「脱亜論」再発見から
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 03:54 UTC 版)
詳細は「脱亜論」および「安川・平山論争」を参照 太平洋戦争(大東亜戦争)後、歴史学者の服部之総や遠山茂樹らによって諭吉の「脱亜論」が再発見され、「福沢諭吉はアジア諸国を蔑視し、侵略を肯定したアジア蔑視者である」と批判された。丸山真男は服部之総の諭吉解釈を「論敵」としていたといわれる。 平成13年(2001年)、朝日新聞に掲載された安川寿之輔の論説「福沢諭吉 アジア蔑視広めた思想家」に、平山洋が反論「福沢諭吉 アジアを蔑視していたか」を掲載したことで、いわゆる「安川・平山論争」が始まった。 平山は、井田進也の文献分析を基礎に、諭吉のアジア蔑視を、『福澤諭吉伝』の著者で『時事新報』の主筆を務め、『福澤全集』を編纂した石河幹明の作為にみる。平山によれば、諭吉は支那(中国)や朝鮮政府を批判しても、民族そのものをおとしめたことはなかった。しかし、たとえば清の兵士を豚になぞらえた論説など、差別主義的内容のものは石河の論説であり、全集編纂時に諭吉のものと偽って収録したのだという。 しかしながらこの問題は、平山自身や都倉武之がいうように、無署名論説の執筆者を文献学(テキストクリティーク)的に確定しないことには決着がつかない。井田進也は無署名論説認定方法を応用した『福澤諭吉全集』収録の「時事新報論説」執筆者再認定作業を開始している。今後の研究が待たれるところである。
※この「「脱亜論」再発見から」の解説は、「福澤諭吉」の解説の一部です。
「「脱亜論」再発見から」を含む「福澤諭吉」の記事については、「福澤諭吉」の概要を参照ください。
- 「脱亜論」再発見からのページへのリンク