アウスグライヒとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > アウスグライヒの意味・解説 

アウスグライヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/27 19:05 UTC 版)

ハンガリー王に即位するフランツ・ヨーゼフ1世エリーザベト妃

アウスグライヒ (ドイツ語: Österreichisch-Ungarischer Ausgleichハンガリー語: Kiegyezés) は、1867年ハプスブルク君主国を構成するオーストリア帝国ハンガリー王国間で結ばれた協定、ないし一連の政策。ハンガリー語では「キエジェゼーシュ」と言い、ともに日本語で「妥協」「和協」等と訳される[1]。但し歴史学では、敢えて訳さずに「アウスグライヒ」と記述することも多い[2]。これ以降、国家の正式名称はオーストリア=ハンガリー君主国(二重君主国、二重帝国とも称される)となり、この体制は第一次世界大戦の敗北に伴う国家消滅(1918年)まで継続する。

概要

オーストリア側(オーストリア帝冠領ツィスライタニエン)とハンガリー王国(ハンガリー王冠領、トランスライタニエン)は、それぞれ自立した政府、議会、憲法を有することとなり、皇帝とハンガリー国王をハプスブルク家の当主が兼ねることによって、全体として一つの国家を維持した。このような体制は、「ハンガリー王国にたいして内政上の支配権を与えながら、少なくとも理論的にはハプスブルク帝国の不可分の一部であることを承認させるものであった」[3]が、それは双方を「単なる同君連合の形でつないだものではなかった」[4]。「共通業務」として、外交、軍事、それにかかわる財政、この三点は「二重君主国全体で一元的かつ共通に処理しなければならないと定められ」[5]、依然として皇帝が直轄したからである。なお、いわゆるオーストリア側の公式名称は「帝国議会に代表を送る諸王国と諸領邦」であり、固有の名を有しなかった。

歴史

中世においてオーストリアは、ハプスブルク家が世襲的に支配していた神聖ローマ帝国内の一領邦に過ぎず、ハンガリー王国はそもそも神聖ローマ帝国の圏外だった。転機は1526年モハーチの戦いオスマン帝国軍がハンガリー王国軍に大勝したことで、これによりハンガリー領はハプスブルク家とオスマン帝国によって分割され、ハンガリー王位もハプスブルク家の下へ継承された。以後1806年に至るまでオーストリアとハンガリー王国は同君連合の関係にあったものの、ハンガリーでは独自の政府・議会・法律が維持され、両国は共通の君主を戴くことで緩やかに統合されているに過ぎなかった。

1803年帝国代表者会議主要決議によって神聖ローマ帝国が実質的に崩壊すると、新たにオーストリア帝国が成立したものの、ハンガリーの置かれた状況は変化しなかった。1840年代にヨーロッパを席巻した自由主義の影響を受けたハンガリー革命ロシア帝国の支援を受けたオーストリアによって鎮圧され、ハンガリーはそれまで保持していた独自の財政権を剥奪されたものの、それ以上の措置は取られなかった。

1867年、時のオーストリア帝国は、イタリア統一戦争普墺戦争等の戦争に敗北し、外交においてはロシア帝国との関係を悪化させ、その世界的地位を低下させてきた。そのような中、多民族国家であるオーストリア帝国内の諸民族は活発に自治・権利を獲得するための運動をしていた。連邦的改変を求める声が諸民族から上がったが、権利を失いたくない支配者階級のドイツ人の抵抗と国色の変化を恐れた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の反対もあり、マジャール人ハンガリー人)と協力して帝国内の諸民族を抑えることとした。このドイツ人とハンガリー人との「妥協」をもってアウスグライヒ体制と称する。

脚注

  1. ^ 稲野強「アウスグライヒ」柴宜弘ほか監修『東欧を知る事典』(平凡社、2015年)8ページ。
  2. ^ 代表として、大津留厚『ハプスブルクの実験』(中公新書、1995年)参照。
  3. ^ 小沢弘明「第六章:二重制の時代」南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』(山川出版社、1999年)222ページ。
  4. ^ 矢田俊隆『ハプスブルク帝国史研究』(岩波書店、1977年)349ページ。
  5. ^ 武藤真也子・馬場優「ハプスブルクの軍制と外交」大津留厚ほか編『ハプスブルク史研究入門』(昭和堂、2013年)146ページ。

関連項目

外部リンク



アウスグライヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 17:41 UTC 版)

フランツ・ヨーゼフ1世」の記事における「アウスグライヒ」の解説

帝国内の諸地域では、民族主義高揚し反政府運動盛んになっていた。プロイセン敗戦したことによる諸々喪失は、自国支配する能力にも影響及ぼしたのであるとりわけ警戒要したのは、皇帝対す恨みがいまだ残存しているハンガリーだった。ウィーンこのような状況下において、ベーメンチェコ人組んでハンガリー抑えるか、ハンガリーマジャル人組んでスラブ民族抑えるかという二者択一迫られることになった民族人口比、宗教が同じカトリックであること、ウィーンブダペスト近さなどからみて、ハンガリーとの協調適切だ考えられた。また、皇后エリーザベトハンガリー愛してその熱烈な擁護者になっていたことも大きな影響及ぼした。アウスグライヒについてのハンガリーとの交渉プロイセンとの戦前ら行われており、オーストリアプロイセン大敗した後も、ハンガリー足元を見ることなく戦前と同じ条件のみを求めたフランツ・ヨーゼフはこれに感謝しつつ、1867年ハンガリー人とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、二重君主国であるオーストリア=ハンガリー帝国成立させた。これにより、ハプスブルク帝国オーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割し二重帝国中央官庁としては共同外務省共同財務省設置する一方外交・軍事財政以外の内政ハンガリーに対して大幅に認めた1867年6月フランツ・ヨーゼフエリーザベトとともにマーチャーシュ聖堂へ赴き、ハンガリー国王としての戴冠式執り行った。なお、このブダペストでの祝賀行事最中メキシコ皇帝となったマクシミリアン処刑されたという知らせ受けたフランツ・ヨーゼフはアウスグライヒが成立した後、ハンガリー人以外の民族とも関係を自由に改善する余地があると考えていた。チェコポーランドにも、ハンガリーにとったのと同様の措置をとろうと考えた具体的な構想提出され帝国連邦制改めドナウ連邦構想が公式に議論された。不満を抱くチェコ人のためにボヘミア王として戴冠することを約束したが、これを二重制を壊すものだとするハンガリー首相アンドラーシ・ジュラ猛烈な反対に遭い断念せざるをえなかった。

※この「アウスグライヒ」の解説は、「フランツ・ヨーゼフ1世」の解説の一部です。
「アウスグライヒ」を含む「フランツ・ヨーゼフ1世」の記事については、「フランツ・ヨーゼフ1世」の概要を参照ください。


アウスグライヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:46 UTC 版)

フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「アウスグライヒ」の解説

帝国内の諸地域では、民族主義高揚し反政府運動盛んになっていた。プロイセン敗戦したことによる諸々喪失は、自国支配する能力にも影響及ぼしたのであるとりわけ警戒要したのは、皇帝対す恨みがいまだ残存しているハンガリーだった。ウィーンこのような状況下において、ベーメンチェコ人組んでハンガリー抑えるか、ハンガリーマジャル人組んでスラブ民族抑えるかという二者択一迫られることになった民族人口比、宗教が同じカトリックであること、ウィーンブダペスト近さなどからみて、ハンガリーとの協調適切だ考えられた。また、皇后エリーザベトハンガリー愛してその熱烈な擁護者になっていたことも大きな影響及ぼした。アウスグライヒについてのハンガリーとの交渉プロイセンとの戦前ら行われており、オーストリアプロイセン大敗した後も、ハンガリー足元を見ることなく戦前と同じ条件のみを求めたフランツ・ヨーゼフはこれに感謝しつつ、1867年ハンガリー人とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、二重君主国であるオーストリア=ハンガリー帝国成立させた。これにより、ハプスブルク帝国オーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割し二重帝国中央官庁としては共同外務省共同財務省設置する一方外交・軍事財政以外の内政ハンガリーに対して大幅に認めた1867年6月フランツ・ヨーゼフエリーザベトとともにマーチャーシュ聖堂へ赴き、ハンガリー国王としての戴冠式執り行った。なお、このブダペストでの祝賀行事最中メキシコ皇帝となったマクシミリアン処刑されたという知らせ受けたフランツ・ヨーゼフはアウスグライヒが成立した後、ハンガリー人以外の民族とも関係を自由に改善する余地があると考えていた。チェコポーランドにも、ハンガリーにとったのと同様の措置をとろうと考えた具体的な構想提出され帝国連邦制改めドナウ連邦構想が公式に議論された。不満を抱くチェコ人のためにボヘミア王として戴冠することを約束したが、これを二重制を壊すものだとするハンガリー首相アンドラーシ・ジュラ猛烈な反対に遭い断念せざるをえなかった。

※この「アウスグライヒ」の解説は、「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の解説の一部です。
「アウスグライヒ」を含む「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事については、「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「アウスグライヒ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アウスグライヒ」の関連用語

アウスグライヒのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アウスグライヒのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアウスグライヒ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのフランツ・ヨーゼフ1世 (改訂履歴)、フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS