アンダマン‐しょとう〔‐シヨタウ〕【アンダマン諸島】
アンダマン諸島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/13 02:12 UTC 版)
地理 | |
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場所 | ベンガル湾 |
座標 | 北緯12度30分 東経92度45分 / 北緯12.500度 東経92.750度座標: 北緯12度30分 東経92度45分 / 北緯12.500度 東経92.750度 |
諸島 | アンダマン・ニコバル諸島 |
面積 | 6,408 km2 (2,474 sq mi) |
最高標高 | 732 m (2402 ft) |
行政 | |
人口統計 | |
人口 | 343,125[1] |
人口密度 | 48 /km2 (124 /sq mi) |
追加情報 | |
時間帯 | |
• 夏時間(DST) |
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公式サイト | www |
アンダマン諸島(アンダマンしょとう、Andaman Islands)は、インド東部のベンガル湾に浮かぶ、インド、ミャンマーに属する島々。南の方にあるニコバル諸島と共に、インドの連邦直轄地域アンダマン・ニコバル諸島を成している。また数島はミャンマーに属す。
概要
北緯10度30分から13度30分にわたって大小302の島々が連なる。さらに南には、19の島々からなるニコバル諸島がある。
面積は6,340km2で、人口は34万3125人(2011年)、中心地はポートブレアである。
住民の多くが南アンダマン島、中アンダマン島、北アンダマン島の3島に集中し、残りの小アンダマン島など276余りの島々は、ほぼ無人である。いずれの島ともほぼ低平で、最高点は738mにすぎない。2月から4月にかけては雨がやや少ないが年中、高温多潤である。南アンダマン島にある、中心都市のポートブレアでは最も寒い月でも23.7度ある。
2004年のスマトラ島沖地震では、震源が近いこともあり、津波も含めて被害が大きく、住民の生活が破壊され、大きな地形の変化が見られた。
産業
特筆する産業はほとんどなく、熱帯モンスーン下におけるジャングルが最大の資源である。アンダマン紅木をはじめとする木材、コプラ、ココナッツ、ゴムなどの林産物が貴重な輸出品である。近年は軟材を用いたマッチの製造工業が盛んになってきている。
島の面積のわずか4%が耕地化されているにすぎず、米、トウモロコシ、豆、キビ類が栽培されているものの、食料穀物は自給できず輸入に頼っており、チェンナイおよびコルカタがインド大陸からの窓口となっている。
最近は観光産業にも力を入れている。
歴史
デンマーク植民地時代
1754年11月、デンマーク=ノルウェーの当局者の会議がトランケバルで開催された。アンダマン・ニコバル諸島を植民地化し、コショウ、シナモン、サトウキビ、コーヒー、綿花を植えることが決定された。
1755年12月、デンマーク=ノルウェーの入植者がアンダマン諸島に到着。しかし植民地ではマラリアが発生するため、1848年に定住地が永久に放棄されるまで何度も挫折が繰り返された。この散発的な占領は、オーストリアやイギリスなどの他の植民地勢力の島々への進出につながった[2]
1777年にアンダマン・ニコバル諸島は、他のインド植民地とともに勅許会社(デンマーク・アジア会社)から政府に引き渡され、デンマーク=ノルウェーの直轄植民地になった。
イギリス植民地時代
17-18世紀にかけて、ヨーロッパの勢力、特にイギリスがアンダマン諸島を訪れるようになった。1789年、アンダマン・ニコバル諸島のうちアンダマン諸島がイギリス植民地となった。英海軍のコール・ブルックとアーチバルド・ブレアがアンダマン諸島に居留地を建設できないか調査を行った[3][注 1]。
1857年にインド大反乱が起きると、イギリスはアンダマン諸島を反乱に加わった政治犯の流刑地に選んだ。翌1858年5月に最初の流刑者200人がポートブレアに上陸し、3か月経たないうちに流刑者数は773人に増えた。[4]
イギリスは、1896年から十数年かけて、今も建物の残る大監獄・セルラー刑務所を建設した。またポートブレア沖合のロス島に教会、病院、郵便局等の施設を建設し、支配拠点を築いた。[5]
日本の統治時代
住民
1857年以後、アンダマン諸島はイギリスに対して反乱を起こした政治犯の流刑地となり、インドやビルマから多くの流刑者がこの地に送られたことにより人口が増加した。のちにビルマ人、インド人の移民が加わり、原住民との混血を繰り返し、現在の住民構成となった。
人口は34万3125人(2011年)。住民の多くは第一次産業に従事している。現在では住民の大半がインド人移民であり、アンダマン諸島先住民(大アンダマン人、ジャンギル族、ジャラワ族、オンゲ族、センチネル族)は外部との接触による疫病等で激減または絶滅した。彼らは系統不明のアンダマン諸語を話す。
主要島嶼
脚注
注釈
- ^ これが南アンダマン島の都市ポートブレアの名前の由来となっている。
出典
- ^ Provisional Population Totals Paper 1 of 2011 : Andaman and Nicobar Islands - Census of India
- ^ Kukreja, Dhiraj (1 September 2013). “Andaman and Nicobar Islands: A Security Challenge for India”. Indian Defence Review. ISBN 9788170621836 .
- ^ 木村(2001) 45頁
- ^ 木村(2001) 45-46頁
- ^ 木村(2001) 46頁
参考文献
- 木村(2001): 木村宏一郎『忘れられた戦争責任 カーニコバル島事件と台湾軍属』青木書店、2001年。 :ISBN 4250201384
関連項目
- ピグミー
- 四つの署名 - アーサー・コナン・ドイルの長編小説。シャーロック・ホームズシリーズの一つ。作中に同地域出身の人物が登場する。
- アンダマン海
外部リンク
アンダマン諸島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 22:51 UTC 版)
「ハプログループD (Y染色体)」の記事における「アンダマン諸島」の解説
アンダマン諸島ではD1a2b-Y34537 が高頻度であり、特にオンガン系オンゲ族(23/23)、ジャラワ族(4/4)では100%を占めるが、言語系統の異なる大アンダマン人では0%(0/10)である。遺伝子分析により、アンダマン人は東アジア・東南アジアを祖先に持つ遺伝子が 31-75% 観察されている。
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アンダマン諸島
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「日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領」の記事における「アンダマン諸島」の解説
アンダマン諸島では、1944年1月には既に、食糧の支給は所要量の60%しかなされず、所要量の40%は島外からの補給によるもので自給量は20-25%程度しかない状況だった。このため兵員による自給が促され、日課の中に農耕の時間が設けられていた。その後、1944年5月に独立混成旅団の兵員の増強があり、1944年11月には島外からの補給船が途絶えたため、食料事情はより深刻になった。 1945年に入ると兵士への主食の支給量は通常の1/3の量に減らされ、漁撈・農耕に兵力を動員して魚・野菜の採取増をはかったり、野生の鳥獣を捕えて食べたりするようになった。現地住民への主食配給の制限も厳格化されたため、島民に餓死者・栄養失調の者が増加した。軍用米が尽きてきたため、日本軍は、軍で使役していた現地住民約6千人を解雇して自給をはかるよう命じた。 1945年7月末に海軍民政部は島民に対して「8月以降米の配給を停止する」との声明を出し、混乱を阻止するため、「食糧庫を荒らす者、軍民を問わず農場に侵入する者は射殺してよい」と公示したが、実際に食糧を盗もうとして殺される者が相次いだ。このような状況下で、住民の離反も進み、中には禁を犯して島外への脱出を試みる者も出るようになった。
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アンダマン諸島
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「日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領」の記事における「アンダマン諸島」の解説
1945年7月23日夜、上陸用の舟艇を盗んで島外へ逃亡しようとしたビルマ人の現地住民34人(女性や子供を含む)が日本軍に発見・逮捕され、独立混成第35旅団司令部(旅団長・佐藤為徳少将)の命令により、同月25日にポートブレアから所要4,5時間の無人島・タマグリ島に連行され全員が射殺された(第一タマグリ島事件)。また、1945年8月初旬には中アンダマン島で、海軍の舟艇と食糧を盗みラングーンへ逃亡しようとしたビルマ人9人が日本軍に逮捕され、海軍第12特別根拠地隊司令部(司令官・原鼎三中将)の命令により、全員がスチュワードサウンド (Stewart Sound) という場所へ連行され、殺害された(スチュワードサウンド事件)。 1945年8月初旬、海軍第12特別根拠地隊司令部は、南アンダマン島の約400人の住民を強制的に耕地のない無人島ヘブロック島へ移住させた。終戦後の1945年9月21日、この措置が戦争犯罪として問題視されることを恐れて救助に行ったところ、住民の餓死体が折り重なっているのを発見し、救助された生存者は11名のみだった(ヘブロック島事件)。
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固有名詞の分類
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