エルコレ2世・デステとは? わかりやすく解説

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エルコレ2世・デステ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 03:55 UTC 版)

エルコレ2世・デステ
Ercole II d'Este
モデナ=レッジョ公
在位 1534年10月31日 - 1559年10月3日
別号 フェラーラ公

出生 (1508-04-05) 1508年4月5日
死去 (1559-10-03) 1559年10月3日(51歳没)
配偶者 ルネ・ド・フランス
子女 アンナ
アルフォンソ2世
ルクレツィア
エレオノーラ
ルイージ
家名 エステ家
父親 アルフォンソ1世・デステ
母親 ルクレツィア・ボルジア
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エルコレ2世・デステErcole II d'Este, 1508年4月5日 - 1559年10月3日)は、フェラーラモデナ=レッジョ公フェラーラ公アルフォンソ1世・デステと2度目の妃ルクレツィア・ボルジアの長男として生まれた。ローマ教皇アレクサンデル6世の孫、チェーザレ・ボルジアの甥に当たる。

生涯

1528年フランス王女ルネイタリア語名:レナータ・ディ・フランチア)と結婚。彼女は義兄フランソワ1世から莫大な持参金と年金をもらっていた。彼女はフェラーラ宮廷の伝統になっている科学や芸術のパトロンとしての役割を担い、ベルナルド・タッソやフルヴィオ・ペレグリーニ・モラトを招聘した。

1534年10月に父の死により公位を継承すると、公妃レナータの持ち込んだフランス文化が支配的で高くつくことから宮廷を反フランスに塗り替えてしまった。また、エルコレ2世はレナータがジャン・カルヴァンと文通しており、プロテスタントへの改宗が疑われることから、妻を異端の疑いで拘束し宗教裁判にかけた。外圧に逆らえない夫により、1554年にレナータは懺悔させられ、身柄は拘束されたままだった。

エルコレ2世は1556年にローマ教皇パウルス4世・フランスと同盟しスペインと戦った。また、弟のイッポーリト枢機卿ティヴォリ近郊にヴィラ・デステを建設した)同様、芸術のパトロンであった。

子女

脚注

参考文献

関連項目

先代
アルフォンソ1世
モデナ=レッジョ公
フェラーラ公
1534年 - 1559年
次代
アルフォンソ2世



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