アメリカ合衆国との紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:45 UTC 版)
「スペイン領テキサス」の記事における「アメリカ合衆国との紛争」の解説
1783年の第2パリ条約でアメリカ独立戦争が終わり、アメリカ合衆国が設立された。この条約は新しい国の西側境界をミシシッピ川にまで拡げ、条約の締結から1年以内に5万人のアメリカ人開拓者がアパラチア山脈を越えた。山脈を越えて東部に戻るのは困難だったので、開拓者達はその収穫物を売る対象としてスペイン領テキサスやルイジアナの方向を見始めた。スペインは、1790年に合衆国のトーマス・ジェファーソンが戦争を始めるぞと脅したにも拘わらず、1784年から1795年までミシシッピ川河口を外国人に対して閉ざしていた。アメリカ人は逮捕される危険を冒してテキサスに入り、その多くはテキサス西部で野生のマスタング(小型の馬)を捕まえることやインディアン達と交易することを望んだ。1791年、フィリップ・ノーランがテキサスで馬の取引を求めた最初のイギリス系アメリカ人となり、スペイン境界内にいるところを何度も逮捕された。スペインはノーランがスパイであることを恐れ、1801年に150人の軍隊を派遣して、ノーランとその6人の隊を捕まえようとした。ノーランはそれに続く戦闘で殺された。1810年までに、多くのアメリカ人がテキサスのインディアン、特にコマンチェ族とその家畜と引き換えに銃や弾薬を売った。インディアンの何人かの酋長は交易を拒みアメリカ人の動きをスペイン当局に報告したが、その他のバンドは新参者を歓迎した。干魃で放牧地が少なくなり、コマンチェ族の家畜は殖えなくなった。コマンチェ族はアメリカ人の求める家畜のために、サンアントニオ周辺の襲撃に向かった。 スペイン政府は人口を多くすれば安全性が保てるようになると考えたが、スペインあるいは新世界の他の植民地から植民者を惹き付けることができなかった。18世紀終盤までに、テキサスは人口密度が1平方リーグあたり2人(1平方kmあたり0.1人)に満たない、ヌエバ・エスパーニャの中でも最も人口の少ない地域だった。この人口は比較的停滞気味であり、1777年の3,103人から1790年の3,169人と僅かに成長しただけだった。人口の半数以上がスペイン人であり、入植したインディアン達が次に大きな集団だった。黒人は大半が奴隷であり、1777年の人口構成比1%足らずから1793年の調査で同2.2%と僅かなものだった。テキサスの成人のうち3分の2以上が結婚しており、独身男性の数が独身女性の数を上回っていたが、未亡人の比率も高かった。人種間結婚は極めて普通にあることであり、白人男性と混血女性の結婚が多かった。この組合せから生まれた子供は白人として遇されることが多かった。非嫡出子の数は18世紀を通じて着実に増えており、1799年には全出産数の20%に達した。しかし、テキサスの人口が少なかったにも拘わらず、スペインはテキサスへの移民を活発には奨励せず、1790年にナコグドチェスに置かれた恒久的守備隊が、外国人が地域内に入ってくるのを停めた。アメリカ合衆国からの移民は忠誠の誓いをした後でルイジアナやフロリダへの入植を認められたが、ローマ・カトリックへの改宗までは求められなかった。 1799年、スペインはイタリア中部における王座を得るという約束と引き換えにフランスにルイジアナを返還した。この協定は1800年10月1日に署名されたが、1802年まで実効あるものにならなかった。翌年、ナポレオン・ボナパルトはルイジアナをアメリカ合衆国に売却した。ルイジアナ植民地に移動していたスペイン人の多くが、テキサスやフロリダなどスペインの領土に移動した。スペインとフランスの間にできた当初の協定はルイジアナ植民地の境界を明確にしておらず、文書の中の表現は曖昧で矛盾を孕んだものだった。ルイジアナとテキサス両植民地がスペインの支配下にあった時でも、境界を何処にすべきかについて意見の不一致があった。1793年、スペイン国王はフランス人から推薦されていたように境界をナカタシュからサビーン川に動かす必要はないと決めた。 アメリカ合衆国は、その買収した範囲に西フロリダの大半とテキサスの全部を含むものと主張した。トーマス・ジェファーソンはルイジアナ領土が西はロッキー山脈まで、ミシシッピ川とミズーリ川およびその支流の全流域を含み、南の境界はリオ・グランデ川だと主張した。スペインは、ルイジアナ領土がナカタシュまでであり、イリノイ領土を含まないと主張した。 テキサスは再び緩衝地帯と見なされたが、今回はヌエバ・エスパーニャとアメリカ合衆国との緩衝地帯だった。1804年、スペインはテキサスの人口を増やすために数千の植民者を送り込む計画を立てた(当時の人口はヒスパニック系住民で4,000人)。この計画は、政府に開拓者を移動させる金が無かったために頓挫した。テキサスを防衛する責任は内陸植民地の軍政府長官に新しく着任したネメシオ・サルセドに委ねられた。サルセドはテキサスへの移民を奨励し、トリニティ川がサンアントニオからナコグドチェスに至る道と交わる場所に、トリニダード・デ・サルセドという新しい町が設立された。短期間、サルセドはルイジアナからのスペイン臣民がテキサスに入ってくることを許した。ダニエル・ブーンを始め、スペインに帰化した少数のアメリカ人がこの時期にテキサスに入植した。しかしサルセドは「外国人は我々の目を突くカラス以外の何者でもないし、将来もならない。」と警告した。 スペイン国王カルロス4世は真の国境を決定するためのデータを集めるよう命じた。その国境が設定される前に、両国共に論争のあった地域に武装した部隊の遠征を行い、スペインはテキサスに駐屯する軍隊の数を増強し始めた。1806年までにテキサスにいるスペイン兵士の数は883名と2倍になり、ナコグドチェスとその周辺に駐屯した。1806年末、地元の指揮官が一時的な協定の交渉を行い、スペインもアメリカもサビーン川とアロヨ・ホンドの間には立ち入らないことになった。この中立地帯は直ぐに無法者の天国になり、個人が境界を越えて入ってくるのをとめられなくなった。アメリカ陸軍の任務でルイジアナ買収地の中の論争のあった地域を探索しているときに、リオ・グランデ川でキャンプしていたゼブロン・パイクがスペイン人に逮捕され、ナカタシュまで送り返された。パイクの地図やノートは没収されたが、記憶していた範囲で作り直した。テキサスの土地と動物に関するパイクの生き生きした報告によって、多くのアメリカ人がこの土地の支配に憧れるようになった。
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