アメリカ軍の上陸計画
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「ブーゲンビル島沖海戦」の記事における「アメリカ軍の上陸計画」の解説
連合国および南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将が1943年4月26日に発令したカートホイール作戦の計画では、ラバウルを攻略せず無視することがすでに決まっていた。第3艦隊(南太平洋部隊。ウィリアム・ハルゼー大将)は、ラバウル包囲のためにブーゲンビル島を攻略することと、ブーゲンビル島とその周辺の島々のうち、ブイン地区とショートランド諸島をパスするところまでは作戦進捗に伴う計画修正により決めていたものの、ブーゲンビル島のどこで上陸作戦を行うかについては、候補地が2つあった。潜水艦から派遣された偵察班の調査により選ばれた2つの候補地は、ブーゲンビル島北東部のキエタと、その反対側にあるエンプレス・オーガスタ湾であった。しかし、キエタは港湾としては優れていたもののラバウルから遠かったこと、エンプレス・オーガスタ湾に面したタロキナ地区に飛行場適地があったこと、タロキナ方面の日本軍部隊がわずかであるなどの理由により、エンプレス・オーガスタ湾に上陸する事が決まった。また、予備作戦としてトレジャリー諸島にニュージーランド軍一個旅団を、欺瞞作戦でチョイセル島にも上陸部隊を送ることとなったが、第3艦隊目下の悩みは手持ちの兵力の少なさであった。 アレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵中将率いる上陸部隊は、二個師団とニュージーランド軍一個旅団合わせて約34,000名。上陸部隊を護衛・輸送するセオドア・S・ウィルキンソン少将率いる第三水陸両用部隊は輸送船12隻と駆逐艦11隻。そしてこれらの部隊を支援する水上兵力はアーロン・S・メリル少将の第39任務部隊だけであり、あとは第5艦隊(レイモンド・スプルーアンス中将)から借用の第38任務部隊(フレデリック・C・シャーマン少将)があっただけである。アメリカ海軍がソロモン方面に投入していた空母は1943年7月以降第38任務部隊のサラトガ一隻だけであった。 アメリカ海軍はギルバート諸島攻略のガルヴァニック作戦との関連で、主力やエセックス級航空母艦などの新鋭艦などは中部太平洋方面に投入していた。太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将の認識では、中部太平洋方面への進撃により日本軍の注意はこちらへ集まり、ブーゲンビル島作戦は第3艦隊手持ちの艦艇だけで遂行できると判断していた。ブーゲンビル島への上陸作戦を決定した後、ハルゼー大将は真珠湾の太平洋艦隊司令部に向かい、増援を要請する。その結果、新鋭の軽空母プリンストン (USS Princeton, CVL-23) と巡洋艦群、駆逐群が派遣される事となったが、タロキナ上陸作戦の予定日である11月1日までには合流できなかった。このような制約があったにもかかわらず、10月27日にはトレジャリー諸島とチョイセル島に先行部隊が上陸し、小規模戦闘となった。次いで11月1日早朝、エンプレス・オーガスタ湾への上陸作戦が敢行され、上陸作戦から日本軍の注意をそらすために第39任務部隊はブカ島とショートランドに対して艦砲射撃を行い、第38任務部隊の艦載機はブカ島を爆撃した。また連合軍輸送船団発見とブカ島砲撃の電報をうけ、南東方面部隊指揮官草鹿任一南東方面艦隊司令長官は麾下の南東方面艦隊(外南洋部隊/SNB、第一基地航空部隊/1FGB)はソロモン方面邀撃作戦を発動し、第一基地航空部隊(第十一航空艦隊基幹)に敵輸送船団攻撃を命じた。
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