「親日派」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 10:27 UTC 版)
日本統治時代末期に、鐘峴大聖堂助任司祭、京城教区長かつ朝鮮人司教であった盧基南は、日本の植民地支配や太平洋戦争に協力した(「親日派」)という疑惑が提起されている。たとえば、日本統治時代のカトリック教会の「親日行為」を告発した 『かむことができなかった舌』(2008年)では、盧基南を代表的な問題的人物に数えた。これに対して、積極的な親日行為ではなく、単純に韓国カトリック教会代表として仕方ない行動だったという反論が出されている。 1938年に結成された国民精神総動員朝鮮連盟にカトリック京城教区が参加した時、張勉とともに連盟の業務を担当した。京城教区は聖職者と信徒たちに朝夕で日本軍将兵のための祈祷をし、かつ戦争勝利のためのミサを捧げるようにしたが、教区の行為を主催、または援助したという疑惑が提起された。 1940年には皇紀2600年奉祝式とともに国民総力天主教京城教区連盟(ko:국민총력천주교경성교구연맹)を結成して盧基南は理事長に選任された。機関紙『傾向雑誌』を通じて内鮮一体の実現と国家に対する滅私奉公のために団体を結成したという主旨を説明した事がある。京城教区長に任命された後、1943年に結成された朝鮮戦時宗教報国会(ko:조선전시종교보국회)に天主教会代表委員で参加して出兵寄稿文を提出したという疑惑がかけられたが、本人の自筆かどうかは不確実である。 2005年10月21日、民族問題研究所が張勉・金性洙とともに盧基南を「親日派」に選定すると、金寿煥枢機卿は東亜日報との記者会見で遺憾の意を表明、張勉・盧基南・金性洙を弁護し、盧基南らは本意による自発的行動や積極的な行動ではなかったと述べた。盧基南大司教はカトリック聖職者代表であり、信者代表は張勉博士だったので、本人意志とは関係が無いことし、単純にそのようなことを見て親日であるという判断を下だすのはあまりにも軽率な行動で、彼等に対する冒涜である、もしその基準で見れば、私も学徒動員に行って来たし、創氏改名をしたし、学校に通う時に神社参拝もしており、当時大部分の人々がそうだったと語り、親日派選定基準を批判した。盧基南の業績に対しても、日本統治時代の間、大邱教区では日本人が司教になったが、ソウルはそれでも盧基南のような方がいて韓国人として司教になったので、韓民族に深い喜びを与えたと高く評価し、単純な表面的な判断で非難してはならないと主張した。 2008年に公開された民族問題研究所の親日人名辞書収録予定者名簿の宗教部門に選定された。これに対して、カトリックソウル大司教区は「戦争最後の時期、宗教など各団体責任を負った人物は、日本が強圧的に作った総動員団体の長になるしかないという不可避な状況だったのを考慮しなければならない。盧基南が強圧的に作られた団体に仕方なく属しただけであり、積極的な協力者ではなかった」と主張した。
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