アンナ・ピエーリ・ブリニョーレ・サーレとは? わかりやすく解説

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アンナ・ピエーリ・ブリニョーレ・サーレ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/21 19:33 UTC 版)

アンナ・ピエーリ・ブリニョーレ・サーレ
Anna Pieri Brignole-Sale
アンナ・ピエーリ・ブリニョーレ・サーレ、アントン・フォン・マロン、1792年

出生 1765年
シエーナ
死去 1815年
シェーンブルン宮殿
配偶者 グロポリ侯爵アントン・ジューリオ3世・ブリニョーレ・サーレ
子女 一覧参照
家名 ブリニョーレ家
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アンナ・ピエーリ・ブリニョーレ・サーレAnna Pieri Brignole-Sale, 1765年[1] - 1815年)は、シエーナ出身の貴族女性。ジェノヴァ共和国の権門ブリニョーレ家イタリア語版に嫁いだ。ナポレオン体制の熱烈な信奉者であり、ナポレオンの後妻マリー=ルイーズ皇后の女官を務めた。

生涯

シエーナの洗練された都市貴族の家系に生まれた。1786年、グロポリ侯爵アントン・ジューリオ3世・ブリニョーレ・サーレ(1802年没[1])と結婚。婚家はジェノヴァ共和国屈指の名門で、共和国元首(ドージェ)を何世代にも渡って務めていた[1]。夫の父ロドルフォ・エミーリオイタリア語版、伯父ジョヴァンニ・フランチェスコイタリア語版も元首職の経験者だった。侯爵夫人アンナは居宅パラッツォ・ロッソの最上階で、啓蒙主義的な文芸サロンの女主人として華やかな生活を送った[2]

夫の没後、第一帝政期のパリ社交界に出入りするようになり、タレーランら政府要人とも親しく交際するようになった。1810年、ナポレオン皇帝の再婚相手マリー=ルイーズ皇后の女官に任命され[2]、同年皇帝により(自身の権利として)女伯爵の位を授かった[1]。失脚したナポレオンが1814年エルバ島に島流しにされると、アンナはマリー=ルイーズに付き従ってオーストリアに移り、女主人に対して夫君に忠実であり続けるよう説得した。しかしウィーン宮廷はナポレオンに対する憎悪を強め、アンナはその与党としてオーストリア秘密警察に身辺を嗅ぎまわられる立場となった。アンナはその後同地で死亡した。

子女

夫との間に4人の子をもうけた。

引用

  1. ^ a b c d Valynseele 1959, p. 51.
  2. ^ a b Ritratto di Anna Pieri Brignole-Sale.
  3. ^ Schneider, Werner & Mazohl 2015, p. 124.
  4. ^ Bonaparte & Basso 1975, p. 197.
  5. ^ Golo Mann: Lord Acton. In: Ders.: Geschichte und Geschichten. S. Fischer Verlag, Frankfurt am Main 1961. S. 85–101, hier S. 86.

参考文献




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