黒色オベリスク
黒色オベリスク | |
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材質 | 黒石灰岩 |
寸法 | 高さ約1.98メートル、幅45センチメートル |
文字 | アッシリア語 |
製作 | 前827年-前824年 |
発見 | ニムルド(イラク) 北緯36度05分53秒 東経43度19分44秒 / 北緯36.09806度 東経43.32889度座標: 北緯36度05分53秒 東経43度19分44秒 / 北緯36.09806度 東経43.32889度 |
所蔵 | 大英博物館(ロンドン) |
登録 | ME 118885 |
黒色オベリスク(こくしょくオベリスク)は、紀元前9世紀にメソポタミア地方でつくられた黒石灰岩製のアッシリアの彫刻作品である。多くの場面が浅浮彫で描かれ、碑文が刻まれている。シャルマネセル3世(在位:前859年-前824年)の事績を記念したもので、北部イラクのニムルド(古代のカルフ)で発見された。大英博物館で展示されており、他のいくつかの博物館がレプリカを置いている。
現在までに発見されている2点のアッシリアのオベリスクの1つであり、もう一つはアッシュルナツィルパル1世の白色オベリスク(白色オベリスクは黒色オベリスクよりもずっと早くに作られた作品である)である。このオベリスクは歴史学的に重要で、『旧約聖書』の登場人物-イスラエル王イエフ-を描いた最古の描写を含んでいる。もっとも、このオベリスクの碑文に登場する「Yaw」をイエフ(Jehu)とする伝統的な見解は複数の学者から疑問視されており、こうした学者らは「Yaw」を別のイスラエル王ヨラム(Jehoram)であるとしている[1][2]。また、碑文で言及されている「Parsua」はペルシア人に対する最古の言及でもある。
特定可能な地域および人々から貢納が集められていることがわかる。黒色オベリスクは内戦時の前825年にニムルドの中央の広場に公共の記念碑として建立された。そして西暦1846年に考古学者オースティン・ヘンリー・レヤード卿によって発見され、現在では大英博物館に収蔵されている。
概要
[編集]各面に5層ずつ、全体で20のレリーフが刻まれている。各層がそれぞれ異なる5人の征服された王たちを描いており、いずれもアッシリア王の前に平伏し貢物を捧げている。上部から下方へ順番に(1)ギルザヌ(北西イランにある)のスア(Sua)、(2)ビート・オムリのヤウア(Yaua、オムリ家のイエフ)、(3)ムスリの名前不明の君主、(4)スヒ(Suhi、ユーフラテス川中流、シリアとイラクに跨る地域)のマルドゥク・アピル・ウツル、(5)パティン(Patin、トルコのアンタキヤ地方)のクァルパルンダ(Qalparunda)である。それぞれの場面がオベリスクを巡る4つのパネルで構成され、上側に楔形文字で説明が刻まれている。
レリーフの上部と下部にはシャルマネセル3世の年代記を記した長文の楔形文字文書がある。これにはシャルマネセル3世とその最高司令官が治世31年まで毎年を行っていた遠征のリストが掲載されている。いくつかの特徴から、このオベリスクが最高司令官ダヤン・アッシュル(Dayyan-Assur)によって建てられたものである可能性があり得る。
第2層
[編集]上から2番目の層は、現存する最古の『旧約聖書』の登場人物の図像を含んでいると考えられている。この層に描かれている人物の名前はmIa-ú-a mar mHu-um-ri-iであると見られる。ヘンリー・ローリンソンによる1850年の代表作『On the Inscriptions of Assyria and Babylonia』における原文訳は次のように説明されている。「第2層の貢物はフビリ(Hubiri)の子ヤフア(Yahua)によって運ばれたと述べられている。この君主はオベリスクに刻まれた年代記で言及されておらず、それ故にどこの国の人物だったのかについて私はわからない[5][6]。」1年以上後、エドワード・ヒンクス師によって聖書との繋がりが指摘された。彼は1851年8月21日の日記に次のように書いている。「このオベリスクに描かれた虜囚たちの1人をイスラエルの王イエフと特定する考え、この点に自分自身を満足させ、これを発表する手紙をアテナエウムに書いた」[7]。ヒンクスの手紙は同じ日に、イギリスの文芸雑誌アテナエウムで「Nimrud Obelisk」というタイトルで発表された[8]。ヒンクスによるこの特定は現代では聖書考古学者たちの一般的な見解となっている。
「ヤフア(Yahua)」とイエフの同定はジョージ・スミスのような同時代の学者や[9]、同様に最近ではピーター・カイル・マッカーター(Peter Kyle McCarter)やエドウィン・ティーレによって疑問視されている[1][2]。彼らはイエフがオムリ家の人物ではないことや、音訳および編年の問題に基づきこの同定に疑問を投げかけている。しかしながら、この名前は「オムリの子(Bit-Khumri、オムリ家)ヤウ(Yaw)」と読み、聖書に登場するイスラエル王イエフと見なすというヒンクスの見解に従うことが一般的な見解となっている。
このオベリスクは前841年にイエフが貢物を運んできたか、あるいは送ってきた様子を描いている[10]。イエフはイスラエルとフェニキアおよびユダの同盟を破棄してアッシリアに臣従した。この場面の上のキャプションはアッシリア楔形文字で書かれており、次のように訳すことができる[4]。
「余はオムリ(アッカド語: 𒅀𒌑𒀀 𒈥 𒄷𒌝𒊑𒄿)の子イアウア(Iaua、イエフ)の貢物を受け取った。銀、金、黄金の容器、尖底の黄金の壺、黄金の酒器(tumblers)、黄金の桶(buckets)、錫、王勺(と)槍を。」[4]
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黒色オベリスクの四面の模写。浮彫の第2層目はイエフ王のユダヤ人使節団を描いている
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アッシリア王シャルマネセル3世がギルザヌ王スアから貢物を受け取っている(黒色オベリスク)
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イエフ王の贈り物を持ったユダヤ人使節団の一部(黒色オベリスク、前841年-前840年)[11]。
レプリカ
[編集]黒色オベリスクのレプリカがシカゴ大学東洋研究所、ケンブリッジにあるハーバード大学のセム博物館、ワシントン・D・Cにあるアメリカ・カトリック大学セム学科(Semitic Department)のICORライブラリ、オレゴン州セーラムにあるコーバン大学のプレウィット=アレン考古学博物館、ミシガン州ベリアン・スプリングスにあるアンドリュース大学のジークフリード・H・ホーン博物館、ペンシルベニア州ピッツバーグにあるケルソー中東考古学博物館(Kelso Museum of Near Eastern Archaeology)、ニュージーランドのクライストチャーチにあるカンタベリー博物館、デンマークにあるオーフス大学の古代美術博物館、オランダのオーファーアイセル州カンペンにあるTheological University of the Reformed Churches、東京の聖書考古学資料館にある。
関連項目
[編集]出典
[編集]- ^ a b McCarter 1974, pp. 5–7.
- ^ a b Thiele 1976, pp. 19–23.
- ^ a b Kuan 2016, pp. 64–66.
- ^ a b c d Cohen & Kangas 2010, p. 127.
- ^ Rawlinson 1850.
- ^ Mitchell 2004, p. 14.
- ^ Khan & Lipton 2011, p. 159.
- ^ "Nimrud Obelisk, Athenaeum, 1251, 1384-85
- ^ Smith 1875, p. 190「前842年の年代記(抜粋VIIIおよびX)には「オムリの子イエフ」と呼ばれる別のヘブライ王と思われる人物がいる。彼は一般にイスラエル王「ニムシ(Nimshi)の子イエフ」と同定されている。この「オムリの子イエフ」が統治していた国はこの碑文内では語られていない。そして、イエフはオムリの家族を皆殺しにした人物であり、自身をオムリの子と名乗ることことは想定し難い。このオベリスクの碑文で言及されている君主を特定するための他の説を進めるわけではないが、私は聖書のイエフとこの碑文のイエフが同一人物であるということは証明されていないこと、そしてこれらの言及は我らの聖書の全ての年代を改めるのに十分なものではないと強く主張する。」
- ^ Millard 1997, p. 121.
- ^ a b Delitzsch et al. 1906, p. 78.
参考文献
[編集]- Cohen, Ada; Kangas, Steven E. (2010) (英語). Assyrian Reliefs from the Palace of Ashurnasirpal II: A Cultural Biography. UPNE
(『アッシュル・ナツィルパル2世の宮殿から出土したアッシリアの浮き彫り:文化の歴史』(著:エイダ・コーエン、スティーブン・E・カンガス、2010年、ニュー・イングランド・ユニバーシティ出版(米国))) - Delitzsch, Friedrich; McCormack, Joseph; Carruth, William Herbert; Robinson, Lydia Gillingham (1906) (英語). Babel and Bible. The Open court publishing company
(『バベルと聖書』(著:フリードリッヒ・デーリッチュ、ジョセフ・マコーマック、ウィリアム・ハーバート・カルース、リディア・ギリンガム・ロビンソン、1906年。オープン・コート出版社(米国))) - Khan, Geoffrey; Lipton, Diana (2011) (英語). Studies on the Text and Versions of the Hebrew Bible in Honour of Robert Gordon. Brill
(『ヘブライ聖書の文書と訳文の研究-ロバート・ゴードンに敬意を表して』(編:ジェフェリー・カーン、ダイアナ・リプトン、2011年、ブリル出版(オランダ))) - Kuan, Jeffrey Kah-Jin (2016) (英語). Neo-Assyrian Historical Inscriptions and Syria-Palestine: Israelite/Judean-Tyrian-Damascene Political and Commercial Relations in the Ninth-Eighth Centuries BCE. Wipf and Stock Publishers
(『新アッシリアの歴史的碑文とシリア・パレスティナ:紀元前9~8世紀におけるイスラエル、ユダ、テュロス、ダマスカスの政治・通商関係』(著:ジェフェリー・カー・ジン・クアン、2016年、ウィフ・アンド・ストック出版(米国))) - McCarter, Peter Kyle (1974). “"Yaw, Son of 'Omri": A Philological Note on Israelite Chronology”. Bulletin of the American Schools of Oriental Research (University of Chicago Press) 216: 5-7.
(『アメリカ・オリエント学研究所会報』第216号(1974年、シカゴ大学出版)p.5-7に収録されている『「Yaw “オムリ”の息子」:古代イスラエルの年代記に係る文献学の要旨』(著:P・カイル・マッカーター)) - Millard, Alan (1997) (英語). Discoveries from Bible Times. Lion Hudson
(『聖書の時代の発見』(著:アラン・ミラード、1997年、ライオン・ハドソン社(英国))) - Mitchell, T. C. (2004) (英語). The Bible in the British Museum: Interpreting the Evidence. Paulist Press
(『大英博物館における聖書:証言の翻訳』(著:T・C・ミッチェル、2004年、ポーリスト出版(米国))) - Rawlinson, Henry Creswicke (1850). “On the Inscriptions of Assyria and Babylonia” (英語). Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland 12 .
(『王立アジア協会誌』第12号(1850年)に収録されている『アッシリアとバビロニアの碑文について』(著:ヘンリー・クレズウィック・ローリンソン)) - Smith, George (1875) (英語). Assyrian Eponym Canon The Assyrian Eponym Canon. Samuel Bagster and sons
(『アッシリアの名祖の名簿』(著:ジョージ・スミス、1875年、サミュエル・バグスター・アンド・サンズ社(英国))) - Thiele, Edwin R. (1976). “An Additional Chronological Note on "Yaw, Son of 'Omri"”. Bulletin of the American Schools of Oriental Research (University of Chicago Press) 222: 19-23.
(『アメリカ・オリエント学研究所会報』第222号(1976年、シカゴ大学出版)p.19-23に収録されている『「Yaw “オムリ”の息子」についての年代学的補足説明』(著:エドウィン・R・ティーレ))