やがて脱獄(島抜け)に気付いた役人が海岸に駆け付けたが、その時には望東尼を乗せた船は既に沖へ向かって漕ぎ出していた。坂田ら役人たちは大急ぎで抱(かか)え大筒(おおづつ)に弾を込め、船をめがけて発砲したが届かず、ついに帆影を見失ってしまったのである。
島抜けは当人も、またそれを幇助(ほうじょ)した者も、見つかり次第打ち首であった。望東尼救出作戦が、ただ一人の流血を見ることもなく成功に終わったのは、藤らの周到な計画に加えて、島人が見て見ぬふりをしてくれたおかげもあったのではないかと思われる。
一行は、望東尼の孫の助作が大島に流されているという情報を得ていたので、そこに立ち寄ったが、見つけることができなかった。実は助作は、大島ではなく玄界島に流されることになっており、しかも獄舎の整備が間に合わないということで、福岡の桝木屋の獄につながれたままだったのである(助作はのちに獄死)。藤らは代わりに、同島に流謫の身となっていた同志3人(桑野半兵衛、澄川洗蔵、喜多村重四郎)を救い出して乗船させた。望東尼は大島で、旧知の中津宮の神職、河野石見守の妻をひそかに訪ね、持ち合わせた琴の爪と和歌を一首遺している。
船は大島から一路、下関を目指した。望東尼を「命の親様」と仰ぐ高杉晋作との運命の再会が待っていた。