ウマイヤ‐ちょう〔‐テウ〕【ウマイヤ朝】
ウマイヤ朝
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ウマイヤ朝(ウマイヤちょう、アラビア語: الدولة الأموية、al-Dawla al-Umawiyya)は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝である。大食(唐での呼称)、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもある。
脚注
出典
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ウマイヤ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 11:02 UTC 版)
詳細は「ウマイヤ朝」を参照 アリーの暗殺後、ウマイヤ朝が成立し、首都をシリアのダマスカスに移して世襲王朝を築いた。イスラム帝国支配下のイラク地域はイラク(`Irāq)の呼び名で知られるようになり、アラビア半島から多くのアラブ人が、またバルカン半島から研究目的や労働目的でギリシャ人が移住してきた。 ウマイヤ朝では、イスラム教徒(ムスリム)であるアラブ人が異民族を支配した。各地に移住したアラブ人は戦士として俸給を受け、ミスルと呼ばれる新しい軍営都市を築いて集団生活した。イラクにおいては、古バビロンの近くのクーファと南部のバスラにミスルが築かれ、また、北イラクのモースルがイスラム教徒の政治と軍事の重要拠点になった。非アラブ人だけが人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負った。
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ウマイヤ朝
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アリーの暗殺後、アリーの政敵であったシリア総督ムアーウィヤが自らカリフに就任して建設した政権。就任に至る経緯、およびムアーウィヤがカリフ位の世襲化を始めたことから、これまでの4人の正統カリフに比べて合法性で劣るとみなされたが、大多数のムスリム(スンナ派)はウマイヤ朝の支配を承認したので、イスラム帝国最初の世襲王朝となった。 ウマイヤ朝は正統カリフ時代末期の内紛を収めて安定した支配を構築すると、西では北アフリカ、アンダルス(イベリア半島)、東ではホラーサーンまで勢力を広げ、アラブ人が異民族を支配する『大世界帝国』へと発展した。
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ウマイヤ朝
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ムアーウィアは、現実感覚に富み、柔軟な手練手管でイスラム帝国を統治した。彼の体制が大きく変わるまでの約100年弱の期間を称して、一般にウマイヤ朝と呼ぶ。彼はウマイヤ家の封土であったシリア優先政策を採り、首都もダマスカスに移したが、他方では、懐柔政策で地方の反乱を未然に防ぎ、息子ヤジードのカリフ位世襲に腐心した。当時の史料には、メッカ・マディーナの有力者に賄賂を与え、反対者を孤立させたうえで、自ら千騎を率いて、マディーナに乗り込み、残った者達を黙らせる様子が描写される。 こうして、680年に彼が死ぬと、息子のヤジードが即位するが、前例のないカリフ位世襲に反対し、前々代カリフ、アリーの子、フセインが朋輩達に唆されて、反乱を企図する。彼らの反乱は、順次、ウマイヤ朝軍に撃破されるが、その過程で、メッカのカーバ神殿は焼かれ(681年)、マディーナは大規模に略奪され(683年)、翌年には、千人の父なし子が生まれた。イスラム史家は、これを直前のハルラの戦いからとってハルラの子と呼ぶ。シーア派は、フセインの死を悼み、毎年、10月(ムハルラム)の最初の10日間には祭典を行い、彼の一行の殺された地、カルバラはマシュハド・フセインとして聖地のひとつとする。 一方のウマイヤ朝も、ヤジードが死ぬとその子ムアーウィア2世がカリフ位を継ぐが、病弱で在位3か月にして世を去り、反乱は多発。宿将マルワーンはこれらを平定し、684年にカリフ位に即位するも、後継問題のこじれから在位1年にして妻の一人に暗殺される。こうした中、新たにカリフに即位したアブドゥル・マリクは、文武に長けた名君と讃えられ、再び反乱を起こしたメッカを落として、ようやくウマイヤ朝は小康状態を取り戻した。彼と、その子ワリードの代に、イスラム教徒による遠征は再開され、ギリシャでは東ローマ帝国に攻め入り、コンスタンティノープルを包囲。 708年には、北アフリカ一帯を征服し、711年にはイベリア半島に上陸して、現地のキリスト教国(西ゴート王国)を滅ぼして、ピレネー山脈を越えて、フランスに侵入した。フランスへの進撃は、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いに敗れるまで続いたが、その後、キリスト教徒による抵抗が強くなり、8世紀中盤には、フランスを放棄して、ヨーロッパではイベリア半島のみを保持するようになる。一方、東部でも同時期(705年)に遠征を再開し、名将クタイバは、サマルカンド占領を嚆矢に、中央アジア、トルキスタン一帯を制圧し、751年にはタラス河畔で唐と激突し、これを撃破した。 しかし、その後彼は罷免され、それを不満に反乱を起こすが、自分の部下により殺害され、こうしてイスラム帝国の領土拡張は終息した。また、こうした時期、アブドゥル・マリクは、キリスト教徒を激しく嫌い、厳しく弾圧したが、何名かのカリフは懐柔策を行い、キリスト教徒を下層民として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)を課すことで満足した。改宗は奨励され、重税の減免と社会的地位向上を求めて、ムスリムに改宗する者も少なくなかったが、一方で、このシステムにはジレンマがあり、異教徒が減ることは税収の減少を意味し、ウマル2世の代には改宗者(マワーリー)に地租を課すようになり、それはしばしば大きな反乱を誘発した。エジプトでは8世紀にはまだ大多数がキリスト教徒であり、これらがイスラム教徒に改宗するまで、なお500年の年月を必要とした。
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ウマイヤ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 09:51 UTC 版)
歴史時代:ダマスカスのウマイヤ朝 最初のイスラーム王朝であるウマイヤ朝(661年-750年)において、宗教的および世俗的な建築が共に新しいコンセプトと様式をともなって発展した。中庭と多柱式の礼拝室からなるアラブ様式は、ダマスカスの最も神聖な場所にウマイヤド・モスクが建設されてから様式として確立された。この大建築は建築者たちと美術史家たちにとってアラブ様式の誕生を知らせる目印となっていった。 エルサレムの岩のドームは、イスラーム建築全体を通じて最も重要な建築物の1つである。金地のモザイクや、聖墳墓教会を想起させる中央部の様式にビザンチンの強い影響が見られるが、クルアーンの書かれた銘文をともなう250mにわたるフリーズのような純粋にイスラーム的な要素も既に含んでいた。しかしながら、そのモデルは発展を見ず、この作品の流れを汲むものは出現しなかった。 パレスチナの砂漠の城(フランス語版)(砂漠の離宮とも呼ぶ)の数々は、その正確な機能については諸説があるが、世俗・軍事的な建築に関する多くの情報を伝えてくれる。キャラバンサライ、保養地、要塞化した住居、あるいはカリフと遊牧諸民族との会見をする宮殿など、その機能は専門家たちも確定できておらず、場所によって用途も違ったのであろうと思われる。アンジャルの遺跡は、ラムラと同様に古代ローマのものに非常に近く、基幹道路であるカルドゥスとデクマヌスをともなう都市計画が見られる。 建築のほか、職人は陶器や金属工芸(フランス語版)も行った。陶器は無釉が多かったが、緑もしくは黄色の単色透明な釉が施されることもあった。職人は西洋の唐草文様やアカンサス葉飾り、またはサーサーン朝の兜から取られた翼のモチーフなどの要素を再利用しており、こうした美術品をイスラーム以前の時代のものと区別することは難しい。 建築においても工芸においても、ウマイヤ朝の芸術家や職人は地中海とイランの古代後期の技法を再利用した。例えばウマイヤド・モスクでは、ビザンチン様式のモザイクの装飾的な諸要素をモデルとして、樹木と街に置き換えて自分たちの芸術概念へと適合させている。とりわけ「砂漠の城」はこうした借用の好例となっている。諸伝統を混淆させ、建築のモチーフや要素を再適用しながら、建造物のみならず工芸品や装飾したクルアーンにも見られるイスラーム特有の美術を作り出していった。
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ウマイヤ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/19 01:21 UTC 版)
ウマイヤ朝の時代、国家の業務が複雑化すると、「庁」あるいは「局」と意味を持つようになった。ムアーウィヤ1世は「ディーワーン体制」の確立を進め、勅令管理・文書・軍事・徴税・駅逓に関する庁が整備されていた。
※この「ウマイヤ朝」の解説は、「ディーワーン」の解説の一部です。
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