アンティータムの戦い
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アンティータムの戦い(アンティータムのたたかい、英:Battle of Antietam、またはシャープスバーグの戦い(Battle of Sharpsburg、特に南部での呼び方))は、南北戦争の中盤1862年9月17日、メリーランド方面作戦の一環としてメリーランド州シャープスバーグ近く、およびアンティータム・クリークで行われた戦闘であり、北部の大地で行われたことでは南北戦争で初めての主要会戦であった。両軍合わせて約23,000名の損失があり、合衆国の歴史の中でも単一日の戦闘として最も流血の多い戦闘となった[1]。
- ^ McPherson, p. 3.
- ^ NPS.
- ^ メリーランドは合衆国に残ったものの奴隷州であり、南軍が侵攻して北軍を追い出す事ができればメリーランドを南部連合に引き込む事ができる可能性すらあるとリー自身ディヴィス大統領に説明していた。Palmer, pp. 16
- ^ Sears, pp. 65-66; McPherson, pp. 88-95.
- ^ Palmer pp. 21.
- ^ Sears, p. 112; McPherson, p. 108.
- ^ 敵軍が12万もの大軍だと思っていたせいと、この書類が実はリーの罠ではないかと疑っていたせいだと言われている。Palmer, pp. 28
- ^ McPherson, pp. 110-12.
- ^ Eicher, p. 337. 公式記録を含み大半の歴史書はこれらの組織を軍団と呼ぶが、その呼び方はメリーランド方面作戦の終わった後の1862年11月6日までは、正式なものではなかった。ロングストリートの部隊は右翼と呼ばれ、ジャクソン部隊は左翼と呼ばれた。
- ^ Eicher, p. 338.
- ^ Bailey, p. 60.
- ^ Bailey, p. 63.
- ^ Sears, p. 181.
- ^ a b Wolff, p. 60.
- ^ Sears, p. 190.
- ^ a b Wolff, p. 61.
- ^ Bailey, pp. 71, 73.
- ^ Bailey, p. 71.
- ^ Bailey, p. 75.
- ^ Bailey, p. 79.
- ^ Bailey, p. 81.
- ^ Bailey, p. 70.
- ^ Bailey, pp. 79-80.
- ^ Armstrong, pp. 3-27; Sears, pp. 221-30; Eicher, pp. 353-55; Wolff, pp. 61-62.
- ^ Armstrong, pp. 39-55.
- ^ Kennedy, p. 120.
- ^ Bailey, p. 93.
- ^ Bailey, p. 94.
- ^ Wolff, p. 63.
- ^ Bailey, p. 99.
- ^ Bailey, p. 100.
- ^ Bailey, pp. 101, 103.
- ^ Sears, p. 242.
- ^ Bailey, p. 102.
- ^ Sears, p. 254.
- ^ Bailey, p. 108.
- ^ Bailey, pp. 108-9.
- ^ Bailey, p. 141.
- ^ Jamieson, p. 94. マクレランは、フッカーとマンスフィールドの攻撃が撃退された後の9時10分に命令を発しており、第6軍団が戦場に達し予備隊の配置に付くまで待たせた。
- ^ Wolff, p. 64.
- ^ a b Douglas, p. 172.
- ^ Eicher, 359-60; Sears, p. 260; Wolff, p. 64.
- ^ Tucker, p. 87.
- ^ Sears, p. 263.
- ^ Bailey, p. 120.
- ^ Sears, pp. 264-65.
- ^ Sears, pp. 266-67; Bailey, pp. 125-26.
- ^ Sears, p. 276.
- ^ Bailey, p. 131.
- ^ Bailey, pp. 133-36.
- ^ Bailey, pp. 136-37.
- ^ Sears, pp. 291-92.
- ^ Sears, pp. 294-96. 南軍の損失は推計; McPherson, p. 129. マクファーソンは南軍の損失を、戦死が1,546名から2,700名の間、損失計は7,752名から9,024名の間としている。また両軍の負傷者のうち2,000名以上がその傷が故で死んだと報告した。
- ^ アンティータムは時に全アメリカ史の中でも最も流血の多かった日とされるが、1900年のガルベストン・ハリケーンの死者はかなり多かった。アメリカ史で最も損失が大きかった戦闘はゲティスバーグの戦いであったが、その46,000名以上の損失は3日間にわたるものであった。アンティータムは南北戦争の中での損失数でいうと5番目にあたり、その上位にはチカマウガの戦い、チャンセラーズヴィルの戦いおよびスポットシルバニアの戦いが来る。
- ^ Sears, p. 296.
- ^ Bailey, p. 67.
- ^ McPherson, p. 155.
- 1 アンティータムの戦いとは
- 2 アンティータムの戦いの概要
- 3 背景およびメリーランド方面作戦
- 4 対戦した勢力
- 5 戦闘
- 6 戦闘の後
- 7 関連項目
アンティータムの戦い
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「アンブローズ・バーンサイド」の記事における「アンティータムの戦い」の解説
メリーランド方面作戦の開始となったサウス山の戦いでは、ポトマック軍の「右翼」(第1軍団と第9軍団)の指揮を与えられたが、アンティータムの戦いでは、マクレランがこれを分けてそれぞれ北軍の両端に配置したので、バーンサイドはまた第9軍団のみの指揮官に戻った。バーンサイドは暗に高い権威を諦めることを拒み、先ずジェシー・リー・リノ少将を(サウスマウンテンで戦死)、次にジェイコブ・D・コックス准将を軍団指揮官として待遇し、命令は軍団長を通して軍団に伝えた。この煩わしい手配のために、北軍前線の南側側面にあって「バーンサイドの橋」と今も呼ばれる橋の攻撃やそれを渡るときに動きが鈍くなってしまった。 バーンサイドはその地域の適切な偵察を行わず、その部隊は敵の射程に入らない所で容易に川を渉れる利点を活かす代わりに、高台に陣取る南軍の狙撃手に支配されている狭い橋を渡って何度も突撃することを強いられた。正午までに、マクレランは辛抱できなくなった。マクレランは何度もバーンサイドに前進する気持ちにさせるよう伝令を送った。ある副官には「彼に犠牲が1万人になっても今行かねばならない」と伝えるよう命令した。監察長官デロス・B・サケット大佐を派遣して、バーンサイドに対決させることで圧力を掛けていったが、バーンサイドは憤然として「マクレランは、私がこの橋を落とすために最善を尽くしていないと考えているようだ。あなたは今朝同じ命令を持って私の所にきた3人目あるいは4人目だ」と答えた。この攻撃の遅れによって、南軍のA・P・ヒル少将の師団がハーパーズ・フェリーから駆け付け、北軍の突破に対して反撃することを許した。マクレランはバーンサイドの援軍要請を拒み、戦いは戦術的行き詰まりのままに終わった。
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