エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスとは? わかりやすく解説

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エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/18 01:44 UTC 版)

エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス
Emmanuel-Joseph Sieyès
ダヴィッドによる肖像画
(1817年、フォッグ美術館
生年月日 1748年5月3日
出生地 フランス王国 フレジュス
没年月日 (1836-06-20) 1836年6月20日(90歳没)
死没地 フランス王国 パリ
前職 聖職者
所属政党 平原派
称号 伯爵
レジオンドヌール勲章
宗教 カトリック教会
サイン

在任期間 1799年12月27日 - 1800年2月13日

在任期間 1797年11月21日 - 1797年12月20日

国民公会委員長
在任期間 1795年4月20日 - 1795年5月5日

選挙区 ヴァール県
在任期間 1792年9月20日 - 1795年11月2日

三部会会員
選挙区 ヴァール県
在任期間 1789年5月5日 - 1789年7月9日
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エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスまたはシェイエスシエイェス[1]シェイェス[2]シィエス[3]シーエス[4]Emmanuel-Joseph Sieyès [sjejɛs]1748年5月3日 - 1836年6月20日)は、フランス革命指導者、政治家聖職者総裁政府の5人の総裁のひとり(ルーベルの後任)。

人物

第三身分出身。フレジュスにて徴税人の子として生まれる。ドラギニャンのセミナリオで学ぶ。父親の勧めで聖職者となり、アベ・シエイエスAbbé Sieyès)とも呼ばれる[5]。1772年司祭叙階される。1788年オルレアン州議会の聖職階級議員となり、政治にも関与している。この年に『特権論』を発表している[6]

1789年1月刊行の著書『第三身分とは何か』において「フランスにおける第三身分(平民)こそが、国民全体の代表に値する存在である」と訴え、この言葉がフランス革命の後押しとなった[3]。1789年6月17日、国民議会を設立した。8月には貴族の特権が廃止された。シエイエスは、貴族に補償金を払うべきと提案するが、他の第三身分議員から却下された。フランス革命初期に活躍し、ジャコバン派が権力を握った恐怖政治の時代にはルイ16世の死刑票に一票いれるなど逼塞して生き延びた。「革命のモグラ」の異名を持ち、名付けたロベスピエールを非常に恐れ、その恐怖は彼がギロチンの露になった後のセリフ(J'ai vécu 私は生きた)からもよくわかる。1795年に公安委員会委員になり、政界に復帰し、国民公会委員長になった。しかし、総裁政府に入るのは拒否した。その後プロイセン全権大使を務め、1799年にフランスにもどった[7]

総裁政府の末期に総裁の一人に就任。強い政府を樹立するため、軍に人気のあるナポレオンに近づきブリュメール18日のクーデターを起こす。クーデターの成功により臨時統領の一人に就任するが、統領政府を樹立する過程で、軍事力を有するナポレオンに主導権を奪われ、実権のない元老院議長に棚上げされた。1808年帝国伯爵位を与えられる。

シエイエスの墓碑[8]
(19世紀中期、J.フェラ画)

王政復古により国外追放となるが、七月革命後に帰国したのちパリで没し、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。

1789年のフランス革命後の憲法制定に際して

「第二院が代議院と一致するときは、無用であり、代議院に反対するならば、それは有害である」[9][10]

として、二院制を批判したとされる[11]。ただし、シエイエスらがフランス革命期に作った一院制の議会である国民公会は暴走を起こし、政敵である少数派を次々に死刑にする恐怖政治を引き起こしている。恐怖政治はテルミドール9日のクーデターにより終結させられ、一院制の国民公会はわずか3年でなくなり、その後できた共和暦3年憲法では、恐怖政治への反省から、二院制の議会が作られている。

共和暦3年憲法制定に際し、シエイエスは「法制審議院」と「立法議会」からなる二院制を提案したが採用されず、「五百人院」と「元老院」からなる二院制が採用された[12]

共和暦8年憲法制定に際し、シエイエスは「護民院」「立法院」「護憲元老院」からなる三院制の立法府を提案し、採用されている。

著作

邦訳

脚注

  1. ^ 塩津徹「P・ヘーベルレの憲法と国家の理論」『創価大学比較文化研究』第11巻、創価大学比較文化研究所、1993年1月、218-242頁、hdl:10911/2529ISSN 0289-5706CRID 1050564287682986752 
  2. ^ 吉田寛ヴァーグナーの「ドイツ」: 超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ青弓社 2009年
  3. ^ a b 岩波.『第三身分とは何か』.
  4. ^ 水島一憲、酒井隆史、浜邦彦、吉田俊実 訳『〈帝国〉――グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』以文社、2003年、139ページ〜頁。ISBN 978-4753102242 
  5. ^ フランス革命
  6. ^ 『ラルース図説世界史人物百科』, p. 2.
  7. ^ 『ラルース図説世界史人物百科』, p. 4.
  8. ^ 2017年の墓碑の画像
  9. ^ a b 前田英昭「参議院を考える」『政治学論集』第46号、駒澤大学、1-45頁、1997年9月30日。 NAID 110000189893http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17074/2013年7月20日閲覧 
  10. ^ 美濃部達吉議会制度論日本評論社〈現代政治学全集〉、1930年、120-121頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12813162013年7月20日閲覧。"シイエースの有名な言である『第二院は何の役に立たうか、若しそれが代議員に一致するならば、それは無用であり、若しそれに反對するならば、それは有害である』"。 
  11. ^ 一方で、1792年憲法制定のときには「ときに同一の問題を二度でも三度でも討議するのがよいことは明らかである」と発言した[9]
  12. ^ p22「4.権力分立」「(3)立法機関は,提案を行なう法制審議院と,決定にあたる立法議会とからなる。提案機関と決定機関とからなる二院制の構想は,委員会案から受け継がれたものである。」浦田一郎「共和暦3年のシェイエス」『departmental bulletin paper(紀要論文)』第26巻、一橋大学大学院生自治会、1973年12月1日、15-27頁、doi:10.15057/6598ISSN 0286-861X 

参考文献

外部リンク


前任
ジャン=シルヴァン・バイイ
アカデミー・フランセーズ
席次31

第8代:1803年 - 1816年
後任
トロフィーム=ジェラール・ド・ラリー=トランダル




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