石川総弾
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦5年(1755年) |
死没 | 寛政7年6月12日(1795年8月26日) |
改名 | 吉之助、内膳(通称) |
戒名 | 放光院殿若州太守総弾日遥大居士 |
墓所 | 東京都北区田端の大久寺 |
官位 | 従五位下、近江守・若狭守 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 常陸下館藩主 |
氏族 | 石川氏 |
父母 | 父:石川総候、母:某氏 |
兄弟 |
総孝、金八郎、総賢、総弾、清之助、総般 娘(土方雄年室)、阿きく(水野忠実室)、娘、娘(石川総彬室) |
妻 | 正室:阿充(石川総慶の娘) |
子 |
娘(総般養女総親室) 養子:総般 |
石川 総弾(いしかわ ふさただ)は、常陸下館藩の第4代藩主。伊勢亀山藩石川家分家6代。
生涯
[編集]宝暦5年(1755年)第3代藩主・石川総候の三男として誕生した。兄の総孝・総賢が早世したため、明和6年8月27日(1769年9月26日)に世子に選ばれ、翌年に父が死去したため跡を継いだ。明和8年4月1日(1771年5月14日)将軍・徳川家治に拝謁し、同年12月18日(1772年1月22日)従五位下・近江守に叙任し、後に若狭守となった。寛政7年7月12日(1795年8月26日)、死去した。子は娘一人で継子なく、弟の総般が養嗣子となった。
藩主としては有能で、藩内における綿花生産(真岡木綿)を奨励して産業を発展させることで藩財政を豊かにした。ところが天明の大飢饉で大被害を受け、さらに同時期に領内を洪水(天明6年6月20日(1786年7月15日)小貝川・五行川の大洪水)・火災(天明7年7月(1787年8月)下館大火)が襲って、その救済や復興費で藩財政は一気に破綻寸前となった。このため、総弾は経費節減や博打の禁止などの倹約や風紀の徹底、さらに災害対策費などをまとめ上げた8か条の法令を制定することで藩政を再建した。また教養人としても優れ、北条玄斎から心学を学び、黒板政胤を助けて学問所である有隣舎を創設するなど、藩士・領民に対する教育の普及に尽力した。
系譜
[編集]父母
- 石川総候(父)
正室
- 阿充 ー 石川総慶の娘
子女
養子
- 石川総般 ー 実弟