重信と先妻の実子、南部利剛の次男の英麿を婿養子に迎えたが離婚)
- 妻:大隈馨子(久原房之助の三女)(1916年生[3])
- 長女:大隈和子 (1940年生[3])
- 次女:治子 (1943年生[3])
- 三女:明子(1945年生[3])
松浦家
[編集]- 祖父:松浦詮(旧平戸藩主、伯爵、政治家、茶人)
- 伯父:松浦厚(伯爵、政治家、茶人、漢詩人)
- 伯父:稲葉正縄(子爵、宮中顧問官)
- 伯父:佐竹義準(男爵、陸軍軍人、政治家)
- 叔父:本多正復(子爵、宮中顧問官)
- 叔父:井上勝純(子爵、海軍軍人、政治家)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『官報』第5309号「叙任及辞令」1944年9月22日。
- ^ 伊藤之雄『大隈重信(下)「巨人」が築いたもの』中央公論新社、2019年。ISBN 978-4-12-102551-7 。、57-58p
- ^ a b c d e 人事興信録第15版オ26
- ^ https://gendai.media/articles/-/48631?page=5
- ^ 【未公開シーン】ホセ・ムヒカ元大統領との対談動画で省略したシーンを公開!【世界一貧しい大統領】 chanchitos.jpちゃんちーとす、2020/06/04
議会 | ||
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先代 櫻内辰郎 |
参議院外務委員長 1951年 |
次代 有馬英二 |
爵位 | ||
先代 大隈信常 |
侯爵 大隈(重信)家第3代 1947年 |
次代 華族制度廃止 |