河野親清
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時代 | 平安時代後期 |
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改名 | 親清→通明 |
別名 | 三島四郎、河野冠者 |
官位 | 伊予権介 |
氏族 | 河野氏 |
父母 | 河野親経 |
妻 | 河野親経の娘 |
子 | 河野通清、河野通里、女子(鈴木重倫室) |
河野 親清(かわの ちかきよ)は、平安時代後期の武将・豪族。越智親清と表現されることもある。
略歴
[編集]河野氏は国造の末裔・越智氏の流れを汲む伊予第一の名族であった。永暦元年(1160年)、伊予権介(ごんのすけ)となる。風早郡河野郷の高縄山城を本拠とし、河野を苗字としたとされる(河野玉澄の代から既に河野氏を名乗っていたとする説もある)。
高縄神社の奉遷
[編集]高縄神社は越智益躬が高縄山の天神森に社殿を造営し、大山積神を勧請したのが創始であるが、保延2年(1136年)に親清が卜占により現在の鎮座地(愛媛県松山市宮内)に移転し「高縄三島神宮」と称したとされる。福島正則が伊予領主になってからは衰退したが、その後、松山城主となった久松氏が社殿を再建し、明治の初めに「高縄神社」と復称して現在に至っている。
外部リンク
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